『君の名は……』
「今日の分だ」
頭の上から声が聞こえた。少年は顔を上げるが、声の主の顔は見えなかった。降り注ぐいくつかの本が少年の視界を遮ったのだ。少年は高速化された視界の中で降り注ぐ本を見る。小さな文庫型で三冊。一際大きなのは何かの図鑑だろう。それが二冊。合計五冊の本。少年はそれぞれの題名と作者、その表紙や背表紙裏表紙などを確認した後、飛来するそれらをあいうえお順に掴み手元に並べた。それは眼にも止まらぬスピードで行われた凄まじい芸当であったが、少年の持つ超能力があればたいしたことではなかった。声の主も興味がないのか、少年が全ての本を並び終えた頃には背中を向けて立ち去って行った。
「この……!」
少年はその幼い表情に明らかな怒りを灯し、立ち上がって今自分がいれられている檻の格子を掴んだ。
「畜生どもめ! そうやって余裕を見せていられるのも今の内だ! 見ていろ、俺は必ず貴様らを殺してやる!」
殺してやるぞ。少年の叫びは虚しく響き、返事をするものは誰もいない。怒りのままに、少年は白い檻の格子に拳を叩きつける。強化プラスチックでできたその檻は少年の拳程度ではびくともしない。これがなんらかの金属で作られた檻であったなら、少年の持つ超能力によって逃げ出すことも可能なのだが、そんなことを許すほど、ここの畜生どもは甘くはなかった。
「くそっ!」
最後に一度弱い力で檻を叩くと、少年はもといた檻の端に戻り座り込む。すると、正面に一人の少女の姿が見えた。自分と同じ檻に閉じ込められた少女。灰色の長い髪をした、まだ六歳ほどの小さな女の子だ。少女は今の自分の一連の流れを見ようともせず、ただ膝を抱えて己のつま先だけを見ていた。
少年は彼女から視線を外し、先程渡された本を広げた。それは花の図鑑だった。花の絵と、説明。そして花言葉が乗った鮮やかな色の図鑑だ。少年には少しだけ、眩しいくらいだ。
少年は実験体だった。ここにいる沢山の科学者たちのモルモット。日々、身を割かれるような実験を繰り返される哀れな実験動物だ。この本もその一環なのだという。少年はその生まれの経緯に反して知能が高く、またそれは超能力に依存しない純粋なものであったため、研究者たちが興味をもって少年の知能を試しているのだ。毎度毎度、こうして無作為に選ばれた本を読んでは研究者たちからの矢継ぎ早の質問に答えている。あの畜生どもに少しでも協力するのは異様に腹の立つことでもあったが、真面目に答えればまた新しい本が貰えた。この檻の中は暇を持て余す。本は退屈を潰すいい道具だったのだ。
それに、知識をつけることは自分にとって有益だと少年は考えていた。それらはいずれあの白衣を着た鬼を欺くのに使えると、そう思っていたのだ。
「おい」
少年は一旦、本から目を離し、再び少女を見た。少女は俯いたまま、反応を見せない。
「おい、聞いているのか」
そこまで言って、ようやく少女は顔を上げた。灰色の瞳がこちらを映すことなく少年を見る。少女は何か不思議なものを見るような顔で首を傾げた。
「君だ。この檻の中で、俺と君以外に誰がいる」
苛立ちを含んだ声で言うと、少女は頷いて、まるで赤ん坊のように四足でこちらへ近づいた。そして、少年の横に座る。少女は一向に口を開かないが、もとから口数が少ない子なのだと少年は知っていたので、それは特に気にすることはなかった。
「君も読んだらどうだ」
言って、少年は小さな文庫本を一つ少女に手渡した。それを受け取った少女は、無表情のままに呟く。
「……本は、苦手。面白くない」
少年はため息を吐くが、まあそれもそうかとも思った。少女は見た目通りの六歳の人格だ。まだこういう小難しい小説を面白いと思えるような年齢ではない。
「あなたは凄い。面白くない本、沢山読んでる……」
難しいではなく、面白くないと呼称するあたりが彼女らしいと少年は思った。
「たいしたことじゃない。大人になれば君も読めるようになる」
「でも、あなただってそんなに変わらないよ……?」
「変わるさ。俺は君とは違う」
実際、どうなのだろうと少年は考える。
