Shyer wolf。
数分前。一人残された零は一人思案に耽っていた。
――兄さんは椿雪荘の中へと行ってしまったから、窓際で騒いでいるあの人たちはじきに室内へ引っ張り込まれるだろう。その点は心配しなくてもよさそうだが。
「痛い、痛いってば!」
あの派手な髪の人、大丈夫だろうか。
――さて、荷物を玄関に持っていかなければ。
「よいしょ、あ、あれ。…………?」
キャスターの付いた旅行鞄、キャリーケースなのに。飛行機で持ちこめる規程ギリギリサイズである。先ほどの兄さんは軽々運んでいたのに。おかしい。
「よいしょ。……んよいしょ。う、ぐ、ぐ……――だめ。動かない」
なぜ動かないのだろう。確認できればすぐに解決できそうではあるが、暗くてよく解らない。もしかして砂利や草が絡まってしまっているのかもしれないのだ。そうしたら、自分に運べない重さではない。
自分に運べない重さ、ではない。
――そんな。
「私には、運べない――?」
旅行で持って行った時よりは確かに重い。実家からこちらへ持ってくるべき最低限の私物は全部詰めて持ってこようと思ったから、兄さんにも無理を言って持ってきてもらったのに。
無理を言って。
そう、私は無理を言って私物をかばんに詰め込んで持ってきた。いや、持ってもらって、ここまで来たのだ。
最初から、兄さんは全部持ってくれていた。こんなに重い荷物を、自分の分も含めて二つも。そして一言も文句なんて洩らさなかった。自分の荷物はそんなに重くないのだろうけど、私のこれは。
「よいしょ」――兄のケースを引っ張ってみる。
動いた。やっぱりそんなに重くはなかった。
「あの人は、どうして……」いつも私は迷惑をかけてばかりだ。私の高校の入学が遅れてしまったのも、全部私が悪いのに、始末は全部あの人が一人でつけてくれた。
いくら、父に頼まれているからって、そこまでしてくれなくてもいいのに。でも、私はそんな風に思っていても、結局、私はあの人に甘えてしまう。
――兄さん。そう呼ばせてもらっているのも、私の甘え。私には苦労を絶対に見せようとしない。もしかしたら、本当に何の苦にも思ってなくて、私が迷惑かけていると思っているだけで、あの人は全然、何の苦にも思ってないのかもしれない。いつも涼しい顔をしている。
「兄さんの荷物だけでも、持って行ってあげなきゃ……」
そう思った所で、零はまた、気付いてしまった。
鍵を受け取っていないのだ。もちろん、あの家は高階の自宅であるから、零に鍵を預けていないというのは当然の事だが、荷物を運び入れるくらいの事はしたかったのに。
「どうしよう……」
⇔
「やいやい、見かけねえ顔だな。ここで何してやがる」
「え」突然背後から声をかけられた。それも、敵意が剥き出しの、どこか小物くさいセリフ。
「ここに何か用事か。――やけに大荷物だな」
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
すごく、怪しまれている。どうしたらいいのだろう。
――私は自慢じゃないけれど人見知りだ。こうして突然話しかけられると、しかも今は知らない人にだ、どうしていいか解らなくなってしまう。いや、頭では分かっているのに、口が思うように動いてくれない。どうしよう。どうしよう。ああ。
「……大荷物。まさか泥棒じゃあ、ないよな。って事はだ。逆だよな、つまり、もしかしてここの新入りか」
この人は、女の子みたいだけど、言葉遣いは相当乱暴である。でも、私の荷物を見たとたんに、言葉のとげは若干その鋭さを潜めたようだった。
「えっと、私は、――」
「いや、いい、みなまで言うな、わかってる。こんな大荷物じゃあ女の子にはきつそうだもんな。任せろ、あたしも女だがこれくらいはどうってことないさ」
「でも、――」
「気にするな、いきなり声かけて驚かせた詫びだ、気にしないでくれな」
「……すみません」
「だぁから、気にすんなって。そいじゃ、……ふんぬっ」女の子が思いっ切り力むと、私の荷物が詰まったキャリーケースは、ちゃんと動いた。
「うん、こりゃ、相当重い荷物だな。あんた、こんなん持ってきて大変だったろ」
