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沙門空海 大いに語る

「……救いとは、“忘れぬこと”です」


そう言って立ち去ろうとした空海の背に、

田村麻呂はなおも声を投げた。


「では……忘れぬことで、人は救われるのか?」


足を止める空海。

振り返ることなく、だが、庭の真ん中に腰を下ろした。


「坂上田村麻呂殿。人の心とは火です。

小さく燃えれば灯明となり、道を照らします。

だが吹けばほむらとなり、人を焼き尽くします」


田村麻呂は黙って聞いていた。

空海の言葉には、何か、現世ではない場所から来る響きがあった。


「戦場にて斬った者の顔を、あなたはすべて覚えていますか?」


「……否」


「では、名は?」


「……否」


空海は、そこで初めて振り返った。

その目は、深い井戸の底のように静かで、底知れぬ黒を湛えていた。


「では、あなたは誰を殺したのです?」


田村麻呂の眼が揺れた。

風が止み、音も止んだ。

そこには、ただ“問い”だけがあった。


「……敵を斬った。それだけのことだ」


「敵とは誰です?

あなたの前に立った者?

刃を交えた者?

それとも――朝廷がそう定めた者?」


田村麻呂の眉間に刻まれた皺が、さらに深くなった。


「将軍。

仏は、敵を斬るなとは申さぬ。

だが――斬った者の顔を忘れるなとは申します」


沈黙。

その言葉は、まるで刃であった。

敵を斬ったこの男の胸を、逆に突いた。


空海はゆっくり立ち上がり、今度は正面から歩み寄ってきた。

その足音は軽く、だが地を踏むたびに、何かを貫くような気配があった。


「阿弖流為が生きていたとして、

それは仏法における転生ではない。

あれは――おぬしの“慈悲”の残骸。

おぬしが憐れんだもの、救いたかったもの、

その思いが鬼となって現れたのです」


「……それが、あの男の正体か?」


「そうとは限らぬ。

真に生きていたなら、それは地の因果。

死して現れたなら、それは心の業。

だが、どちらにせよ、問われるのは同じ」


空海は、まっすぐに田村麻呂を見据えた。


「――おぬしは再び、その者を斬れますか?」


田村麻呂は答えなかった。

答えられなかった。


空海は最後に、こう言った。


「もし再び刃を振るうならば、覚えておくがよい。

鬼とは外に在らず、己のうちにこそ棲む。

おぬしが仏であり続ける限り、

鬼は滅びる。

だが、おぬしが鬼になれば――そのとき鬼は生き残るのです」


そのまま、空海は立ち去った。


錫杖の音が遠ざかるたび、田村麻呂の耳には何かが残っていた。

それは焔のような言葉。

胸に宿った“忘れられぬ顔”たちが、目を開いて囁くような、重い響きだった。


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