その理想は誰のものなのか
愛生の言った内容に誰もが口を開いたが、しかしまともな言葉はでてこない。開いた口からはただ驚愕を示すような短い吐息が漏れるだけだった。
「何を、言っているんですか?」
最初に言葉を作ったのは千歳だった。彼女は驚きと、若干の怒りのようなものを感じさせる表情で愛生に問いかける。
「愛生。一体、何を言っているんですか?」
長い付き合いだ。きっと千歳は僕の考えていることがなんとなくわかったのだろう、と愛生は思った。だから、彼女は苛立っているのだ。弱気な愛生を叱咤するように強い語調で三度目の問いを投げる。
「あなたは何を言っているんです!?」
愛生は俯いていた。まともに視線を上げることが出来なかった。それは自分に対する自信のなさからくるものなのか。それとも、今の自分の行動がみんなに対する裏切りのように思っているからかもしれない。
全員に対する背徳。
それでも、言わなくてはならない。それはきっと、あの子が望んだことでもあるのだから。
「リナリアは助けを求めていない」
短く呟いた。千歳はそれに対して、殆ど反射的に反論した。
それは違う。
「そんなことはないはずです!」
そんな風に、当然のように断言できてしまう千歳に愛生は静かな怒りを覚える。ほんの少し前までの自分がそうだったからだ。
リナリアは助けを求めている。
辛い過去から遠ざかり、幸せを求めている。
そんなことをどうして盲目的に信じることができるのだろう。盲目的に、当たり前に信じていた自分がいたことが、今の愛生には嘘のように思えるのだ。
リナリアは一度だって『助けて』なんて言わなかったのに。
「そもそもどうして、六道はこの部屋に侵入することができたと思う?」
千歳に対してだけではない。驚いたまま、何も言えずにいる全員に向けて愛生は言う。
「ここは帝さんが安全だって言った場所だ。ここなら、敵は絶対にこないと、そう言っていた場所だ。それなのにどうして、六道はここに入ってこられたと思ってるんだ?」
答えは簡単だ。
「あの時、部屋にはリナリア以外に誰もいなかった。……リナリアにとって、六道は敵じゃなかった。リナリアは自分から、六道をこの部屋に招き入れたんだ。それが証拠だよ。リナリアは助けなんか求めていない」
「それは早計です! あの子はまだ子供です。騙されているという可能性だって……!」
「リナリアは僕の目の前で死にたいって言ったんだ!」
無意識に声が大きくなった。体が震えている、怒りか、恐怖か、それ以外の別の感情のせいなのかわからない。ただ視線の先、焦点が定まらないことだけは理解できていた。
「ごめんね、って……そう言ったんだ」
その言葉は確かな拒絶だったのだ。
六道の目的がリナリアを殺すことで、それをリナリアが受け入れたのだ。
リナリアは死にたがっている。
それが示す答えは、それだけだ。
「どうして……」
そう言ったのは亜霧だった。何故か彼女は悲しそうな表情をして、どうしてなのだと呟いた。
「どうしてリナリアちゃんは、死にたがっているの?」
「……リナリアはずっと、研究所にいたんだよ。それも、日本にあるものじゃない。誰の目にも届かないような。そんな場所にあの子はずっといたんだ」
リナリアは不死身だ。殺しても死なない。不死身の超能力者。
「そんな子供が、死なない超能力者が一体どれだけ便利な実験体として扱われるのか……それくらい。わかるだろう」
この街に住む超能力者ならわかるはずだ。世間から虐げられ、ここにしか居場所のない超能力者なら知っているはずなのだ。
時に人間が、どれほど僕らに残酷になるのかを。
痛いほどに、知っているはずだ。
「…………取り消してください」
千歳が低い声で言った。とても怖い顔をしていると、愛生は思った。
「実験体なんて、それはあなたが絶対に言ってはいけないことです」
「……僕一人が黙っていても、現実は変わらない」
あの子がいた現実は変わらない。あの地獄のような光景は、地獄そのものは、決してなかったことにはならない。
どれだけの幸せを積もうと、過去の苦しみはなくならない。
帳消しになんて、できやしない。
