醜悪のハイエナ
「さて、まずは六道という男、あやつについて話しておこうかのう。あの男の起原の話じゃ」
六道。
考えてみれば、奴が一体なんのなか、愛生は殆ど知らない。ただ六道自身の言葉によれば、六道はリナリアと同じ研究所にいて、そこの実験体だったという。
実験体。モルモット。
「とはいうものの、あれの話をするのなら、儂ら《名もなき組織》についても語っておかねばなるまい。元を辿れば、あやつの起原は儂にも関係がないこともないからのう」
「いいのかよ、オヤジ」
そう言ったのは喜彰だ。彼は手にした銀の鎌をピクリとも動かさず、視線だけを鏑木に向けている。
「そんな簡単に話しちまって」
「構わんじゃろう。言ったところで、不都合があるわけではない。ただ、この者らがラボラトリの闇を知るだけのこと」
ラボラトリの闇……。
怪訝そうな顔をする愛生に視線を移して、鏑木は不意に問うた。
「時に我王愛生よ、お主は幻影人という法螺話を知っておるか?」
「いや……」
どこかで聞いたようなことがあるような気がするが、しかしなんだかはわからなかった。首を傾げる愛生の服の裾を亜霧がちょいちょいと引っ張った。
「愛生くん、私それ知ってるよ」
「亜霧さん、わかるの?」
「うん。ラボラトリで今有名な都市伝説なの。私があげたあの雑誌に書いてあったでしょ?」
亜霧の説明する幻影人の話はこうだ。
ラボラトリの中で、不意に知り合いの〝ような〟人を見かけることがある。それは人混みに紛れて大通りを歩いていたり、逆に人通りの少ない路地にいたりと、場所は様々。話しかけようかどうか迷っている内に、あるいは一瞬目を離した隙にその人物はすぐに姿を消してしまう。運よく話すことができても、丸っきり別の人物で他人の空似だったというのだ。しかし、決まってその知り合いのような人物は、もうこの世にはいないはずの……死んだはずの人物なのだという。
この世にはいないはずの、目を離したすきに消えてしまう幻影のような人物。だから幻影人。
よくある怪談のようにも聞こえるが、それにしても妙だった。どんでん返しのオチがあるわけでもなく、ただもう会えないはずの誰かに似ている人を見かけるというだけの話。しかし、それが逆に真実味があるとして学生たちにはウケているようだった。
「クラスの子でも見かけたっていう人がいたりして……実は何かの能力者の仕業なんじゃないかとも言われてるのよ」
黙って亜霧の話を聞いていた鏑木がパチパチと適当な拍手を送る。
「さすが、若いもんはこの手の話題に詳しいのう。その通り、幻影人とは死んだはずの人間との再会。しかしそれは他人の空似だったという、面白くもない法螺話。だがのう、その法螺話の出所は儂ら《名もなき組織》なのじゃよ」
「……そういえば、あんたらの組織を表すの名前の一つに幻影団というのがあったな」
「儂らが名乗ったわけではないがのう。ま、その名前の由来が幻影人だというのは確かじゃ。幻影団と幻影人。この二つの幻影は同じものなのじゃよ」
同じ幻影。その意味がよくわからず、愛生は額に皺を寄せる。
「かっか。我王愛生よ、もう一度質問をするが、お前さんは儂がどうやって組織の人間を集めていると思っておる?」
愛生は嘆息をする。鏑木の試すような、それでいて楽しんでいるような問いに辟易としたのだ。もういい、と苛立ちを含んだ声で返す。
「いいから、重要なところだけを話せ。僕はあんたと会話がしたいわけじゃない」
「まあ、そうつれんことを言うでない。ほれ、ヒントはすぐ近くにあるぞ」
そう言って、老人は手にした杖で喜彰と照美を指した。
「あの二人もそう。そして、お主らを襲撃した者たちも、年齢的にはお主らと大差ない子供であったろう?」
愛生は喜彰と照美を視界の端で見やりながら、新泉のことを思いだす。確かにあの二人も新泉も、決して大人ではなかった。
超能力者。子供。それが指し示すこととはつまり……、
「組織の人間はみんなラボラトリの生徒ということか……?」
「現生徒というわけではないのだがのう」
言って、老人は唇の端を吊り上げる。
「管理会の一員ともなれば、子供一人死んだことにする程度、造作もないことよ。あとは顔と名前を変えてやれば、存在しないはずの幻影の人ができあがる」
そうですか、と千歳が口を開く。
「そういうことなら、幻影人の話があなたたちから生まれた噂だということも納得できます。いくら顔を変えようと、体格や身にまとう空気なんかはどうしようもありませんからね。しっかりと確認するならともかく、通りの中でふと目にした程度なら気づく者もいるでしょう」
つまり、
「あなたはラボラトリに住む学生たちを『死んだこと』にし、素性のない駒として部下を増やしているのですね」
「少し言い方に刺があるのう。勘違いしてもらっては困るのじゃが、儂は何も無理矢理に部下を増やしておるわけではない。今いる部下は全て自分の意志で儂のもとへ来た者たちじゃ」
