プロローグ『契約』
「お待ちしておりました」
背の低い、白衣の男が仰々しく頭を下げた。さあこちらへ、と男に促されたのは白髪の老人だ。派手な袴を着ている。背は曲がってはいないが、足が悪いのか杖をつきながらの歩行は嫌になるほど遅い。深く刻まれた顔の皺が、印象よりもずっと長い年月を生きてきたことを語っている。
「失敗作、というのは……」
老人が口を開く。割り込むように男が頷きを返した、
「ええ。こちらにいます。我々は六道と呼んでいますが……気を付けてください。危険な奴です」
そういって、目が痛くなるほどの真っ白な廊下を少しいった先の扉をあける。中の部屋は本で埋め尽くされていた。四方の壁は扉の部分以外が全て本棚となっていて、床にも山積みの本が散乱している。文庫からハードカバー。図鑑や辞書まで、置いてある本は節操がないほど一貫性に欠けていた。本の形をしたものならなんでもいいと言っているようだ。
本に埋もれるようにして存在する椅子に座った男がいた。雑に切りそろえられた髪。異様に白い肌。中性的な顔立ち。猫目の瞳は青と黄のオッドアイ。真っ白の服を着たその男は、どことなく不吉さを漂わせる、妙な雰囲気をしていた。そして何より目を引いたのは、、首と手首と足首に取り付けられた白い強化プラスチック製の鎖だ。まるでこの部屋に閉じ込められているようで、そしてそれはその通りだった。
その男は失敗作。六道と呼ばれ、実験体としてこの部屋にいる。六道はただ一心不乱に本を読んでいた。
「ほう」
老人が、感嘆の声を漏らした。
「聞いていた話と違うな。随分と、理知的な男ではないか」
老人の言葉に白衣の男がとんでもないと返した。
「理性なんて、あいつにとってはただの皮です。気を付けてください、いつ暴れだすかわからない。本性は獣ですよ」
白衣の男が床のに走る白い線を指差した、
「この線よりも内側に入らないでください。これより外は鎖が邪魔をしてあいつは手を出せない。前に内側に入った研究員はその場で殺されました」
「それは怖いのう」
さして怖がった様子もなくむしろ馬鹿にするかのように老人は笑った。笑いながら、理性が皮でしかないなど、人間にとっては当たり前だと、そう言い放った。
「のう、六道。貴様もそうは思わんか?」
老人に話しかけられた六道は初めて部屋に侵入してきた二人の人物に視線を送った。そして読んでいた本を閉じると、億劫そうに声を発した。
「ご老体よ。そんな遠くで話していないで、近くまで来たらどうだ」
「やめておこう。わしは結構、臆病なのでな」
のう、六道と老人は再び繰り返した。
「貴様は、あと十日後に死ぬことになっておる」
六道は失敗作だった。失敗し、いらないものとされた。処分は遠からず行われることは既に決まっていたことだったのだ。
「知っている。俺は十日後に死ぬ」
老人はここで少し、首をかしげた。これから死ぬ人間にしては六道の態度は妙に落ち着いていたからだ。だがすぐに老人は六道の瞳の奥の激情を目にした。
「だが、俺が簡単に殺されると思うなよ。必ず、十日以内にここを抜け出してやる。貴様らのような畜生どもには殺されない」
六道の気迫から、その言葉が冗談ではないことがわかった。白衣の男は苦笑いだ。ここから出れるわけがないと、そう思っているのだ。老人もまた、同じ意見だ。あの白い鎖を破る力は六道にはない。そしてこの部屋を出られたとしても、外の世界に行くのは不可能だ。それはこの場所を知るものなら、誰もが理解することだ。老人は六道にもそれがわかっていないとは思えなかった。
あるいは、そんな認識を上回る覚悟がこの不吉な男にはあるのかもしれない。
「しかし、六道よ。ここから出たとして、貴様は何をするのだ? 復讐か? 自分のような失敗作を生み出し、好き勝手に利用した揚句捨てようとする奴らを殺すつもりかのう」
もしそうだとしたら、と老人はもったいぶったように続けた。
「わしも殺されてしまうのかのう。なんといっても、貴様が生まれる原因を作った研究の基礎はわしが提唱したものじゃからのう」
「……お前だったのか。ここにあの研究を売ったのは。どうりで、下劣な面をしている」
六道の挑発を老人は笑いながら流す。そんなことは気にもならないようだった。
だが、と六道は否定した。
「俺は復讐など望んではいない。確かに貴様ら畜生どもの醜悪さは耐え難いものがあるが、報復など、馬鹿らしい。そんなものに興味はない」
「なら、ここを出て貴様は何をする。何を望む?」
その問いに、六道は躊躇うことなく答えたのだ。
「救いだ。俺には救わなくてはならないものがある。守らなくてはならない約束がある。そのために俺は生きている」
老人は一瞬、キョトンとした顔して――――すぐにその表情を〝にちゃあ〟と歪めた。笑ったのだ。
「…………かっ。かっかっかっ! 救いだと!? 失敗作の烙印を押され、プラスチックの鎖に縛られた貴様が救いを望むか!? かっかっかっかっ! これは傑作じゃ、傑作じゃ!」
しばらく阿呆のように笑い転げていた老人は、気が済むと目じりの涙を拭きとりながら言った。
「いいだろう。ならばまずわしが貴様を救ってやろう」
「お前が、俺を?」
怪訝そうな顔をする六道に老人は告げる。
「わしはとある組織を作ろうと計画していてな。まあ簡単に言ってしまえば傭兵みたいなものだ。わしのためのな。そこで働くことを約束するのなら、十日後に迫った貴様の死期を回避させてやろう。無論、タダとは言わぬ。仕事の分の報酬は約束しよう」
金と自由を貴様にやろう。
そう言って、老人はなんの警戒もなしに白い線の内側に一歩踏み出した。白衣の男が顔を青くして止めたが、老人は聞く耳を持たない。亀のような足取りで、一歩一歩と六道に近づいた。
六道は何もしなかった。ただじっと、老人の杖を見つめていた。しばらく行ったところで、老人は足を止め、杖で床を叩いた。
「交渉、成立かのう」
そう言って、にやりと笑った老人の笑みは酷く醜く、卑しいものだった。