死にたがりの灰かぶり
我王愛生と六道。二人の戦闘は互いの思いを潰し合うものだった。お互いの間の矛盾を消すために、どちらかを叩き潰す。そういう戦いだ。自分の思いを通すための戦いだ。
そしてその戦いは明らかな六道側の優勢だった。
勝負が始まった瞬間、愛生は拳を振り上げて六道を向かい打った。最初から《金属操作》と《倍速行動》を使用し、その拳に鉄を纏わせ二倍の速度で動く六道を捕らえるには、先手では駄目だった。速度に劣るこちらは後手の必殺を狙う。
「甘いぞ、我王愛生!」
だがそれは無意味だった。待ち構えたこちらの拳が六道の身体へ振りぬかれる前に六道の拳が四度、愛生の体に撃ちこまれた。
油断していたわけではない。相手の速度を見誤ったわけではない。先の戦闘で六道の二倍速度については観察が済んでいる。いくら二倍の速度で動けようと、人間という大きな物体がそう簡単に見えなくなることはない。昼間愛生が六道の動きを見きれなかったのは、驚愕による混乱や未知の能力への認識の遅れが原因だ。それがない今、どんな速度で動こうと六道を見失うようなことはないはずだ。
だが、それは奴が真っ当な動きを見せた場合の話だ。今の奴はただ地面を駆けるだけではなかった。まるで獣のように、地面を跳ねて六道は愛生のもとへ飛びかかってきた。そして空中で《領域歩行》を発動。空を蹴り、二度目の加速を行ったのだ。
見えていなかったわけではない。二度目の加速の瞬間も、愛生の瞳は確実にとらえていた、だが、それに体が反応できるかどうかは別だ。愛生の体は六道の瞬間的な加速に対応できず、がら空きの体に四発もの打撃を貰った。
「ぐぅっ!」
低い呻きと共に愛生は六道から距離を取ろうとする。が、それを許さんとばかりに六道が追随。距離は離れることはなく、間合いは六道のものだ。
「手加減はしない! 全力で叩き潰してやる!」
来る。二倍速による右と左からの同時攻撃。一度のモーションで放たれるそれは、例え見えていたとしても簡単には受けきれない。だから愛生は諦めた。右の攻撃だけを防御し、左の拳は無視した。そして義手の手を固く握りしめると、六道の肩にカウンターの一撃。入った。だが、
浅い……!
ヒットの瞬間、六道は衝撃を逃がすために体を引いて、次の瞬間には再び拳を乗せる体勢へと持ち直した。やはり、速度の違いは大きい。こちらが一手進める度に、相手は二手進めてくるのだ。振り切った拳が戻るのと同時に、再び六道の一撃がこちらへ向かうだろう。
防御、間に合うか?
間に合わせるしかないだろう。鉄で覆われた六道の拳は用意にこちらの骨を砕く。いくら愛生の身体が頑丈でも、そう何度も受け続けられるものではない。幸い、この左腕は壊れることをしらない黒の義手。これで受けきれればあるいは……。
加速する思考の中、愛生の耳に六道の声が響いた。
「三倍速」
その一瞬の後に、愛生の体に三度の拳が叩き込まれた。
三倍速……!?
警戒はしていた。動きも殆ど目視できていた、だが防げた拳は一つだけ。残りの二つの打撃は愛生の胸部に見事に命中した。肺の中の空気まで全部押し出されるような感覚に、愛生は一瞬息が出来なくなる。そして、その瞬間を六道は逃さない。
「四倍速」
右と左から、それぞれ四つの拳が計八発。愛生の体に全て命中。ダメージを与えるための五発と、動きを止めるための三発。愛生は苦悶の表情で、なんとか六道から逃げようと、距離を取ろうと拳を振るう。だが、単純に自分よりも四倍の速度で動く相手にただの打撃が当たる訳がない。愛生の拳は空を切り、その隙に更に十二発の打撃が愛生の体に叩きこまれた。
執拗に顔を狙った攻撃のせいで、愛生の視界は酷くぼやけたものになってしまう。だが、眼を瞑ってはいけない。六道を視界から外してはいけない。必死に敵を見据えながら愛生は再び応戦しようと拳を突きだすが、その耳に六道からの死刑宣告が届いた。
「六倍速!」
六倍速の連撃が、愛生の体に叩きこまれた。
まるで鉛の雨を全身で受けたかのような激しい痛みと衝撃。度を超したその連撃に愛生の体は耐え切れず、意識は今にも吹き飛ばされそうだった。なんとか意識を繋ぎ止めながら、愛生は繰り広げる六倍速の拳の雨に対応する。六道の動きは早送りどころか、一定の感覚ごとに止まってさえ見えるような速度を誇っていた。全ては無理でも、少しでも防御をしなければ、と必死で全身を使ってガードをするが、即座に六道はそれを崩しに来る。
「手加減はしないと、言っただろう」
耳元で聞こえたその言葉を最後に、愛生の体は水平方向に吹き飛んだ。
永遠にさえ感じられた鉛の雨だったが、しかし実際は瞬き程度の一瞬でしかなかったのだろう。愛生の体が白い壁に叩きつけられた。そしてそのまま動くこともなく、愛生の体は投げ出された。
「この程度、か。拍子抜け、いや落胆すらする。これが俺が戦わなくてはならない敵だったのか」
「僕も、同じ気持ちだよ……」
切れ切れの声で愛生は呟く。愛生もまた六道と同じように落胆していた。自分自身にだ。
本当はもう少し、戦えると思ったんだけどな……。
落ち着いて、焦らなければ六道の速度は目に見えるものだ。だがそれでも、体がついてこない。目に見えた現実に愛生の身体が対応できないのだ。
全身が痛む。手も足も痙攣して、震える体は言うことを聞こうともしない。切れた額から流れ出た血が目に入り、視界が赤く染まった――――――つまり、動けないほどじゃあない。
立ち上がる。六道を前に、愛生は再び拳を握った。
「諦めろ。貴様では俺には勝てない。倍速行動の最高速度についてこられなかった時点で、貴様に勝ちはない」
「……なに、言ってんだ。僕はまだ本気を出していない」
「あの奇妙な能力のことか? 貴様は《黒》と呼んでいたな。確かにあれは強力なスキルだが、俺の超能力とは相性が悪い」
