夜半の紫斑。
ああ、つまらない。
最近、米食ってないな。炊飯ジャー、全然仕事してない。
大体、帰って来てみれば日本は便利なものだらけだ。
最近レンジでチンしたら何でもできるようになってしまった。
料理は男がするから女はズボラでも良いんだと。
ジャージ姿で畳に寝転びながら、女は一人、腕と脚をばたつかせた。特に意味は無い。ただずっと寝ていたので、重力の作用で鬱血でもしてるんじゃないかと急に不安になったので、とりあえず動かしてみたのである。
このままここで死んだら、死斑とか出るんだ。生きてても死斑が出そうである。そしてもう一度寝返りを打った時、炬燵の足に向うずねをぶつけた。低く鈍い音が室内に響いた。炬燵の上の皿も高音を発し、焼き鳥の串が転がった。
「いった、痛ったい…………あぁ、もう」
死斑ではなく、紫斑が出来た。
うまく落ちがついたものだな、と乾いた笑いをもらしながら。
――ああ、喉が渇いた。今のあたしには水分が足りていない。いや、足りるというのはどういう状態だろう。足りた事が有るのか。満ち足りた人生なんて今まで感じた事も無いしちっとも送れなかった。
満足なんて、してない。
デジタル表示の電波時計を薄らぼんやり覗いてみると、午前三時だった。外は真っ暗である。カーテンが閉まっているので見えないが、この時間明るかったら、そんなの日本ではない。どうだろう。
明日、と言うか、午前を回っているのだから今日だが、バイトは休みだ。このまま酔い潰れて一日無駄にした所で、何の問題もない。
ああ、そう言えば来月から、ここ最近昼間の暇つぶしの相手になってくれていた高校生は、新学期を迎えるわけだな。
女は眼やにの付いた顔をジャージの袖で擦りながら、ふらふらと立ち上がった。
……青春してやがる。こんな身近で、あいつら青春してやがる。しかし、部屋にこもってアニメ見たり漫画読んだりしながら、あの声優がどーだこーだ、アニソン歌手のライブがどーだこーだと、そんな青春があるだろうか。あいつらときたら、若い男女が同じ部屋にいたってセックスのセの字も感じさせない。まあ、付き合ってると言うわけでもないんだろうけど。
付き合ってなくても、そういう行為に浸る事はあるだろう、若いうちなら猶更。しかし、こんな良い意味でうらぶれた雰囲気のアパートで、くんずほぐれつしたら嫌でも音が響くだろうな。ホテルとか行ってヤるんだろうか。最近の若いのってどうなんだろう。……もしかしたら、学校でもヤってるんじゃないだろうか。無いとは言い切れない。
そもそも、あいつらの読んでる漫画はエロいし、アニメだって若い娘がひんむかれるような内容だったりするんだから。
取りとめもなくそんな下世話な事ばかり女は考えていた。
――最低だな、あたしは。いつも良くしてくれる友人とも言える相手に、そんなよこしまな思いを巡らせて。何だろう。欲求不満でも溜まってるのか。まだ二十三だなんだ言ってたら、このままおかしな方に進んでいくんだろうな。あたしはしがないフリーライター。ただ、この日常の中で、何ができるか。
――あるんだろうな、やりたい事さえ見つかれば、なんでもござれだ。諦めない根性もあればなおよし、泥臭さこそ青春。日本てなぁそういう国さ、あたしが生まれた頃も今も、そんな感じ。
三月。三月。カレンダーは三月、二十三日である。
「――あたしも、もう二十三なんだよなー」
時間があっという間に過ぎて行く。なんか宿題とか、あったっけ。
考えても無駄である。
自分はもう学生ではない。
一体何日経っただろう。こっちへ帰って来て。
確か、去年の夏、残暑の八月末だったか、中東から帰って来たあたしには日本が少し涼しく思えた。何年ぶりだったか知れないが、とにかく日本は――故郷である。
誰かが言ってた。
――故郷ってのは、いつかきっと帰りたくなる。
どうなんだろう。
――あたしには解らない。解らないけど、解らないのに、帰って来た。どこかでそう思っていると言う事なんだろう。でも、実際の生まれ故郷まで足を運んではいない。
冷蔵庫を開けた。缶ビール。缶ビール。缶ビール。
缶ビール、缶ビール。缶ビール。
「無い…………かぁ…………」
有れば良いなと思って開けた冷蔵庫、缶ビール。缶ビール。いいさ、もともと期待などしていなかった。
女は変わりにパック入りの安い麦茶の注ぎ口に、直接口を当ててゴクゴク、水分をのどに流し込んだ。口元から雫が数滴、首を伝わり胸元へと零れ落ちたが、特に気にする様子もない。
女は、そのまま冷蔵庫に入れてあった男性用のフェイシャルペーパーで、顔を吹いた。
「おー、おー、さっぱりだ。ちとひんやりして寒いけど、目は覚めたわん」
のそのそ、ひたひたと裸足で歩み、廊下に出る。
共同トイレに入る。女子トイレの便座は二つ、洋式のウォシュレット付きである。右側の個室に入り、便座に腰を下ろす。
みしっ
……そりゃあ、どんな便座だって、座る時に音くらい鳴るものだ。まさかな、あたしはそんなに重いわけじゃないし、尻だって何と言うか女の割には締まってて薄い方だし。何考えてんだか。
そしてジャージを下ろそうとしたのだが。
「あ、――――――おいおいおい、フタ開けなきゃまずいだろうがよ……」
飛んだ失敗をするところだった。目は覚めたつもりでも、頭の方が大丈夫とは限らないものだ。
女は立ち上がって、壁に附いたスイッチパネルの、フタ開閉ボタンを押す。
うぃーん
気の抜ける間抜けな音を立てて、便座が御開帳した。
「こんなん、自動式にする必要あるのかしらねぇ。座ってるときに押しやすい位置にパネルが付いてるんから、開ける時少し押しにくいわけだしさ……」文句を言いながらジャージとパンツを一緒に下ろし、再び便座に腰掛ける。
「あ、――あったかい」
解放感。
せっかくジャージを下ろしているので、さっきぶつけたすねを見てみる。
「やっぱアザになっちったか……」
――こんな時もあいつなら、こう言いそうだ。
たいした問題じゃない。