リナリアが苦しんでいる時に、笑っていた僕は決していなくなったりはしないんだ。
「六道は言っていたよ。約束だって。僕とリナリアが出会うよりも、ずっと前からの約束だと」
帝に助けられた時も、自分と一緒にいた時も、リナリアはずっと死にたがっていた。
伸ばされた救いの手を掴んだのも、ともに寄り添ったのも、全ては『六道が自分を殺してくれる』という終わりがあったからのことだ。
どうでもよかったのかもしれない。リナリアは最初から何もかもどうでもよくて、辛いこと、悲しいこと、嫌なこと、全てを忘れさせてくれる『死』だけを望んでいた。
あの子は幸せすら、望んでいなかった。
「リナリアにとっては、死ぬことこそが救いなんだ。助けなんか望んでいない。だったらもうどうしようもないじゃないか」
何もできない。何かしたところで、それはリナリアの願いを踏みにじる結果にしかならない。
だから、
「だから僕はリナリアを助けない」
繰り返される言葉は静かな部屋の中で嫌なほどに響いた。
「ふざけないでください!」
静寂を破り、千歳が声を荒げた。
「死にたがっているからって、助けを求めていないからって、それでリナリアちゃんの命を諦めてしまっていいんですか!? 死にたがっている女の子を前にして『はいそうですね』とだけ言って放っておくなんて……それが、愛生の選択なんですか!?」
「そうだよ。これが、僕の選択だ」
千歳が強く拳を握りしめたのがわかった。彼女の目に、体に、必要以上に力が込められる。湧き上がる怒りをどう処理していいかわからず、物理的な力となって現れたのだ。それだけでは飽き足らず、いつもは冷静な彼女が見たこともないほど声を大きくして愛生を怒鳴りつける。
「あの子はただ、世界に絶望しているだけなんじゃないんですか? それを私たちでどうにかしてあげれば、それで済む話じゃないですか!」
「済まないよ。何をしたところで、過去はなかったことにはならない。痛かったことは、痛かったままなんだ」
愛生は自然と右腕で左手を抱えるように持った。
「これから、何が起ころうと僕の左腕は元には戻らない。失くしたものは戻らない」
それは愛生だけが知っていることではなかった。両親を亡くした八九郎。偽りを演じ、いつのまにか自分自身を失くしてしまった亜霧。二人だけじゃない。きっと、誰もが知っている。亡くなって、失ったものは戻らない。愛生の左腕や八九郎の両親は勿論、亜霧もだ。自分自身は取り戻せても、偽っていた過去は変わらない。現に彼女は未だに愛生以外には《委員長》としてでしか接していない。
リナリアも同じだろう。あの子は失くしてしまったのだ。決してもとには戻らないものを。愛生には考えられないほどたくさんのものを。失くして、戻らなくなってしまった。
「もう遅かったんだ。リナリアが傷ついて、辛くて苦しくて、痛くなってしまった時点で、全部終わってたんだよ。終わっていたことだったんだ。あいつの中で既に答えは出ていて……僕らといる時間だって、結局はその答えにたどり着くまでの道程でしかなかったんだ」
何もかも、終わった問題だった。
「僕らはただ、あいつの『死ぬ』までの暇つぶしに付き合わされていただけなんだよ」
全て決まっていた。リナリアの中では『死』という最期はずっと前から決めていたことだった。それを自覚しながら、救いの手を取った。誰かと一緒にいて、楽しそうに笑った。幸せだと言った。確かにあの子は幸せだったのだろう。
だけど、それでも死にたいという彼女の気持ちを愛生は理解することはできなかった。
「理解はできない。それでも、あいつの気持ちは尊重してあげるべきだと思う」
だから僕はリナリアを助けない。助けを求めない彼女を助けない。死を望む彼女を見殺しにしよう。
それがきっと、一番いいことなのだと愛生は思う。そう、思い込もうとした。
「愛生は、リナリアちゃんを見捨てるんですか? 本当にそんなことができるんですか?」
千歳の質問に妙な違和感を覚えながらも、愛生は簡潔に答えた。
「できるよ、簡単だ。僕らは何もしなくていい」
「そうじゃありません! あなたにそれができるのですか? 黙って、あの子が死ぬのを待っていることができるのですか?」