その通りだった。《黒》は確かに多少の強化能力も含まれるが、基本は攻撃力の向上スキルだ。あの裏方八九郎の守りすら貫き通す一撃でも、当たらなければ意味はない。六道にまともな攻撃を一撃も与えられていないこの状況では意味をなさない。むしろ力に振り回される結果になりかねない。
六道の超能力に愛生のスキルでは対抗できない。
今まで、ことあるごとに頼ってきたあの力が使えない。ただそれだけでも、愛生にはこの状況が絶望的に思えた。
「一度だけ、聞いてやろう。最初で最後のチャンスだ。返答を間違えるな」
言って、六道は愛生へ質問を投げた。
「貴様は、何をしにここに来た?」
それは六道から与えられた最後のチャンス。今ここで手を引くか、最後まで戦い死ぬかを選ばせる質問だった。
なんだかんだと、お前も甘いな。
愛生は頬を軽く上げ、笑みを見せる。こんな簡単な質問を間違えるはずがない。正解は――
「僕は、リナリアを助けに来た、あの子を生かしにきたんだ」
六道の瞳に殺気が宿った。明らかな憤りの視線が愛生を襲う。
「残念だよ、我王愛生。……できればリナリアの前で、貴様を殺したくはなかった」
構えた愛生に向かって、六道はポケットに手を突っ込んだまま歩いて近づく。だが、倍速行動を発動させた状態の六道の歩みは走るよりも早く、あっという間に愛生の目の前にまでやってきた。愛生は構えた拳を六道にぶつけようと振りかぶるが、それよりも早く六道の無造作な蹴りが愛生の腹部に直撃した。その衝撃で、再び壁に叩きつけられる愛生。六道は足で愛生の腹部を押さえたまま、左手を見せつけるようにかざす。すると、その手にまとわりついた鉄の手袋が形を変え、先の尖った杭に変化する。
そして、その杭が愛生の右手の平に突き立てられた。
「ぐ、ああああああああああああああ」
冷たい鉄が手を貫通する。すぐに流れ出る血で熱くなった手の平は愛生の脳に激痛という救難信号を届ける。杭は肉を貫通し、壁にまで突き刺さる。磔の拷問のようだと、どこか冷静な頭で愛生が理解する。杭を突き立てた瞬間噴き出た血が顔にかかった六道は鬱陶しそうにそれを拭っていた。
今だ、と愛生は思った。今なら届く。左の義手を握り、精一杯の力で六道の腹部を殴った。キーンと、鉄同士がぶつかるような、妙な音が鳴った。しまった、とすぐに愛生は理解する。六道はその服の下まで金属操作で覆っていたのだ。ただでさえ、右手を磔にされてまともな体勢を取ることもできない状態の一撃だ。六道にとっては蚊が刺すようなものでしかなかっただろう。
取るにも足らない一撃。それでも、この期に及んでまだ戦おうとする愛生が気に入らなかったのだろう。六道は舌打ちと共に愛生の腹部。先程自分が狙われた位置とほぼ同じ場所を打撃した。鳩尾に捻るように入った一撃に愛生の胃は圧迫される。たまらず、嘔吐。昼間胃に入れた食べ物たちが半分消化されたドロドロの状態となって喉をせり上がり口から溢れた。
もったいない、せっかく晶子さんが作ってくれたご飯なのに。
みんなで食べた、ご飯なのに。
朦朧とする意識の中で、愛生は頭を上げる。そこには黒尽くめの男が立っている。不吉な男だと、愛生は思った。男はその銀色に光る腕を振り上げ、そしてそれを――――
「やめてぇえええええええええ!」
白の部屋に絶叫が響く。耳をつんざくようなその声に、愛生の意識は覚醒する。
声の主はリナリアだった。今まで、部屋の隅で黙っていただけの彼女が、ついに耐え切れなくなったかのように立ち上がり、感情をあらわに、その長く細い灰色の髪をふりみだしながら叫んでいた。
彼女の叫びに、愛生も六道も動きを止める。いや。止められたと言うべきだろう。リナリアの聞いたことのないような絶叫に二人は驚愕のまま動けなくなってしまったのだ。
「もうやめてよ、六道。それ以上、愛生を傷つけたってしょうがないでしょ……?」
六道は一度、リナリアを愛生を交互に見やって、渋々といった風に拳を降ろす。そして愛生に背を向けて距離を取る。
六道は離れたが、腕に刺さった杭のせいで身動きが取れない愛生は首だけを動かしてリナリアの方を見た。彼女はいつか愛生が買ってやった灰色のパーカーを着ている。その長い髪や、彼女の纏う儚げな雰囲気に、スポーティーなパーカーはアンバランスにも見えたが、それでも灰色の髪と同じ色のその服はリナリアにとても良く似合っていた。
どうして、とリナリアが呟く。その視線の先に愛生を置いて。
「どうして、こんなところまで来ちゃったの……?」
「言っただろう! 僕はお前を助けに――――」
「リナリアはそんなこと頼んでない! 助けになんかきてほしくなかった!」
その叫びの大きさに、愛生は思わず言葉を詰まらせるが、なんとか振り絞るようにして声を続けた。
「だけど、僕はお前に死んで欲しくない!」
「勝手なこと言わないでよ……。リナリアの気持ちもわからないくせに!」
「ああ、そうだ。僕は知らない。わからないよ。お前の本当の気持ちが。だから知りたいんだ!」
その時、リナリアの表情が変化したのを愛生は見逃さなかった。それは彼女が自身の感情を仮面の下へとしまう時の、冷たい変化だ。
「知って、それでどうにかできると思ってるの? 愛生はリナリアの気持ちをわかることができるの?」
愛生は返事をすることはなかった。ただ真っ直ぐにリナリアを見つめる。それは逃げ出さないという意志を示す視線だった。それを感じ取ったのかどうかはわからない。リナリアは一度六道に視線を移してから、ゆっくりと口を開いた。
「――――愛生は、誰かを嫌いになったことがある? 誰かを嫌って、憎んで、恨んで、殺しちゃいたいくらい嫌いになったことがある?」
饒舌に紡がれるリナリアの言葉に愛生は驚きながらも答えた。
「勿論、あるよ。僕は沢山の人を嫌って、恨んできた」
「……じゃあ、愛生はみんなを嫌いになったことがある?」
愛生は首を傾げてしまう。リナリアの言う〝みんな〟の意味がわからなかったのだ。