千歳は疑いの眼差しを崩さない。それは愛生も同じだった。この老人が身にまとう雰囲気のせいもあるのかもしれない。にわかには信じられなかった。
「本当だ」
そう言ったのは、喜彰だ。
「俺たちは望んで、オヤジのもとへ来た。……現部下の証人だ。これ以上の証拠はないだろう?」
確かにそれはこの上ない証拠だった。一応は信じたのか、疑いの眼差しこそ和らげたが、依然として怪訝そうな表情で千歳は喜彰に質問した。
「どうして、わざわざ自分を殺すような真似をしてまで、鏑木流のもとへ? その結果、どんな仕事をやらされるのかをわかっていなかったわけではないのでしょう?」
「どうして、と聞かれれば当然金のためだ」
金。予想だにしなかった返答に愛生は驚いたが、千歳は想像していた通りなのか、たいした反応は見せなかった。
「あんたらも年齢的にそろそろ卒業のことも考えなくてはならないだろう。そうなれば、超能力者の就職状況についても知らないはずがない。現状、超能力者の働き口は限られている」
超能力者の子供たちは二十歳になればラボラトリから自由になり、卒業すれば当然就職することになる。しかし、超能力者差別の蔓延する外の世界ではまともな働き口がないのが現状だ。例え大手企業だろうと超能力者というだけで拒否される世の中なのだ。そうなると超能力者が働ける場所は結局ラボラトリ内に限られてしまう。そのラボラトリ内でさえも、能力によっては受け付けない場所があるのだ。
「この街では生まれ持った才能で全てが決められる。どれだけ努力しようと、この街の中で得をするのは一部の稀少能力者だけ。俺たちのようなフェーズも能力も中途半端な奴らはどれだけいい学校を出ようと行ける場所は限られている。……我王愛生、あんたなら俺らの気持ちを理解できるんじゃないか?」
「僕は……」
わからないと言えば嘘になる。超能力者でありながら、無能力者である愛生はこの街の理不尽なシステムに苦しめられてきた。そしてそれはこの先もずっと続くのだ。
「どうせ、先の見えた人生なら、一発当ててやろうと思ってもおかしくないだろう。名を捨て、自分を殺すことになるが、オヤジのもとにいれば先の見えた道から外れることができる。報酬も破格だ。金も溜まる。それなら、とそう思う奴は少なくないさ」
「それが、他人を傷つける仕事でもですか?」
千歳の問いを、喜彰は鼻で笑う。
「世の中の奴らがみんな善人だと思うなよ。自分のことしか考えてない奴なんかいっぱいいる。自分と、親しい誰かのことしか考えない奴はもっといる」
「なら、あなたはどちらなんですか?」
「前者に近い後者だよ。中途半端なんだ、俺は」
ピクリとも動かなかった顔に自嘲するかのようなぎこちない笑みを浮かべてみせる喜彰。その態度が気に入らないのか、千歳は露骨に不愉快そうな顔をする。
喜彰を一瞥した鏑木が軽く嘆息して言った。
「まあ、よいじゃろう。言い方に刺こそあるが、基本的にはお主らの言う通り《名もなき組織》とは儂のための私兵団じゃ。しかし、儂は最初からわざわざラボラトリの生徒を使おうとは思っておらんかった。いくら能力に長けていようと、所詮は素人。育成するには時間もかかるし、人殺しの重圧に直前になって逃げだす者もおる」
だから最初は違った。鏑木はそう言った。
「人工超能力者――――儂は最初、人工的に作られ、量産させられる超能力者によって、私兵団を作ろうと思っておったのだ。そのための研究を儂はずっと続けておった」
「また、随分醜悪な研究だな」
率直な感想だった。超能力者を兵力としか考えていないような鏑木の構想に愛生は反吐が出るような思いを感じた。無意識に視線を強くする愛生を見て、老人は笑っていた。
「ちょっと待ってよ。人工超能力者って、それはクローンみたいに、一から超能力者を作る研究ってこと? それとも、すでにいる軍人とかに能力を植え付けるための研究?」
「その両方じゃよ。ま、本命は前者だったがのう」
首を傾げる亜霧に鏑木が簡単に答えたが、彼女はますます不思議そうな顔だ。
「そんなの、余計に手間がかかるだけなんじゃないの? 要するに、人間が超能力を持って生まれる可能性を意図的にコントロールしようって研究でしょ? まともに戦えるようになるまで、少なくとも十年以上はかかるじゃない」
それは当然生まれると思われる疑問だった。亜霧の問いに答えを返したのは千歳だった。
「それがそうでもないのですよ。今の化学ならホルモンバランスなどをコントロールしてやれば、一年と立たずに成人した人間を作ることができます。それも母体内で真っ当に生まれる人間ではなく、クローンのようにフラスコの中で培養できる人間に超能力を発現させられれば大量生産も夢ではありません。おまけに与える情報をコントロールすることで、人を殺すことに躊躇いを覚えない理想的な駒を作り出すこともできます」
羅列される言葉の嫌な響きに亜霧は顔をしかめる。
「どちらにせよ、研究は失敗したのだがのう」
