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死んで当然  作者:
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第五章

 七月五日

 昨日一日かけて、由民党の親善会に忍び込む方法を考えた。その結果、親善会の会場を警備しているであろう警備員を襲い、服や身分証を奪うことにした。かなり無謀ではあるが、他にいい方法も思いつかない。それにどうせ俺に失う物なんてない。失敗が確定した瞬間、持ちうるすべての爆弾を起爆し、クズどもと心中でもするか。ありったけの爆薬と、警備員を襲う用のスタンガンを鞄に詰め、家を出た。

 昨日の報道のおかげで、親善会がどこで行われるかはすでに把握している。都市近くの高級住宅街、そこから少し離れたところにある広大な面積を持つ屋敷が目的地だ。そこは由民党党首である石田哲郎の家らしい。国民から馬鹿みたいに高い税金を巻き上げ、その金を使って自分は気ままな豪遊生活を決め込んでいるのだ。腹立たしくて仕方がない。だが、人柄はどうあれ住んでいる人物が重役だというのは揺るぎもない事実である。そのせいで近辺は常に中規模の警戒状態が続いているが、先日の爆破事件を受け、警戒が最大限にまで高まっている。周辺に住んでいる者をすべて調べ上げ、それに該当しない人間が現れた瞬間、その人物にいかなる理由があろうとも職務質問を行ったり追い返したりするそうだ。そのあまりの横暴さに少しSNSでも話題になったりしたものの、近辺に住んでいる人間以外にはあまり関係がないせいで大きな問題とはならなかった。だが、これはいい情報かもしれない。一人で職務質問を仕掛けてくるのならそいつを襲えばいい。二人以上で来るなら一旦その場を離れるなどして仕切りなせばいいだろう。俺には時間がある。向こうは無駄に忙しいに違いない。

 午前十時頃、そろそろ親善会が始まる頃だろうとヤマをはり、高級住宅街まで来ていた。ここに来たのは初めてだが、とてつもない違和感がある。人が多いのだ。それも同じ方向に向かってぞろぞろと列をなしている。誰も彼も若く、あまりここに縁があるようには見えない。全員どこか浮ついたような眼をしており、あまり現実感がない。奴らが向かう方向は俺の目的地でもある石田哲郎邸

 予想通り、若者の集団は石田邸に向かっている。と思いきやいきなり列の動きが止まった。それと同時に前の方で騒ぎが起きている。おそらく先頭集団と警備員が小競り合いでも始めたのだろう。しかし、それはすぐに終わった。またもや列は動き出し、こちらを抜く羅しげに眺める警備員の視線を背に受け、石田邸の門をくぐることに成功した。俺が紛れた列はすでにバラバラになり、石田邸中に広がっている。しかし、この家はあまりにも広い。一等地とはいえ都市郊外ではあるし、広い土地を買えたのだろう。馬鹿みたいな給料をもらって生活しているせいか、庭も広ければ家自体も大きい。しかし、一度中に入ってしまえばこちらのものだ。招待客のふりをしてそこら中を歩き回れる。早速爆弾を仕掛けに屋敷の中へ入った。

 外観からわかっていたことではあるが、中もやはり恐ろしいほど広い。そのくせ適当に増設でもしたのか乱雑な作りになっており、足を踏み入れると一瞬で迷ってしまう。さらに、ここには中庭もあるらしくどこの窓を覗いても景色があまり変わらないせいで余計に方向感覚が狂いそうになる。俺は廊下の途中や突き当りに置いてある花瓶の裏に爆弾を隠し、センサーのスイッチをいれながら歩いていた。おいて行った爆弾を目印にしていたが案の定迷い、すでに爆弾を置いた花瓶にもう一度爆弾を仕掛けようとしてしまいそうになることも幾度がありつつも、何とか迷宮を進んでいた。持ってきていた爆弾のうち、半分を仕掛け終えたところでちょうど中庭に到着した。この調子でいけば家全体に爆弾が行き届くだろう。中庭では次の選挙に出馬する候補者を励ますための立食パーティーが行われていた。しかし、誰も出された料理に手を付けることなどなく必死に支援者へ媚を売っていた。あまりにもみじめではあるが、それも後臭時間程度なのだから好きにさせてやるとしよう。それよりも、腹が減った。もう昼時なのに飯を食えていない。せっかくだし、テーブルに出されている料理を食べてしまおう。どうせ誰も食べていないし、食べ物を粗末にするのはいただけない。心の中でいただきますと言いながらサンドイッチに手を伸ばした時、後ろから声をかけられた。

「失礼、どちら様かな?君のような若者とは会ったことはない気がするんだがね」

声をかけてきた男はよりにもよって石田哲郎本人だ。かなり不味い。俺が不法な手段でここに入ったことがばれてしまう。もしそうなれば俺のここまでも苦労が……。だが、今ここで暴力に訴えることはできない。周りに人が多すぎる。いっそのことここで爆弾を爆発させるかと思い、ポケットの中に忍ばせていた起爆スイッチに手を伸ばした時、ある男が割り込んできた。

「ああ、すいません石田さん。その子は私の連れなんですよ。私の会社の新人でしてね、社会勉強を兼ねて連れてきていたんです。警備員の方々にはお伝えしていたんですが……。どうもすみません」

「ああ……、宮下さん。なるほど、そうでしたか。では、今日そこら中にいる若者はすべてあなたの連れということですか」

「ええ、そうです。ご迷惑でしたら今からでも帰りましょうか?」

「いや、そんな自分を卑下するようなことはやめてください。……まあ、いいでしょう。若い人たちにとって、このような環境は縁がないでしょうからね。社会勉強としてはちょうどいいでしょうな」

「では……?」

「ええ、今日の親善会は参加していただいても構いません。……君、だからと言って大人の話に割り込んだり聞き耳を立てたりしないでくれよ。一般人には聞かせられない話もあるからな。では」

最後、石田は俺に無駄な釘を刺すと、向こうにいる四人程度の集まりに混ざっていった。話に割り込んできた宮下は石田が向こうに行ったことを確かめると、俺の方に向き直り小声で話し始めた。

「助け船が遅れて申し訳ありません。『浄化隊』幹部で作戦会議をしていたんです。三時間後、あの候補者の決意表明で行動を起こします。その時間になったらまた中庭に集合してください。よろしいですね?」

何の話だ?浄化隊?何を言ってるんだこいつは。だが、今ここで疑問を相手にぶつける訳にはいかない。理由はどうあれ助けてもらったのは事実だ。適当に話をあわせ、細かく二回頷いた。宮下と名乗った男は俺の返事に安心したようで、「他の人の様子を見に行ってきます。できるだけ目立つ行動は控えるようにお願いします」と言い残してどこかへ消えていった。

 訳の分からない話に巻き込まれそうで忘れていたが、俺は腹が減っていたんだ。改めてサンドイッチに手を伸ばす。今度は誰からも邪魔されない。それをいいことにテーブルの上にある料理を片っ端から食べ始めた。どうせ誰も食べないし、それなりにいいところなのだから味もなかなかいいため、手が止まらない。ひとしきり食べ終え、ベンチで休憩をしようとしたとき、また誰かに話しかけられた。

「いい食べっぷりだったね。見ごたえがあったよ」

どこかで見たような気がする顔だが、どうにも思い出せない。少し考えれば思い出せそうだが黙っているのもなんだか悪い気もする。素直に受け答えをしよう。

「失礼ですが、どなたですか?」

「ああ、これは失敬。自己紹介をしていませんね。私は石田哲司、石田哲郎は私の父です。どうぞよろしく」

石田哲郎の息子か。確か一年ぐらい前に石田の秘書になったはず。その時にテレビかなんかで見たのだろう。

「私は四十万です。こちらこそよろしくお願いします」

「四十万さん、ずいぶんお若いですよね。今おいくつ何ですか?」

「二十二歳です」

「ほう、二十二歳……。今までこのような場に縁はありました?」

「いえ、特には……」

「では今日どうしてこちらに?」

なんでこんなに根掘り葉掘り聞いてくるんだこいつは。あまりに鬱陶しい。しかし、ここで投げやりになるのもあまりよくないか。周りの目を引くような行為は控えるべきだ。

「宮下さんに連れてきてもらったんです」

「へえ、宮下さんですか。あの人は昔からずいぶん父と親しそうにしていましたよ。なんでも学生時代からの友人らしく『私が初出馬で初当選できたのは宮下さんの力添えがあったからこそだ』と、ことあるごとに父が言っていました」

あの初老の男、石田と知り合いだったのか。ならなおさら浄化隊ってなんだ?哲司は俺の返事を待たず、好きなだけ喋っている。

「父はあの時の経験から、『支援者は金持ちだけにしておけ』という教訓を得たそうで、今日ここにいる支援者も全員どこぞの企業のトップだったりするんです。でも宮下さんには父の方針にはあまり共感してもらえていなくて、ここ五年近く疎遠だったんですが……。まさかその宮下さんがわざわざ親善会に来てくれるとは思いませんでした」

いつまでこいつは興味がない話を続けるんだ。そんなにおしゃべりが好きなら企業のトップにでも媚を売っていればいいものを。

「……どうして私に話しかけたんですか?」

「どうしてと言われても……。ここには私と同じぐらいの年齢の人はあまりいません。今日は例外ですが。……でも話しかけても誰も帰してくれなくて、半ば投げやり気味だったんです。次返事が来なかったら諦めようと思っていました。……でも、あなたは私と会話をしてくれました。私はあなたとなら友達になれるような気がするんです。……すいません、初対面なのにずかずかと」

全くだ。こんな恵まれた奴と親しくなったところで惨めな気持ちにさせられるだけでいいことなんか一つもありゃしない。しかし、面と向かってそう言えるほど俺は人の情を捨てていなかった。どう返事しようか悩んでいると、哲司は父親に呼ばれ、離れていった。