「みんな、だよ。世界中のみんなみんな。知ってる人も、知らない人も。良く顔を見る人も、昨日たまたますれ違っただけの人もみんな、嫌いになったことが愛生はある?」
「それは……」
それはない。というより、あるはずがない。どうすれば、見知らぬ誰かを殺してしまいたいほどに嫌いになれるというのだろう。見知らぬ者に向けられるのは無関心であって、憎悪ではないはずだ。
そう、そのはずだ。だがリナリアは違った。彼女はこう続けるのだ。
「リナリアはあるよ。今もずっとそう。リナリアはね、〝みんな〟のことが嫌いなの」
見知らぬ誰かを殺してしまいたいほどに嫌いだと、リナリアはそう言ったのだ。
「ちゃんと、愛生のことも嫌いだよ? 千歳も、帝も、八九郎も、佳苗も、小石も、晶子も、みんなみんな大っ嫌いなの」
「なん……で。お前、いつもあんなに楽しそうだったじゃないか!」
「そうだね。楽しそうだったよね。愛生も、みんなも。楽しそうで幸せそうで――――リナリアはね、幸せそうな人が嫌いなの。幸せそうに笑っている人が大っ嫌いなの」
嫌いだと、リナリアは吐き捨てるように繰り返した。
「ほんのちょっと前まで、リナリアは暗い場所にいたよ。そこは毎日ずっと痛くて、苦しくて、嫌なことしかない場所で……そんな暗い所で、リナリアはずっと何を考えていたと思う? ねぇ、愛生はわかる? リナリアの考えていたこと」
「……お前は、そこから出たがっていたんじゃないのか?」
「違うよ。リナリアはね、みんな死んじゃえばいいのにって思ってたの」
年端もいかない子供の口からでたその言葉に、リナリアの紛れない本心に愛生は寒気すら覚えた。彼女の冷たい激情に、恐れを抱いたのだ。
「だって、しょうがないよね。リナリアが苦しんでいる時、例え一分でも一秒でも、幸せそうに笑っていた人たちのことを――――嫌いになってもそれはしょうがないよね。愛生も千歳も、リナリアが痛い時に笑ってたんでしょ? だったら嫌いになってもいいよね。しょうが、ないよね」
「それは違う……! 僕も千歳も、知らなかっただけだ! その時はリナリアが苦しんでいることを知らなくて……だから、それは――――」
それ以上は、言葉が出なかった。反射的に顔を伏せてしまう。悔しさが愛生を襲う。口にするべき言葉が見つからない。リナリアの言うことは、愛生が感じていたことでもあるからだ。
彼女が傷ついている時に、笑っていた自分を愛生は許せなかった。自分に対して芽生えた怒りは、今もなお心の奥底で燻っている。リナリアも同じだ。あるのはそれが自分に対してなのか、世界に対してなのかの違いだけ。
だからこそ愛生は何も言えなかった。それもまた罪悪感だと知りながら、言葉を紡ぐことはできない。
「――――――でも、わかってるの。愛生は悪くないって。こんなのはただの八つ当たりなんだって、リナリアはわかってるの」
リナリアは愛生が予想もしなかった言葉を続けた。このまま恨み言を続けるかと思っていた彼女が発した言葉はそれとは真逆のものだったのだ。
ハッとして、顔を上げた愛生の瞳には悲しそうなリナリアの顔が映る。リナリアがとても悲しそうな顔をしている。それだけで愛生の心は締め付けられるような痛みに襲われる。彼女の瞳には涙が溜まり、今にも零れ落ちそうだ。
「愛生は信じてくれる? リナリアはね、みんなのことが嫌い。でもそれと同じくらいみんなのことが好きなの。リナリアはね、愛生のことが大好きなんだよ? だって、ちゃんと知ってるもん。愛生がどれだけ、リナリアのことを大切に思ってくれていたか」
千歳も、八九郎も、帝も、佳苗も、小石も、晶子も好きだと、リナリアは言った。本当に好きなのだと。
「でもね、どれだけ好きになっても嫌いなままなの。大好きでも、大嫌いは無くなってくれなかった!」
瞳に溜まった涙があふれ、リナリアをの頬を伝った。それは徐々に勢いを増し、彼女はとめどなく涙を流し続ける。
「一人になるとね、考えちゃうの。みんなリナリアと同じように不幸になって、いっぱい痛くなって死んじゃえばいいのにって。幸せそうなみんなを見ると、すぐに考えちゃうんだ。そんなの駄目だってわかってて、嫌だ嫌だ思ってるのに無くなってくれないんだよぉ! ずっとずっと死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえって、リナリアの頭の中はそればっかり!」
ほんとは誰も恨みたくないのに。
ほんとは誰も嫌いたくないのに。
「みんなのこと、ただ好きなだけでいたいのに…………リナリアは悪い子だから、嫌って憎んで恨んで死んじゃえって思わずにはいられないから……もうこんなの嫌なの!」
嫌だ嫌だ。リナリアはそう繰り返す。こんな自分はもう嫌なのだと。
「愛生はわかるの!? 人を憎まないといられないリナリアの気持ちが! こんなに苦しくて、こんなに痛いことが愛生に少しでも理解できるの!?」
リナリアは泣いている。泣きながら怒っている。それは子供の癇癪。どうしてわかってくれなかったのかと、泣くことでしかその怒りを表現できない子供の叫びだ。
リナリアは矛盾を抱えている。傷つけられ、虐げられ続けてきた少女の心に宿ったのは全人類に対する憎しみ。自分を救わなかった世界に対する憎悪だ。だがそれだけならば、世界を憎み続けるだけならばリナリアはこんなに苦しみはしなかっただろう。彼女の不幸は、彼女自身がその憎しみを拒絶してしまったことだ。心に深く根を張り、決してなくならない憎悪を彼女は否定した。全てを憎しみながら、何も憎みたくないと願ってしまったのだ。
憎しみを捨てられず、しかしそれを許容することもできない。そこで生ずる自己矛盾に彼女は苦しみ続けた。どうにもできない想いを抱え込んでしまったのだ。それは愛生の抱える矛盾と似ていた。ただ一つ決定的な違いは、愛生が自己の汚濁を認め矛盾すらも許容してしまったのに対して、リナリアは最後まで汚濁を否定し続けたことだ。最後まで、その潔癖を貫こうとした。