鏑木は昔の失敗を語るような、どこか場違いなはにかみを見せる。
「結局、超能力の発現を意図的にコントロールすることは不可能じゃった。早々に諦めて、今のやり方にシフトした。しかし、儂の研究を途中までで良いから買い取りたいと言うけったいな連中がおってのう。どうせ無理だとわかっておったので、快く売ってやったのだ」
「……どこのどいつだよ。そんな研究を引き継ぎたいなんて言ったのは」
「ラボラトリ第零研究所。六道の生まれ故郷であり、お主らがリナリアと呼ぶ幼子のおった場所だ」
リナリアのいた場所。その意味を理解すると同時に愛生は全身から汗が噴き出るのを感じた。無意識の内に反応している。
その場所はあの子がいた地獄だったのだ。
「ロシアに存在しながら、ラボラトリの名を介すその研究所は……我王愛生、お主ならわかるじゃろうが、かなり特殊な研究施設じゃった。そこでなら、という思いも少なからずあったんじゃがのう、結局研究は失敗した。しかし、その副産物は中々に面白く出来上がったのじゃ。――――それが六道。あの男じゃよ」
「副産物だって?」
「ああ。元々超能力者を意図的に作るための研究を応用した結果生まれたのが六道という男だ。意図せずに生まれてしまった副産物といったところじゃな。マルチスキル。複数の能力を持つと言う優秀な個体じゃが、あの施設の研究内容とはかすりもしていなかったので持て余しておったところを儂が引き取ったのだ。情報を提供したという繋がりもあったしのう。それが三年前のことだ」
愛生は鏑木に勘付かれない程度に驚いた。三年前というのは、六道の言っていた約束と時期を同じくしている。奴はリナリアと約束を交わして、すぐにあの子の前から姿を消したのだ。
「六道は六つの能力を持っておる。そのどれもが個々に独立した強力な超能力じゃ。あれを倒すのは、骨が折れるぞ」
「それだよ、鏑木。どうしてあいつは能力を複数持つことができるんだ。超能力は一人に一つが限界だと、散々言われてきた。二つの能力を持った人間でさえ、いないのに。何故あいつは六つも持つことができるんだ」
「……正直に答えるならば、わからないのじゃよ。言ったであろう、あの男は意図せずに生まれた副産物じゃ。わかっていないことの方が多い。そもそもあいつは普通の人間ではないからのう」
「普通の人間じゃない?」
「六道。あの男は人間同士のキメラなのじゃよ。合成生物。六人の超能力者を融合した果てに生まれた人間なのだ」
思わず愛生は息を呑む。その場にいた誰もが何も言えなかった。人間同士のキメラ。合成生物。あまりにも現実離れした言葉に思考が追い付かない。いや、それよりも頭が理解することを拒否しているかのようだった。
それでもわからなければならないと、愛生は思った。これはきっと、六道という男のルーツなのだから。
人間の合成。つまり、一人分の器に複数の超能力者を押し込めば、複数の能力を得られると言うことなのか……。
愛生はそう考えたが、しかしその考えを鏑木は否定する。
「そう簡単にいく話でもないのじゃよ。あやつは本当に、偶発的に生まれた存在だからのう。六道誕生の真似をして、何度か同じように人間の合成を行ったようだが、どれも超能力はおろかまともな〝生物〟としても不完全じゃった。そもそも元の六人がそれぞれ持っていた能力と六道が持っている能力は全くの別物なのじゃよ。記憶を引き継いでいるわけでもなし、元の六人の存在自体六道の中には殆ど見られない。六人の人間を合成した結果、別人ができあがったと考えるのが自然かのう」
六道の中に、元の六人の要素はない。六人の人間の融合の果てに生まれた別人格。偶然生まれてしまったがために、希少価値はあろうと誰もがその存在を持て余し、世界から不必要とされた男。
あの黒尽くめの不吉な男の姿が目に浮かんだ。
「同情か?」
鏑木が嫌らしい笑みを浮かべて愛生に言った。愛生はそれにまともに取り合わずに無視した。実際、鏑木の指摘は的外れだった。愛生は何も六道に同情したわけではない。ただ、似ていると思ったのだ。
六道と僕は、きっと似ている。
何も言わず、その顔に表情を出そうとしない愛生を見て、老人は少しだけ面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「六道を儂のもとへ引き取ってからは、あやつは《名もなき組織》の一員として働いていた。独学で戦い方を学び、見る見る内に強くなった。そして気づけば組織の中でも一目置かれる存在、リーダーのような立ち位置になっておった」
「俺はいけ好かない男だと思っていたがな」
ボソリ、と嫌みな台詞を呟いた喜彰。鏑木は彼に睨みをきかせながら続ける。
「だが、それもこれも全て今回のためだったのだろう。地位と信頼はある程度の自由のため、手にした金と自由はあの幼子を殺すための研究に使っていたようじゃ。儂は六道という男の中にある異様なまでの執着を見抜けなかった。衰えたものじゃのう。泣きたくなるわい」
