約束をしてください
ラボラトリ開発途中区域。昼だというのに立ち並ぶ建設中の建物のせいで日の当たらない路地の中で一瞬の風が吹き続けていた。
風の正体は犬だ。薄い茶色の毛を持った、その犬は種類をボルゾイという。ただ一般的なボルゾイよりも一回り体は大きく、駆け抜けるスピードも並じゃない。まるで全身を一つの弾丸のように、空気を突きぬける度にその毛を揺らしながら駆け続ける。
そのボルゾイの上に一人の人間が乗っていた。薄い栗色のくりくりとした羊のような髪の毛。一見すると少女のようにも見える女顔。左腕の黒い義手と瞳に映る鈍器のような強い眼差しが、彼の纏う柔らかな見た目と相反した矛盾を生んでいた。
我王愛生。
突き抜けるような感覚を覚えながら、愛生は自分を運ぶ犬の毛に力一杯しがみつく。今は獣化能力によって、その姿を大型のボルゾイへと変えているが、この犬は亜霧佳苗という愛生の友人に他ならない。普段の彼女は感情表現が豊かな、小柄な女の子だ。そのイメージばかりが強かったこともあり、最初の内は強く彼女にしがみつくことが、なんだか悪いことのような気がして躊躇っていた。だが徐々に速度が上がり、狭い路地を右に左に体を振るように走り出した頃にはそうも言っていられなくなった。変に遠慮すれば簡単に振り落されてしまう。今、愛生は完全に自分の身を獣化した亜霧の背中に押し付けるようにしてしがみついている。
自分が小柄だということもあるだろう。愛生一人が乗ったところで亜霧の背中はまだ少し空きがあった。
本当に、大きいよなぁ。
いつもの小柄な彼女の姿に慣れているからか、獣化状態の彼女は違和感が生まれるほど大きい。前にも思ったことだが、多分亜霧の獣化能力は単純に獣に姿を変えるだけの能力ではないのだろう。彼女が変身するのはただのボルゾイではなく、強化されたボルゾイなのだ。現実のありのままの犬とは違い、その能力に強化がかかっているのだろう。
空想、とでもいうのかな。
人が空を駆ける馬を想像するように、空想された犬は現実よりも少し大きく、そして速い。大地を駆るスピードは明らかに普通のそれではない。
愛生と亜霧が向かう先は六道がリナリアを連れて籠城している場所。来年以降には研究所として利用されるはずだった建物の中だ。今、八九郎と千歳が自分の代わりに敵を引き付け、囮の役を担ってくれている。本来ならばこの隙に愛生は一人で目的地へと向かうはずだったのだが、亜霧からの強い要望により協力を承諾した、
最初愛生は亜霧が戦場へと出てくることに反対だった。今でもそれを快くは思っていないが、それでも結果的には正解だったのかもしれないと思う。自分一人だけならば、こんなに早く六道の元へ駆け抜けることはできなかっただろう。それは八九郎や千歳の負担を増やす結果にもなる。愛生がもたもたすればするほど、あの二人は敵の注意をひきつけ続けなければいけないのだ。
その点に関しては亜霧には感謝しつつ、一方で愛生は千歳と八九郎のことを気にしていた。当初の作戦通りなら、千歳が逆崎を無力化した後、次に現れると思われる何かしらの戦力に対して八九郎が応戦しているはずだ。先程から何度か大きな音がこちらにも響いてくるということは、既に戦闘は始まっているのだろう。
戦う意志のある裏方八九郎が負けるとは思わない。が、もしもの時のために千歳にスタンドアローンによる通信と援護を頼んである。あの二人が組むという図が愛生にはあまり想像できうないが、フェーズ7とフェーズ6のコンビだ。負けるということはあり得ない。むしろ愛生はあの二人が上手いことやれているかどうかが心配だった。そもそも友人の絶対数が少ない愛生にはよくわからないことではあるが、友人の友人というのは非常に接しづらい立場だと聞くし、あの二人はお互いあまり人づき合いが得意ではない。
千歳が変に毒吐いて八九郎さん怒らせてなきゃいいけど……。
なんだかんだ八九郎の沸点は驚く程低いというのは昨日のBBQで確認済みなので、言う程心配しているわけではないのだが。
