終わらない夜のチェックイン
彼の名前は蓮。
大手企業で働く厳格な父親と、年の離れた姉たちに囲まれた、待望の「長男」として生まれた。
父親にとって、蓮は自分の人生の優秀な「続き」でなければならなかった。
「男なら泣くな」「結果で示せ」
幼少期から、テストの点数、習い事の成果、すべてにおいて完璧を求められた。
母親や姉たちも、父親の機嫌を損ねないために、蓮が「お父さんの言う通りの立派な男の子」でいることを期待し、笑顔で彼を追い詰めた。
家庭内に怒号は少なかったが、代わりに「期待に応えられなければ、この家には居場所がない」という冷徹なシステムが機能していた。
小学校高学年の頃、初めてテストで凡ミスをして順位を落とした時、父親から1週間、存在を無視された。
その時、蓮のなかに「慢性的な抑うつ状態」と「激しい希死念慮」の芽がしっかりと植え付けられた。
「完璧でなければ、僕は透明人間にされる。いっそ、本当に消えてしまいたい」
中学2年の春、部活動での些細な人間関係のトラブルをきっかけに、蓮の糸は切れた。
クラスの男子グループから「あいつ、いつも格好つけてて鼻につく」と陰口を叩かれ、無視されるようになったのだ。
完璧な自分を維持できなくなった蓮は、部屋に引きこもり、不登校になった。
父親の落胆と怒りは凄まじく、母親は泣き崩れた。
学校から派遣されたスクールカウンセラーが、何度も蓮の部屋のドアを叩いた。
「蓮くん、男の子なんだから、一度の挫折くらいで負けちゃダメだ。君には素晴らしい才能があるんだから」
その「励まし」は、蓮にとってただのトドメだった。
(やっぱり、僕自身はどうでもいいんだ。僕の『才能』や『成果』が惜しいから、学校に戻そうとしているだけだ。僕が弱くてボロボロのままでいたら、誰も僕を見ないんだ)
この時、蓮の心に「大人の言う『支援』とは、僕を元の『都合のいい兵隊』に戻すための修理工場に過ぎない」という強固な不信感が定着した。
中3の秋、進路への強烈な焦りから塾へ戻り、なんとか定時制高校へ進学。
高校での蓮は、周囲の期待に応えるように「完璧な優等生」を演じ直した。生徒会長を務め、ボランティア活動に精を出し、成績は常にトップ。
しかし、内面は限界だった。受験期のプレッシャーの中、彼は市販薬や処方薬の大量服薬を覚え、腕には服で隠れる位置に無数の傷を刻んだ。
高校を成績優秀賞で卒業し、地元の国立大学へ進学したその年の冬、ついに耐えきれず、最初の本格的な自殺未遂を起こす。
発見が早く一命を取り留めたが、親族一同からは「一族の恥だ」と完全に突き放された。
身寄りのない状態で、蓮は精神科の閉鎖病棟へ入院することになる。
ここから、蓮の「入退院の無限ループ」が始まる。
病棟での蓮は、信じられないほど「模範的な患者」だった。
医師の指示にはすべて従い、他の患者の愚痴を優しく聴き、看護師の手を煩わせない。
「蓮くんは本当に頭が良くて、自分の病状をよく理解できている。もう退院しても大丈夫だね」
しかし、退院して一人暮らしのアパートに戻ると、たちまち「何のために生きているのか分からない」という永遠のむなしさが彼を襲う。役に立つ自分、優秀な自分でいられない空白の時間に耐えかねて、数ヶ月もしないうちに再び自殺未遂を起こし、救急搬送されて、また入院する。
医療従事者たちは彼を救おうと躍起になった。
新しい薬、手厚いカウンセリング、認知行動療法。
「蓮くん、過去の父親との関係を整理しよう。君はもう、誰の期待にも応えなくていいんだよ」
その「正しいアドバイス」を受けるたび、蓮は微笑みながら、心の中で深くため息をついた。
(誰の期待にも応えなくていいなら、僕は今すぐ死ぬべきだ。誰の役にも立たない僕が生きていていい理由なんて、この世界のどこにも転がっていないのに。先生たちは、僕を『治す』ことで、自分の有能さを証明したいだけだろう)
19歳の終わり、何度目かの退院を迎えた蓮は、大学を中退し、生活保護を受給しながら、ある「自助グループ(当事者会)」の運営に関わるようになった。
生きづらさを抱えた少年たちや、リストカットがやめられない女子高生たちが、蓮の元に集まった。
蓮は彼らの話を、神父のような穏やかさで聴いた。
「辛かったね」「生きていてくれてありがとう」
少年たちは蓮を「僕たちの理解者だ」と崇拝した。蓮は、傷ついた若者たちをケアする「癒やし手」という新たな役割(仮面)を手に入れ、その世界でのみ、自分の存在意義をかろうじて確認することができた。
――けれど、根本的な解決など、何一つしていない。
集会が終わり、全員を見送った後の誰もいない会場で、あるいは静まり返った自分のアパートで、蓮は猛烈な虚しさに襲われる。
他人の命を救っている瞬間だけは息ができる。しかし、その手を離した瞬間、自分はただの「親に見捨てられ、社会のセーフティネットにぶら下がっているだけのクズ」に戻るのだ。
蓮は引き出しから、次の入院用のセット(着替えと、いくつかの洗面用具)が入ったバッグを引っ張り出す。
そして、新しく手に入れた薬のシートを、1錠ずつ、静かに口の中へ運んでいく。
(ああ、これでまた、あの白い病棟に戻れる。あそこなら、みんなが僕を心配して、僕を見てくれる)
彼にとって自殺未遂は、死への切符であると同時に、唯一自分を優しく扱ってくれる「精神科病棟」という名のホテルへチェックインするための、血まみれのパスポートだった。
明日になれば、また発見されて胃洗浄を受け、新しい病院のベッドで「先生、ごめんなさい。またやってしまいました」と、完璧に反省した模範的な患者の顔で微笑むのだろう。
終わりのない、白く冷たい円環の中で、蓮は今日も静かに意識を失っていく。