 ようやく鬱陶しい人間から解放され、当初の目的であった食後の休憩をすることができる。父親に呼ばれていった哲司は、どこぞのお偉いさん共に囲まれ、何の価値もない話を繰り広げている。あの様子だと、哲司も今回の選挙に出馬するのだろう。父親の庇護があって初めて勝負の土俵に立つなど滑稽なことだ。これまでの数々の失態のツケで此度の選挙の負けは決まっている。友人になりかけた者からの優しさとして、無様に負ける前にここで殺してやるべきだ。休憩を終え、屋敷のもう半分へ爆弾を仕掛けるためにベンチから立ち上がった。

 先ほどまでいた屋敷は西館と名付けられていたらしい。ということはこちらは東館といったところだろう。こちらの内装も西館に負けず劣らず複雑である。さらに西館とは用途が違うためか、増築の方針も違っており、内装に関して西館と似通う部分はない。西館で迷った経験はあまり役には立たないだろう。またもや人様の家の中を歩き回る羽目になった。しかし、この東館。石田共の居住区域でもあるため、仕事用の西館に比べて人の目が多い。セキュリティ意識が十分あるのは良いことだが、今日だけは例外だ。とはいってもトイレの中や、廊下の隅など監視の目が行き届かないところも少なからずある。そのようなところを狙って、イレギュラーが発生したときのために何とかそれっぽい言い訳を考えて、東館の中を歩きまわった。

 おそらく東館の中を半分ほど歩き回った所、やけに人だかりができている部屋を見つけた。部屋の前にいる誰もが中へ入りたがっている。石田に雇われているスタッフたちが必死に食い止めてはいるが、かなりの圧で、今すぐにでも突破されそうだ。この部屋には何があるのか、そう思った瞬間部屋の扉が開いた。中から出てきたのは石田哲司と、スーツを着た五十代の男。男は哲司に何度も礼を告げると胸を張り、人だかりを割るようにして去っていった。その瞬間、「次は私が」という声が後を絶たない。おそらくこれは癒着の現場だ。誰が次の公権力と仲良くなれるのか。それを競っているのだろう。もしそうならばあそこまで必死になっている時点であまりにも無様だと言わざるを得ない。だが、大勢の目がここに釘付けになっているのはありがたい。今のうちに残りの爆弾を仕掛けさせてもらおうか。踵を返し部屋から離れようとしたのだが、哲司に見つかってしまった。「そこの若い人を部屋へ」と哲司が告げると、スタッフは一斉に俺を取り囲んだ。

 そのまま引きずられるように部屋に連れ込まれ、哲司と二人きりにされた。

「どうも、さっきぶりですね、四十万さん」

「……一体何の用なんです?私と話すことなど何もないでしょう」

「いや、そのようなことは決してないですよ。友人と少しでも語らいたいと思うのは不思議でもないでしょう?」

「時と場合をわきまえるべきでは?今は少しでもあのお偉いさんと話して支援者を稼ぐ時間でしょう」

「これは手厳しい。……でももうやってしまったことですし、少々お話でもしましょうよ。どうせ暇なのでは?こんなところにいてはできることなど限られていますからね」

こいつがここまで鬱陶しい人間だとは思わなかった。俺は今お前を殺す準備で忙しいんだ。お前なんかとしゃべってる暇なんて一秒たりともありゃしない。だが、ここまで図々しい人間は、こちらの意を汲むことなどできはしない。イラつきが抑えきれそうにないが、ここは仕方なくこいつに付き合ってやるとしよう。

「……わかりました。少しでいいなら付き合いましょう」

今の時刻は一時半。あと半分ほど爆弾が余っているが、こいつの長話次第では仕掛ける時間が無くなってしまう。今俺にできるのは少しでもおしゃべりが早く終わるよう相手の機嫌を悪くするような返事をすることだけだ。

「では早速……。ここからは無礼講で行こうか。僕たちは友人同士なんだ、下手な遠慮はいらない。良いよね、四十万君」

「ええ、構いません」

「おいおい、無礼講なんだからそんな他人行儀みたいな返事はやめてくれよ。もっとフランクに話してくれないか」

「……わかった。これでいいか?」

「悪くないね。……四十万君、早速で悪いんだがどこの大学出身なんだ?」

「それを聞いて何になる」

「そりゃあ、僕の支援者にふさわしいかどうかの基準を満たしているか判断するためさ。もし君が六十から七十ほどあるところ出身なら一発で合格なんだけど……」

「友人でさえも学歴主義か?ずいぶん利益目的なんだな」

「仕方ないだろう。僕の支援者になる人間はそれなりの知能を持っていてもらわないと困るんだ」

「政治家なんてこの世の中で最も頭を使わない仕事だろう?周りに頭がいい奴を置いても意味ないぞ」

「……言ってくれるね。四十万君は、僕の父が何も考えずに政権運営をしていたとでも言いたいのかい?」

「当然。ほんの少しでも、ものを考えられる頭を持ってるんなら裏金ちょろまかしたりしないだろ。結局自分は絶対選挙に勝てないから息子に仕事を押し付けようとしてるしな。これが知能ある人間の行動とは、片腹痛い」

「……ずいぶん厳しいことを言ってくれるじゃないか。……でも僕は違う」

「トンビは鷹を生まないぞ。それに今までそう言って当選したあげく消えていった政治家なんていくらでもいるからな」

「僕は決してそんなことしない。父のような愚かな行為など、決して」

「じゃあ、さっきまで何してた?どこぞのお偉いさんとこんな部屋で密談して、『父親とは違う』とは……。お前政治家の才能あるよ。舌の根の乾かぬ内によくそんなことほざけるな」

「……先ほどから少々手厳しすぎやしないか?いくら無礼講だからとはいえ、限度という物があるんじゃないかい?目上の人間に対する敬意という物がずいぶんかけているように見えるよ」

「誰が目上なんだ?」

「そりゃ、僕だろう。年も上、立場も上だ。どうせ学歴も稼ぎも僕が上に違いない」

「でも、お前さっき嘘ついてたよな?それにお前は政治家になるんだろ?ならお前が下じゃねえか」

「何を言ってるんだ。僕は、政治家で、一般人よりも上の立場なんだ」

「人様から選ばれてようやくその立場につけるってことをすっかり忘れてるな。やっぱり政治家としての素質アリだ。その傲慢さ、いずれその身を滅ぼすだろうさ」

「どうしてそんなに僕の神経を逆なでするようなことばかり言うんだ!?僕たちは友人同士じゃないのか!?」

「それは勝手にお前ひとりが盛り上がっていただけだ。俺はお前なんかと友人になるって承諾したつもりは一切ない。そもそも俺はお前みたいな運だけで生きて来た人間なんか嫌いなんだよ」

「僕のどこが運だけなんだ!」

「今日、お前はこれから何をする?親善会だろ。それも馬鹿みたいに大勢の客を呼んでな。だが、そこにお前の力なんて関与しちゃいない。親善会を開いたのも親だろ?客を呼んだのも親だろ?……こんなの準備できる親の元に生まれてるんだから、お前の人生は全部運だけなんだよ」

「……出て行ってくれ。君と話すことがここまで不快になることだとは思わなかった」

「さっきは無理やり連れ込んだのに、今度は出てけって自分勝手すぎないか?運だけの傲慢野郎にふさわしい物言いだよ。謙虚に生きろ」

「……頼むから出て行ってくれないか?僕は忙しいんだ。君みたいな一般人に構っている暇なんかないんだよ。少しでも支援者を募って、この選挙の勝利を確実なものにしなければならないって言うのに……」

「それはありがたい。俺も忙しくてな、お前みたいな何の価値もないクズと話している時間なんて本来は一秒たりともありはしないんだ。でもお前がわざわざ俺を捕まえやがるから、仕方なく、おしゃべりに付き合ってやっただけなんでな。喜んで出ていかせてもらおう。……負けちまえ、クソ野郎」

部屋から出る間際、最後の捨て台詞を吐いた。奴の顔など見えはしなかったが、どうでもいい。そんなことよりも爆弾の設置を急がなくては。スマホで時間を確認すると、時刻は二時十五分。何の益もなかったくせにやたら時間だけは浪費してしまったが、これは奴の命で清算させてやる。部屋の前に群がっている人ごみを押しのけて、まだ足を踏み入れてなさそうな場所へ向けて歩き出した。

 石田哲司のくだらない長話から解放された俺は、迷宮がごとき西館の中を歩いていた。しかし、長い時間迷い続けたおかげでようやく間取りを把握し、何とか迷わず行きたいところに行けるようになった。いたるところに爆弾を仕掛けながら歩き続け、おそらく西館内には大体爆弾を置き終わった。あとは中庭で行われる石田哲司の下らん意思表明の途中ですべて起爆させてやればいい。予定ではそろそろ始まる時間だ。爆発に巻き込まれてはかなわん。先に帰らせてもらうとしよう。


七月五日

 僕は今日、滅多に使わない駅に降り立っていた。周りには『浄化隊』のメンバーがいる。駅近くの広場にはすでに大勢が集まっていた。傍から見ればどこかのツアーグループにでも見えているのだろうか。それともあまりの歪さに少なからず不信感でも抱いているのだろうか。集まっている人たちに、少なくとも楽しさの感情は見受けられない。誰も彼も思いつめたような顔か、何かしら覚悟を決めたような顔しかしていない。それは、『浄化隊』の幹部メンバーが到着しても、『浄化隊』結成のきっかけとなった僕の姿が見えても変わることはなく、なおのこと緊張感が増すばかりである。幹部のうち二人ほどが名簿でメンバー確認を行い、全員がここにいることを確認し終わると、宮下が話し始めた。

「皆さま、本日はお集まりいただいてありがとうございます。私たちはこれから石田哲郎の屋敷に赴き、そこで行われる親善会に潜入し、会合の破壊および参加者の殺害を決行します。もし、今決意が変わった方がいるのなら今すぐ回れ右をして日常に戻ってください。私たちは決して止めるようなことは致しません」