僕はただ逃げているだけかもしれない、と愛生は冷静に自分の心境を分析する。八九郎や千歳のこと、とにかく六道やリナリア以外のことを考えて不安や恐怖を忘れようとしているのだ。
もしもリナリアを守ることが出来なかったら。
もしもリナリアが本当に死んでしまったら。
失うことによる恐怖を振り払おうと、自分は余計なことを考えようとしているのだ。ただ、今はそれでもいいと愛生は自分に言った。六道を前にした時に逃げなければそれでいい。
すると、路地の狭い視界がいきなり開けた。そこは建設中の大通りだ。まだアスファルトで覆われてもいないむき出しの地面が顔を覗かせ、周囲にも骨組みや土台だけしか作られていない建物が多く、まともなビルの形をしていてもブルーシートに覆われているものも多かった。
ここはまだ開発途中区域の中でも特に開発の進んでいないところなのだろう。壊れたわけでも、風化したわけでもなく、しかし完成はしていない建設途中の建物たち。それは廃墟とはまた違う、どこか無機質な寂しさを感じさせる。路地を走っていた時もそうだが、どうやら今この区域には自分達以外の一般人はいないようだった。六道か鏑木が何か細工をしたのか、それとも単純に建設そのものが休みなのか。どちらにせよ、人のいないこの空間は妙な憂いすら孕んでいた。
だが厳密には全く人がいないわけではない。無論自分達の存在もそうだが、各所に点在している無力化された《逆崎》がいるのだ。特に、六道のいる研究所に近いこの通りには多くの《逆崎》が配置されていた。ざっと見ただけでも五十人はいるだろう。それらはみな、壊れて動かなくなった人形のように地面に這っている。同じ顔をした人間かこうも大量に存在している様は奇観ですらある。奇妙よりも、それは醜く見えた。
人のいない建設途中の建物。そしてそこに存在する動かない《逆崎》の群れは全て合わせて歪つな空間を作りあげていた。今まで快調に歩を進めてきた亜霧が、そこで狼狽えたように足を止めてしまう。愛生ですら思わず息を呑んだのだ。彼女にしてみれば無理もない反応だった。
「行こう、亜霧さん……」
それでも立ち止まっている暇はない。彼女を急かすことに少し罪悪感を覚えながらも、愛生は茶色の毛並みをした彼女の喉を撫でて言った。前へ進もうと。
愛生の思いに応えるためか、それともこの奇怪な空間からいち早く脱するためか、亜霧は先程よりもさらに速度を上げて走り出す。すぐにでも振り下ろされてしまいそうな体を彼女の背中に全てくっつけるようにして体勢を保ちながら、愛生は前を見る。
そこには自分が向かうべき場所がある。
鏑木の言うことが正しいのであれば、そこはいずれ『ラボラトリ第66研究所』と呼ばれるはずの場所。
そこに、リナリアと六道がいる。
愛生は無意識の内に彼女の体を掴む手にに力を入れた。
+
愛生たちが目的の場所についたのはそのすぐ後だった。
愛生の視線の先にあるのは、塀に囲まれた灰色の建物。真新しいコンクリートの質感が、冷徹さを思わせるようで、愛生は思わず身震いをした。建物には窓はない。まるで愛生を待っていたかのように、中へと続く門は開けっ放しだった。
ここが『ラボラトリ第66研究所』。
リナリアの処刑場だ。
開発途中区域の入口からここまで一切敵と遭遇することもなく素通りできてしまった。それはつまり、千歳や八九郎がきちんと自分の役割をこなしたおかげだろう。それに亜霧のおかげでもある。仮に敵に遭遇したとしても、一目散に逃げ切れるような走力を彼女は持っていた。この足がなければ、ここまでの道程はもっと辛いものになっていただろう。
単純に、体力を温存できたって意味もあるしな……。
亜霧の背中から降りた愛生はわしゃわしゃと犬の状態の彼女の頭を撫でた。
「ありがとう、亜霧さん。こんなに早く着けるとは思わなかった。本当にありがとう。あとは、すぐに千歳と合流して。あいつの傍なら、安全だろうから」