冗談のような口調で鏑木は言った。
この男にはきっと、流す涙なんてないのだろうなと愛生は思う。土山含鉄とも狩場重正とも違うが、鏑木流もまた愛生にとっては人外の類いだった。
同じ人間だとは思えなかった。
「とりあえず、これで六道についてはもう話すことはない。あやつという人間についてはこれ以上儂の口から語っても無意味じゃろうて。それに、そんなことは知っていようと意味はない。お主らもあの男を倒して幼子を回収できればそれでよいのであろう?」
「……最終的にはな。だけど、待てよ鏑木。まだ肝心の六道の居場所やその能力、そして組織の中からあいつに寝返った奴らの情報を聞いていない。僕らの本題はそこだろう」
もっとも重要な情報はそれなのだ。六道がどこにいるのかがわからなければ、リナリアのもとへ行くこともできない。愛生の覚悟も、みんなの気持ちも無駄になってしまう。
「わかっておる。だが、それについては口で語るよりもデータで渡した方がよいだろうと思ってな。丁度儂の手元にもデータ媒体であったことだしのう」
鏑木は懐からメモリを取り出す。赤い色をしたそいつを愛生に向けて差し出す。警戒しながらも愛生は鏑木に近づくと、恐る恐るそのメモリを手にした。鏑木は呆れたように嘆息する。
「別に、取って食おうというわけではないわい。そこまで警戒するでない」
「信用していないだけだ」
冷たく言い放ってから愛生はデータの入ったメモリを千歳に渡す。こういったものの確認は自分よりも彼女の方が確実で早い。千歳はそのメモリを受け取ると、早速自分の携帯端末を取り出しスティック状のそれを接続。何度かボタンを操作すると、一分ほどでメモリを抜き取って携帯を閉じる。
どうだった、と愛生が尋ねると千歳は眼鏡を上げ直しながら答えた。
「誤字が三か所ありましたが、情報自体に矛盾や不可解な点はありませんでした。ある程度信憑性は期待できると思います」
事務的に発せられた千歳の報告を聞いた鏑木が「ほう……」と感嘆の声をあげた。
「あの短時間でそこまで……ただの特技であるまい。超能力の類いじゃな?」
千歳は鏑木の発言に反応を示さなかった。簡単に能力を教えるつもりはないのだろう。現状、彼女の超能力は愛生たち側の切り札であるとわかっているのだ。
「六道はどこにいるんだ?」
話を逸らすように、愛生が質問する。
「……ラボラトリ北東。現在、大規模な開発工事の行われている第23区域です。そこの建造物の一つに臨時の研究施設があって、六道はそこにリナリアちゃんを連れ込んでいるようです」
告げられた情報を愛生は吟味する。千歳の索敵でも見つけることができなかったのも六道が開発途中の区域にいたというのなら頷ける。きっと千歳は人の密集した地域を探していたはずだ。木を隠すなら森の中というように、六道は簡単に事を起こすこともできないような人口密集地にいるのだと、愛生もそう予想していた。
「わざわざ、人の少ない区域にいるのはどうしてなんだ……」
口に出した疑問に鏑木が答える。
「どうやら幼子の殺害にはそれなりに規模のある設備が必要ならしくての、六道はそれらの設備を秘密裏にそこに集めておったようじゃ。ま、詳細については儂にもわからんがの」
「人の密集した地域では隠せないほどの設備なのか」
そうだとすればこちらとしても好都合だ。人が少ないというのなら、多少の荒事も行えるし、特殊な設備が必要だというのならひとまずそれを破壊することさえできればリナリアの殺害は止められる。
とにもかくにもこれで、やるべきことも行くべきところも決まったのだ。
「これで、交渉は終了だな。そうだろう、鏑木」
「そうじゃのう。話すことも話した。あとはお主らが六道を止めてくれるのを待つだけじゃ」
「なら、さっさと人質を返して帰ってくれ」
いくら晶子が肝の据わった女性であろうと、これ以上人質でいることは辛いだろう。何より、愛生や八九郎がいつ爆発しないとも限らない。
「さあ、早くしてくれ」
催促する愛生。苛立ちを含んだ声は確かに鏑木に届いているはずだ。しかし、老人は嫌らしい笑みのままわざとらしく悩むような素振りを見せたかと思うと、
「いや、やめておこうかの」
と、そう言ったのだ。
「何を、言ってんだてめぇは!」
八九郎が耐え切れないと言わんばかりに怒声を上げる。そんなラボラトリ最強を前に鏑木は全く物怖じすることもなく言い放った。
「やはり、最後の人質は最後までとっておくことにするかのう。お主らが六道から尻尾を巻いて逃げ出さないとも限らない」
「そんなことを僕らがすると思うのか!? 僕が決してリナリアを諦めないと知っていて、お前はここに来たんじゃないのか!?」
「それはそうだったんだがのう。もしもというのがある。それに、お互い信頼するような関係でもあるまいて」
これくらいが丁度よいと、老人は黄ばんだ歯を見せて笑った。
畜生、この男は……!