少年の肉体的な年齢は十一歳だが、今ある人格が芽生えたのは一年ほど前のことだ。その頃は本を読むことも許されていなかったけれど、生まれた直後には図鑑や一般の小説を読み解くだけの力はあったように思える。何故なら少年は生まれた次の日には蛇口を捻り、トイレで一人用を足すだけの知識があったのだ。それ以前の記憶は全くないのに、これはこうすればいいのだとわかったのだ。
人間の記憶にはそれぞれ異なった保管場所があり、どれか一つが失われても、その他の記憶が生きていることがある。それが一般に言われる記憶消失という症例だ。過去の思い出は覚えていなくても、過去の知識や行っていた動作はある程度覚えている。自分の状況も似たようなものなのだろうと少年は思う。
その記憶が、誰のものなのかはわからないが。
そこまで考えて、少年は思考に蓋をした。最近はこうして、考えないようにすることを覚えただけ、人として落ち着いてきたのだろう。つい最近、この檻に入れられたばかりの自分は獣のようだった。
ただ自分の中の感情のはけ口として少女を殺していた。少年にとっては恥ずべき過去だ。償うべき罪だと思っている。だが少女は少年に罪を償わせるどころか、たいした怒りをぶつけるわけでもなくこうして今では普通に話をするようになっている。
おかしなやつだと、少年は思う。
自分も含めて、俺たちは狂っているのだろうとも。
「それは、何を呼んでいるの?」
少女が問う。少年は表紙を少女に向けながら答えた。
「花の図鑑だ。写真と特徴。それと、花言葉なんかも載っている」
「花言葉?」
少女が首を傾げる。
「なに、それ」
「花には名前があって、それにはそれぞれ意味がある。例えばひまわりなら『あこがれ』や『崇拝』。チューリプは『思いやり』だ」
「そう、なんだ……」
六道が示したひまわりの写真を見ながら、リナリアは呟く。
「花にも名前はあって、意味もあるんだね……」
それはまるで、自分にはないのにと続けられそうな言葉だった。
少女に名前はなかった。誰もかれもが少女のことをあれだのそれだの、適当に呼ぶだけ、誰も明確な名前を付けようとはしなかったのだ。
「あなたには名前、あったよね。『ろくどー』だっけ?」
「《六道》だ」
「その名前に、意味はあるの?」
少女に問われ、少年は少し迷ってから答えた。
「六道というのは仏教において、迷いのある者が輪廻する六つの世界のことだ。天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。それぞれが特徴的な世界だ。特に餓鬼道に住まう餓鬼というのは……」
饒舌に語ろうとしたところで少年は言葉を止めた。少女が無表情のままに首を傾げていたのだ。その表情から感情を読み取ることはできないが、ここ最近の経験で彼女が全く話を理解していないことがわかった。
「まあ、とにかく六つの世界のことを指すんだ。それだけわかっておくといい」
そう言って、少年は少女の頭を撫でた。その小さな頭はほんの最近まで自分が叩き潰していたものだと咄嗟に思い出してしまい、すぐに手を引いた。
「六つの世界かぁ。ちゃんとした意味があるんだね」
「やつらはそこまで考えてつけたわけじゃないだろうがな」
少年に《六道》という名前を付けたのは研究員たちだ。六人の人間同士のキメラだからという理由でつけられた名前だが、少年自身はこの名前を気に入っていた。人間によって人間から作られ、しかし真っ当な人間とは違う自分に合った名前だと思う。
だからこそやつらに名前で呼ばれると鳥肌の立つような不快感を得るのだ。
「そういえば君にも呼び名はあっただろう。《灰かぶり》。名前とは言えないかもしれないが」
「あれ、あんまり好きじゃない」
少女に一蹴されて少年は苦笑いをする。
「なら、花の名前でも借りるか?」
そう言って、少年は少女に持っていた図鑑を差し出すが、少女はそれを受け取らず、少年に押し返した。
「六道がつけて」
「……俺が?」
「うん。六道が選んで、六道がつけて」
自分ではよくわからないから、と少女はそう言った。
名前を付ける。その行為にどうしてか少年は妙な感慨を抱いた。今から、この子が名乗る名を自分がつけるのだと思うと高揚すらしてくる。こんな感情は、獣だった頃には決して抱かないものだろう。
「そう、だな……なら」
少年は図鑑をめくって、あるページを目にして言葉を作る。
「君の名前は…………――――――――――」