そうは言われたものの、誰もこの場から動こうとはしない。それもそのはず、誰も希望などない日常に戻りたくはないのだ。この先が他人を傷つけることでしか歩めない道であったとしても、自らの人生を犠牲にはしたくはない。

「……皆さま、ありがとうございます。それでは早速ですが、出発いたしましょうか。作戦は現地、石田邸にてご説明いたします」

宮下が先頭に立ち、駅から歩き始めた。皆の足取りはそこまで軽くはない。人を殺すことになるかもしれないということはいくら決意をしたとはいえ、そう簡単に納得できるものではない。しかし、だからと言って納得できぬまま今まで通りの何の希望も未来もなく、惰性で生きるだけの日常には戻りたくない。そのような思いを動力源にして歩みを進めているように見える。あまりにぎこちなく、然れども決して後ろを向くことはない。

 駅から歩いてどのぐらい経っただろうか。誰も一言も交わすことなく歩いているせいか、雰囲気が重く釣られるように足取りも重くなっている気がする。そのせいもあってかなり疲れを感じるが、もしかするとそこまで歩いていないかもしれない。だが、目的の石田邸には何とか到着したようだ。話に聞いていた通り、大勢の警備員がそこら中をうろつき、道行く市民をねめつけている。そんな彼らは当然我々のような不自然な集団を見逃すはずがない。素早く目配せをして人数を集めると、こちらを刺激しないようにするためか比較的穏やかな態度で話しかけて来た。

「ちょっとすいませんね。ここは今厳戒態勢で身元不確かな人間は立ち入り禁止なんですよ」

先頭に立っていた宮下が対応に出た。

「今日、こちらの家で石田哲司君の親善会が行われるはずです。私は招待されているんですが……。招待状はこちらです」

「はい、確認しました。では、宮下さんだけどうぞ」

「彼らは私の連れです。中に入れてもらえませんか?」

「いいえ。最近物騒ですから不特定多数を簡単に通すわけにはいかないんです」

「石田哲郎氏にはすでに伝えています。確認してきてください」

「誰を連れてくるかは伝えていましたか?」

「いいえ。哲郎氏がいくらでも構わないとおっしゃっていたので、社会勉強のためにとわが社の新人たちを連れて来たのです」

「だからと言ってここまでの人数を連れてくるのは……。私たちの仕事の妨げになります。どうかお引き取りを」

「お断りします。あなたたちの仕事が増えようが面倒になろうが、我々の知ったことではありません。早く哲郎氏に確認を取って中へ入れてください。あなたはいつまでも招待客を外で待たせるよう教育されたのですか?」

「……わかりました。ただいま確認を取ってまいります」

ようやく警備員が動いた。無駄な問答に時間を取られたが、親善会はまだ始まったばかり。作戦の説明時間も十分あるだろう。一人で今後の予定を空算していると警備員が戻ってきた。思っていたよりも速い。

「確認してきましたが、石田哲郎氏は宮下などという人物は呼んでいないとおっしゃっていましたよ」

そういう警備員の顔はどこかにやついている。おそらくこいつは確認など取っていない。自分にとって面倒だから嘘をついているだけだ。宮下もそれにはうすうす感づいているようだ。

「……そうですか。では、なぜ私はこの招待状を持っているのでしょう?」

「偽造したんでしょう。……今なら大事にしないでおきます。これ以上騒ぐようなら全員公務執行妨害と不法侵入で逮捕しますよ」

「仕事を増やしたくないからと言って罪なき市民を捕まえるのですか。警察組織も落ちぶれたものですね」

「戯言は結構。まだここに居座るつもりなら先ほども言った通り逮捕します」

「困りましたねえ。せっかく来たのに招待状が偽造だと決めつけられてしまうとは。偽造したという証拠もないのに、どうしてそう決めつけられるのでしょう。頭が悪い人間を相手にすると、本当に困りますねえ」

「……挑発のつもりなら乗ってやるよ。お前ら全員逮捕だ」

入り口前での小競り合いはかなり長く続いた。後ろについてきている『浄化隊』のメンバーたちが大騒ぎしているせいもあり、石田邸の中からも何人か顔を出している。その野次馬の中から一人の老人がこちらに向かって歩いてきた。かなり整った身なりで歩く姿もしっかりしている。

「いったい何の騒ぎですか?大沢さん、状況を説明してください」

「……須藤さん。これは、その……。招待状を偽造してまで中に入ろうとする不審者がいるのですが、なかなかしつこく……」

「……ふむ。その不審者というのは、そちらの宮下様のことですか?」

大沢と呼ばれた警備員の顔色が変わった。目が泳ぎ、冷や汗を流し始めている。

「い、いえ。宮下さんというよりは、その後ろにいる集団のことで……」

「宮下様の会社の新入社員の方たちでしょう?招待状のお返事をいただいた時に、こちらも把握しておりますし、哲郎様もご承諾なさっています。私に確認を取ってもらえれば、すぐに片付く問題ですよ」

「ええ、ですから私は何度も確認を取ってくださいと頼んだのですが、この方がどうしても私たちを通したくないようでして……」

「通したくない?大沢さん、どういうことか説明してもらえますか」

「いえ、別に通したくないとは……」

「……『私たちの仕事の妨げになります』と言っていましたよね。自分たちの仕事を増やしたくないから帰ってくれと、そういうことなのでしょう」

大沢の顔面は真っ青になってしまった。まだ何やら言い訳を連ねようとはしているが、須藤と呼ばれた執事らしき男の圧力に負け、何言い出せないでいる。

「……宮下様、お手数をお掛けして申し訳ありません。遅ればせながらただいまより、ご案内をさせていただきます。……大沢さん、あなたとあなたの部下の処遇は、哲郎様にお決めいただきます。どうか、神妙に」

……おそらく大沢は終わった。部下を巻き込んだその場限りの八つ当たりは最悪な形で結末を迎えたのだ。もはや要人の警護どころか警察の職そのものを追われるに違いない。今目の前で一人の人生がほぼ終わりを迎えたが、僕には関係ない。もともと魔が差してくだらない嘘をついたことが原因なのだ、自業自得と言えよう。すれ違う時、無意識に鼻で笑った気がする。

 石田哲郎氏の屋敷はあまりにも広大だった。それに普段画面の先でしか見ることのない有名人が目の前にいる。ここはもはや非現実の世界だ。屋敷の中を使用人がせわしなく動き続けているため、あまりの大所帯の我々は邪魔になる。どこかいいところはないかとそこら辺にいた使用人の女に尋ねると「中庭がよろしいかと」と教えてもらった。教えられるまま中庭に向かおうとしたが、初めて来た屋敷の道順などわかるわけもない。道を尋ねた女も忙しいためかすでに姿が見えず、有名人たちはどうにも話しかけづらい。だが、ここで立ち往生しているわけにも行くまい。意を決し話しかけようとすると、宮下が止めて来た。そういえば彼は招待状をもらっていたのだった。ならば、この屋敷の内装もある程度は知っているに違いない。その予想は外れることなく、宮下が先導し、少しも迷うことなく中庭までたどり着いた。この中庭も屋敷に負けず劣らずの広さを誇り、全体の敷地をあわせれば小さめの学校ぐらいはあるだろう。しかし、この土地も、中庭も屋敷もすべて不正と汚職によって作られたものであると思うと、屋敷の壁に一発蹴りでも入れたくなる。

 大沢にやたら足止めされたが、親善会はまだ始まったばかりだ。時間を確認すると十一時半。少し早いが昼時にはちょうどいい時間だ。今後の作戦会議も含めた『浄化隊』だけの立食会が勝手に催された。中庭の一角を占領し、別のテーブルから少々料理を拝借して行われた会議は思ったよりも過激なものであった。まず大勢いる人手を二つのグループに分ける。一つ目のグループのやることは陽動。周りの人間の目を集め、もう一つのグループの行動を悟らせないようにする役目だ。とはいってもここに客として呼ばれた人間はおしゃべりに夢中でこちらに目もくれない。目を引くべきは使用人たち。彼らの目を欺ければなんでもいい。そしてもう一つのグループのやることは荷物の運搬。それも箪笥や本棚などの重量のあるものだ。まずそれらを屋敷から中庭に出るための扉の近くの部屋に隠しておくことが必要らしい。その後、決められた合図を受け取ったとき、その箪笥などで扉をふさぐことが目的だ。中庭で何が行われるかはここでは特に言及せず、ただ「あまり口にはしたくないこと」とだけ伝えられた。特別僕がやることは何もないらしい。ただ皆よりも一歩引いたところで作戦の成功を見届ければいいのだ。ここまで来たあげく何もできることはないというのはやるせない気もするが、これも作戦のうち、従うほかあるまい。

 会議終了後、早速行動を開始した。僕は何もしなくていいと言われたものの納得することもできず、とりあえず運搬部隊の手伝いをしようとしていた。ひとまず手当たり次第に部屋の中を覗き、運びやすそうで、なおかつ重量もありそうなものを探していた。さらに大き目でしっかり扉をふさげるようなものだと好ましい。様々なところでチェストは見るが、少々重さが足りないか。だが、運びやすそうで候補ではある。他に良いものが見つからなかった場合は、これを寄せ集めて重さを出すか。暫定的な候補が出たところで、少し離れたところから「いいものを見つけた」と男が走って戻ってきた。案内された部屋には百五十センチほどの木の箪笥があった。中を開けてみると女物の服や装飾品などが収まっている。確かにこれはなかなかよさそうだ。早速運び出すとしよう。運搬部隊の一人に陽動部隊の行動開始を要請する使いを任せ、六人がかりで持ち上げた。予想通りかなり重い。急いで運ばないと力尽きてしまう。急ぎつつも足並みをそろえて部屋の外へ出る。廊下では陽動部隊が道をふさぐようにして談笑するふりをしているほかに、使用人に道案内を頼むなどして自らに課せられた仕事を全うしている。作戦通り中庭に続く扉に一番近い部屋へ運び込むことに成功した。その後、続々と他の部屋から集められた荷物は部屋を七割ほど埋めるほどだ。東館の進捗はこれで十分、次は西館の方に取り掛からねば。