「え、その」……私が運んできたんじゃない、と言っても、通じるだろうか、しかし運んできてくれたその人が今この場にはいないのである。どう説明したらいいのか解らない。先ほどの、佐緒里さんの部屋を覗いてみるともう人影は見当たらず、静かになっている。兄さんが駆けつけて、そのまま落ち付いているのだろう。――そうだ。
「あの、私、佐緒里さんの知り合いで、その」
「佐緒里の。そっかそっか、そう言う事なら早く言えってんだ。よっこいしょー! すぐ部屋まで持ってくからな、へへっ」佐緒里さんの名前は、すごい影響力だ。……何だか申し訳ない。
「あの、玄関までで結構ですから……」
「あいわかった。あたしは雲雀承葉。あんたは」
「れい、です。湊本零」
「うんうん、よろしくなんだぜ」
そのまま玄関まで来ると、暗くてよく解らなかった雲雀さんの髪の色も、鮮明に映った。とても派手だった。スミレ色に、ブルーのメッシュ。でも、とっても美人。かっこいい女の子だな。
「あれ、お前何で外から。出かけてたのか」と、おそらく雲雀さんに向けて話しかけて来た男の子。なんだか大きな鍋を抱えている。湯気がもうもうと、彼の顔にかかっている。
「うん、散歩してた。何か用があったのか」
「いや、ちょっとロゼ公を連絡係に。パスタを茹でたから、今しがた佐緒里の部屋に行ってると思うんだが。それきり帰って来ないから、このまま持ってくことにした。で、その子は?」
「ああ、今そこで知り合った、ここの新入りの湊本零って子」
「えっと、その、――よろしくお願いします」本当は椿雪荘に越してきた訳ではないから、新入りさんではない。どう説明したらよいだろう。
「……俺はそんな話、聞いてなかったが」ああ、男の子が訝しげな顔をしている。どうしよう、困ったな。
でも、何とかしなければ。咲矢間高校への入学が遅れてしまっている状態、クラスに馴染むのに少し遅れを取ってしまうのもモハヤ避けては通れない。その覚悟を、私はもう済ませてここに来ているのに。人見知りって、どうやって直せばいいのだろう。
ああ、辛い。でも、とにかく喋らなければ。彼の疑問に答えなければ。ああ、どうして喋れないんだろう、私。兄さんが来てくれた時は、もっとうまくできたのに。どうして。泣きたくなって来てしまった。ごめんなさい、ごめんなさい。私はどうして。
「ああ、あたしも聞いてない。でも、零は佐緒里の知り合いなんだってさ」と、私が逡巡してる間に、何でも無いように雲雀さんが言葉をつなげてくれた。
「ああ、そうか……また佐緒里か」佐緒里さんの名前の影響力はすごい。彼の疑問は今の雲雀さんの一言でものの見事に氷解してしまったのだ。私は佐緒里さんに敬意を表さずにはいられない。
そして、雲雀さんにも、言葉にならない礼を込めて、私はただただお辞儀をするしかなかった。
「お辞儀なんかしなくてもいいよ俺は舞阪柳刀、……適当に。それじゃあ、佐緒里のとこに行くとするか」舞阪さんにも私はお辞儀をしていた。挨拶としては間違っていないのだろうけど、こんなんじゃあ、駄目だ。
「零、荷物はここでも良いんだよな」
「あ、はい、ありがとうございました、雲雀さん」今度はちゃんと、お礼を言う事が出来た。私はほっと胸を撫で下ろす。いや、そんなのは当たり前。これくらいできなきゃ、駄目なのだ。
「うむ」雲雀さんはそんな私を見て、優しく微笑んでくれた。
「あと、俺これ持ってるから、お前が扉開けてくれよ。何かドタバタしてるみたいだし、……ロゼ公が戻って来てたらそれも頼んでたんだが」
「ええ、ロゼッタもしょうがないやつだな」
こうして三人連れだって佐緒里さんの部屋へ向かった。
――舞阪さんたちの言うロゼ公、ロゼッタと言う人は、外人さんなんだろうか。窓へ乗り出して痛い痛いと叫んでいた髪の派手な女の人がそうなんだろうか。そんな事を考えながら、久しぶりの佐緒里さんの部屋の前までたどり着いた。
「さて、通りな」と、雲雀さんが扉を開いたまま舞阪さんを中へ通す。私もそれに続いて中へ入った。兄さんもそこにはいるはずだ。
……佐緒里さんの部屋は、とてもお酒臭かった。