八九郎の傍でも構わないが、近くに味方がいると裏方八九郎は上手く戦えない。ここは千歳のもとへ行くのが正解だろう。
ここで、亜霧の役目は終わりだった。あとはもう、彼女には安全な場所にいてもらいたい。
千歳と合流することに念を押して、愛生は再び視線を第66研究所に移す。決して、大きな建物というわけではない。奇抜でも、目立つわけでもない。このラボラトリならばどこでも見るような、普通の研究所。それが彼女を殺す場所というのは、なんだか世界へ向けた壮大な皮肉なような気がしてならなかった。
行こう。時間に余裕があるわけではない。《逆崎》が無力化され、八九郎が発見された時点で、リナリアの殺害が始まっていてもおかしくはないのだ。愛生の身体は恐怖を訴えるように小さく震えていたが、それは無視した。
大丈夫、いつものように隠してしまえばいい。強がりの中に押し込めるのだ。
迷っている、暇はない。
そうして、一歩を踏み出そうとしたその時だ。
「愛生くん!」
突然後ろから、名前を呼ばれた。反射的に振り返れば、そこにはいつのまにか能力の発動やめて人型に戻った亜霧の姿が。服は着ていない。彼女はその健康的な肢体をさらけ出し、それを隠そうともせずにいた。いつもなら、パンチの一つや二つとんできてもおかしくない状況のはずなのに、それをしない亜霧がいつもとは違うというのは明白だった。
それでも、同年代の女の子の裸体に免疫なんてない愛生は咎められたわけでもないのに、見てはいけないもののような気がして顔を亜霧から研究所へと戻した。その状態で、どうしたのと返事を作る。
亜霧からの返事の声は小さかった。初めは「うん」と頷く小さな音で、その次は少しだけ裏返ったような声を亜霧は作った。
「あ、あのね……ごめんね。急いでいるのはわかってるんだけど……」
急いでいるのは本当だ。だけど、今の亜霧を放っておこうとも思わなかった。どうしたの、と再び告げる促しに亜霧は強い肯定を示した。
「ちゃんと、戻って来てくれるよね……?」
不安げに呟かれた言葉の真意はわからない。愛生は今できる返事を作る。
「戻ってくるよ。リナリアを連れて、必ず。当たり前じゃないか、そうじゃないと意味がない」
「約束して!」
亜霧が怒ったように続けた。
「ちゃんと、約束して……あたしに、八九郎に、千歳にもみんなにも、ちゃんと約束して」
「亜霧さん……?」
亜霧がここまで言う意味がわからず、愛生は困惑する。すると、愛生は背中に何かが触れたのを感じた。それは亜霧の手だ。右か、左か、どちらかは愛生の方からは見えないが、彼女の手の片一方が愛生の背中につくようにあてられたのだ。
「愛生くん。どっか行っちゃいそうなんだもん……」
帰って来てくれるよね。
それは帰って来てほしいという意味だったのだ。
「大丈夫。戻ってくる。僕は戻ってくるから」
彼女を不安にさせたのはきっと、自分の弱さのせいだ。この人なら大丈夫という安心が自分にはないのだろう。当たり前だ。我王愛生はいつだって傷つきながら、ギリギリで戦ってきたのだから。
こんな時、上手い台詞の一言でも言えたらいいのだろう。だけど、不器用な愛生の言葉では戻ってくると繰り返すことしかできなかった。
「…………ありがとう」
そう言って、亜霧の手が背中から離れた。それはもう、これでお終いという合図だ。
「行って、愛生くん。リナリアちゃんを、助けてあげて」
最後に言われた言葉に返事は返さなかった。それは帰ってきたときに取っておこう。
前を見て、振り向くことなく足を進めた。
悩んでいる、暇はない。
今はただリナリアを助けることだけ、それ以外は全て拳の中に隠してしまえ。
+
ラボラトリ第66研究所。
塀の門から足を踏み入れれば、すぐに入口が見えた。壁と同じ色をした大きめの扉。ドアノブに手をかけるが、さすがに正面入り口の鍵は開いていないようだった。他の入口を探すか、壁を壊すことも考えたが、愛生は素直に鍵を壊すことにした。入口を探す手間や、どの壁を壊すのかを考える時間が惜しかったのだ。