 西館に向かう途中、中庭で宮下が誰かと話していた。一人は中年、もう一人は僕よりも若そうな男だ。何やら揉めそうな雰囲気だったが、大きな騒ぎにはならなかった。少し話して中年の男がどこかへ行くと、若い男に何やら話している。宮下は僕が様子を見ていたことに気づいていたようで、何を話していたのかと聞くと、特に隠すこともなく事情を話し始めた。

「……先ほどまでいた男は石田哲郎氏本人です。『浄化隊』の仲間に絡んでいると思い助け舟を出しましたが、あの青年は我々とは関係ない人物でした。しかし、ここにいる以上石田の関係者とみるのが普通でしょう。ですので、彼にも親善会開始時に中庭にいるよう言い含めておきました。従うかどうかはわかりませんが、我々の作戦にはあまり影響はないでしょう」

「……中庭で何をする気なんですか?さっきの会議でもなんだか言いよどんでいましたけど」

「……香山様には話しておきます。……午後三時から石田哲郎氏の息子である石田哲司氏が中庭で選挙への意思表明を行います。その際、中庭には今日招待された客のほぼすべてが集まるはずです。……テーブルの下を見てください」

促されるままに近くにあるテーブルのクロスをめくって下を覗くと、二リットルのペットボトルが何本も置いてある。中に入っている液体の色はオレンジ色のような茶色のような色であり、誰かが隠した麦茶にも見えた。だが、わざわざ覗いてみろと言うのだからこれはただの水という訳はない。

「それは、ガソリンです。……ここまで言えば我々が何をするつもりか、察しがつくでしょう。……ここに人が集まった瞬間、火を放ちます。運搬部隊に箪笥などを運ばせたのもそのためです。ここから誰も逃げられないようにするために……。香山様はこの行いを非道だと思うでしょうか」

「非道だと思います。……ですが、我々にこの非道な行いを決意させた奴らにのみ向けられる行為であるのならば、因果応報としか思いません。我々よりも先に、もっと非道だったのは奴らなのですから」

「……香山様ならそうおっしゃると思っていました。これが同情であれ、本心であれ私にとってはこれ以上ないほどの慰め足りえます。……それでは私は、次の準備がありますので。香山様はお時間になるまで自由にお過ごしください」

宮下は恭しく頭を下げると、足早に西館に消えていった。

 自由に過ごしていいとは言われたものの、こんなところではできることなど特にない。他の部隊の働きでも見学するか。おそらく運搬部隊は現在西館で活動しているはずだ。西館への扉を開けるとやはり陽動部隊が道と視界をふさぎ、その裏で運搬部隊が懸命に荷物を運んでいる。彼らはまだこの後中庭で何が行われるか聞かされていない。だが、彼らは賢い。何が起こるかはおおよそ予想はついているだろう。扉をふさぐことが必要な場合など滅多にない。彼らは大体を察したうえであんなに必死に走り回り任された仕事を全うしているのだ。その横では汗水たらして働く人間をあざ笑う資産家共が必死に権力との癒着を目指している。その資産家が過去にどれだけ苦労をしていようがどうでもいい。今自分が苦しんでいるそばで楽をしているのが気に食わないだけだ。その身勝手な感情が彼らの原動力。だが、この国で生きていれば、起きた問題はすべて自己責任となる。ならば身勝手に殺されるのは、自らの身を守る覚悟ができていないだけ。資産家という自己責任論の生みの親が自己責任論に殺されるのはもはや見世物の域だ。『浄化隊』の彼らは懸命に働いている。今はまだ午後になったばかり。午後三時が楽しみだ。

 中庭に備え付けられたベンチに座り、時折近づいてくる客人とそれなりに会話を交わしているととっくに三時近くになっていた。中庭はすっかり石田哲郎氏が招待した客人であふれかえり、まともに歩けそうもないどころかベンチから立ち上がることすら難しそうだ。しかし、人の波は衰えを見せない。西館と東館の両方からまだぞろぞろと人が出てきている。このままでは押しつぶされそうだ。何とか周りの人間を押しのけて立ち上がり、少しでも人が少ないところへ向かおうとしたものの、人の波に逆らって進むというのは難しい。さらに、ここにいる人間はそれなりの知能は持っているため、そこまで大騒ぎになっていないのがかえって目立つ行動をしづらくさせている。結局、立ち上がるだけでその後は人の波に流されるまま歩き続ける羽目になった。ようやく止まったかと思えばそこは中庭の中心部。すぐ目の前には警備員による壁が作られており、その向こうには石田哲郎氏の姿が見えた。その隣にいる若い男はおそらく石田哲司氏だろう。緊張でもしているのか顔色が芳しくない。ただ、今は他人の顔色など気にしている場合ではない。この後の『浄化隊』の作戦では演説中に火を放つ手筈になっている。そのため扉から遠い場所にいるのは危険だと言わざるを得ない。周りの人間に前を譲り何とか人ごみの中にもぐりこんだ。そのまま玄関がある東館の方へ人ごみを割って進んでいく。誰も彼もそこまで好戦的ではないため無理やりということはなかったが、人があまりにも多く、疲れる。何とか人ごみから飛び出て東館近くの隅に陣取った。ここからなら演説の風景と、観衆の様子がよく見え、加えて東館の扉が近い。これでいつでも逃げ出せる。宮下も同じ考えだったようで、少し遅れて人ごみから出て来た。

「ああ、宮下さん。すごい人の数ですねえ、これは」

「いやはや、本当に圧巻です。今日、ここに招待された人たち全員が彼に注目していますから、当然でしょうね」

「石田哲司氏のことですか?」

「もちろん。彼は不祥事で失脚した父に代わって選挙に出るのですから。勝つか負けるかはどうあれ闘う姿というのは気になる物なのではないでしょうか。……まあ、今の私たちにはどうでもいいことですが」

「準備はどの程度?」

「できることはすべて完了しています。あとは私たちの動き次第で物事が動くようになっています。……私たちは石田哲司氏の意思表明の途中に中庭から退出します。それを合図としてまずは運搬部隊の方々が中庭に続く扉を封鎖。封鎖後、運搬部隊は普通に玄関から屋敷を脱出。西館の方は裏口がありますので問題ありません。運搬部隊全員の脱出が確認でき次第、陽動部隊による屋敷の上の階からのガソリンばらまき。彼らもすべてばらまいた後はすぐさま脱出する手はずになっています」

上の階を指さされ、つられて見上げると三階の窓から何人か顔を出しているのが見える。中庭がいっぱいになったのを逆手に取り、上の階から演説を眺めるふりを取っているのだ。彼らがガソリンをばらまいてくれるのだろう。……では一体だれが火を放つのだ?

「……火は誰が放つんですか?今話してくれた作戦だと、火を放つ前に『浄化隊』全員が屋敷の外に出ていることになるんですが」

「はい、その認識で間違いございません。……火に関しては、別の方にお任せしています」

「『別の方』?『浄化隊』の人じゃないんですか?」

「おそらく違います。けれど、我々と思いを同じくするであろう高潔な精神を持った方ですよ」

「誰なんです?『浄化隊』じゃない人間を信用してもいいんですか?」

「彼が誰か、詳しくは知りません。それに私は彼自身を信じているわけではないのです」

はっきりとは言わず、何かを濁し続けるような物言いにいささか疑問を持ったが、宮下自身の表情で何となく理由を察した。気丈に振舞おうとはしているが、不安がにじみ出ている。……おそらく、作戦の一部を変更したのだろう。それが成功するかどうかわからないから概要を話したくないのだろう。作戦が失敗した場合、無駄に期待させてしまうことになる。それを避けたいに違いない。宮下の心中を察し、これ以上は何も聞かないことにした。

 人の波が収まり、ようやく中庭に落ち着きが見え始めた頃、司会らしき男がマイクを使って招待客全員へ呼びかけを始めていた。その司会者によればもうすぐ始まるらしい。お手洗いは今のうちに済ませておくようにということだ。……そういえば、僕たちはいつここを退出するかよく知らない。宮下に従って動いていれば問題はなさそうだが、知っておいても損はないだろう。とりあえず聞いてみるか。

「宮下さん、僕たちっていつここから出るんですか?」

「そういえばお話していませんでしたか。……ここを出るタイミングは三時十五分がちょうどいいかと」

「やけに具体的ですね。これも作戦のうちですか?」

「ええ。私の予想通りならこの時間がちょうどいいかと思いまして」

「……理由は聞かない方がいいですか」

「お気遣いありがとうございます」

これも不確定要素のうちの一つか。ここまで用意周到に立ち回っていたのに、いきなりこのような博打じみたことをするとはどうにも違和感がある。けれど、今さら何を言ったところで変えられるものでもないのだろう。もし失敗でもすれば確実に牢屋行き、最悪処刑だがそれに怖気づく程度ではこれから為そうとしていることは決して成功しない。