「何が……言いたいんだよ」
「それでいいんですかと言っているんです! 愛生はリナリアちゃんが死んでしまってもいいんですか!?」
無意識だった。それでいいのかと、問う千歳の言葉と同時に愛生は自分の胸に手を当てる。すると、ちくりとした痛みを感じた。それは胸の内からくる、罪悪感に似たものだった。
「いいわけない。でもそれは僕の願いだ。リナリアの願いじゃない」
「だったら尚更、助けないと……! そうじゃないと、あなたが壊れてしまう。リナリアちゃんを見捨てた後に愛生が笑えると私は思えないんです。このままでは、リナリアちゃんと一緒に、愛生まで失ってしまう。そんなの、私が耐えられません」
自分が壊れてしまう。そう言われて、愛生は少しだけ驚いた。さっきまで愛生は自分のことを考えもしなかったのだ。だが、考えたところで結果は変わらない。リナリアがその命を失わせるのと同じで、愛生もまた決してもとには戻らない何かを失うのだ。リナリアを見殺しにすることで、大切な何かを手放す。
「僕が傷つくのは僕の責任だ、僕の選択なんだ。千歳が気にすることじゃない」
「無関心で、いられるとでも?」
「思っていないよ。でも、耐えてくれ」
愛生の一言に千歳は激昂した。わかりやすいほどに表情を歪ませ、愛生に詰め寄ると、その胸倉を力任せに掴んだ。千歳の、女の子の力だ。どれだけめいっぱいに力んでもたかが知れている。払おうと思えば払えた。だけど、愛生はそうせずに、抵抗すらもしないで黙っていた。
明らかに冷静ではない千歳を心配してか、八九郎が落ち着けと制止に入る。だが、千歳は話を聞かなかった。
「私は冷静です! 黙っていください!」
突き放すように言うと、再び千歳は愛生の胸倉を掴む腕に力を入れた。瞳は愛生を非難する色だ。
「それがあなたの選択ですか!? リナリアちゃんを見殺しにして、自分を傷つけて……その結果、私だって、みんなだって傷つくんですよ? あなたがやっていることはみんなで一緒に傷つこうという最悪の選択肢だ!」
「なら、リナリアを助けに行けばいいのか!? その結果、あの子が傷つくことになってもか!?」
思い出すのは狩場重正との対話。リナリアは自分のために傷ついていると言われた時のこと。
「それは僕たちが受けるはずの痛みを、リナリアに押し付けているだけだ……。僕は、僕のエゴであの子を傷つけたくはない」
「ですが……」
「大体、今回助けられたとしても、次はどうするんだ? また、同じようなことが起きるぞ。世界中が、あいつの存在を狙っている」
罪を背負えと、罰を受けろと世界が迫る。
「それは一生続く責め苦だよ。あいつが生きている限り、ずっと終わらない苦行だ。世界から逃げるだけの人生だって言うのなら……ただ、傷を増やすだけの人生なら――――死んだ方がマシだ」
殺してあげた方がいい。
力なく呟く。すると、愛生の胸倉を掴んでいた千歳の手から力が抜けた。脱力したように、あるいは失望したかのように、力の抜けた両腕をだらりと下げて千歳は表情を隠すように俯いて言った。
「違う。そんなのは、愛生の言葉じゃない……」
「僕のじゃ、ない?」
千歳の言う意味がわからず、愛生は問い返した。千歳の声は震えていた。まるで、何かを堪えるかのようだった。
「それは、私の知っている我王愛生の言葉じゃない」
「何言ってんだ。紛れもない僕の言葉だ。僕が言ったことだ」
「違います! あなたはそうじゃない! そんなんじゃない! 私の知ってる愛生はもっと強くて格好良かったはずです!」
何かを堪えながら、しかし声だけは大きく、絞り出すように千歳は続けた。
「あなたは世界の不条理を許さず、不合理を鼻で笑って、理不尽を殴り飛ばして、非情を吹き飛ばしてくれる人だ! 非道な悪を前にして怒りと恐怖で戦える人だ! 横暴で荒々しい救いの手を、救われる側の都合も考えずに差し出してくれる人だ! まるで嵐のようにたくさんの誰かを救ってくれる人だ! 私の知っている我王愛生はそういう人なんです!」
なんだそれは、と愛生は自嘲するかのように笑った。
強くて格好良い人?