その結果、彼女の抱える苦しみは肥大し続けた。好きも嫌いも諦めきれなかった彼女は、最後には生きることを諦めてしまった。《死》による救済を願ったのだ。
実際、死ぬことによってリナリアは救われるのだろう。死んでしまえば、何も考えずに済む。抱えた矛盾も土の中に消えてなくなる。特にリナリアにとって《死》というのはお伽話のようなものだ。リナリアの体はありとあらゆる傷を受けながら、しかし死ぬことだけは許さない。そんな彼女にとって《死》という最期は特別甘美に思えたことだろう。
リナリアは言う。死にたいのだと。
「こんなに来るしくて、こんなに痛いなら……誰かを憎まないといけないなら、悪い子でいるくらいなら――――死んじゃったほうがいいよね。死んで、消えて、いなくなっちゃったほうがいいよね」
「そうかも……しれないな」
苦しいのなら、痛いのなら、死ぬことで救われてしまうのなら。――――死んじゃったほうが、いいのかもしれない。愛生は静かに頷いた。すると、リナリアは途端に笑顔になった。今や無表情の仮面は完全に外されて、その下の素顔の裏……彼女の激情があらわになる。
「わかってくれたんだ! やっぱり、やっぱり愛生はわかってくれるんだ!」
リナリアは笑っている。涙はもうどこにもない。
「じゃあ、見てて? リナリアが死ぬところ、愛生もちゃんと見ててね? もしかしたら最期にリナリアは愛生のこと、本当に好きになれるかもしれないから」
リナリアは笑っている。涙はもうどこにもない。渇いたその瞳は、もう愛生のことすら映してはいない。
ああ、これでようやく死ねるのだと。
そのことを本当に、本当に嬉しそうに語る女の子の姿がそこにはあった。そんな彼女の姿を見ていると、愛生はとてもたまらない気持ちになってくるのだ。
リナリアの無表情の瞳の奥に隠された激情にどうして僕は気づくことが出来なかったのだろう。
気づけば、愛生は泣いていた。その瞳からとめどなく涙が溢れる。おかしなことだと、そう思った。リナリアはもう泣いていないのに、救われるのに。自分はこんなにも悔しくて、悲しくて、どうしようもないのだ。
ごめん。ごめんな、気づくことが出来なくて。
「愛生……?」
リナリアが不思議そうな顔で愛生を見ていた。当たり前だろう。自分を助けにきたはずの人間が泣いているのだ。不様に、みっともなく。
ごめん。ごめんと遂に愛生は謝罪の言葉を口に出す。
「ごめんな、リナリア。――――僕はお前を救えない」
リナリアの笑顔が凍った。彼女の表情には目に見える絶望が現れつつある。
「愛生、何を言って――――」
「確かにお前は、死ぬことで救われるんだろう。何もかも全部終わりにして、楽になれるんだろう。だから僕は、お前を楽にしてやることができない。僕はお前に生きていて欲しいから」
「いや。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う――――愛生は、愛生はそんなこと言わない。だって、だって愛生はわかっ、わかってくれて……だから、リナリアは」
灰髪の少女は頭を抱え、狼狽する。違う違うと繰り返し、震える顔で、絶望を映した瞳で愛生を見た。それに愛生は真っ直ぐに答えた。
「もう助けるなんて言わない。救うとも言わない。その代わり、例えお前に恨まれようが僕はお前を連れて帰る」
死なせてなんて、やらない。
そうはっきりと告げると、リナリアは膝から崩れ落ちた。そうして、彼女は何も言わなくなってしまった。ただ虚ろな瞳で地面を見つめたまま、動こうともしない。
「ふざけるな!」
そんな彼女の代わりに怒声を発したのは六道だ。彼は激しい怒りを表情にして愛生を睨みつける。それは殺気というよりも、狂気のこもった視線だ。
「貴様は彼女が望む救いの形を否定するのか!?」
「そうだ。傷つかないために死ぬなんて、それは絶対に間違ったことだ。正しくない」
「どの口で正しさを謳うつもりだ! 貴様は正義の味方にでもなったつもりか!?」
「ああ、そうだ! 僕は正義の味方だ! 自分勝手で身勝手で、傲慢な正義の味方だ」
「リナリアにとって生きるということは傷つくことだ。貴様は彼女に傷つけと迫るのか……?」
愛生は頷く。その通りだからだ。愛生はリナリアに生きて傷つけてと言っている。苦しんで生きろと言っている。それは絶対に正しいことで、お前はそうすべきなのだと。自分勝手に、身勝手に、傲慢に、自分の意見を押し付けている。
「貴様と世界、何が違う……」
六道がその拳をワナワナと震わしながら続ける。
「世界も貴様も、彼女を傷つけるばかりで、誰も彼女を救おうとしない! リナリアを利用しようとする世界の意思と、今の貴様の身勝手な意思は同じだ! 結局、彼女は傷つくばかりだ……!」
「そうなんだろうな、僕と世界は同類だ」
このくそったれた世界と、我王愛生という人間はそれほどの違いもない汚濁なのだろう。
だけど、それでも。
「それでも僕はリナリナに生きていて欲しい!」
声を大にして叫んだ言葉は自分勝手な想いだ。生きていて欲しい、死んで欲しくないと、愛生はリナリアに縋る。動かない彼女へと叫び散らしたのだ。
「僕のことは嫌ったって構わない。だから傷ついても苦しくても、それでも生きてくれよ! もう嫌だと泣きながら、それでも前を向いてくれよ! 頼むから……頼むから、死ぬなよぉ!」
我王愛生は失うことが怖い臆病者だ。両親を失い、左腕を失い、たくさんのものを失ってきた愛生にはもうこれ以上失っていいものなどありはしない。リナリアもまた、その一つだ。例え何があろうと失うわけにはいかない。失わせることは許さない。それが、彼女を傷つける結果になったとしてもだ。
僕は僕の都合で、自分勝手な意見で、ただ僕のためだけに―――リナリアに生きていて欲しいんだ。
