夜鬼 再び来たる
夢か現か。
その夜、田村麻呂は冷や汗を流して目を覚ました。
胸の奥が灼けるように熱い。
夢の中で、またあの女が現れた。
薬子――
哀れにも思い、
美しいとも思い、
だがそれゆえに、いまは鬼と成った女。
「……またか……」
立ち上がろうとしたその瞬間。
襖が、ひとりでに開いた。
風は吹いていない。
蝋燭も揺れていない。
ただ、そこに――“女”が立っていた。
十二単。
長い髪。
白く美しい半身と、崩れた死の半身。
「将軍……忘れてはいただけぬ。
私を哀れんだその目。
私を見ていたその時……
あれが、私の最期の幸福だったのよ」
田村麻呂の眼が鋭くなる。
「……もはや鬼だ。
おまえに情けはかけぬ」
「ならば、その“情け”を返していただくわ。
心ごと……魂ごと……!」
薬子の髪が空を裂き、蛇のごとく伸びて田村麻呂に絡みつく。
その瞳に映るは、かつての京、崩壊する愛、踏みにじられた名誉。
そして、田村麻呂の心奥に眠るひとひらの“哀惜”。
「ぐ……っ!」
身体が動かない。
霊力ではない。
情念で縛られていた。
「貴様……!」
視界が赤く染まりかけた、そのとき。
――鈴の音。
カン――。
床に閃光が走った。
その光が女の身体を裂くように貫いた。
「……そこまでだ、薬子」
そこに立っていたのは、またしても、空海だった。
結界を背に、右手には錫杖、左手には数珠。
「空海……また貴様か……
なぜそこまでして、あの男を守る……
あの男の心こそが、私の“鬼”を生んだのだぞ……!」
「だからこそ、守る。
“慈悲”と“執着”は、同じ井戸から汲まれる水。
だが、その水をどう使うかは、人の業ではない――仏の道だ」
空海が数珠を振ると、珠のひとつひとつが光り始める。
「オン・バザラ・アランカン・ソワカ……!」
唱えるとともに、数珠の珠が宙に舞い、薬子の髪を次々と断ち切っていく。
薬子の身体が悲鳴をあげる。
「空海……!
おまえに、女の業がわかるか……!
私のような女が、どれほどの屈辱を飲んだか……!」
「わからぬ。
されど、わからぬまま、祈ることはできる」
その瞬間、空海の錫杖が地を撃つ。
地鳴りのような音が響き、庭に大日如来の印が浮かび上がる。
薬子の霊体が、それに吸い寄せられるように動きを止めた。
「……空海……貴様は……
貴様だけは、私を女として、最期まで見なかった……
そのまなざしが、いちばん……憎かった……!」
彼女の眼から、一滴の涙がこぼれる。
それは、怨みの涙ではなかった。
「……いつか、また……
どこかで、“女”として、生まれ変わりたかった……」
そして――
風が吹いた。
女の姿は、夜風に溶け、白い煙のように天へと昇っていった。
残されたのは、田村麻呂の胸に焼け付くような記憶。
そして空海の背に揺れる、沈黙。
⸻
しばらくして。
田村麻呂は、空海に向かって言った。
「……これで終わったのか?」
空海は、そっと首を横に振った。
「“鬼”は、一人ではない。
おまえの心にも、アテルイの怒りにも、
大嶽丸の怨念にも――
いずれまた“種”が芽吹く」
「そのときは――また、おまえが祓うか?」
空海は答えなかった。
ただ、田村麻呂を一瞥し、夜の彼方へと歩き去っていった。