愛生は湧き上がる怒りを隠すことなく表情に見せる。鏑木はきっと最初からこうするつもりだったのだと、わかってしまったのだ。まともな交渉も、対等な関係も、最初からこの男は眼中にない。常に自分に有利な状況を作ることだけを考えていたのだ。
勿論、ここまで来て六道から逃げ出す気は愛生には全くない。晶子が人質に捕られていようといまいと、愛生は六道を相手に正面から戦うつもりだ。だから、その結果だけを見るのなら晶子の人質は愛生にとっては意味のないものだ。しかし八九郎にとってはそうではない。彼にしてみれば自分を救ってくれた恩人の、誰よりも慕う人の命を握られているのだ。とてもじゃないがそれで普通でいられるはずがない。六道と戦うためにはきっと八九郎の力が必要不可欠になるはず。その時、晶子が人質であるがために八九郎が本来の実力を発揮できなかったとしたら……。
そうでなくとも、すでに鏑木は何度も愛生たちを悪意を持って出し抜いている。この男の手の内に晶子を置いておくことを容認できるはずがない。
「安心せい。お主らが六道と戦えば、その勝敗に限らず女は解放してやろう。利用価値もなさそうだしの」
そんなこと、信じられるはずがなかった。
どうすればいい……。
様々な選択肢が頭を埋め尽くす。しかしそのどれもが現実的ではない。どうにかして晶子を解放させる術はないのか。焦る思考で考える。すると、視界の端に八九郎の姿を愛生は見た。八九郎は額に汗をかき、棒立ちの状態で固まっていた。
「なあ、愛生。俺は、どうしたらいい…………」
絞り出すような声は八九郎のもの。暴れそうになる自分を必死で抑えつけているのが痛いほどにわかった。わかってしまった。
考えてみれば、かつて八九郎が冷静さを欠いたあの事件も晶子を守るためだった。
「……ごめんなさい」
愛生は謝ることしかできなかった。
どうにかしなくては。晶子のためにも、八九郎のためにも、これ以上鏑木の好きにさせるわけにはいかない。何より今の愛生たちの倒すべき敵は六道であり、鏑木は違う。
こいつは漁夫の利を狙う卑しきハイエナだ。倒すべき獲物は他にいる。
ここで止まっている訳にはいかない。そんな思いが更なる焦燥を生み、愛生の脳内は簡単に悪循環に陥る。
その時だった。空気を割るようなけたたましい音が流れたのは。
「けい、たい……?」
それは愛生の携帯の着信音。ソファの上に放っておかれた携帯から流れた、なんの設定も変更していない初期設定のままの音。ぴぴぴぴ、という無愛想な機械音が部屋に響く。
「……構わん。携帯くらい出るがよいじゃろう」
どうすればいいのかわからず固まっていた愛生に鏑木が言う。そして鏑木の指示で人質がいるせいで動けない愛生に代わって照美が携帯を手にする。彼女はとてとてと愛生のもとへやってくると両手で持ったそれを愛生へ差し出した。警戒も何もあったもんじゃない。そのまま照美を人質にとることも考えたが、状況が泥沼化するだけなのは目に見えていた。第一、彼女の能力ならすぐに拘束を振りほどくことができてしまうだろう。その考えは破棄して、愛生はとりあえず携帯を手にした。表示画面には知らない番号。何も考えずに、出てみる。
『愛生か、私だ。帝だ』
聞こえてきたのは予想だにしなかった人物の声。自信と威厳を含んだその声に愛生の精神はすぐに姿勢を正した。しかし驚愕も大きく、思考こそ手放さなかったものの何も言えずにいる愛生。返事などなくても、帝は全く構うことなく短く言い放った。
『五秒でそちらに着く。なんとかしろ』
それだけ言って、通話は切られた。
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そして、それは飛来した。
最初に聞こえたのは轟音。ベランダ側の窓が窓枠ごと粉々に粉砕される音。降り注ぐのは破砕音の暴力と飛散するガラスの破片。しかし不思議なことに鋭利な破片はその場にいる誰にも当たることはなく人と人の間をすり抜けて地面や壁へと突き刺さる。一瞬遅れて『ぱぁん!』というはじけるような音。拳銃やライフルの銃声に似た空気の爆ぜる音。それが連続して三回。その音を知覚すると同時に愛生は動いた。それとほぼ時を同じくして部屋中に嵐のごとき暴風が吹き荒れる。それが来ることが最初からわかっていた愛生は暴風に負けることなく行動できた。だが、他の人物はそうではない。喜彰が暴風の衝撃に体勢を崩した隙に愛生は晶子を奪還。喜彰から距離を取る。だが、人質を奪われたことを知った喜彰が手にした鎌を愛生へ投げつける。しかし吹き荒れる風のせいもあり、鎌はまるで見当違いの方向へ飛んでいく。