左の義手でドアノブ部分を思いっきり殴りつける。ドアノブ周辺の扉が大きくへこみ、鍵は破損。これで通れるようになった。鍵自体は壊れたが、扉が歪んでしまったせいで少し押すだけではびくともしない。その場から一歩下がり、肩からぶつかるようにして無理矢理扉を開いた。
中の入口は床や壁にブルーシートが敷かれていて、建設途中だということが目に見えてわかった。これから使われるであろう資材や工具なども散乱している。開発途中区域の建物だということ考えれば、それは当然のことかもしれなかったが、しかし愛生はおかしいと疑問を感じた。
ここは六道がリナリアの処刑場に選んだ場所。どれだけの規模なのかはわからないが、しかしここにはリナリアを殺すための特殊な設備があるはずだ。それを建設途中の、それも政府の施設に運び込めるものだろうか。嘘を吐く、騙すということも可能かもしれないが、そういった陳腐な手はあの鏑木流には通用しないように思える。あれはきっと、他人の嘘にはとても敏感な男だ。そうなると、残った可能性は……。
「隠してある、ということか……?」
だけど、その考えも現実的ではないように思える。棚の裏や壁の中に隠すレベルではない。部屋を丸々一つ隠蔽しておくようなものだ。
「それができるとすると……まさか、地下ってことはないよな?」
「ご明察です」
声が聞こえた。呟いた自問に返答があったのだ。それは勿論愛生による自答ではない。他の誰か、聞いたことのある声だ。
それが現れたのは突然だ。愛生の正面、今まで目を向けていたはずの場所に突然鬼面の少女が現れたのだ。
同じだ。宝守ちゃんが倒された時と同じ。
彼女はまるで、何もない空間から突如出現したかのように現れて見せたのだ。
鬼面に和装姿の少女はその長い袖を振りながら、こちらへと近づく。愛生は警戒と共に迎撃の構えをとったが、少女はある程度近づいたところで立ち止まる。
「ご心配なく。わたくしは、君と戦うために現れたわけではありません。本当です。ええ、本当ですとも」
笑っているのか、怒っているのか、よくわからない口調で少女は続ける。その鬼面のせいで、表情が窺えないというのもあるのだろう。愛生は構えこそ解いたものの、警戒はしたまま少女と対峙する。
「ご明察、と言ったな。ということは、六道とリナリアは地下にいるのか?」
「そうです。開発途中区域の連日の工事に乗じて、六道はここの地下に勝手に自分達の空間を作った。それこそがリナリア嬢を殺すための空間です」
まあ、と少女は一言置いて続けた。
「勝手にとは言いましても、六道に地下建築の学はありません。実際の所、協力者による根回しがあったのです」
「協力者?」
首を傾げる愛生に少女が告げた。
「狩場重正ですよ。あの時君が殺した女です。六道は彼女とも繋がっていたのです」
狩場重正という人間の名前に愛生は瞬間的な嫌悪を抱いたが、それを頭の隅に追いやって考える。六道と狩場重正の繋がり。それは当然のこと、愛生が狩場重正と出会う前からの繋がりだろう。つまりあの時点で狩場重正はリナリアを殺害する計画が進んでいることを知っていたのだ。
だとしたら、裏方八九郎完全管理計画の標的に自分が選ばれたのも頷けた。狩場重正はリナリア殺害のための障害を排除しようとしていたのだ。それは本筋の計画の片手間のようなものだが、それでもこれで狩場重正が愛生をターゲットにした理由ははっきりした。
「六道からしてみれば、それは大きなお世話だったようです。余計なことです。その余計なことのせいで、愛生くんと裏方八九郎に繋がりができてしまい、今回の作戦そのものが根幹から崩されかねなかったと。一応、こうして愛生くんがここにいるということは持ち直したと見て間違いはないでしょう。ええ、そのはずです」
少女は思ったよりも良く喋った。早口というよりは、流暢に滑舌がよいと言うべきだろう。流れるようにスラスラと言葉を紡ぐ彼女との会話は心地よくもあったが、そんなことをしている場合ではない。