 手洗いなどで出ていた人も大体が戻り、時刻は午後三時。ついに親善会のメインイベントである石田哲司氏の決意表明式が始まった。だが、始まったとは言ったものの真っ先に石田哲司が壇上に上がることはない。招待された来賓から寄せられた応援の手紙の朗読から始まった。司会によれば手紙の朗読が終われば父である石田哲郎氏の応援の言葉、その後ようやく石田哲司氏の決意表明が行われる。つまりメインはまだまだこれからで、予定通りに進むならばこの場にいる者誰一人として石田哲司氏の決意を聞くことなく親善会が終わりを迎えることになるだろう。ただそれらしい言葉で飾られ、中身などこれっぽっちもない手紙の内容を聞かされるのは耳に堪えるがこれも後十分程度の辛抱なのだ。彼らの辞世の句となるのだからせめて最後まで聞き届けてやるぐらいはしてやってもいいかもしれない。三時五分、なかなか長い手紙がようやく読み終わったのだと内心でもろ手をあげようとしたのだが、早計だったようだ。別の手紙を読み始めてしまったのだ。つい先程最後まで聞いてやろうと憐れんだが、もう気が変わった。司会者に今すぐ持っている手紙を破り捨ててほしい。特に何もせず、ぼおっとしているよりも時間を無駄にしている気がする。時計に目を向けるが、時計の長針はほとんど動いていない。早く時間が過ぎることを祈るほかないが、この祈りは届くことなどないだろう。今ここでできることは居眠りをしないよう手のひらのツボを刺激する程度だ。あれから五分後、ようやく寄せられた手紙すべてをこの場で読むことは不可能であるということに気づいたようで、残りの手紙は東館に展示するため、興味のある方はどうぞという形式になった。最初からそうしておけばよいものを。しかし、これでようやくただの苦痛にしかなり得なかった赤の他人の手紙朗読などという時間の無駄から解放される。次は確か石田哲郎氏による応援だったか。作戦開始の時刻まで残り五分。せめて退屈な思いをしなくて済むように心の中で願っておくとしよう。

 僕の期待は当然のごとく裏切られた。あまりにもつまらない。金持ちの自慢話など何の役にも立たないのに、いつまでこの話をするつもりなのだろう。無駄でつまらない話でも時間だけは過ぎていく。心の中で嘲笑し続けていたら三時十五分になっていた。ようやく作戦開始だ。宮下の指示通り中庭から退出しようとするが、案の定警備員らしきスーツ姿の男に呼び止められる。確かに、今はメインイベントの最中。その上ここにいるのは石田哲郎氏と交流を持つ人たちのみ。その石田哲郎氏の息子である石田哲司氏の意思表明を投げ出してまですることがあるのか疑問に持つのも仕方ないと言えよう。しかし、道をふさがれたとはいえ「お手洗いに行きたい」と言えば簡単に通してくれる。なら最初から止めないでほしいものだが、これが警備員としての仕事なのだ。これも仕方のないことだ。ほんのちょっとのトラブルと出くわしたが造作もなかった。無事に中庭から抜け出し、急用を装って屋敷の外に出ることに成功した。僕と宮下が抜け出してから五分後、運搬部隊も続々と屋敷から出てきている。さすがに怪しまれているようだが宮下が仲介して何とかとりなしているようだ。それに警備隊も先ほど宮下と大揉めし、結果それなりの処分を下されることが決定しているせいもあり、宮下と関わるのを裂けている雰囲気がある。宮下が仲介に入ろうとすればすぐにでも手のひらを返して怪しいと思った人物の拘束を解除する。もうそれなりに重い処分が下ることは決まっている。これ以上はさすがに勘弁と言ったところか。結局、自らの感情にのみ仕事の出来栄えを左右させるという出来損ないの典型を証明しただけに過ぎない。どうせ後数分でこの屋敷は燃えてなくなるんだ。今さら処分なんか気にしている場合ではないかもしれないが、こいつらには知る由もない。

 屋敷から離れ、住宅街の中ほどにある公園で『浄化隊』の残りを待っていた。時刻は三時二十五分。あとは屋敷内にガソリンをばらまく役目を負った者のみである。宮下の立てた作戦によれば、屋敷にいつ火が付くかはわからない。そのため早くこの場を離れ、ここよりも安全なはずの駅前に向かいたいのだが、なかなか屋敷から出てこない。もしや中で捕まったか。それならば助けに行こうとしても、そうしてしまえば共犯だとばれてしまう。我々にできるのはただひたすら待つだけであった。宮下が再三腕時計を見ている。確かに彼らが出てくるのは遅いが、そこまで気にすることか。しまいには腕時計をちらちら見るのではなく、じっと見続けるようになってしまった。そうしてから二分後、三時二十七分。ついに宮下が口を開いた。

「……そろそろ移動しましょう。いつまでもここにいては我々も危険です。それに、屋敷が燃えた時、近くにいれば疑われるかもしれません」

……宮下は、屋敷に取り残された仲間を見捨てることに決めてしまったようだ。当然『浄化隊』の中でも不満の声が巻き起こる。

「まだ、中に仲間が残っているのに移動するんですか?いくら自分たちが危険になるからって同胞を見捨てる訳には……」

「では、あなたが助けに行きますか?もうすでに警備員に取り押さえられているかもしれない者を助けに行くのにどれほどの苦労が必要なのでしょう。……それに、もう助けに行く時間など、残されてはいません」

宮下がそういった途端、あたり一帯に今まで聞いたことがない轟音が鳴り響いた。だが、聞いたことがなくてもわかる。これは何かが爆発した音だ。その凄まじい音がどこから聞こえてくるか考える必要もない。石田邸だ。歩いてきた方を向けば予想通り、空までをも真っ赤に染め上げる大きな火の手と、それと共鳴するような叫び声が絶えず聞こえてくる。公園にいる全員が察した。あの屋敷に残されたメンバーは誰一人として生きていないということを。もうだれも宮下に異を唱える者はいなかった。ただ黙って火から目を背けるように公園を後にするだけだった。

 無事に公園から離れ、駅まで戻ることができたものの、生き残った『浄化隊』のメンバーたちの気分は沈んでいた。自分たちがしたことの大きさをようやく理解し始めたのだろう。誰一人として、当初の目的を達成したことに対する喜びを表すことはない。それを知ってか知らずか、宮下が口を開いた。

「皆さま、本日はお疲れ様でございました。皆様の懸命なお働きにより、当初の目的であった親善会の破壊および参加者の殺害を達成することができました。しかし、その目的の達成のため、勇気と未来を胸に秘める同士を失ってしまいました。……しかし、我々はそれを悲しみこそすれ、悔やんではいけません。彼らが死する時まで胸に秘めていた未来への想いを受け継ぐのです。我々は決して停滞してはいけない。今ここで立ち止まれば、あそこで死んでいった彼らは文字通り無駄死にとなってしまいます」

そう涙ながらに訴える宮下の姿に皆、感銘を受け何とか立ち直っているようだ。もうすっかり、自分たちの手で人を殺したことなど忘れているのだろう。

「残された我々にできるのは、彼らの遺志を継ぎ、この世の諸悪の根源である公権力者共を殲滅することのみです。同士を失った悲しみを糧に、この国をよくするために力をあわせましょう」

皆、何も疑うことなく宮下の言葉に感銘を受け、決意を新たにしている。……若者は御しやすい。彼らはこの社会に絶望などしていなかったのだ。彼らが絶望していたのは『自らの居場所が用意されていない』社会である。いかに怪しい団体であっても、その団体が犯罪行為に手を染めていたとしても、彼らには関係ない。彼らにとって自らを受け入れたものがすべてであり、それ以外は敵に他ならない。何を言おうとも聞き届けられることは決してない。すべて戯言と笑われる。最初に若者の悲痛を戯言と笑った者が、今日あの場で焼かれたのだ。彼らからすれば痛快以外の何物でもない。もう彼らは決して止まらない。自分たちを嗤った者達を嗤うために生き続けることしかできない。


 七月五日

 三時十五分頃、俺は屋敷から出て、駅へ向かっていた。今頃あの中庭には大勢に人間が集まっていることだろう。それを俺の指の動き一つですべて吹き飛ばせると考えると、どうにも体の震えが止まらない。これは武者震いか、あるいは欠片ほどに残った良心の呵責か。もし、本当に良心の呵責ならば、一刻も早く心から捨て置かねばならない。今、この国で生きている俺にとって、良心などという物は最も必要がない。良心をもって何とする。この国で『いい人』として生きたところで得することなど何もない。人は皆、他人から得られる好意に鈍感になりすぎた。与えられる好意は当たり前と思う一方で、自ら与える好意は『相手にそこまでする理由がない』『時間の無駄』『コスパが悪い』と大したものでもないのに出し渋る。ありもしない付加価値を付けたところで、得られるのは『冷遇』と言う妥当なのに、それにすら腹を立てる。『情けは人の為ならず』の誤用は、今この時代に、ある意味で正しい意味に変わってしまった。それもすべて、長年に続く政府の悪政の結果なのだと思えば、思ったより妥当かもしれない。

 駅までの道のりに余計なことを考えていたが、考え事というのはただ道を歩くことよりはましだろう。それがいかに社会的に認められないこととはいえ、時間つぶしになるのなら何の役にも立たない社会よりも存在価値はあるだろう。それに、この国の社会は悪人が成り立たせているものに過ぎない。そんなものに認められるぐらいなら拒絶された方がありがたい。ダラダラ考え事をしながら歩いていると、いつの間にか駅に着いていた。時刻は三時二十分。予定の時刻までは駅のホームで待つとするか。普通に改札を通り、階段を下ってホームに出る。時刻はちょうど学生の帰宅ラッシュのせいか、ホームにいる人影は大体が制服を着ている。不自由するほどではないが、人混みが嫌いな俺からすれば、どうにも鬱陶しいことこの上ない。