それは我王愛生からは最もかけ離れた言葉だ。自分はもっと小さくて格好悪い人間だ。そのはずなのだ。
「立ち上がって下さいよ! こんなところで府抜けてないで、いつものように戦って下さい!」
やめろ。やめてくれ。愛生はズキズキと痛みを訴える胸を押さえながら誰にも聞こえないような声で呟いた。
それ以上はやめてくれ。僕はそんなに強い人間じゃない。僕はそんなに凄い奴じゃない。
「どうしたんですか!? もっと怒って下さいよ! 怒って、それで暴れればいいじゃないですか。なりふり構わず、リナリアちゃんを助けにいってくださいよ」
違う。違う。やめてくれ。僕は……。
「私は、そんなあなたのことが――――」
「やめろって言ってんだろ!」
その時、愛生の中で何かが落ちたような音がした。最後に愛生を保っていた重りのようなものが、簡単に剥がれ落ちてしまったのだ。
ただ愛生は暴発する怒りに任せて千歳の顔を右手で殴り飛ばした。反射的に腕の力を抜いたため、大きく振りかぶった見た目よりも軽い一撃。それでも相手は千歳だ。突然の衝撃に耐えきれずに倒れてしまう。
「くそっ、二人とも落ち着けってんだ!」
八九郎が声を荒げながら制止に入る。伸ばされた手を愛生は掴むと、それを自分の側へ勢いよく引き込む。同時に八九郎のつま先を踏んで姿勢を崩し、その勢いで八九郎を床に投げた。流れるように行われた一連の動作に八九郎は能力を発動する間も驚く間もなく床に伏せる。
愛生は止まらなかった。倒れた千歳の胸倉を掴み返し、覆いかぶさるようにして叫んだ。
「強くて格好良い人とか、不条理を許さない人とか、誰かを救ってくれる人とか、一体誰だよそいつは! 僕はそんな奴じゃない! 僕は強くなんかない! 臆病で、情けない弱い奴だ! お前の理想を僕に押し付けるなよ!」
「私のじゃない!」
千歳が吼える。震えを無理矢理押さえつけるような強い声。しかし次に続けられた言葉は弱く、懇願するようなものだった。
「あなたの理想じゃないですか……」
「……僕の――――」
自分の理想。その言葉で愛生はすぐにあの背中を思い出した。ずっと追いかけ続けて、でも追い付くことの叶わなかった背中。不条理を許さず、不合理を鼻で笑って、理不尽を殴り飛ばして、非情を吹き飛ばしてくれるヒーロー。
あの日、少年が憧れた在りし日のヒーローの姿。
あれは確かに僕の理想だ。
だけどそれは理想でしかない。現実の愛生は弱くて情けないままだ。きっと千歳もそれはわかっている。わからないはずがない。長年連れ添った幼なじみだ。自分の駄目なところは、自分以上に知っている。だが、
それでも千歳は言ったんだ。
わかった上で答えてくれた。あなたは強い人だ。何かを守れる人だ。誰かを救ってくれる人だ。立ち上がって、戦ってくれる人だ。
いつか彼女は愛生が理想を追いかける姿を『呪い』と言った。それは決して追い付けない背中なのだから、追いかけるのはやめろと言った。傷つかないでくれと、そう言った。それでも愛生は追いかけた。その理想に少しでも近づこうと追いかけ続けた。
きっと千歳はその姿を見ていたのだろう。見ていてくれたのだろう。もうやめろと諭しながら、不様に進む愛生の背中を見ていて――――そして信じてもいてくれたのだ。愛生がその理想を掴む日を。
千歳は理想を語ったのだ。愛生の代わりに、在りし日の少年の理想を。
あなたはこういう人だったはずだ。こういう人になりたかったはずだ。
大丈夫。心配はいらない。あなたの理想を私は知っている。あなたはきっと強い人だ。
千歳の言葉、彼女の叫びはようやく愛生の耳にも届いた。少年の心に、ちゃんとした意味となって響いたのだ。それは必死に、背中を押してくれる言葉だったのだ。
