64. うまくいかない時も、あるよね
・ ・ ・ ・ ・
夜と朝の境目が、どんどんあいまいになってゆく日々。
まだ真っ暗い厨房、アンリは炉の灯りをたよりにして、前夜から水につけておいた豆をていねいに洗っていた。
つやっとふくらんだ白いんげん豆は、アンリのぶっとい指の間で、小さな卵みたいにころころしている。
――今年も、あと残りひと月かぁー。何だかんだで、激動の一年だったなぁ!
「去年の今ごろは、どうしてたっけねぇ。ティー・ハル?」
流しの上で豆の入ったざるの水を切ってから、アンリは調理台前の壁にかけた平鍋に向かって、ぼそりと言葉をかけた。
『なんだ。たった一年前のことも忘れとるんか? お前は』
平鍋は少々あきれて問い返した……。
ほんとにこの若僧は、料理以外のことはまるきりどうでもいいらしい。心配なやつだ、と鍋なりに気をもんでいた。
しかし鍋の心アンリ知らず、独白調で料理人はぶつぶつしゃべり続けている。
「去年の闇月って言ったら、まだ≪岬の集落≫でおばあちゃんちに居候してたんだ。小者大者、各地のならず者どもをつぶしては焼き目を入れる日々……。その間にも、自分の店を持つと夢みて、俺はティー・ハルをみがいていたのだっけ」
ふふう~、とアンリはため息をつく。
豆を大鍋に入れて、あらたに水を注ぐと、それまでかかっていた鍋を炉から持ち上げ置き換えた。
「暗く長い冬は、果てしなく続くかに思われた……。しかし今年白月、混成イリー軍のテルポシエ進攻を前に、≪赤い巨人≫が出現したことですべてが変わった」
ぺか……! 料理人の頬に、ほのかなてかりが灯る。
「瀕死の重傷をおいつつも、邪悪なる巨人とその禍々しき鍋とを封印することに成功したお姫さまは、我らがテルポシエ女王の座を卒業し。俺の≪金色のひまわり亭≫の女将さんとして、就職してくだすったのだ。故国の平和と、腹ぺこちゃん達の安寧のために……!」
『お前の中では、そういう話になっとるんかい』
平鍋は突っ込みを入れた。だいぶ違っている。
アンリは炉にたきつけをくべ、火力を上げていった。鍋の中が泡だってゆく。
それをおたまでかき混ぜ、あくをすくって取りのぞきながら、アンリはまだまだ呟いている。
「そう。俺は念願の店を持つにいたった。しかし本当の戦いは、そこからだった……。店があってもお客が食べに来てくれないことには、飲食業は成り立たないと言うきびしき現実に直面したのだ!」
『気づけよ』
「狙撃はお任せの俺だけど、さすがに閑古鳥をうち落とすことはできない。苦心と工夫を重ね、来客数の少なさに心折れそうな時もしょっちゅう……。しかし今日までそれを乗り越えられているのは、ひとえに皆さんとティー・ハルがいるからなのだね……!」
言いつつ、手は休めずにしゃかしゃか動かしている料理人である。
「さあ、灰汁とりはこんなもんかしらん。ふたをして、とろ火にして~」
そこで両のこぶしを腰にあて、ぐわっと目を見開いて、ぎぎーんと鍋を見据えた。
「よ~く、おいしく煮えるんだよう! お豆ちゃんたちっっ」
……まさか、眼光で圧力をかけているつもりなのだろうか。それで圧力鍋??
「いやー、こうすると本当に早くよく煮えるんですもん。おや、ビセンテさんがもう帰ってきたのかな? ……ってあらら、ナイアルさんだ。おはよう、ミオナちゃー……」
ぺかっと光って、厨房入口の方を振り向いたアンリの焼きたて頬っぺたが、急速にしぼんでつやを失くした。
「……どうしたの?」
しょんぼりした様子の娘は、副店長の少し後ろで元気なくうつむいている。
炉の明るさに、ミオナの鼻の赤いのがよくわかった……両眼も、だ。
寒い中を歩いてきたから、というだけではなさそうである。ナイアルが肩をきゅっと上げて、後ろを振り返りつつ言った。
「ゆうべ遅くにな、お習字の昇級試験の合否通知が届いたんだよ。それを朝いちで見て……この調子だ」
「あっ……」
アンリの焼きたて頬っぺたに、……小さなひびが入る。