 三時二十四分。都心部行きの電車が来た。もう少し待っていたいような気もするが、電車が止まってしまうと面倒だ。さっさとここから離れさせてもらおう。車内はそれなりに混んでいるがそこまで窮屈ではない。何とか座席も確保できたし、言うことなしだ。すぐに電車は動き出した。あの無駄に大きかった屋敷は電車の中からでも見えるだろうか。ポケットの中にしまい込んでいたスマホに手を伸ばした。そこからグループ会話アプリを起動し、この時のために用意したグループに向けてメッセージを送る。メッセージは何でもいい。このメッセージを受け取ったスマホが通知のため振動する瞬間、すべての爆弾が起爆するようになっている。メッセージを送って間もなく、凄まじい轟音が聞こえて来た。真っ黒な煙と、真っ赤な炎を噴き出して屋敷があった場所をこれでもかと教えてくれている。おそらくあの場にいた者はすべて死んだ。今頃は四肢のいずれかが吹き飛ぶか、あるいは全身焼けただれるか、爆風に飛ばされ、壁に叩きつけられているか。気に入らない人間の死に様ほど興味をそそられるものもないだろう。俺をないがしろにしやがった奴らがどう死んだのか気になってしょうがない。六月中はすべて自分の手でやっていたから死に様を目の前で見届けられたが、この殺し方はあまりよくないのかもしれないと今さらになって思い直している。しかし、今さら一人ずつ殺すというのはかなり面倒だ。警備がついて手が出しづらくなる。やはり証拠も残らず目撃者ごと消し飛ばせる爆殺が最も合理的だ。……電車は爆発の影響で止まってしまった。直接的な被害はないだろうが安全確認が必要らしくまだ動く気配はない。車内は騒然としていた。無理もあるまい。どこで爆発が起きたか詳しくはわかっていないだろうが、近場で起きたのは確実。連日報道され続けている爆弾魔の仕業ならば、次の標的がこの電車であると想像するのも不思議なことではない。ただ、人というのは思ったよりも簡単に理性を手放すものだ。電車が危険であると判断し、脱出を試みるものが大勢いるが、脱出を試みてからもうすぐ三分ほどが経過するというのに、電車の外に出られたものは一人としていない。全員、他人の足を引っ張り続けている。自分が一番に出ることしか考えていないのだ。誰も最初に出た者しか助からないと言ったわけではないのに、我先にと扉をこじ開け、先に行く者の衣服を掴んで引き戻してはその隙に自分が先に、しかしまた別の者に引き戻されるということを繰り返している。

 結局誰も電車から脱出しないまま、安全確認が終了し電車の運行が再開した。車内の人々は口々に安全への不信を漏らしているが、俺から言わせてもらえれば、電車の扉をこじ開けて無理やり外に出ようとしたお前らの方がよっぽど危険な存在だ。こんな理性のかけらもない奴らが自分より恵まれた立場にいるというのは腹立たしいが、今ここで見せてもらった無様な姿に笑えたのでよしとしてやろう。少々とは言えないほどの遅れはあったものの、無事に電車は家の最寄り駅まで走ってくれた。帰り道はいつもより騒がしい。頼んでもないのに何の価値もない新聞社が号外を配っていた。内容はやはり、ついさっき俺が起こした爆破事件だ。タダでもらえるしせっかくだからもらっておこうか。家につき、早速新聞を広げる。そこには大きく『石田邸焼失!権力者を狙った爆破再び』と見出しがついていた。事細かに事件が起きた時の状況などを書いてはいるが、所詮号外。核心に迫ったところは何一つない。あの場にいればわかるようなことをつらつらと書き連ねただけだ。特に期待はしていなかったが、やはりこの程度。これで仕事をしていると言い張れるのだからこの国の社会は失敗作と言わざるを得ない。もはや投げやり気味に新聞を読んでいたが、見開き一ページの右下当たり、事件を受けてこの記事を書いた人間の所感がつづられている。いっぱしの記者が心理研究会気取りで俺のことを評価するのは結果はどうあれ滑稽。笑いのネタ程度にしかなるまい。

『いわばこの事件の犯人は目立ちたがり屋の子供のようなものと言えるのではないか。わざわざ著名人を狙い、さらに爆弾を使っての犯行は自らの腕を自慢するためとしか考えられない。さらに関係者の話では未だ犯人らしき人物から金銭の要求などの連絡がないことからここ数日に起きた爆破事件はすべて愉快犯的なものであると考えるのが妥当。つまり、爆弾の作り方を覚えた子供がその威力を確かめるためだけにこの事件を起こしているのだ。著名人が狙われる理由は、こうして報道され自らの行動が知れ渡っていくことに快感を覚えているのではないかと私は予想している。何はともあれ、このような凶悪な事件を引き起こす犯人がいまだ捕らえられず、どこかの街に潜伏しているということを警察諸君はもっと重く受け止めるべきだ。彼らの怠慢こそが、子供が増長するきっかけになりうるからである』

その子供に好き勝手されている現状を見て、彼らは何を思うのだろう。俺からすれば知ったことではないが、今まで沢山いい思いをしてきたのだろう、この程度の仕打ち許容してもらわねば困る。これ以上の仕打ちを俺は受け続け、虐げられ続けてきたのだから。

 

七月六日

 昨日、石田氏の屋敷が大爆発を起こし、その後炎上。完全な鎮火にいたるまでに合計二十時間以上を要し、屋敷内の生存者はなし。それどころか周囲一帯の住宅にも延焼を起こし、石田氏の屋敷にいなかった者でさえ、やけどをしたりガスを吸い込むなどして病院に搬送されている。これらの死者を総合すると百人は下らない数であり、一か月前の連日大量殺人事件よりも多くの死者を出している。僕はそんな教科書に残り続けるであろう大事件の犯人の一人であるのに、いかなるものにもとらわれることなく自宅で平然とくつろいでいる。事件の詳細はテレビで見た。そして自分たちが何をして、結果どうなったかということもテレビで初めて知ったのだが、いかなる感情も湧いてこない。大事件を成し遂げてやった達成感は当然だが、特に自分に関係のない人間を大量に手にかけているはずなのに、罪悪感のひとかけらすら持ち合わせることはない。ただその情報を処理しているだけ。まるではるか遠い国同士の戦争の死者の話を聞かされているようだ。そんなこともあるんだなという中身のないその場しのぎの言葉しか出てこない。僕はすっかり人として落ちぶれたということなのだろうか。今の僕は昨日までの僕が嫌悪していた権力者たちとほとんど変わらない。自分の目的のために他社を当然のように犠牲にし、それに罪悪感を抱くことなく彼らの屍の上に日常を築く。木乃伊取りが木乃伊になるとはまさにこのことか。昨日の火災のニュースを見ながら独り言ちていると自分の傍らに置いていたスマホが揺れた。今の僕に連絡を取ってくる人間など彼しかいない。スマホの画面を見ると、やはり『宮下』という名前が表示されていた。昨日申し分ないほど活動したはずなのに、もう次の活動についての話をするのだろうか。かなり億劫だが致し方あるまい。時刻は朝の八時半。なるべく人を殺す話にはならないようにと願いながら通話ボタンをタップした。

「おはようございます香山さん。昨夜は良くお休みになられたでしょうか?」

「おはようございます宮下さん。昨日はつかれていたのでぐっすりと寝られました」

「それは良かったです。これからも我々『浄化隊』は様々な活動をしていく予定ですから、疲れがたまってはいけません。今は問題ないようですが、もし疲れが取れないようでしたらどうぞ私にお申し付けください。友人になかなか腕のいいマッサージ師がいますので」

「……わかりました。覚えておきます。……それで、今日は一体何の用事でしょうか?」

「そうですね、そろそろ本題の方に参りましょうか。……昨日、我々は石田邸に潜入し、当初の目的であった石田哲郎氏及び参加者の殺害を達成しました。我々は邪悪はびこる公権力のよどみに波紋を起こすことができたのです。ただ、それだけではまだ足りない。一般企業の金持ちが大量に死んだところで、世論は我々の味方をしません。目標にすべきはよどみの根源である……そう思いますよね?」

「ええ、まあ……。それで、一体何を次の目的にするつもりですか?」

「我々が次に目的にするものは国民の生活に直結するところです。ここ一年か二年ほど、度重なる増税に加え、それに伴う物価の上昇。しかし全く上がらない給料に国民の怒りは天を衝くほどまでに達し、今まさに国政を担う者の喉も度にかみつかんばかりの勢いです。……どうぞテレビをつけてみてください。今ちょうど中継をしていますよ」

宮下に促されるままテレビをつけ、指定されたチャンネルに切り替えた。そこにはとある建物の前に集まる集団の姿があった。せっかくの土曜日なのにデモで一日を終えるとはなんとむなしいことか。

「……ご覧になりましたか?彼らが集っていた場所は財務省。今最も国民の関心が高い場所と言えるでしょう。今、ほとんどの国民が節約を余儀なくされている生活は、すべて財務省の仕業と言っても過言ではありません。財務省職員は自らの私腹を肥やすことのみを考えて生きています。連日財務省解体のデモが行われており、財務省というのはもう消えても良い存在だと言えるでしょう。……次の目的地はここです。財務省を襲撃し、職員を全員殺害。……殺した程度で財務省が決めた今までの事柄がすべて取り消しになるわけではありませんが、彼らをこれ以上生かしておくわけにはいきません。……明日、いつもの場所で集会を行います。来ていただけますね?」

「……でもそんな大それたことをすると警察が黙っていないのでは?我々の目的は財務省の崩壊ではないはずです。そんな捨て鉢みたいな行動は控えるべきです」

「御心配には及びません。警察組織に関してはすでに対策が済んでいますので。我々は使命を果たせず散っていった同胞のためにも志半ばでくじけるということはあってはいけません。捨て鉢の行動など決していたしませんよ。……それで、明日来ていただけますか?」

「……わかりました」

「ありがとうございます。明日、いつもの場所でお待ちしております」

 僕は電話を切った。今日はこれ以上宮下と話したくなかった。あそこまで自分に妄信的な人と話すと強く影響を受けそうだ。特に今日みたいに自分の考えがぶれ始めた時は危ない。自分があずかり知らぬところで、自分の名前が使われてことが大きくなっていく。もう僕自身にすら止めることは不可能だ。それならば、今のうちに練習をしておかなくてはいけないだろう。