僕は何をしているのだろう。そう思うと途端に自分がみっともなくなって涙が出てきた。ウジウジと言い訳のように言葉を重ね、最後には女の子まで殴り飛ばして馬鹿みたいに叫んだ。自分は弱い奴だと。
「ごめん……」
謝罪の言葉が自然と口から出てしまう。悪い癖だと思いながらも止まらなかった。
ごめんなさい。こんな、情けない奴でごめんなさい。
涙が落ちて、千歳の頬へ。千歳はそれをぬぐうことはせず、雫はただ頬を伝って下へと流れた。
彼女の眼はまっすぐに愛生を見つめている。
「どうして謝るのですか?」
「ごめん、僕は……僕は強くない。理想はまだ、理想のままだ」
我王愛生は弱いままだ。
「本当はリナリアを助けたい。死んでほしくなんかない。でも助ければあいつの願いを踏みにじることになる」
リナリアを殺すという選択肢は最善ではないが、良い選択肢ではあるのだろう。死ぬことで苦しみから逃れ、あの子はきっとちゃんと救われるのだろう。
だけど愛生は嫌だった。どうしてもリナリアには死んでほしくなかったのだ。それは自分勝手な思いで、エゴでしかないのだろうけど、それでも愛生は嫌だった。
「リナリアを助けるということはあいつの苦しみを終わらせないってことだ。それだけじゃない。リナリアが生きている限り、世界中があいつを苦しめる。僕はその時、世界を相手にあいつを守れない……」
結局勇気がないのだ。願いを踏みにじってまで、リナリアを助ける勇気がない。世界を相手にリナリアを守り、戦う勇気がない。実力がない。自分には無理だと、そう思ってしまう。怖気づいてしまうのだ。体が震えて拒絶する。お前には無理だと、耳元で誰かが囁くのだ。お前には無理だと。
「僕は、弱い人間だ……」
「そんなことありません。愛生は強い人です」
体が震えた。弱い自分が姿を現す。そんな愛生の震える手に、千歳の手が重なった。
「嘘でもいいんです。あなたの虚勢を私は支えます」
そうして彼女はその手に力を入れた。握られた腕の振るえを隠すように。
千歳の腕から愛生の右手に熱が伝わる。そこで愛生は初めて、千歳の目を真っ直ぐに見ることが出来た。
「愛生はどうしたいんですか?」
「……僕はリナリアを助けたい」
「そのためにはどうしたらいいんですか?」
「六道を倒す。そして、リナリアを連れ戻す」
「リナリアちゃんの敵は彼だけじゃない。世界があの子を狙っているんですよ?」
「なら、世界を倒す。あいつを傷つける全てを、あいつを苦しめる何もかもを倒す」
「愛生にそれができるんですか?」
「――――できるさ。僕は、誰よりも強い」
嘘だ。嘘偽りの強がりでしかない。体の震えを誤魔化すため、恐怖を見ないためにつく子供のような強がりだ。だがそれを彼女は支えてくれる。信じてくれる。あの理想こそが我王愛生なのだと、そう信じてくれている。
なら、これが僕の虚勢だ。
見栄を張ろう。嘘を吐こう。身勝手な正義の味方になろう。自分勝手なヒーローになろう。リナリアの望まぬ形で、彼女を救うのだ。
弱さを握りしめ、愛生は震える声で告げた。
「僕はリナリアを助けるよ」
下手糞な微笑を浮かべて見せたのは、今できる精一杯の強がりだった。
「はい……」
愛生を見つめて千歳は言った。
「わかっていましたよ」
その一言で、愛生の心はとても軽くなる。覚悟は決まったのだ。もう迷うことはない。背中を押してくれる人がいるのだから、愛生はまだ前に進める。
ただ、とりあえずまずは千歳の上からどこう。いつまでもこんな格好では、それこそ格好がつかない。そうして動こうとすると、千歳が頬を抑えていた。愛生が殴ってしまった頬だ。ズキリ、と罪悪感で心を痛めながら愛生は「ごめん」と口にした。最初は謝罪の意味がわからずぽかんとしていた千歳だったが、すぐに察しが付き何故かにやにやとした笑みを浮かべた。