切り抜けた。そう思った瞬間。愛生は自分の影から人影が飛び出すのを見た。照美だ。ガラスの飛来に驚いて愛生の影に引っ込んでいたのだろう。両手に鎌を持って愛生へと襲い掛かる。が、今更そんな手が愛生に通じるはずもない。晶子の肩を抱いているせいで動きに制限はあったものの、冷静に振り下ろされる攻撃を左の義手で受け止める。そしてがら空きになった照美の腹部に蹴りを放ち無理矢理距離をあけた。
そして愛生の蹴りを放ったタイミングで風の音に紛れて本物の拳銃の音が響く。鏑木だ。喜彰と照美との一連の攻防の最中、愛生は鏑木が懐から拳銃を取り出すのを見ていた。だが、愛生は向けられた銃口から外れようとも弾丸を避けようともしなかった。何故なら、愛生は鏑木が拳銃を取り出したのに反応する八九郎も視界の隅に確認していたからだ。
弾丸は愛生まで届かない。鏑木と愛生の間の射線に入った八九郎の腹部にそれは当たると、甲高い音と共に跳弾する。鏑木が射撃が防がれたことに気づくとすぐに銃口を愛生でも八九郎でもなく別の亜霧か、千歳の方へ向けようとしたが、それよりも早く八九郎が鏑木の目の前までたった一歩で近づくと手のひらで銃口を包むように握りつぶした。ぐにゃりと、歪な形に歪んだ拳銃は八九郎の熱を受けて赤く色を変え、鏑木の手にその高熱を伝えた。短い悲鳴と共に鏑木は歪んだ拳銃を取り落とす。それが床を叩く音を最後に暴風は止み、事態は終わりを告げた。
誰もがその後に動きを見せることはなかった。その場にいた全員が『彼女』を見ていたからだ。
「さてと……」
少しだけ乱れた帽子を直しながら、不敵な笑みを見せるのは《世界最強》我王帝、その人だった。
+
「あのテレポーターの真似をしてテレポートでもしてみようかと思ったのだが、さすがに『もの凄く速く動く』だけじゃテレポートはできなかったなぁ。頑張って残像さえ見えないほど速く動いたんだが、見えないからって壁はすり抜けられないようだ。この王はまた一つ賢くなったぞ」
いきなりぶっ飛んだことを口走りながら、帝はぐるりと部屋の中を見渡して満足そうにしながら愛生に向かってほほ笑んだ。
「全員、助けられたみたいだな。ご苦労」
現在の部屋の状態は散々だった。窓は窓枠ごと粉々に砕けて全て部屋の中に四散し、カーテンはぼろぼろ家具は滅茶苦茶、無事なのは帝のソファくらいだった。そしてそんな部屋の中にいるのは愛生、千歳、八九郎、亜霧、鋤崎、晶子。鏑木流と喜彰と照美。最後に先程『飛来』した帝の計十人。別の部屋で倒れている宝守も加えれば十一人。
その中に、人質はいない。
先程まで捕らえられていた晶子も帝の飛来の衝撃と共に救出した。そして鏑木の目の前に《世界最強》が立っているこの状況は決して、あの老人が望んだ状況ではないはずだ。
現状、優勢なのは明らかに愛生たちであり、鏑木たちの生殺与奪の権利はこちらにあるといっていい。
命を握られている。そんな状況でなお、鏑木はその卑しい笑みを失くしたりはしなかった。若干、無理をしているようにも見えるが、その態度が崩れることはない。
「……我王帝。王様気取りの娘っ子が、よくも儂の邪魔をしてくれたな」
「気取りではない。私こそ真の王だ。……それに私は窓から入ってきただけで、貴様の邪魔をしたのは私の可愛い息子だ。貴様の手から見事仲間を奪い返して見せたのは、私の可愛い可愛い愛生の手柄だ」
そう言いながら、帝は鏑木と真っ直ぐに対峙して、彼女にしては本当に珍しく心底嫌そうな顔をした。
「変わらないな、流。子供相手に嘘と人質で自分に有利に事を運ぼうなど……いつまでたっても貴様は卑しい男のままだ」
「かっかっか。ただ強いだけの娘が何を語る。それとも、昔儂に騙されたことへのあてつけか?」
「昔じゃあ、ない」
帝が鏑木から視線を逸らす。
「今もだよ、流。私は今でも貴様に裏切られている」
それはまるで、これ以上は見たくもないと言っているようで……とても愛生の知る我王帝の行動とは思えなかった。
古い、知り合いなのか……?