「僕は人を殺せとは言ってない」


七月七日

 昨日宮下に言われた通り、前回集会を行った総合文化センターに向かっていた。電車に乗り、目的の駅まで乗っていく。目的の駅に降り立つと、前回ここに来たときよりも人の数が多い。何かイベントでもあるんだろうか。しかし、その集団が向かっていく先は僕の目的地と同じ方向らしい。そうしたいわけではなかったが、その集団の後をつける形になってしまった。それだけでも少し気まずいような気がするのだが、彼らの会話が聞こえてくるのが、何よりも気まずくてしょうがない。けれど、いきなり歩く速度を早くすれば不審な目で見られるだろうし、そこまで急ぐ理由もない。彼らには悪いが会話の内容を盗み聞きさせてもらうしかなさそうだ。

「まさか一昨日の事件、あの人たちが起こしていたなんてなあ。そういう話を聞くと、陰謀論というのも案外馬鹿にできないな」

そういったのは先頭を歩く若い男。おそらく一昨日の事件以降、宮下か、『浄化隊』の幹部が声をかけたのだろう。

「誰も俺たちの話を信じてくれなかったけど、話の分かる人っていうのはいるんだな。今まで俺たちのこと馬鹿にしてたやつら今どんな気持ちなんだろ」

彼も若い。そもそも僕の前を歩いている集団は全員若者で構成されている。彼らもおそらく『真実』とやらにでも近づいたのだろう。

「さてね。俺たちみたいに真実に気づけない人間の思考なんてわかるわけもないし、わかりたくもない。……あいつらは脳みそが足りないなからな。一体いつまで搾取されることを許し続けているんだ。世の中にも馬鹿は増えたなあ」

「マジでそれだよな。他のやつとかマジで会話が通じないもん。あいつらすぐ『陰謀論じゃん。頭大丈夫?』とか言ってくるからな。こちとらその結論に至った証拠まで提示できてるのに、それでもなお陰謀論扱いはさすがに頭悪すぎるだろ。……由民党の政治はうまくいってたんだな」

「でも、そんな由民党はほぼ壊滅したようなもんだし、それと癒着起こしてた汚い企業のトップ層が軒並み死んだらしいし、『浄化隊』様様だな。しかも次は財務省襲撃だってよ。さすがに俺たちも参加させてもらわなきゃ困るぜ」

「これでようやく馬鹿どもにも真実ってもんが見えるんじゃないか?これさえ成し遂げれば絶対にこの国は良くなる。そうすれば、俺たちみたいな優秀すぎてハブられる奴も生きやすい国になるだろ」

彼らもこの社会に失望しているのか。そしてそれをより多くの人の知ってもらいたかったが、誰にもわかってもらえることはなかった。それが彼らを『真実』に目覚めさせるきっかけになったに違いない。彼らは社会が生んだ不利益のしわ寄せを喰らっているのだ。ただ少し国のことについて興味があっただけで、ただ少し他の人より正義感が強かっただけで、今や社会の敵となり果てた。

 方向どころか目的地まで同じだった青年たちの後を歩きながら十分ほどが過ぎ、ようやく宮下が指定した場所に到着した。玄関前ではあの時と同じように受付のテーブルが置かれ、一人ひとり名前を記入している。あの時と違うことと言えば、受付に並ぶ人数が前より多いことぐらいか。僕が来た時間によって変わったのか、または宮下たちの活動の成果によるものか。本人に聞いた方が早いだろう。ちょうど宮下が僕の姿を見つけ、こちらに歩いてくる。

「お待ちしておりました、香山様。どうぞこちらへ」

僕だけは正真正銘の特別扱い、受付に並ぶことなく会館の中に入れてもらえた。

「本日は、前回のような集会ではなく、より実戦的な話をする予定です。つまり、ほとんど作戦会議とでも思っていただけたら良いかと。作戦についてはすでに幹部陣で立案済みですので、彼らには詳細な説明に加え、参加する意思があるかどうかを問うことが主な内容となるでしょう。今回は前回のように一般民家に侵入するといったレベルのものではないため、士気向上と言ったことを行う時間はもったいないと判断した次第です」

そんなことを僕に言われてもなんと返せばいいかよくわからない。それよりも聞きたかったことを聞いてみるか。

「はあ、そうですか。……ときに、玄関前の受付、以前より人が多くありませんでしたか?僕の気のせいならばそれでいいのですが」

「……お気づきになりましたか。香山様の気のせいではありませんよ。一昨日の石田邸での事件以降、それをネタにSNSで素質ある若者を集っていましたから。大きな事件だったということもあり、かなり大勢の人にお集まりいただけています」

「次の作戦はそんなに人手がいるものなのですか?」

「もちろんです。ただの屋敷とは規模が違いますので。次の目標は、財務省。あくまでも国の機関です。それなりの警備はあって当然です。であれば、それを突破するためにもそれ相応の人材が必要なのです」

今の言い方に僕は何か違和感を覚えた。まるで、人を物のように扱っているような言い方だった気がする。しかし、いちいち聞き返している暇はないようだ。『浄化隊』のスタッフの一人がこちらに駆けて来た。どうやら人が多すぎて部屋が足りないかもしれないらしい。宮下はそのトラブルへの対応のため、僕から離れていった。

 会館の中で一人になった僕はとりあえず喉を潤すため、自販機を探した。会館の中をふらふら歩いていれば、そこらじゅうで若者の姿を見る。……誰も彼も社会から見捨てられたのだろうか。それでもなお社会人として生きていきたいという叶わぬ願望が、このような凶行へ走らせる原因なのだろうか。……社会の中には、彼らのことを、彼らの行為を『悪』だと断じる者もいるだろう。だが、その者は彼らに対し、一体何をしたというのだろうか。救いの手を差し伸べたか?あるいは自己責任と切り捨てたか。……もし救いの手を差し伸べていたというのなら、今日、ここにこれほどまでに人が集まるわけがない。結局、すべてはわが身可愛さという訳だ。『自分さえよければそれでいい』という浅はかな人間が増えた。そして、それにより生じる善人への圧力は、こうして弱い立場の若者へツケを回す。いわばこれは『清算』ということかもしれない。今まで、自分さえよければいいという考えで生きて来た人間が作り上げた莫大な負債を、彼らの人生をもって清算するということだ。この国の人を裁く機関は欲望の奴隷となり果て、自分たちに都合のいいように人を裁き続けている。社会に頼りどころなどないのだ。彼らが人を殺すという選択をした理由は、すべて社会にある。弱者が頼れない社会に存在価値はない。あるだけ無駄だ。……ようやく自販機を見つけた。のどの渇きは思考すら混濁させるのか。小銭を入れ、ボタンを押す。出て来た天然水は冷たく、考えすぎで熱くなった頭まで冷やしてくれている。のどの渇きはすさまじく、五百ミリリットル入っていた水を二口程度で飲み干してしまった。飲み終わったペットボトルをゴミ箱に捨て、どこかクーラーの効きが強いところで休憩でもしようかと来た道を振り返ったとき、自分の目を疑った。

 振り返った先にいた男はこちらに気が付くと、少し驚いたような顔をしたかと思えば久しぶりに友人にでも会ったかのような顔をしながらこちらに近づいてきた。なんで彼がここにいるんだ。

「久しぶり、香山さん。まさかこんなところで会うとは思ってなかったけど……。潜入捜査でもしてるのか?」

「四十万一……。どうしてここに?」

「……宮下って人に誘われてな。……一昨日の、石田邸爆発事件。アレの犯人は俺だ」

「あの事件は『浄化隊』の人たちが起こしたものだ。君が起こした事件ではない」

「いや、あれは俺がやったのさ。……覚えてないか?宮下が提示していた計画がいきなり変わったことを」

そういえば、当初は自分たちで火を放つ予定だったが、その予定は変更され得体の知れない第三者に計画の行く末を預けていたようだったが……。まさか。

「気づいたか。そう、あの日宮下が新たに予定に組み込んだ謎の人物が俺だったんだ。……あの日、お前らが集団でぞろぞろ歩いていたおかげで誰にも怪しまれず石田邸の中に入れたんだ。そのあと、俺お手製の爆弾を仕掛けながら中を歩き回っていたんだがな。石田哲郎に感づかれかけた時、助け舟を出してくれたのが宮下だったんだ。……俺はあの後、お前らの会議を盗み聞いて、事の次第を知ったよ。だから、宮下の目があっても爆弾を仕掛けることをやめなかった。あいつはそれを知ってたから、とどめは俺に任せたんだろう」

「……それで、『浄化隊』の仲間入りか?」

「まさか。誰がこんなバカげた思想の集団と仲良くするかよ。ただ利害が一致しただけだ。お前らはこの社会をよくしたい。俺は気に入らない奴を殺したい。それだけだ」

四十万という男、最初に会った時と雰囲気がまるで違う。前に会った時は物腰が柔らかい普通の青年といった感じだったのに、今の彼はあまりにも攻撃的だ。常に体からとげのように鋭い圧を放っている。彼が体にまとう圧は、彼の言葉を信ずるに値するものにまで押し上げているように感じる。