「愛生。私は大変傷つきました。心も体もです。ですから、言葉とは別の謝罪を要求します」
「えっと……それはどうすれば――」
いいの? とは言えなかった。それを言う前に愛生の口は千歳の口で塞がれてしまったからだ。
キス。接吻。ちゅー。
突然のことに混乱する愛生の脳内でそんな単語が羅列する。気づけば千歳の腕は愛生を逃がさないように首に回されていた。そして愛生が息をするのも忘れた頃、千歳の舌が口内に侵入しかけて――――
「ちょ、ストップストップ!」
さすがにそこで愛生は千歳を無理矢理引きはがした。それはない。さすがにない。
引きはがされた千歳は不満そうな瞳で愛生を見ていた。いやでもやっぱりそれはない、と愛生は呟く。すると千歳は益々不満そうだが、しかしないものはないのである。
いくら千歳とだとはいえ、こんなみんなの見ている前で堂々とキスをするのは恥ずかしいし、それに舌をいれるのは駄目な気がした。何がどうして駄目なのかは愛生にもわからなかった。
愛生は狼狽し、恥ずかしさもあっておろおろと視線を泳がす。そんな愛生の姿を見た千歳は満足そうに微笑んだ。
「これで全部チャラということで」
楽しげに微笑む彼女の顔は、いつも愛生をからかう時の顔だった。からかわれている、遊ばれている。そうとはわかってはいても紅潮した顔の熱は引いていかない。そこまでわかっていて、彼女はきっとキスをしたのだろうけど……。
勝てないなぁ、とそんな風に思いながら、一言くらい文句を言ってやろうと口を開いた瞬間だった。
「いやぁあああああああああああああああああああああああ」
甲高い叫びと共に亜霧が愛生の顎に突き上げるような足裏での回し蹴りを放った。当然防御の用意などない完璧な奇襲であり、的確に急所を狙われた一撃によって愛生は一瞬目の前が真っ白になる。ちかちかと点滅する視界の中、愛生は自分が仰向けにぶっ飛んでいることを知る。
いや、というかあの状態で的確に顎を狙うってどんな達人だよ!
運動神経がいいのは知っていたが、ここまでくると最早何かの訓練でも受けているんじゃないのかというレベルだ。
勢いをそのままに後頭部から床に激突。鈍い音と共に視界が揺れる。常人よりも頑丈な愛生だったからいいものの、普通なら病院のお世話になってもおかしくない衝撃だった。
しかしその衝撃を与えた当の本人はぶっ飛んだ愛生を見向きもせずに千歳へ詰め寄る。
「な、ななななななにしてんのよ! この変態! 痴女! 痴漢!」
真っ赤になった顔で腕を振り上げながら怒る亜霧。怒りたいのは愛生の方だったが、揺れる視界ではそれすら満足にいかない。
千歳はうるさそうに顔をしかめながら体を起こすと、少しだけ得意げに笑った。
「まったく、キスくらいでぎゃーぎゃーと。別に、私と愛生がキスするのだってこれが初めてってわけではありませんし」
「は、初めてじゃない……? 愛生くん、それ本当なの!?」
本当だ。愛生と千歳は半ば兄妹のように育ってきたところがある。その延長というわけではないのだけれど、何度かお遊びでキスくらいはしたことがあった。あくまでも愛生にとってはお遊びというか、ままごとのようなものだったけれど。
それを言葉にしようとしたが上手く言えず。というか上手く口が動かせず魚のようにパクパクするしかなかった。
「ほ、本当なんだ!? ほんとに初めてじゃないんだ! 不潔! 最低!」
一体何が最低なのかわからなかったが、亜霧は余計怒ったようだ。更に腕を振り上げる亜霧を見て千歳は嘆息。
「そんなに羨ましいのなら、あなたも愛生としたらどうですか?」