「なあ、君は……」
愛生がそう切り出したのと同じタイミングで、少女は愛生に背を向けてしまう。何事かと驚く愛生をよそに少女が言う。
「どうぞ、着いてきてください。六道のもとへと案内いたします」
てくてくと足早に進んでしまう少女を追いかけるように愛生も歩を進める。気を取り直して再び彼女に疑問を投げようとしたが、それよりも先に少女は勝手に話を始めてしまう。
「狩場重正との協力を結ぶことは、さほど難しいものではありませんでした。彼女と会う場さえ作れれば、あとはもうとんとん拍子です。リナリア嬢を殺す考えがあるのだと言えば、彼女はすぐに食いつきました。狩場重正の超能力者に対する憎悪は異常でしたから、六道に対しても当たりは強かったのですが、それでも協力関係自体は成立していました。若さゆえか、鏑木流ほどの下劣さは狩場重正にはなかったのでしょう。だとしても、それで彼女が善人であることの証明にはなりませんよね。ええ、なりませんとも」
聞いてもいない話。愛生としては狩場重正という名前を聞くだけも不快だが、しかし少女には怒りを感じることはなかった。それ以上に、困惑の方が大きかったのだ。
「狩場重正の、あの異常なまでの超能力者に対する憎悪。あれがどうして彼女の中に生まれたのか、とても気になったのでわたくしなりに調べてみたのです。そうすると、驚くことに何もわかりませんでした。いえ、そうではなく……何もありませんでした。超能力者に親を殺されただとか、恋人を奪われたとか、そういうわかりやすい悲劇が狩場重正の人生には一度もありませんでした。あの人は、特に理由もなく超能力者を恨んでいたのです。たいした理由もなく、自分の中だけで生まれた悪意を信じていたのです。だからこそ、あそこまで歪んたと言えなくもないですけれど、でも面白いですよね。きっと、世の中の超能力を持たない一般人は多かれ少なかれみんな狩場重正と似たようなものなのでしょう。超能力者によって被害を受けた人間の方が今は少ないですし、みんな特に理由もなく超能力者を迫害している。これってつまり大衆の――――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
困惑する頭で、愛生は必死になって少女の言葉を止めた。放っておけば、こちらが何かを言う機会を失う。何も言わなければ、彼女はずっと一人で喋っているような気がしたのだ。
「君は一体、なんなんだ……六道の味方じゃないのか?」
少女は六道側の人間。そのはずだ。げんに彼女はリナリアを救出しようとした宝守を止めた。殺したり、必要以上に傷つけることこそしなかったものの、リナリア救出を阻止しようとしたことは確かだ。にも関わらず、今の彼女は愛生に敵意を向けていない。むしろ、親しげにすら感じる。照美のような異常者というわけでもないだろう。
愛生の疑問に少女が振り返る。その鬼面の内から愛生を見つめながら、彼女は言う。
「六道には、君と戦うように言われています」
やはり敵かと警戒を強める愛生に少女は笑った。
「ふふふふ。ですから、ご心配なさらず。わたくしは愛生くんとは戦うつもりはありません」
六道には戦えと言われた。だが、本人に戦うつもりはない。それはつまり六道の意見を聞くつもりはないということなのだろうか。彼女は六道の味方ではない。だけれど、六道の敵ではないだろう。
なら、誰の味方だというのだろう。彼女は誰の敵なのだろう。
「ほら、そろそろですよ」
たどり着いたのはこじんまりとし、窓のない倉庫のような部屋。少女は床のブルーシートを雑に剥がし、むき出しになった床のタイルをどけると、そこには床下に取り付けられた不自然な扉があった。人一人がギリギリ入れるほどの小さな扉。窪んだ取っ手に指を引っかけるようにして少女が扉を開ける。
「ここです、ここを通れば六道のもとへ行くことができます」
