早朝
午前四時。とりわけ小説を書きたい気分ではなかった。机のうえの空き缶やペットボトルを真っ黒なポリ袋に放り込んで、ぎゅっとビニールの口を結ぶと、寝巻のままサンダルをひっかけてゴミ捨場へ向かった。自分の住む地区のゴミ捨て場は、近所の花屋のそばにネットが張られている場所と決められている。ゴミを捨てに行くのにそう時間は掛からないが、真夜中に一人だらしない格好で歩いていると、次第に惨めな気分に陥ってしまう。夜の静寂に包まれた住宅街をぺちぺちと足音を立てて歩く自分の姿が、身も心も擦り切れてすっかり薄汚れてしまった人間であるような気がしてくる。わたしはふと帰り道のことを考えて、今はゴミを捨てに行くという目的のためにしぶしぶ外を出歩いているけれど、両手に携えたゴミを手放したあとはすっかり無防備な状態となってしまう。つまり偶然にして誰かとすれ違った場合、わたしは不審者と見做されたあげく通報されるおそれさえある。真夜中にゴミ捨てに出掛けた寝巻姿の男が虚勢を張るほど、無意味で愚かしいことはない。わたしは出来る限り物音を立てないよう神経を尖らせつつ、街灯の照らしだす淡白な光が届かない道路の脇を、影に身を潜めるようにして足取りを早めていった。サンダルから剥き出しの爪先が、道中で何度か石ころや紙くずや得体のしれない物体に当たるのを感じた。道の上に転がっているものなど総じて汚らしいのだから、その度にますます気分が落ち込むのだった。いったい何がつま先に当たったのかろくに確認もせず、視線を足元に落としたまま黙々と歩みを進めていたが、しばらくしてからあれが一体何だったのか無性に気になりだした。もし犬のくっさいウンコだったなら後になって確かめたところで酷く後悔するのが関の山だが、それでも自分の爪先に直接触れた異物の正体を知りたくて堪らないのだった。とうとう立ち止まって、一分ほど考えあぐねた結果、ゴミ袋をその場に一旦置いてから、歩いてきた道を逆戻りした。足元に細心の注意を払っているあいだ、じぶんはとんでもないことをしでかした、との自責の念に絶えず苦しんでいた。首筋からひやりとした汗水が垂れ落ちて寝巻の襟をじんわり濡らしていった。やがて東の空から家々の隙間を潜り抜けるように、まだほんのりと赤みを増したばかりの初々しい朝焼けの空が、冷えきったアスファルトの表面をじわじわと濃紺色に染め上げていった。
どうもおかしい、と感じた。自宅からゴミ捨て場までは五分と掛からないうちに辿り着けるはずだ。それが外に一歩出てみれば、実際には何処とも知れない場所を行ったり来たりしている。それに普段ならまるで問題にしないような些細なことばかりに気を取られて困惑している。クソッ、と汚い言葉を吐いたそのとき、靴裏で何か柔らかい物質を踏んだ感覚が生じた。数秒間の硬直の後、わたしは恐る恐る右足を持ち上げて、それの正体を見定めた。案の定、それは犬のクソなどではなく、誰かがすっかり噛み終えて道端に吐き捨てた、桃色のガムの無残な姿であった。表面が砂利に覆われて黒ずんだガムは、サンダルの裏に並行に刻まれた細かい溝の一つ一つに入り込んだまま、どうしようもないほど癒着していた。こうなれば事態は犬のクソを踏んだ場合とあまり大差ない。指で摘んで引っぺがす気にもなれず、ともかくは見知らぬ家のブロック塀にサンダル裏を懸命に擦りつけるという乱暴な応急処置を施した。その塀のすぐ向こうに玄関があり、隣り合った窓には白い裏地のカーテンがぴっちりと閉め切られており、自分の行動を見咎められる可能性は少ない。およそ一分強に及ぶ作業のあいだ。わたしはサンダルを掴んだ右手を規則的に上下させながら、その家の庭に視線を投げかけていた。わたしのすぐ横にある門を通り抜けて玄関を左脇へ逸れると、青々と伸びた芝生の広がる十平米ほどの庭が、内側からブロック塀に寄り添う形で生えた木々の隙間からなんとか覗き見ることができる。