「………………は?」
亜霧の時間が止まる。先程までの元気はどこへやら、まるで壊れた機械のような動きで千歳を見据える。
「別に私はキスくらいで嫉妬もしませんし、好きにちゅっちゅちゅっちゅしたらいいじゃないですか」
ようやく視界の揺れが収まり愛生が立ちがる。そうして視界に入ってきたのは何故かこちらを凝視する亜霧と普段と変わらないように見える千歳の姿。千歳は普段の冷静な表情を装ってはいるが、口の端がほんの少しだけにやけている。
楽しんでるなー……。
面白がっているとも言うが、まあ亜霧がからかい甲斐のある子であることは愛生も同意するところなので気持ちはわからなくはない。
そんな亜霧はしばらくじっと愛生を見つめたあと――
「いやぁ! やっぱ無理! みんなの前でとか無理だからぁ!」
赤くなった顔を隠しながら愛生と千歳から逃げるように距離を取り、晶子の後ろに隠れてしまう。晶子は「あらあら」とこちらも若干楽しそうに笑っていた。
なんだかなぁ、と思っていると八九郎が鼻を鳴らして愛生の前に立った。
「あ……八九郎さん。さっきは、ごめん」
彼を投げ飛ばしてしまったことを今更ながらに思い出し、愛生は頭を下げる。八九郎はめんどくさそうに答えた。
「別にいいよ。今さっき俺以上に酷い目にあったみたいだしな」
「ははは……」
苦笑いを浮かべる愛生に八九郎が真剣な面持ちで尋ねた。
「それで、もういいのかよ」
「……うん。おかげ様で。みっともないところ、見せちゃったな」
すると、八九郎は何か恥ずかしがるような態度で頭を掻きながら言った。
「あー、なんだ。あんま気にすんなそういうの」
「でも……」
これだけの人の前で、幼なじみの女の子に手をあげたのだ。軽蔑されてもおかしくはない。だが、八九郎は気にするなと続けた。
「みっともなくたって構わねぇよ。俺とか、亜霧とかはよ。お前に救われたんだ。怖くても、辛くても痛くても、前に進むお前に救われた。だからみっともなくたっていいんだ。それでもちゃんと最後には立ち上がるって、俺たちは知ってるんだぜ」
だから、と八九郎は一つ一つ確かめるように言った。
「俺らはお前の支持者だ。ここにいる全員がお前の虚構を支持する。安心しろよ。このラボラトリ最強が、お前を誰よりも強い男にしてやる」
八九郎の言葉を受けて、愛生は部屋の中を見渡す。そこにいるのは千歳、亜霧、八九郎、鋤崎、晶子。いずれも愛生の知っている人たちばかりだ。
「愛生ちゃんはねー、もっと胸を張るべきじゃないかな」
鋤崎がニコニコとした笑顔で告げた。
「君は君が思っている以上にたくさんの人を救っているよ」
そう、なのだろうか。もう一度、愛生はみんなを見る。
今日、みんなを救ったのは帝さんだ。
でも、その前に一度でも、自分はこの人たちを救えることができていたのだろうか。自分はあの理想のように誰かに手を差し伸べることができていたんだろうか。
「大丈夫ですよ」
聞こえたのは千歳の声。彼女はいつのまにか愛生の隣に立っていた。大丈夫だと、そう言いながら千歳は愛生の背中を軽く押した。
押されるがままに一歩前に出る。
途端に視界が広くなったように感じた。見ているものは同じなのに、全てが変わったように思えたのだ。
次の一歩は自分から踏み出した。そうすると丁度、愛生は部屋の真ん中に立った。
ごめんなさい。
反射的にそう言ってしまいそうになるのを堪えて、愛生は「ありがとう」と口にした。
「みんな、ありがとう。僕はこれからリナリアを助けに行くよ。……でも、僕は強いけど弱いから、一人じゃ無理だ。みんなの力を貸してほしい。みんなとなら、僕は誰にも負けない」
だから、
「みんなでリナリアを助けに行こう」