会話から判断するにそうらしい。鏑木流はラボラトリを牛耳る管理会の人間だ。それでなくても彼は能力学の世界では有名な人物。帝と過去何かしら接点を持っていたとしてもおかしくはない。その結果、そこに決別があったとしてもだ。
「さて、どうするんだ流。私の可愛い可愛い可愛い愛生が貴様の人質を奪い返して見せたが、現状貴様が圧倒的に不利なのはわかっているのだろう? 貴様はこれから、どうするんだ」
「どうする、か……はてどうしたもんかのう」
鏑木は肩をすくめる。
「しかし何か、勘違いしておらんか? 娘よ、お主は最強であっても無敗ではない。お主にも弱点というものがある。儂が思うに、今ここでお主自ら儂らを始末することはできんのじゃろう? そうでなければ、わざわざ我王愛生に任せずにお主一人で人質を救って同時に儂らまで無効化してみせたであろう」
やってしまえ、と鏑木は言った。
「喜彰、照美。お主らなら、裏方八九郎に勝てることは無くとも、もう一度人質を取り戻すことは可能じゃろうて」
だが、喜彰も照美も動かない。まるで二人は何かに恐れをなしたかのように震えたまま動こうとしないのだ。変化の少ない喜彰の顔が見事なまでの驚愕で歪み、眼の焦点もあっていないようだった。
「どうしたのじゃ、二人とも」
二人の異変を感じ取った鏑木が少し焦ったような口調で尋ねる。
「どうしたもこうしたもありませんよ。オヤジ、俺たちはこんなの聞いてないぜ……」
「なんじゃ、一体どうしたというんじゃ」
喜彰は右手で自分の目の辺りをさするようにしてみせてから言った。
「目が、見えていないんだ。今、俺は視界を奪われている」
鏑木が喜彰の言う事実に驚くのと同時に、照美が何かを怖がる動物のように「うぅうううううううう」と低い呻き声をあげた。
「ううううあああああああ! 喜彰、喜彰ぇ! 見えない、見えないよ!」
片方の手で眼を押さえながら、手にした鎌を滅茶苦茶に振り回す照美。それはまるで自分よりも体の大きな敵に遭遇した子犬のような、こっちに来るなと必死で訴えるような行動だった。
「落ち着け、とにかく動くんじゃねぇ!」
声だけでも照美の行動が予測できたのか、喜彰は怒声を上げて彼女を制止させる。照美はまだ、興奮した様子だったが一応は大人しく喜彰の言う通りに動きを止めた。
「……《スタンドアローン》」
一瞬の静寂が訪れた空間の中で声を作ったのは千歳だった。彼女は黙ったまま喜彰と照美を見つめる鏑木に向かう。
「超能力を、使わせてもらいました。すでにあの二人は私の力によって無力化されています」
「五月女学園の《スタンドアローン》か……!」
呟く鏑木の声は驚きというよりも感嘆を多く含んでいた。千歳は鏑木から視線を外し照美の方を向いた。
「ああやって、視界を奪われたことで対象が暴れ、人質が傷つく可能性があったので使えませんでしたが……その心配がなくなった今、出し惜しみする必要はないでしょう」
桜庭千歳の超能力。帝や八九郎のような強さはないが、制圧力ならばラボラトリ一位とまで言われている超能力。能力学に通ずる鏑木が知らないはずはない。ラボラトリに住む生徒ならば一度は耳にしたことのある能力のはずだ。ただ、不用意に目立つことなくそつなく日常をこなす千歳の性格もあって、その超能力の凄さだけが独り歩きをして肝心の能力を扱う人間の方はあまり語られることはない。フェーズ6の身でありながら劣性形質が見られないというのもあるのだろう。能力は有名でも、能力者の千歳はまるで有名ではない。
だからこそ、鏑木は今の今まで気づくことができなかった。だが、鏑木は落胆するわけでも、悔しがるわけでもなく、ただ本当に感動したかのように手を叩いた。
「我王愛生。つくづくお主の周りには良い人材が集まる。《スタンドアローン》までも身内に引き込んでおったとは。こやつがいれば娘っ子がここの現状を把握しておったのも頷ける。スタンドアローンよ、どうじゃお主、儂のもとで働くつもりはないかの?」
「あるわけないじゃないですか。冗談もここまでくると不愉快です。それ以上無駄口を叩くのであれば、あなただって無事では済みませんよ」
「冗談では、なかったんじゃがのう」
寂しげに言うと、鏑木は最初に話を始めた時のように杖で二回床を叩いた。
「よかろう。ここまでされてしまえば万事休す。万策尽きたりじゃわい。もう儂には何も手はない。煮るなり焼くなり好きにするがよい」
「……随分と物わかりがいいな」
お手上げだという風に手を揚げた鏑木に愛生は噛みついた。
「さすがの儂も裏方八九郎以外にあの二人を無力化できる能力者がいるとは思わなんだ。あの二人は、儂の組織の中でも優秀なコンビじゃからのう。それが封じられたとなれば、物わかりもよくなるわい。それとも我王愛生よ。お主は儂にこう言って欲しいのか? 『お願いだから命だけは助けてください』と、この儂に不様に頭を下げて欲しいのかの」
万策尽きたといいながら、鏑木は一向にその不肖な態度を改めることはない。むしろこちらを試すかのように、卑しい笑みを止めようとはしなかった。
さあ、どうする。お主は儂を殺すのか?
