三年間空気扱いした夫に離婚届を突きつけたら、『氷の公爵』が壊れました。でも、もう遅いので過去にさせていただきます
「——離婚届です。ご署名を」
私、リーゼロッテ・フォン・グラウシュタインは、三年間連れ添った夫の前に一枚の紙を差し出した。
静寂が、書斎を支配する。
暖炉の炎が爆ぜる音だけが響く中、ヴィクトル・レオンハルト・オーレンシュタイン公爵——私の夫であり、社交界で『氷の公爵』と恐れられる男は、初めて見る表情を浮かべていた。
驚愕、だろうか。
いや、違う。困惑? それとも——
「……何の冗談だ」
冗談。
(ああ、やっぱりそう来るのね)
私は内心で深々とため息をついた。三年間空気扱いしておいて、いざとなったら『冗談』ですって? 笑わせないでちょうだい。
三年間、私は空気のように扱われてきた。「愛することはない」と結婚初夜に宣言され、屋敷の東の端——使用人ですら滅多に近づかない離れに追いやられた。
社交界では「地味で取り柄のない公爵夫人」と嘲笑され、義母には「実家の落ちぶれた令嬢」と蔑まれ、そして夫の傍には常にあの女——セレスティーナ・ミラベル・ホワイトローズが咲き誇っていた。
それでも私は耐えた。
実家のために。兄のために。グラウシュタイン家の名誉のために。
でも、もう十分でしょう?
「冗談ではありません、旦那様」
私は顔を上げた。三年間、決して合わせなかった視線を、真っ直ぐに彼の紫紺の瞳へ向ける。
「昨日の夜会で、旦那様は仰いましたわね。『妻とは名ばかりの存在だ。いずれ然るべき処置を取る』と」
その言葉を聞いた時、私の中で何かが音を立てて切れた。
然るべき処置、ですって? 私を追い出すつもりだったんでしょう? ならばお望み通りにして差し上げますわ——ただし、私の意志で。
「ですから、お手間を省いて差し上げようと思いまして」
私は微笑んだ。
三年間、感情を殺して作り上げた完璧な淑女の微笑み。
「あれは……そういう意味では——」
「……っ」
ヴィクトルの眉が、微かに動いた。
珍しいこと。この人の表情が変わるところを見たのは、これが初めてかもしれない。
(『そういう意味ではない』? では、どういう意味だったのかしら。三年間、一度たりとも説明してくださらなかったくせに)
「リーゼロッテ」
名前を呼ばれた。
それも初めてだった。この三年間、彼は私を「お前」としか呼ばなかったから。
(……名前を呼ばれた。初めてだわ。この人、私の名前を覚えていたのね)
今さら名前を呼んだところで、何も変わりませんわ。
「署名をいただければ、本日中に屋敷を出ます。ご安心ください、慰謝料も財産分与も求めません。私が持ち込んだ嫁入り道具だけ——いえ、それすらも結構ですわ」
立ち上がり、スカートの裾を整える。
「三年間、お世話になりました」
完璧な礼の角度。完璧な声音。
——完璧な、決別の作法。
「待て」
背後から、低い声が追いかけてくる。
私は振り返らなかった。
「待てと言っている、リーゼロッテ」
足音。椅子を蹴倒す音。
(あら、『氷の公爵』が椅子を蹴倒している。珍しいこともあるものね。もっとも、三年遅いけれど)
「私は許可していない」
手首を掴まれた。
驚くほど強い力で。
「離婚など、認めるわけがないだろう」
その言葉に、私は初めて振り返った。
「認める、認めないの問題ではありませんわ」
静かに、けれど明確に告げる。
「……何?」
紫紺の瞳が、わずかに見開かれる。
「私が決めたのです。——あなたを、過去にすると」
「っ——」
ヴィクトルの顔から、血の気が引いていく。
(ああ、その顔。その表情が見たかったのかもしれないわね、私)
彼の手が、力を失って離れた。
私はもう一度、完璧な礼をした。
「さようなら、旦那様」
振り返らずに、書斎を出る。
もう、振り返る必要はない。
◇
書斎を出た私を待っていたのは、見慣れた赤茶色の髪だった。
「——お見事でした、奥様」
執事長のニコラス・ベルトランが、いつもの快活な笑顔で一礼する。
「聞いていたの?」
「ええ、まあ。扉が薄いもので」
