長谷堂。
「さ~おり~、おきてる~なら、出てお~いで~」
トイレを済ませた女は二階に上がると、佐緒里の部屋をノックしながら怪しい裏声で呼びかけた。時間は午前三時過ぎである。迷惑極まりない。
「……どうしたの、長谷堂ちゃん」
しかしあっさりと、扉が開いた。この時間でも起きているというのは、どうなのだろう。とまれ、出て来た佐緒里はどうやら寝ぼけ眼である。今ので起こされてしまったのか、それとも夜更かしをしていたのだろうか。
「ビール飲みたい」藪から棒に、女がつぶやく。
「長谷堂ちゃん」
「ビールないかな」佐緒里が呼びかけても、返事はなく、女は同じ事を言うだけだった。
「長谷堂ちゃんてば」
「ビールぅ」
「……あのね、聞いて、長谷堂ちゃん」
「え、ああ、無いよね、そうだよねごめん佐緒里」どうやら我に返ったようだ。
「そうじゃなくてね、あなた、下着姿じゃないの」
「何言ってるの、佐緒里」
真顔で聞き返してきた。佐緒里はため息をひとつ。
「――酔っているわけじゃなさそうだけど、そう言うのは良くないんじゃないかな、ほら、春先で暖かくなってるとはいえ、今年はちょっと気温低いし、風邪ひいちゃうよ」そう言いながら、佐緒里が長谷堂のふとももを指先で軽く撫でた。
「ひ――」
佐緒里の指先が直に肌に触れた。思わず長谷堂は声を出してしまったが、どう言う事だろう。これはおかしいじゃないか。
なぜならあたしはジャージを着ているのだから。でなければ、佐緒里の指がジャージを貫通した事になる。イリュージョンだ。そんな事が有るだろうか。謎が謎を呼ぶ。種も仕掛けもございません。そんな事を考えながら恐る恐る改めて見てみると、どう見ても生脚であった。確かにこの夜中にこの格好でうろついていては、身体には良くないだろう。
「あ、あれぇ、あれ、あれ、うっそ、あたしジャージ上下着てたんだけどな、あれ、あれ、どこいったんだ」
長谷堂は振り帰って、そのままひたひたと階段まで戻ると、数段下りた所にジャージの下が落っこちているのを見つけた。それを拾って二、三回はたくと、顔を赤らめ恥ずかしそうに履き直した。
「ん、ごめん佐緒里、寝ぼけてて。ところで、ビールあるかな」
戻ってきた長谷堂は、さきほどと同じ事を聞いた。
「あるけど、今は、やめといたほうがいいんじゃないかな、と思うな」
「そう思うかぁ」
「飲んだらぐっすり眠れるって言いたいんだよね。気持ちはわかるけれど、でも今から飲んだらきっと朝までコースで飲んじゃうよ、それは私も同じ。だから今はやめておきましょう」
「明日、じゃにゃいや今日って仕事だっけ、佐緒里」
「ううん、休みだよ」
どうも釈然としない。こうして今日が休みだと解っているときは、一緒に飲もうと言えば付き合ってくれた。いつもだったら、そうだった。長谷堂は考える。となれば予定が有るって事だろうか。
「ごめん、起しちゃって」
「あ、それは大丈夫、私も夜更かしして起きてた所だから」
予定が有るわけじゃないのだろうか。一緒に飲むと昼ごろまで爆睡フラグが立ってしまうから、今から飲むのはやめようと言うのは解る。でなければ何だと言うのか。
「佐緒里、もしかして彼氏でもできたの、明日デートだったりするの」
「ううん、それはちょっと違うかな。リュウちゃんは良い子だけど」
「ああ、あいつと遊びにでも行くのか。だめだよ、ツグがいるんだから」
「うふふ。えっとね、昨日、隣の部屋に新しい子が入ったのよ。聞いてなかったかしら」
ああ、ああ、ああ。
そう言えばそんな話が有ったような無かったような。ここの大家は良く解らない適当な奴らしい。長谷堂は、大家本人と顔を合わせた事がまだ一度だって無いのである。
どうやら、昨年から代理の人が家賃を回収に来ているのだ。そいつにしか会った事が無い。大家から色々任されていると言う佐緒里は、当然大家を知っているらしいが。
「あたしも新入りっちゃ新入りなんだけどね。若い子なんかな」
「そう、四月から高校生。リュウちゃんたちと同じ咲矢間高校」
青春だな。
青春か。周りに若いのが増えると、触発されてやる気が出てきたりするものだけれど、道を踏み外した者としては、奮起するという気概にもなれず。
「じゃあ、あたしはこの辺で部屋に戻って寝てた方がよさそうだねぇ。あたしの時みたいに歓迎パーティしてあげたのかな」
「もちろん。あなたも呼ぼうと思ったけど、夜までお仕事してたから、ごめんなさい」
「ああ、謝んなくても。気にしなくていいって、そーゆーんじゃないんだ、あたしも挨拶は早めにしておこうって思っただけ。部屋に戻るよ」
「そう。じゃあ、おやすみなさい、長谷堂ちゃん」
「うん、おやすみ、佐緒里」
――新入りかぁ。舞阪のやつとツグに後輩が出来たって事か。
……面倒くさい先輩だよなぁ。かわいそうに。