だから叫ぶのだ。自分勝手に、身勝手に、傲慢に。正義を楯に叫ぶのだ。
死ぬな。死んではいけない。お前は生きるべきなのだと。
「……………………」
静寂が訪れた。リナリアの表情はだらりと垂れる長い灰色の髪に隠されて見ることはできない。六道は愛生を憎々しげに睨みながら、しかしリナリアの言葉を待っているようだった。今にも飛びかかってきそうな怒気を必死で抑えこんでいるのがわかる。
額から流れ出た血が口に達した。口の中に広がるのは鉄の味と、それに混じった胃液の臭い。喉元をせりあがるような酷い吐き気が愛生の中に生まれた。この静寂の中で感じるのが右手の痛みと吐き気だけになった時、ようやくリナリアが口を開いた。
「殺しちゃえ」
作られた言葉は、あまりにも無慈悲な拒絶。
「もういいよ、六道。愛生なんか、殺しちゃえ。こんな分からず屋の愛生は、リナリアの好きな愛生じゃないもん。リナリアの好きじゃない愛生は死んじゃえ。死んじゃえ。死んじゃえばいいんだ」
愛生の方を見ることもなく、リナリアは言う。彼女の激情は既に仮面の下に隠れてしまったのかもしれない。その口調はいつものような平坦で感情を感じさせないものだった。
「なるべく苦しませて、いっぱいいっぱい痛い思いをさせて、殺しちゃえ――――」
六道は一度、リナリアの方を向いて銀色の拳を握り直す。
「君がそう望むのなら、俺はその望みを叶えよう」
六道が再び戦うための構えをとる。
「それでも僕は、お前を連れて帰るぞ! お前と一緒に帰るんだ!」
それは、こんな自分をここまで連れてきてくれた人たちとの約束でもあるのだ。
左の義手で愛生は自身を磔にする杭を掴み、それを無理矢理に引き抜いた。肉や神経が引っ張られるような激しい痛みを感じながらも、歯を食いしばることで叫ぶ声を押さえる。穴の開いた右手からは血が流れ続けているが、気にするようなことじゃない。まだ身体は動いたのだ。
杭を引き抜いた瞬間、愛生の眼前には六道の拳が迫っていた。六倍、いや四倍速。迫りくる高速の拳を愛生は身を屈めて横に吹っ飛ぶようにして避けた。
「ほぅ……」
六道は驚いたような声をあげる。こんなにもふらふらな愛生に避けられたことが予想外だったのだろう。だが、愛生の回避は本当にギリギリで体勢も崩してしまい次の行動に繋げられない。それを愛生がしまったと思うよりも先に、六道の蹴りが屈んだ愛生の胸を打撃した。一瞬で、肺の中の空気を全て吐き出しながら、愛生は白塗りの床を転がる。愛生の転がった跡には赤い血液が点々としていた。それらを踏みつけながら六道が迫る。
「どうした、こんなものか!?」
六道は怒りに満ちていた。爆発しそうな憤怒を隠そうともせず、その猫のような瞳は細くなり愛生を睨み射抜く。
「立ち上がれ、この程度では済まさん。彼女の望みだ。苦しんで死ね――」
――それはお前が彼女に願ったことでもあるぞ。
六道が完全にこちらに接近するよりも先に愛生は跳ね起きる。立ち上がれ、などと命令されなくとも愛生は寝ているだけのつもりはない。覚悟はすでにできているのだ。あとはこの男をぶっ飛ばしてリナリアの手を掴めばいい。抵抗するなら引っ張ってでも連れて帰る。そのあとのことは考えていない。知ったことではない。
「うぉおおおおおおおお!」
唸るような声と共に愛生は握った左の拳を六道へと叩きこむ。それは六道からすれば止まっても見えるような一撃だろう。なんてことは無しに彼は愛生の一撃を避けて、カウンターの二撃を愛生の顔面に叩きこんだ。それでも愛生は止まらない。左腕と両の足で応戦。全てを六道に防がれるが、技の合間に愛生は右手を振った。それは打撃ではなく牽制。もっと言うのなら、流れ出る血を利用した目つぶしだ。飛び散る血液を顔面に受けて、六道は思わず目を瞑った。それは真っ当な生理現象。人間であるならばどうしようもない反射行為だ。こればかりは相当な訓練を積まなければコントロールはできない。
例え一瞬でも、戦闘中に目を瞑るというのは自殺行為だ。それは隙に他ならない。愛生はここぞとばかりに全身を使って二回の打撃を叩きこんだ。右の足を引きながら、体全身をねじるようにして左の義手を六道の腹部に叩きこんだ。続けて引いた右足を戻す動きのまま、六道の腿を蹴りつける。金属操作によって鉄に覆われた六道の体。左の義手ならともかく、蹴りによる一撃は愛生の方がダメージが大きいくらいだった。だが、それでも六道も手加減のない愛生の打撃を腿に受けて若干体勢を崩す。
しかし、愛生の数倍の速度で動く六道にとってはその隙も瞬間的な刹那だ。すぐにでも六道の反撃が愛生の体を襲う。一撃を耐え、二撃を耐え、それでも三撃四撃と続けられる猛攻には耐え切れず、愛生は思い切り飛び退くようにして六道から距離を取った。六道は愛生を逃がさんと追随してくるが、体を大きく左右に振るステップとそれと連動させた回しこむようなフックで牽制する。
「俺の動きについてくるか……」
完全な追撃は諦め、ある程度の距離を取った六道が呟く。
「その体で、よく動く」
「頑丈なだけが取り柄なんだよ」
戦い続けること、死なないこと。帝から唯一認められた特技だ。それでも限界は近いように思われた。いくら戦えても、こちらがなんとか一撃を相手の体に叩きこむ間に、その数倍の打撃を愛生は貰うことになるのだ。鉄で覆われた六道の拳は、確実に愛生の体にダメージを与えてくる。加えて、血も流していた。この頑丈さも、いつまでもつのか。
頭に浮かんだ後ろ向きな考えを振り払うように愛生は六道へ向かって突貫する。力強く駆け出した愛生。それに合わせるようにして倍速の六道が進む。お互いに対して真っ直ぐに進むことでこちらの進行を妨害しようとするのだ。二倍速、三倍速、四倍速……と速度を操る六道の走行のタイミングに合わせることは難しい。それを狙った六道は変則的な速度を持ってして、愛生の顔面へ鋭い掌底を放った。だがそれは、
見きっている……!