少女が指さす扉の先を覗き込む。そこは梯子が取り付けられただけの真っ暗な穴がずっと続いていた。奥の方は闇のように暗く、何も見えない。どこまで続いているのかもわからなかった。
愛生は驚いた顔で少女を見つめる。少女の表情は鬼面に隠されて見ることはできない。彼女の素顔は鬼面の裏だ。
「君は一体、誰の味方なんだ……?」
繰り返す質問は困惑から生まれるものだ。この鬼面の少女は誰の味方なのか。誰の敵なのか。
少女はまた笑う。楽しそうに、いかにもおかしそうに。
「ふふ、わたくしは君の……愛生くんの味方です」
「僕の味方なら、どうして宝守ちゃんを止めたんだ!」
「リナリア嬢といれば、君は不幸になります。彼女と共に進むことは、彼女の抱える地獄を進むということです」
リナリアといる。それは世界を敵に回すことだ。
少女が問う。君に覚悟はあるのかと。
それは、その問いは――――
「どう……なんだろうか」
自問。愛生は自分自身に問う。
お前に覚悟はあるのかと。
「今ここで、言葉にするのは簡単だ。でも、僕は弱いから」
どうしようもなく、弱いから。
「きっとすぐにまた背を向けたくなる。逃げ出して、しまいたくなる」
八九郎や、みんなの前で強がった反動か、愛生の口からは次々と弱音が零れる。目の前にいるのは正体も知らない鬼面の少女だとわかってはいても、溢れ出る言葉は止められない。
「世界を敵に回すのは怖い。リナリアだって、ちゃんと守れるかなんてわからない」
だけど、と愛生は言う。
「だけど、最後にはちゃんと前を向きたい。何度逃げ出しても、その度に立ちあがりたい」
自分にはそれを許してくれる仲間がいる。どれだけ格好悪くても、どれだけみっともなくても、我王愛生は誰かを救ってくれる人間だと、信じてくれる仲間がいる。
「逃げだした数だけ、戦い続ける。きっとそれが、僕の覚悟だ」
おかしな台詞だ。自分で笑いそうになってしまう。最初から逃げ出さなければ、ずっと戦い続けられるのに、逃げ出すこと自体はもう諦めてしまっているのだ。
自分の弱さを肯定しておきながら、まだ強さにすがっている。
どうにもできないと知りながら、どうにかしたいともがくのだ。
滑稽だ。馬鹿者にもほどがある。
笑われるだろうと思った。だが、少女は笑うことはなくただ静かに呟いた。
「それが君の覚悟だと仰るのなら、わたくしにこれからを止める権利も、諭すつもりもありません。あの人に似て、愛生くんは意外と強情ですからね」
「あの人……? 忍花、君は本当に一体…………」
六道のもとへいた以上、彼女の目的はリナリアを殺すことだろう。だが、その理由はなんだ。
六道は、リナリアを救うために。
なら少女はなんのためにリナリアを――
「わたくしは愛生くんの味方です」
鬼面の少女は言う。
「今はただそれだけ、理解していてください」
すると、眼を疑うような現象が愛生の目の前で起こる。鬼面の少女の身体がうっすらと透けていくのだ。まるで、先も見通せないほどの濃い霧が段々と晴れていくように少女の身体が空間へと消えていく。
「待ってくれ!」
愛生がそう叫んだ時には少女の体は完全に消え去り、あとには何もない虚空だけが残された。一瞬、幽霊という可能性が愛生の中に浮かんだが、そんな馬鹿げた話はあるはずがない。
いくら、格好が古風でもそれはないよな……。
きっと超能力だ。宝守の監視の目を欺いた能力を今、愛生の目の前で使ってみせたのだ。目の前で見たところでその詳細まではわからない。光の屈折でも操り、姿を消しているのだろうか。ためしに彼女のいた場所に手を伸ばすが、そこには何もない。そもそも、姿を消した彼女がその場にとどまる意味もないだろう。
一旦、彼女についての思考は放棄する。そんなことを考えている場合ではない。彼女の言葉を丸っきり信じるわけではないが、あの鬼面の少女が自分の味方であること、今はただそれだけわかっていればいい。味方でなくても、敵でないのならそれでいい。
愛生は暗い穴の底を見つめる。
この先に我王愛生の敵がいる。