(嘘おっしゃい。あの扉は私の部屋の壁より分厚いわよ)
「旦那様、かなり動揺されていましたね。執事を三十年やっておりますが、あのお顔は初めて拝見しました」
「そう」
興味はない。もう、ない。
「荷物はまとめてあります。実家に戻るの」
「いえ、奥様」
ニコラスは意味深な笑みを浮かべた。
「エミール様から伝言です。『街外れの別邸を用意した。しばらくはそこで羽を休めろ』と」
兄様——。
「それから、これも」
ニコラスが差し出したのは、封蝋で閉じられた手紙。
「『ようやく動ける』、だそうです」
私は手紙を受け取りながら、小さく笑った。
(ああ、兄様。やっぱり全部知っていたのね。……ありがとう)
背後で、何かが砕ける音がした。
書斎から響いてきたそれは、おそらく花瓶か何か。
『氷の公爵』が物に当たるなど、社交界が聞いたら腰を抜かすだろう。
「行きましょう、ニコラス」
「畏まりました、お嬢様」
私は振り返らなかった。
(もう二度と、この屋敷には戻らない。——そう、決めたはずなのに。なぜかしら、胸の奥が少しだけ痛むのは)
その疑問を、私は心の奥に押し込めた。
——もう、終わったことだから。
◇ ◇ ◇
【ヴィクトル視点】
彼女が去った書斎で、俺は呆然と立ち尽くしていた。
手の中には、あの紙。
離婚届。
『あなたを、過去にすると』
あの目。
あの声。
あの——微笑み。
「……何だ、これは」
胸の奥で、何かが軋む。
痛い。
苦しい。
——なぜだ?
俺は彼女を愛していなかった。政略結婚で押し付けられた、取り柄のない妻。地味で、つまらなくて、感情の見えない人形のような女。
三年間、必要最低限の会話しか交わさなかった。同じ屋敷にいながら、顔を合わせたのは月に数回程度。
彼女は常に俯いていた。
何を言っても、何をしても、黙って従うだけ。
反論もなければ、不満の色も見せない。
だから俺は——いや、違う。
「……違う」
頭を振る。
今、彼女は俺を見た。真っ直ぐに。
あの灰青の瞳は、こんなにも深い色をしていただろうか。
『私が決めたのです』
決めた。
彼女が。自分の意志で。
俺ではなく、彼女が。
「——っ」
手近にあった花瓶を掴み、壁に叩きつけた。
砕ける音。飛び散る破片。
「何なんだ……何なんだ、これは……!」
心臓が早鐘を打っている。
体の芯が、得体の知れない感情で震えている。
これは何だ?
怒り?
屈辱?
——それとも。
「旦那様」
扉が開き、母——マルグリットが姿を現した。
「何の騒ぎです。書斎から物音が……まあ、この惨状は」
花瓶の破片と散らばった花を一瞥し、母は眉をひそめた。
「あの女、何かしましたの?」
『あの女』。
母はいつもリーゼロッテをそう呼んだ。
「……リーゼロッテが」
口にした瞬間、違和感に気づく。
俺は今まで、彼女の名を何度口にした?
「リーゼロッテが、離婚届を持ってきた」
「まあ」
母の顔に、驚きはなかった。
むしろ——満足げな微笑みさえ浮かんでいる。
「ようやく自分の立場を理解したのですね。結構なことですわ」
「……何?」
「ヴィクトル、これは好機です。あの実家の落ちぶれた令嬢との縁を切り、セレスティーナ嬢を正式に迎えれば——」
「母上」
俺は低く遮った。
「俺は離婚届に署名するとは言っていない」
「……は?」
母の目が見開かれる。
俺自身も、何を言っているのかわからなかった。
離婚。
リーゼロッテがいなくなる。
この屋敷から、俺の人生から、永遠に消える。
それは——。
「ヴィクトル、何を言っているのです。あなた自身が『愛することはない』と——」
「黙れ」
叫んでいた。
「今は……一人にしてくれ」
母が何か言おうとするのを背に、俺は書斎を飛び出した。
向かった先は、東の離れ。
リーゼロッテの部屋。
——いや、だった場所。
扉を開けた瞬間、息が止まった。
何もなかった。
ベッドには真新しいシーツ。クローゼットは空。窓辺には花一輪すらない。
三年間、彼女がここで暮らしていた痕跡が、綺麗に消えていた。
「……いつから」
いつから準備していた?
いつから決めていた?