避けた。ギリギリの回避。六道の手首に頬が擦れて、熱を持つ。だが、避けることができた。確かに速度は変則的だった。しかし攻撃を行う以上、そこには間合いが存在する。六道の速度は愛生の予想を超えて速い。ならば、六道が攻撃の始点を見せるよりも前、間合いへと踏み込んだ瞬間に回避してしまえばいい。愛生は六道が近づいた瞬間、無理やり首を捻って回避としたのだ。
六道がどの間合いからの攻撃を仕掛けてくるのかは難しかったが、無防備に駆けだすことで弱点をむき出しにすれば、六道はすぐにそこを狙ってきた。
避けた拳の先、六道が驚愕の眼差しを愛生へ向ける。見れば、既に六道の繰り出した掌底は半分ほど体のほうへ引き戻されていて、六道は防御の構えを取ろうとしていた。この辺りの判断はさすがだし、何よりその速度は凄まじい。戦闘の中、加速した愛生の視界では時の止まったように遅く見える世界の中で六道だけが普通に動いているようだ。自分の身体すら置いていかれているようなイメージを愛生は抱く。
だがそれでも、例え防御が間に合ったところで意味はない。愛生が狙うのは正面からの打撃ではない。腕を交差させ、胸の前に構える六道に向かって愛生は全身を使って飛び込んだ。両腕を背中に回し、頭で交差した六道の腕を押さえることで動きを封じたのだ。
どれだけの速度を持っていようと、捕まえてしまえばこっちのものだ!
無論腕を封じたとこで足は使える。これで完全に六道を捕まえられたわけではない。だが、六道にしても愛生の行動は予想外だった。咄嗟に次の行動への判断が間に合わず、六道の速度に迷いが生じる。その隙を見逃さず、愛生は六道の足を自分の足で引っかけるようにして救い上げ、自分ごと六道の体を地面へと叩きつけた。短い呻きを漏らす六道。それに構うことなく愛生は六道の上に跨ったまま、彼の顔面に目がけて渾身の左の一撃を放つ。だが、それは見切られていた。六道は速度をものに全身で暴れ、首を動かしなんとか愛生の一撃を避けたのだ。白塗りの床に愛生の拳がからぶって、甲高い音と共にヒビをいれた。
外した。そう思った時には六道は次の行動を取っている。自分の上に覆いかぶさるようにしている愛生の腹に向かっての膝蹴り、その衝撃で愛生の身体が浮かび上がるよりも早く三度の蹴りが叩き込まれた。三回分の衝撃によって愛生の体は一瞬だけ地面との接触を断たれる。その瞬間を狙って六道の裏拳が愛生の体を横に吹き飛ばした。
愛生は転がる体をすぐさまたたき起こす。その頃には六道がその圧倒的な速度を持って追撃を迫る。今度は足技だ。右の足による三連撃。だが、足技は拳による打撃と違って威力には勝るもののその分出は遅く動きも単調だ。愛生はこれを落ち着いて対処。一撃だけ脇腹に貰うことを覚悟して残りの攻撃は全て防いだ。
「ちっ!」
脇腹の攻撃も体勢を捻ることで決定打とはならなかった。六道の憎しげな舌打ちが聞こえる。愛生は最後の攻撃を脇腹に受けながら、自分の足で六道の足を払いにいく。これで体勢を崩しすつもりだった。しかし六道もその動きは読んでいたのだろう。彼は片足のまま後ろへ翻るように体を回して飛び上がり、そのまま空中へと着地した。
「な……!」
あまりに突然のことに愛生は一瞬の戸惑いを得る。それが六道の能力の一つ《領域歩行》だと知っていたのにも関わらず驚いてしまった。
「……行くぞ――――」
宣言と共に、六道は空中、それも地球の重力に対して逆さまに立った状態で拳を放つ。六道の視線は丁度愛生の首の辺り。彼が放つ拳は上から叩き落とすように愛生を狙う。だが肝心の愛生の攻撃が届くのは精々六道の顔面位だった。高さが足りないのだ。それ以外を狙うには高すぎる。顔面だけにしかこないとわかっている攻撃を避けるのは用意だ。六道は首の動きだけで愛生の攻撃を避けて見せる。
このままじゃ埒が明かない!