そう、問われているような気さえした。
「もういい」
愛生は突き放すように言った。
「聞くべき情報は聞いた。もう、お前の顔は見たくない。お前の声も、存在も、ここにいられるだけでも不愉快だ。さっさと出て行け……!」
強い怒気を込めた言葉だった。愛生の今までで一番強い鈍器のような瞳に睨まれて、鏑木は一瞬その表情から余裕を失う。世界最強の存在よりも、自分の視線の方が怖がられているというのは愛生にしてみればおかしな話だったが、案外むき出しの敵意や殺意というやつは無条件で人を恐怖させるものなのかもしれない。
「殺しはせんのか……結構なことをしたと思うのじゃが、儂のことを許してくれるのかのう」
それでもまだ鏑木は己が優位に立つことを諦めないのか、馬鹿にした挑発する口調で愛生に尋ねる。愛生は激昂しそうになる自分を抑えて言った。
「お前に殺す価値なんてない」
それはきっと、ここにいる全員が思っていることだろう。この卑しい老人に殺す価値なんてない。戯言を垂れ、策を弄し、ただひたすらに自分の利益だけを追求し、超能力者を兵器のようにしか見ていないこの男には殴る価値すらない。
土屋含鉄には止めなくてはならない理由があったし、狩場重正には殺したくなるほどの悪意を感じた。
だが、鏑木流にはそれがない。この男はただ、醜悪なだけだ。
それは先程の愛生の言葉の通り、ここにいられるだけで不愉快な男なのだ。
「そうかそうか、確かにこの老いぼれに殺す価値などないじゃろうて。放っておいても、そのうちくたばるわい」
笑いながらそう言って、直後鏑木はわざとらしく何かを思い出しかのような仕種を見せた。
「そういえば、これは別に見逃してもらった礼というわけでもないのじゃがのう。六道はどうやら運び屋を雇ったらしいぞ。それも超能力者の護衛付きじゃ」
「運び屋? 一体、何を運ばせているんだ」
「おおよそ、見当はついておる。なんでも、幼子の殺害に必要不可欠な、最も核となる物のようで、随分と大事に保管しておったようじゃ。自分で運び出さなかったのは儂らに対する牽制や撹乱の意図もあるのかもしれんのう……」
最も核となる物。リナリアを殺すための施設に必要不可欠なものだということなのだろうか。
「なんにせよ、そんな今更出された情報を信じられるか」
例えそれが本当だっとしても、六道本人を押さえてしまえばそれで済む話だ。その荷物も、最終的には六道のもとへくるはずなのだから。
「信じなくともよい。そちらについては、喜彰と照美に襲撃を任せてある」
「なんだと?」
「もし、お主らが六道に負けて、そして儂らが襲撃を行う前に幼子が殺されてしまったら目も当てられん。とりあえず荷物を叩いておけば、時間稼ぎくらいにはなるじゃろうからな。保険じゃよ、もしもの時のな」
だからその二人を放してやってくれ、と鏑木は頭を下げた。その光景はなんだか、人でないものがお辞儀をするような、変な違和感があった。
「どうしますか、愛生」
千歳が愛生の耳元で囁くように判断を仰いだ。
正直、愛生としては鏑木と同じように喜彰と照美のことも信用はしていないし恨みさえもあるくらいなのだが。しかしここでこれ以上話をややこしくもしたくなかった。はなから愛生らと鏑木は協力関係というわけではないのだ。ただ、彼らは彼らで手を打つ。それだけのこと。
「わかった。だけど、お前が行ってからだ、鏑木。あんたがちゃんと、このマンションを離れてから、二人は解放する」
「すまんのう」
そして鏑木は席を立つ。実に老人らしい杖を突きながらのゆっくりとした足取りでリビングを出て玄関へ。もうこれ以上何かをするとは思えないが、一応最後に出て行くのを確認しようと愛生も鏑木と一緒に玄関へ。見送るような形になってしまうのが癪だったので、決して鏑木とは目を合わせず、体も正面を向けることはなかった。
扉を開けて、出て行く直前に鏑木は愛生に向けて言い放った。
「あの幼子、きちんと助けられるといいのう」
そんな皮肉にさえなりきれないような台詞を最後に鏑木は姿を消した。
最後まで、醜悪な男だ。
愛生は小さく呟きながら、近くの壁に怒りのままに拳を叩きつけた。