俺は壁に手をついた。
息ができない。
視界が歪む。
彼女は笑っていた。あの最後の瞬間、完璧な微笑みを浮かべていた。
あれは——。
諦めの顔だ。
気づいた時には、膝が床についていた。
「……っ、は、」
何かがこぼれ落ちる。
目の奥から、熱いものが。
「何を……何をしている、俺は……」
三年間、彼女を見なかった。
三年間、彼女の声を聞かなかった。
三年間、彼女を——。
「リーゼロッテ……」
名前を呼ぶ。
返事はない。もう、ここにはいない。
俺が追いやった。
俺が無視した。
俺が、壊した。
「戻って来い……」
誰もいない部屋で、俺は初めて願った。
「戻って来い、リーゼロッテ……!」
答える声は、どこにもなかった。
◇ ◇ ◇
街外れの別邸は、想像以上に心地よい場所だった。
白壁と緑の蔦に彩られた小さな館。手入れの行き届いた庭には色とりどりの花が咲き、小鳥たちがさえずっている。
「……ここが、私の新しい居場所」
窓辺に立ち、朝の光を浴びる。
三年ぶりだった。
こんなにも清々しい朝を迎えるのは。
公爵邸の東の離れは、日当たりが悪かった。湿気がちで、冬は底冷えがして、夏は風が通らなかった。
それでも文句は言わなかった。言えなかった。
「おはようございます、お嬢様」
「——っ」
振り返ると、ニコラスが朝食のトレイを持って立っていた。
「ニコラス、ノックくらいしなさい」
「致しましたよ? 三回ほど」
「……聞こえなかったわ」
「物思いに耽っておいででしたからね」
(この男、相変わらず遠慮がないわね)
「それと、『お嬢様』はやめてちょうだい。もう子供じゃないのよ」
「おや、しかしエミール様からは『妹を実家にいた頃のように世話しろ』と厳命されておりまして」
「兄様を言い訳に使わないで」
「滅相もない。——さ、朝食をどうぞ。お嬢様の好きな焼きたてのクロワッサンと、蜂蜜入りの紅茶です」
「………」
好きな、もの。
公爵邸では、そんなこと考えたこともなかった。出されたものを黙って食べるだけ。好みを主張する余地などなかった。
「ニコラス」
「はい」
「あなた、ずっと知っていたのね。私がグラウシュタイン家の者だったこと」
「……ええ」
ニコラスは静かに認めた。
「私は元々、お嬢様のお父上——先代グラウシュタイン伯爵に仕えていた者です。お嬢様が公爵家に嫁がれる際、エミール様の指示で『監視役』として潜り込みました」
「監視、ね」
「ご不快でしたか?」
「いいえ」
むしろ——。
「あなたがいなければ、私はあの三年間を生き延びられなかった」
ニコラスの目が、一瞬だけ揺れた。
「……勿体ないお言葉です」
「事実よ。夜会の前に人目を盗んでお茶を届けてくれたこと、具合が悪い時にこっそり医者を呼んでくれたこと、義母様の嫌味から逃れる口実を作ってくれたこと。——全部、覚えているわ」
「………」
「ありがとう、ニコラス」
彼は深く頭を下げた。
「これからも、お側に」
「ええ。よろしくね」
◇
朝食を終えた頃、玄関から声が聞こえた。
「リーゼロッテ! いるんだろう!」
兄の声だ。
「エミール様、お静かに。近所迷惑でございます」
「うるさい、久しぶりに妹に会えるんだ、はしゃいで何が悪い」
(……兄様、病弱設定はどこにいったのかしら)
階段を降りると、穏やかな笑顔を浮かべた兄——エミール・フォン・グラウシュタインが立っていた。
「リーゼ」
「兄様」
「——よく、戻った」
抱きしめられた。
強く、けれど優しく。
「……っ」
涙が、出そうになった。
三年間、誰にも抱きしめてもらえなかった。誰にも「よく頑張った」と言ってもらえなかった。
「三年間、よく耐えた」
まるで心を読んだように、兄が言った。
「もう無理しなくていい。泣きたければ泣け。怒りたければ怒れ。——お前は自由だ、リーゼ」
「……兄、様……」
堪えきれなかった。
三年分の涙が、堰を切ったように溢れ出した。
「悔しかった……っ」
「ああ」
「辛かった……寂しかった……っ」
「知っている」
「でも、泣けなかった……泣いたら、負けだと思った……っ」
「——お前は負けてなどいない」
兄が私の肩を掴み、真っ直ぐに見つめた。
「自分の意志で離婚届を突きつけたお前は、誰よりも強い。誇れ、リーゼ。お前は勝ったんだ」
「……勝った?」
「ああ。あの冷血公爵、今頃発狂しているだろうさ」
兄の目が、悪戯っぽく光る。
「聞いた話だと、屋敷中の使用人を動員してお前の行方を探させているらしい。もちろん、見つかるはずがないがね」
「……兄様が手を回したの?」
「当然だ。俺がどれだけの情報網を持っているか、あの公爵は知らない」
穏やかな見た目に似合わぬ、冷酷な笑み。
(そうだった。兄様は『影の実力者』なんだった……)
「だがリーゼ」
兄の顔が、真剣なものに変わる。
「いずれ、あの男はお前を見つけ出す。その時——どうする?」
「………」
どうするか。
正直、考えていなかった。
離婚届を突きつけることで頭がいっぱいで、その先のことまで想像できなかった。
ヴィクトルが追ってくる?