愛生は六道から半歩距離を取り、その場で跳躍、そうすることで六道の頭が丁度愛生の蹴りが届く位置になる。
「喰らえ!」
雄叫びと共に放たれるのは右足大振りな横薙ぎ払い。当たらなくてもいい。とにかくこの曲芸のような動きをやめさせることが出来ればいいという考えで放たれたがむしゃらな蹴りだ。
はたして、愛生の狙い通り、六道は確かに地面に降り立った。だがそれは足からではなく手から。そのまま落下の衝撃を全身をバネのようにして溜め込み、それを空中で身動きの取れない愛生に向かって全て放ってきた。
全身を使った両足の打撃。愛生の体は大きく吹き飛ばされ地面を転がる。身体が空中だったために衝撃の多くは逃げていったが、それでも今の一撃は既に傷ついている愛生の体には良く響いた。
「面白い男だ。段々と俺の動きについてこれるようになっている」
だがこれまでか、と六道が憮然とした口調で語る。
「貴様の適応については一目置かざるを得ないが、しかし貴様が不死身でもない以上、その体にはいずれ限界がくる。そしてもう限界だ」
「何、言ってんだ……」
勝手なことを言う。僕まだ、立ち上がれるというのに。
そう思うものの、上手く体は動かない。さすがにダメージの蓄積が大きすぎるのだ。だがふらふらとしながらも、愛生は立ち上がって見せる。
そうして、拳を握る。
六道はそんな愛生を忌々しげに睨みつける。
「わからないな。何故、立つ。何故まだ立とうとする。黙ってうずくまっていれば、見逃してもらえるかもしれないのだぞ」
「僕は見逃してほしいわけじゃない。勝ちたいんだよ。勝って、リナリアと一緒に帰りたい」
「貴様は俺には勝てない。それは明白だ」
「それでも、だ。それでも勝ちたい」
例えどうしようもなくても、どうにかしたい。
「なら、立ち上がるしかないだろう」
六道は少しだけ、思案するように顔を伏せてから言葉を作った。
「確かに、理には適っている。戦わぬ者に可能性は訪れない。だが、そうだとしてもやはり無駄なことだとは思うがな。そうまでする理由が貴様のどこにある?」
「なんだと」
「貴様とリナリアはたった数ヶ月を共にしただけだろう。貴様が命を懸けるだけの価値がそこにはあったのか? 貴様の中の順位では、あの幼なじみの方が大事なのではないか? だが今、あの女はリナリアを助けるために危険を冒している。これは貴様にとって好ましくない状況ではないのか」
「……今の状況が好ましくないことは本当だけれど、でもそれは千歳が僕の一番だからじゃない」
「なら、リナリアが一番だとでも?」
「そういう……わけでもない。大体、自分の大切に順位なんかつけたくない。大事なものは全部大事だ。リナリアも大事だ。だから守る。そのために命も張る。それだけだ」
愛生の言葉に六道が笑った。それは愛生を馬鹿にしたような、あざけるような笑みだった。
「全部大事、か。どこまでも浅はかな強欲だ。所詮貴様の想いなど、その程度か」
言って、六道は再び愛生を迎撃しようと構えを取るが、そこに割り込むように愛生が口火を切った。
「そういうお前はどうなんだ。リナリアを殺すということの意味を分かっていないわけではないだろう?」
それは咄嗟の時間稼ぎのような質問だ。少しでも体を休める時間が欲しい。そんな不様な考えで口に出た問い。それでも、その問いは愛生がどこかで気にしていることでもあった。
この男は、どうしてここまでリナリアに執着するのか。
気にならなかったと言えば嘘になるのだから。
この質問が愛生の時間稼ぎであると、六道はわかっていただろう。わかった上で、六道は答えた。
「無論だ」
「リナリアを殺すということは、リナリアを守ることと同じで、世界を敵に回すことになるんだぞ」
リナリアは日本政府がその存在を秘匿にしてまでも利用したがったフェーズ7だ。そして彼女を使った数々の非人道的実験には日本だけでなく世界が関わっていた。それを殺すのだ。守るのではなく殺す。それは永遠の消失を意味する。実際、リナリアを誘拐して今なおその手元に置いている帝や愛生が半ば黙認されているのは、リナリアの不死身性にあるといってもいい。何があっても傷つかないし、無くならない。それがわかっているから、政府は不用意に、あるいはがむしゃらにリナリアを奪取しようとはしていないのだ。
だが、そんなリナリアが殺されたと知ったらどうなる。それが六道の手によるものだということは、鏑木流を通じてあっという間に露見するだろう。そうなった場合、六道は世界中から敵とみなされるのだ。自分らの利益を害した敵だと。
だが、それを六道は構わないと一蹴した。
「世界中を敵に回そうが知ったことじゃない。俺の目的、存在意義はただ一つ。彼女の願いを叶えることだ。つまり、彼女の願いを叶え終わったあとの俺がどうなろうと、それは〝俺〟が知ったことではない。興味もない」
「リナリアのためなら、自分はどうなっても構わないのか」
「ああ、構わない。むしろそれこそが、この六道の望む道だ」
「どうして、」
どうしてそこまで、覚悟ができる。誰かのために当たり前のように自分を捨てられるその姿は――――
「狂っているよ、お前」
「貴様にだけは言われたくなかったな」
「何がお前をそこまで駆り立てる……。今朝の襲撃だってそうだ。お前はリナリアと、それに関係する全ての人間を殺そうとした。一体、何があればそこまでの執念を抱ける」
お前とリナリアの間に何があった。
その問いに六道は酷く苦々しげな表情を作った。怒った、とも違う。何か様々な感情が刻まれた顔だった。
「…………貴様にはわからないさ。リナリアを救うだけで、彼女に救われたことのない貴様には、俺の想いは理解できるはずもない」
「救われた……?」
その言葉に愛生は思わず怪訝な顔をする。リナリアが誰かを救うというのが、想像できなかったのだ。彼女が積極的に何かをしようと動くことはあまりない。ましては六道とリナリアの出会いはあの研究所のはずだ。あの中でリナリアが六道にできることがあるとは思えなかった。
「それは一体なんだ。リナリアはお前に何をした……?」
「ふん。彼女が特別、俺のために何かをしてくれたわけじゃない。ただ、彼女がそこにいた。それだけのことだ」
「…………」
六道の言っている意味がわからず、愛生は押し黙る。六道はそんな愛生をしばし見つめて、そして口を開いた。
「俺は彼女と同じ研究所にいた。あの地獄に俺もいたのだ。六人の超能力者の融合体。人間同士のキメラとして俺はそこで生まれた」
だが、六人の人間の合成で生まれた身体にあったのはたった一つの人格。元の誰の者とも違う己の心だった。