芝生を最近刈り取ったような痕跡はなく、庭の隅に設けられたまま朽ち果てた数個のプランターにも花は咲いておらず、雑草が繁茂している。プラスチック製の白い犬小屋だけが嫌に目に付くが、それも薄汚れているうえに犬の一匹さえいない。眺めているうちになんだか胸がむかむかしてきて、さっさと帰って熱いシャワーを浴びて、もう一眠りしたい、と強く思った。サンダルも捨ててしまえ。わたしは自然と早足になりながら帰路に着いているつもりだったが、しばらく歩いてから前方の路上にゴミ袋が二つ放置されているのを発見した。わたしは近づいて、これは自分がさっき置き去りにしたまま、もうゴミ捨て場まで出向く必要はないと捨て去ったゴミ袋ではないか、もしそうであれば、わたしは自宅のある方向とまったく逆方向へ進んでいることになるぞ。少し心配になって、黒いポリ袋の中身を確認しようと結び目に手をかけたが、もうこれ以上最悪な気分になりたくない、と既の所で思い直した。一方のゴミ袋には小さな裂け目があって、そこから中身を窺い知ることはできないが、心なしか悪臭が漂っている気もする。しかも痰のような黄色い粘着質の液体が付着している。これは自分の捨てたゴミ袋ではない。しかしこんなゴミ袋を道端に放棄するような人物の気が知れないぞ。せっかくだから、きちんとゴミ捨て場まで届けてやるべきではないか。それが軽率な偽善行為であるとは自覚していたが、それでもポリ袋を二つ手に携えて、花屋のある方向におおよその見当をつけて歩き出した。まだ太陽は昇りきっておらず薄暗いままだが、それでもぽつぽつとすれ違う人々の数が増していった。日課のジョギングに励む者、スーツに身を固めて早朝出勤する者。そして何の目的も持たずに朝の住宅街を徘徊する老人を横目に、わたしは他人様のゴミを捨てるという、称賛されるべき行為に準じているのだ、と妙な昂ぶりを感じて胸を躍らせた。そうして一人ほくそ笑んでいると、不意に何か柔らかいものを踏んづけた拍子に勢い良く転倒してしまった。咄嗟にゴミ袋をクッション代わりにして身を守ったが、汚らしいゴミ袋に我が身を任せるという行為に激しい嫌悪感を募らせた。しかもゴミ袋の底が破れたせいか、腐った汁のような液体が生臭い匂いとともに漏れ出て地面に広がっている。わたしは立ち上がって、誰かに目撃されていないか周囲を見渡した。すると前方の数十メートル先にあの花屋があるではないか。しかしもうゴミ捨てなどどうでも良くなった。呆然と立ち竦んだまま自分はどうするべきか思い悩んでいると、すぐ先の曲がり角から、ゴミ袋を片手に持ったジャージ姿の女性が現れて、そのまま花屋の方へ歩き出した。ゴミを捨てて戻ってくるときにわたしと一瞬目が合って、彼女はわたしを危険な人物と決めつけてすぐに目を逸らしたが、わたしはじっと彼女を見据えていた。やがて彼女が曲がり角を折れて姿を消してから、わたしは震える手でゴミ袋を掴み、一気に駈け出した。一刻も早くこの苦行に終止符を打ちたかった。息を切らせて花屋まで辿り着くと、花屋のシャッターが半分開いていて、蛍光灯に照らされた屋内の花々を垣間見た。名前を一切知らない花々は、まだ売り物でないせいか何処となく元気がなさそうだった。隣のゴミ捨て場には既に数個のゴミ袋が積み重なっている。わたしもゴミを正規な方法で廃棄して、一安心一安心、と息をついたが、そういえば今日はカン・ビン・ペットボトルの日であった。この汁が漏れ出たゴミは重さから判断して明らかにそれではない。わたしはまた過ちを犯してしまったのだ。後退りするわたし。花屋シャッターがガラガラとやかましく開いて、花屋の主人が顔を覗かせ、ゴミには目もくれず次々と屋外に花を並べていった。どれも綺麗に咲いている。そうかこの世は沢山のオンリーワンと納得して帰路に着いた。