あの、私に無関心だった男が?
「……想像できないわ」
「だろうな。だが、可能性は高い」
「なぜ?」
「お前が去った後、あの男がどうなったか知っているか?」
首を振る。
「花瓶を壁に叩きつけ、使用人を怒鳴り散らし、お前の部屋で膝をついて泣いていたらしい」
「——え?」
泣いた?
あの、『氷の公爵』が?
「嘘でしょう」
「複数の目撃証言がある。——あの男、お前を失って初めて気づいたんだろうさ。自分が何を捨てようとしていたか」
「………」
何かが、胸の奥でざわめいた。
それは——何だろう。
喜び? 満足?
それとも、もっと別の——。
「リーゼ」
兄が私の頬に手を当てた。
「俺は、お前の味方だ。お前が奴を許すと言うなら支えるし、二度と会いたくないと言うなら生涯隠し通す」
「………」
「だが、一つだけ覚えておけ」
「……何を?」
「——お前の人生は、お前のものだ。誰かのために我慢する必要はもうない。自分の心に、正直になれ」
私の心。
三年間、殺し続けてきた心。
そこには今、何があるのだろう。
憎しみ?
悲しみ?
それとも——
「……考えさせて」
「ああ、ゆっくりでいい」
兄が優しく微笑んだ。
「まずは休め。美味いものを食べて、よく眠って、三年分の疲れを癒せ。難しいことは、それからでいい」
「……うん」
「よし。——ニコラス!」
「はい、エミール様」
「妹に最高のもてなしを。金は惜しむな」
「畏まりました」
「あと、あの公爵が近づいてきたら即座に報告しろ。その前に『迷子になってもらう』手筈を整えてある」
「抜かりなく」
(兄様、何を企んでいるのかしら……)
不安はあった。
でも、それ以上に——
「……ありがとう、兄様」
「水くさいな。家族だろう」
その言葉が、胸に染みた。
私には、味方がいる。
帰る場所がある。
もう、一人じゃない。
窓の外では、穏やかな風が花を揺らしていた。
新しい人生の、始まり——。
◇ ◇ ◇
その頃。
オーレンシュタイン公爵邸の応接間には、蜂蜜色の巻き毛が揺れていた。
「あら、ヴィクトル様。お呼びいただけて光栄ですわ」
セレスティーナ・ミラベル・ホワイトローズ。
社交界の華と謳われる美女は、勝ち誇った笑みを浮かべていた。
(やっとあの地味女が消えた。これでヴィクトル様は私のもの——)
「座れ」
「え?」
冷たい声に、笑みが凍りついた。
ヴィクトルの目は、かつてないほど冷え切っていた。
「お前に聞きたいことがある」
「な、何でしょう?」
「リーゼロッテに何をした」
「——は?」
意味がわからなかった。
何をした、とは?
「あの女が……あの、地味な奥様が、何か?」
「『地味な』だと?」
ヴィクトルが立ち上がった。
「お前があの女をどう呼んでいたか、俺は知っている。『何もできない案山子』『夫に愛されない哀れな人』『消えてしまえばいい』——」
「そ、それは……」
「妻を追い詰めていたのはお前か」
「追い詰めてなど——」
「黙れ」
声が、凍りついた刃のように空気を切り裂いた。
「俺はお前を妻にするつもりなど、一度たりともなかった。勝手な期待をして、俺の妻を虐めるな」
「わ、私が……虐める……?」
「帰れ。二度と俺の前に姿を見せるな」
「ヴィクトル様——!」
「聞こえなかったか? 帰れと言っている」
使用人が現れ、セレスティーナの腕を掴んだ。
「い、いやっ、離して——ヴィクトル様! ヴィクトル様!」
叫び声が遠ざかっていく。
ヴィクトルは振り返りもしなかった。
「……リーゼロッテ」
誰もいない応接間で、彼は妻の名を呟いた。
「俺は……俺は、お前を……」
愛していたのか?