「俺は自分自身を上手く認識することもできぬまま、日々の実験に身を費やした。俺はリナリアと違い、回復力に関しては常人だ。しかしそれでも彼女ほどではないにせよ非人道的な実験だったことに違いはない。――――俺は恨んでいたのだ。研究所の人間を。あの地獄に住まう鬼どもを。そして何より人間を。毎日毎日、どうにか奴らを殺せないかと、そんなことばかり考えて生きていた」
六道の口から語られるのは、彼自身の過去だった。研究所にいた頃の、実験体だった頃の六道。
「当時の俺は、人を見れば見境なく殺しにかかるような、獣のような男だった。そんな俺にさすがに手を焼いた研究員たちは、俺をある少女と同じ檻に入れた」
「それが、リナリアか……」
六道が頷く。
「リナリアは不死身の力を持つ少女だ。俺のような獣に何をされようと、死ぬことはない。彼女をサンドバックにして、俺のストレスを発散させてやろうという目論見だったのだろう。その目論見を知りながら、俺はその通りにした。最初の数日、俺は彼女を殺し続けた」
リナリアを殺した。その言葉に愛生は思わず六道に飛びかかりそうになるのを必死に抑えた。その様子を悟られたのか、六道は一瞬だけ愛生を見る視線を鋭くさせたが、すぐに元の憮然とした表情に戻る。
「誰でもよかったのだ。殺せれば、誰でもな。とにかく俺は俺の中の怒りや、憎しみ、感情を誰かにぶつけたくて仕方なかったのだ。だが、それもほんの数日のこと。それ以降、俺は彼女に手をあげるようなことはしなかった。その時点では、情が湧いたわけでもなんでもない。ただ、飽きたのだ。同じ少女を殺し続けることに、俺は飽いてしまった。自分勝手なことだがな。今でも恥ずべき罪だと思っている」
「……それで、そのあとはどうしたんだ。まだお前らは同じ檻にいたんだろう?」
「そうだな。その後は話をした。彼女は自分を何度も殺した俺のことも怖がることもなく、話せば自然と応じてくれた。実験以外は、何もすることのない時間だったからな。お互い暇を持て余していたのだ。そこで俺は知ったのだ」
そう言って、六道は視線をリナリアへと移す。リナリアを見る彼の視線は愛生を見つめるあの憮然とした怒りさえも感じる視線とはまるで違っていた。どこか慈しむような、それでいて悲しむような、そんな目だ。
「何を、知ったんだ……?」
「今、貴様が知ったことだ。彼女の心の在り様。抱える矛盾、その苦しみ。その全てだ」
貴様にはわからない、と六道が声を大きくする。
「あの地獄の中で、彼女の心がどれだけ輝いて見えたのか、貴様には絶対にわからない」
「輝く……? リナリアの心がか?」
「ああ、そうだ。全てを恨むだけだった俺と彼女は違った。彼女は俺と同じ想いを持ちながらも、それを否定していた。決してなくせない憎悪を否定し、潔癖を望み続けたのだ。痛みを受けながら、それを嫌だと苦しみながら、しかし決して清くあることを捨てようとはしなかった!」
六道が腕を振り、叫ぶ。その様子は神の教えを説く狂信者のようだ。
「その心の気高さが! 魂の高潔が! あの暗闇のなかでどれだけ輝いて見えたと思う。人を恨むことしか知らなかった俺の心に、彼女のおかげでようやく人間らしい感情が生まれたのだ。あの地獄の中で彼女は俺にとっての光だった。リナリアは俺の救いだったのだ。俺は彼女に救われた。彼女がいなければ、俺は今頃まともに言葉も話さぬ獣だっただろう」
リナリアは何もしなかった。だが、それでも六道は救われたのだ。何もせず、ただ自分のなかの矛盾をどうにかしようと膝を抱える彼女の姿に、六道は光を見た。汚濁を否定し、清くあろうとする潔癖な心を光だとしたのだ。
綺麗なものではなく、綺麗であろうとする心に惹かれたのだ。
その美しさに、魅せられた。
「俺を駆り立てるものはそれだけだ。彼女に救われた。彼女の精神に魅せられた。その時から、俺の全ては彼女のためにある」
六道はリナリアに救われた。その時から彼は己の全てをリナリアのためだとし、そうして生きてきた。そして今、彼女の願いである《死ぬこと》を叶えようとしている。リナリアに魅せられた六道は彼女のために殺すのだ。殺してくれ、と言われたから。
「は、はははは……」
愛生の口から笑みがこぼれる。それは意識しなくても自然と零れた笑いだった。
彼女のために彼女を殺す。
彼女に救われたから、彼女を殺す。
なんだ、それは。あまりにもおかしい。
六道の中は、リナリアばかりだ。彼の瞳も心も、全部全部リナリアリナリアリナリアリナリア……六道は本当にリナリアのことしか考えてない。彼女のことしか見えていない。
リナリアのことしか考えていない六道は、リナリアのためにリナリアを殺す。
おかしいじゃないか。そんなこと、何一つ正しくない。
「ははははははは!」
だから笑ってしまった。あまりにもおかしくて、あまりにも滑稽で。
「何が、おかしい!」
ただひたすらに笑い続ける愛生に六道は困惑した様子で尋ねる。
「俺の想いを愚弄するか!」
「いや、お前の想いは間違っていないよ。でも、その答えは間違っている」
「俺の願いは彼女の願いの成就だ。だから彼女が死にたいと願えば、俺は彼女を殺す。何も間違ってはいない! 俺は正しい!」
「間違っているよ。お前は僕と同じだ。同類。同じ穴のムジナだ。愚かで浅はかな人間だ!」
もういい、と六道が叫ぶ。
「貴様の戯言に付き合うつもりはない。話は終わりだ。覚悟しろ!」
気づけば、六道が目の前にいた。六道の拳が愛生の腹部へと叩き込まれる。すでに身体は限界に近い愛生は成す術なく六道の打撃を貰い、吹き飛んだ。胃がせりあがるような吐き気を覚えたが、その口から漏れるのは嘔吐物ではなく言葉だ。
「ずっと気になっていた。最初から、違和感を感じてはいた。今、ようやくそれに答えがでたよ」
「何が答えだ。そんなものに意味はない! 戯言を語る暇があるのなら戦え! その気がないのなら黙っていろ!」
時間稼ぎのつもりなら意味はないぞと、六道は倒れたままの愛生の首を片手で掴み、持ち上げた。単純な腕力に、金属操作によって腕を覆うことで姿勢の補助に使っているのだろう。六道の腕はピクリともせずに、愛生の体を掴みあげる。
「かっ……あ…………」
そのまま首を絞められ、気管が圧迫される。肺の中の空気はあっというまに出て行ってしまう。最後に残った空気と意識で、愛生は更に言葉を作った。
「一度だけだ。一度だけ聞くぞ……六道!」
六道の手に更なる力がいれられたが、愛生は最後の最後の意識で問う。
それはきっと、この男に問わなくてはならないことだったからだ。
「お前本当は、リナリアを殺したくないんじゃないのか?」
それを最後に、六道の顔から表情が消えた。