その問いに、答えは出なかった。
ただ一つ、確かなことがある。
——彼女がいない世界は、こんなにも色を失っている。
「必ず見つける」
誓うように呟き、ヴィクトルは窓の外を見つめた。
どこかで、彼女も同じ空を見ているのだろうか。
——追いつくまで、どれほどかかっても。
◇ ◇ ◇
翌日。
俺は屋敷中の使用人を集め、問い詰めた。
「リーゼロッテ——妻の行き先を知っている者はいるか」
誰も答えない。
いや、答えられないのだ。彼女がどこにいるのか、本当に知らないのだから。
「執事長」
「……おりません」
ニコラスはすでにいなかった。
妻と共に、消えていた。
「くそ……っ」
全員に命じた。
「全員、妻の行方を探れ。見つけ次第、俺に報告しろ。——必ず、連れ戻す」
ざわめきが広がる。
『氷の公爵』が妻を探している。
『愛することはない』と言い放った男が、必死になっている。
滑稽だろう。
愚かだろう。
だが、構わない。
俺は必ず彼女を見つける。
見つけて——。
(どうする?)
その先が、見えなかった。
謝る? 許しを請う?
三年分の仕打ちを、どうやって償う?
わからない。
だが、一つだけ確かなことがある。
——俺はもう、彼女を手放せない。
失って初めて気づくなど、これ以上ない愚かさだ。
だがそれでも。
「待っていろ、リーゼロッテ」
静かに、しかし確かな意志を込めて呟く。
「必ず——必ず、お前を」
取り戻す、と言いかけて、気づいた。
彼女は物ではない。
『取り戻す』などと言う権利は、俺にはない。
では、何と言えばいい?
わからないまま、俺は動き出した。
——三年分の後悔を、胸に抱えて。
◇ ◇ ◇
——一週間後。
私は別邸の庭で、久しぶりに絵を描いていた。
「お嬢様、お上手ですね」
「……昔は好きだったの。公爵邸では、そんな暇なかったけれど」
暇がなかったわけではない。
暇があっても、そんな気力がなかったのだ。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
カップを受け取り、一口。
——美味しい。
当たり前のことが、こんなにも幸せだなんて。
「お嬢様」
「何?」
「……実は、報告がございまして」
ニコラスの声が、わずかに硬くなった。
「あの方が、動き出しました」
「あの方?」
「——ヴィクトル様です」
筆が、止まった。
「王都中の情報屋を買収し、貴族のツテを総動員して、お嬢様の行方を探しておられます。このままでは、一月以内にこの場所も——」
「そう」
自分でも驚くほど、冷静な声が出た。
「……どう、されますか?」
「どうもしないわ」
立ち上がり、空を見上げる。
「来るなら来ればいい。でも——」
振り返り、微笑んだ。
「——私はもう、戻らない。それだけは、変わらないわ」
「……畏まりました」
ニコラスが深く頭を下げる。
「お嬢様のお気持ち、必ずお伝えします」
「ええ。——ああ、そうだ」
「はい?」
「もし会うことがあったら、伝えて」
『あなたが私を過去にしようとしたように、私もあなたを過去にしました。お互い様でしょう?』——と。
「……お見事です、お嬢様」
ニコラスが、笑った。
◇ ◇ ◇
そして——。
運命の日は、思ったよりも早く訪れた。
「——リーゼロッテ」
庭で絵を描いていた私の前に、ヴィクトルが立っていた。
息を切らせて。
髪を振り乱して。
およそ『氷の公爵』とは思えない、取り乱した姿で。
「……あら、旦那様」
私は筆を置いた。
「いいえ、もう旦那様ではありませんわね。——元・旦那様」
「っ——」
「どうやってここを? 兄様の網を潜り抜けるなんて、大変だったでしょう」
「……そんなことはどうでもいい」
ヴィクトルが一歩、近づく。
「戻ってきてくれ」
「お断りします」
「……っ、なぜだ」
「なぜ?」
思わず、笑ってしまった。
「三年間、私を空気扱いしておいて、『なぜ』ですって?」
「あれは——」
「『愛することはない』と仰いましたわね」
「……」
「『妻とは名ばかりの存在だ』とも」
「……」
「ああ、『いずれ然るべき処置を取る』もありましたわね。——さて、どれから弁解なさいます?」
「……弁解など、できない」
ヴィクトルが、膝をついた。
「俺は愚かだった。お前を見なかった。お前の声を聞かなかった。お前の価値を、何一つ——」
「それで?」
「謝らせてくれ」
「謝罪は受け取りましたわ。それで?」
「もう一度、機会をくれ。やり直させてくれ」
「お断りします」
即答した。
「……なぜ」
「旦那様——いえ、ヴィクトル様」
私は腰を下ろし、彼と目線を合わせた。
「私はもう、あなたの妻ではありません。あなたのために我慢する必要も、耐える必要も、微笑む必要もないのです」
「……」
「ようやく自由になれたのですわ。——それを、また手放せと?」
「俺は……」
「あなたは今、『失ったもの』が欲しいだけ」
静かに、けれど確かに告げた。
「私という『人間』が欲しいわけではない。——違いますか?」
「違う」
「では、私の好きなものを言えますか?」
「……」
「好きな花は? 好きな食べ物は? 好きな本は? 好きな音楽は?」
「……」
「——一つも、知らないでしょう?」
ヴィクトルの顔が、蒼白になった。
「三年、一緒に暮らして。三年、同じ屋敷にいて。——あなたは私のことを、何一つ知らない」
「……」
「それでも『やり直したい』と仰るのですか? 何を、やり直すのです?」
「……俺は」
「帰ってください、ヴィクトル様」
立ち上がり、彼を見下ろす。
「あなたが私を過去にしようとしたように、私もあなたを過去にしました。——お互い様でしょう?」
「……待ってくれ」
ヴィクトルが、私の裾を掴んだ。
かつての『氷の公爵』が、まるで捨てられた子供のように。
「せめて、時間をくれ」
「……時間?」
「お前のことを知る時間を。——三年分の、埋め合わせをする時間を」
「……」
「今すぐ答えを求めているわけじゃない。ただ——」
「ただ?」
「——もう一度だけ、俺を見てくれ」
その目に、嘘はなかった。
傲慢さも、冷たさも消え失せた、ただの一人の男の目。
「……三年」
「え?」
「三年、待ってもらいました。——今度は、あなたが三年待ってください」
「三年……」
「その間に、私のことを知ってください。好きなもの、嫌いなもの、どんな時に笑って、どんな時に泣くのか」
「……」
「三年後、もしあなたがまだ私を求めるなら——その時、もう一度お話ししましょう」
「……約束、してくれるか」
「約束はしません」
微笑んだ。今度は、作り物ではない、本当の微笑み。
「——でも、可能性は残しておきますわ」
ヴィクトルの目が、微かに潤んだ。
「……ありがとう」
「お礼を言われることではありませんわ」
「いや、ありがとう。——お前は、俺を見捨てなかった」
「……見捨てたのは、あなたの方ですわ」
「ああ。——だから、これからは俺が追いかける」
立ち上がり、私の手を取った。
「三年、待つ。——必ず、お前にふさわしい男になって戻ってくる」
「……期待しないで待っていますわ」
「それでいい」
彼は微笑んだ。初めて見る、穏やかな笑顔だった。
「——三年後に」
去っていくその背中を、私は静かに見送った。
「……馬鹿な人」
呟いた声は、思ったより柔らかかった。
「お嬢様」
「何?」
「——笑っておいでです」
「……そうかしら」
頬に手を当てる。
確かに、口角が上がっていた。
「……そうね、笑っているわ」
なぜかしら。
あんなに憎かったはずなのに。
あんなに恨んでいたはずなのに。
——でも、悪くない気分だった。
「三年、ですか」
「ええ」
「長いですね」
「あっという間よ」
空を見上げる。
青い空に、白い雲が流れていく。
「——さて、これからどうしましょうか」
「何でもお好きなことを、お嬢様」
「そうね」
私は筆を取った。
「まずは、この絵を完成させましょう」
キャンバスには、まだ何も描かれていない青空があった。
これから何を描くかは、私が決める。
——私の人生は、私のもの。
兄の言葉を思い出しながら、私は静かに筆を走らせた。
【完】
〜後日談〜
三年後。
社交界を揺るがすニュースが駆け巡った。
『氷の公爵、元妻と再婚——三年越しの求婚』
その日、王都中の花屋から淡い青の花が消えたという。
理由を聞かれた公爵は、珍しく照れくさそうに答えたそうだ。
「——妻の、好きな花だ」
〜本当の完〜