「とにかく、目的は違えど、俺も一応『浄化隊』の一員という訳だ。もしあんたが潜入捜査中ってことなら今すぐ人を呼ばなきゃいけなくなるが……」

ちょうどその時、四十万の後ろから『浄化隊』の幹部の男がこちらへ来た。どうやら僕のことを探していたらしい。

「香山様、こちらにいらっしゃったんですね。そろそろ集会が始まりますので、お呼びに参りました。……そちらの方は?」

「彼は四十万一。『浄化隊』の新人で……僕の知り合いです」

「お知り合いの方でしたか。……もしよろしければお知り合いの方も一緒にというのは……」

「遠慮しておく。偉い人が集まる場所は嫌いでね。それに、俺がいたところで意味があるわけじゃない」

「……だそうです。行きましょうか。案内をお願いします」

珍しく僕が他人を急かし、この場を離れた。これ以上あの場にはいたくない。今の僕には、彼の思想は刺激的すぎる。

 付き人が案内してくれたのは、第一会議室と札に記された部屋だった。中には『浄化隊』の幹部軍に加え、宮下の姿まである。他にはそれなりの値が付きそうな撮影機材が置いてあった。おそらくこの部屋から他の部屋へ、作戦会議の様子を中継するつもりだろう。『浄化隊』の下っ端どもには作戦会議に参加する権利はないということか。もしそうだとするのなら、僕だってここにいる資格はない。ただ担ぎ上げられたお飾りのリーダーに過ぎない。『浄化隊』の活動方針は宮下が仕切っていると言っても過言ではなく、僕には意見する暇もなければ、何か介入する隙間すらない。大体が事後報告で、決定権は僕にはない。なら僕はここにいる意味はないのだが、宮下からすれば、決してそのようなことはないのだろう。宮下は僕のあの言葉をきっかけに動き出した。今後何があっても僕の意思だと言い含めておけば、下っ端どもは簡単に動くという腹積もりに違いない。けれど、一番悪いのは僕だ。こんなにいろいろ考えられるのに、少しだって口に出せやしない。さっさと解散でも宣言すればいいのにそうしないのは、人の居場所を奪うのが怖いからだ。目的はともあれ、社会から居場所を追われた者の居場所となっていることは事実。それを今さら投げ捨てるのは、彼らには酷だ。今までぞんざいな扱いを受けて来た人達のための場所となっているここで、そのようなことをする気にはなれない。……会議室に置かれた椅子の中で最も部屋の恥にある椅子に座り込んで、そんなことをぼおっとしながら考えていたが、ようやく会議が始まるようだ。自分のくだらない思考が掻き消えるのなら、興味がない話でも人を殺す話でも、なんでもいい。

 撮影機材の動作確認が終了し、ついに財務省襲撃の作戦会議が始まった。

「それではこれより、我々国民の生活を脅かす財務省という名の悪の組織への襲撃作戦の会議を始めたいと思います」

会議の音頭を取るのはやはり宮下だ。彼が会議の始まりを告げると、部屋の外から拍手の音が聞こえて来た。下っ端たちは詰め込まれた部屋で、懸命に拍手をしているようでその音が漏れているのだ。それほどまでに渇望されているということなのだろう。

「しかし、襲撃とは言ったものの、財務省は腐りきっていても国の組織。警備の質は石田邸とは比べ物にはならないでしょうな」

幹部の一人がそう言う。確かに、かなり大きな建物であることは間違いないし、どのように襲撃をするのだろうか。……それを今から考えるのか。

「ええ。それに最近は我々が起こした事件に加え、誰が起こしたかはわかりませんが、政治家を狙った殺人も少なくありませんでした。それ故、要人が出入りする所は漏れなく警備が頑丈になっていることでしょう。いかにその警備を突破するか、そこが今作戦の肝と言っていいでしょうな」

「問題ありません。すでに作戦は考えています。……まず『浄化隊』のメンバーを二つに分けるのです。片方は陽動、そしてもう片方で攻撃を仕掛けるのです」

「陽動とは、いったい何を?」

「もちろん、『財務省の解体要求デモ』です。……昨今の悪政に怒りを覚えた市民たちが、週末に財務省前に集まってデモを行っているのです。それに便乗する形とします。中でも、陽動部隊は投石をお願いしようかと」

「投石ですと?警備共に目を付けられかねませんな」

「それでよいのです。さすれば、もう片方が動きやすくなることでしょう」

「……実際どのように動くおつもりですか。一度全体的な動きを教えてもらいたい」

「まず、我々とは関係ないデモ隊の活動に陽動部隊も合流します。彼らは仲間がいきなり増えてもなんとも思わないでしょう。そして陽動部隊には、最初は普通のデモ隊と思われる行動をとってもらいます。例えば、拡声器を使った抗議であったり、プラカードを掲げたりといったような。しかしそれだけでは足りません。そこで投石です。ただ声出し程度なら警備隊も特に警戒はしません。ですが、石を投げられればどうでしょうか?……政府の犬と名高い彼らのことです。警戒を通り越し、手柄のため逮捕するということも十分考えられますね。そうなった場合は、警備の連中につかまらないよう逃げながらなおも投石を継続します。そうして、彼らの目を『石を投げ続ける危険人物たち』に集中させるのです」

「……しかし、それだけでは入り口などの警備員は動かないのでは?」

「問題ありません。それよりも『財務省前の警備員の数を減らせること』がとても重要です。少しでも少なくなれば詰め寄る隙ができる。その隙に攻撃部隊が攻撃を仕掛けます」

「中に入らずとも攻撃ですか」

「そうです。彼らには火炎瓶を投げてもらいます」

「……投げてばかりですな。もっと他にはないものですかねえ」

「戦闘訓練を積んでいない彼らが戦うにはこうするしかないのです」

「……それで、火炎瓶を投げて終わりという訳ではないでしょう」

「いいえ。彼らの達成するべき目標は火をつけることです」

「スプリンクラーか何かで瞬く間に火が消されてしまうのではないですか?」

「スプリンクラーで消火できるのは小さな火種程度です。すでに燃え盛っている瓶を投げ込めば消火しきれません。それに部屋の中には紙の資料や、パソコンなど火が移ってはいけないものが数多くあるはずです。それらに引火することを狙って、火炎瓶を投げることとしましょう。これならば、中に入らずとも攻撃を仕掛けることができます」

正直な感想を言うと作戦としては微妙だ。希望的観測が多すぎて話にならないが、そうでもしなければそもそもこのような話をすること自体不可能なのだろう。この作戦でも無理と断ずるほどのものではないような気もしてきた。幹部諸君もあまり乗り気ではなさそうだが、だからと言ってこれより良い代替案が出せる訳でもない。結局、反対意見も出ず財務省襲撃作戦はこの案で行くことになってしまった。……一度方向性が決まると、そのあとは早い。つつがなく会議が進行し、グループ分けも終了してあとは作戦の決行日を待つだけとなった。


 七月十三日

 今日は作戦の決行日だ。集合時間は朝九時とかなり早い。しかし、いち早く憂さ晴らしができるのだから文句はない。電車の中にはすでに『浄化隊』の集まりで顔を合わせた奴らが集まっており、あの組織の根深さを痛感させられる。それ以外にも、財務省に近づくにつれデモの参加者の姿も多くみられるようになってきた。電車の中でさえ、大声で財務省に対する恨み節をはばからないのはいささかマナーがなっていない。それもすべて、人から『マナーを気にする』という余裕を奪った財務省が悪いのだろうとこじつけておいた。別に俺がこじつけなくとも、本当に財務省が嫌いな奴らが代わりにこじつけてくれそうではある。

 財務省の最寄り駅の構内は、普段出入口が二つぐらいしかない駅を使う俺にとってはかなり迷ってしまうものだった。けれど、同じ目的で集まった奴らが勝手に道案内をしてくれているので、後ろをつけることにした。せめて帰り道ぐらいは覚えておくとしよう。やっとそれらしい出口がある階段を上り、地上に出ることができた。階段を上った先には、俺の目的地である財務省が鎮座していた。まさか駅を出てすぐだとは思わなかった。呆気に取られている俺を見て、そこら辺にいた警備員が何か怪しいとでも思ったのか、こちらに近づいてきた。

「ここに何か用事があるのですか?」

「なければこんなところ来ないと思うんですけど」

「……一体何の用事で?」

「財務省に潰れてほしいからデモ活動をしようと思ってね。別にいいだろ?」

警備員たちは何も言わず、俺を解放した。当たり前だ、何も言える訳がない。俺が警備員の立場だったとしても何と言っていいかわからないのだから。しかし、彼らは何も言わずとも、こちらを軽蔑するような視線を向けてきている。あと三時間もすればそんな顔できなくなるのだから今のうち存分にしておくと良い。財務省の前にはすでに大勢のデモ参加者が集まっていた。初めからこのデモに参加していた者、この活動を見て今回から参加し始めた者と様々であり、人の多さは道をふさいでしまうほどであった。そのため交通整理のためにも警備員が出張ってくるのだが、誰一人として指示に従わない。警備員が一言しゃべれば、十人で寄ってたかって猛反発し無理やりにでも黙らせる。警備員もあまり相手にはしたくないのかすぐにあきらめると、出入り口の前に陣取りこちらの監視を始めた。もうすぐデモを始める時間という所で、『浄化隊』の分けられていたもう一つの部隊がこちらに近づいてきた。大事そうに抱えられていた袋の中には大量に石が入っている。そういえば俺たちの仕事は石を投げて警備員たちの注意を引くことだった。

 午前九時、デモ活動開始の時間だ。デモ活動の主導者らしき人物が拡声器を手に取り話し出す。

「財務省はこの国にいらない!我々の生活を邪魔するな!財務省解体!」

それに呼応するように参加者たちも一斉に「財務省解体!」と叫びだす。とりあえずは合わせておくか。まだ火炎瓶を投げ始めるには早いか。もう少しデモ参加者たちが盛り上がる必要がある。そこで俺も拡声器を手に取り、デモ参加者に呼びかけた。

「みんな、財務省の解体だけというのは甘くないか?今まで俺たちの生活をめちゃくちゃにしてきた奴らが生き残ってしまったら、逆恨みに何をされるか分かった物じゃない。あいつらにはこの世からいなくなってもらう方がいいんじゃないか?」

デモ参加者たちはしり込みするような反応を示している。さすがにいきなり「人の死を願え」と言われても簡単に首を縦に振れるものではないか。だが、その甘さが奴らを増長させるきっかけになったんだろう。

「あいつらは今まで俺たちが苦しい生活をしていても知らんぷりし続けて生きてたんだぞ。俺たちが明日喰う飯に困ってる間、あいつらは豚の餌程度で十分なはずなのに、一食百万もかかる飯を食ってたんだぞ。そんな奴らに更生の余地なんてねえよ。あんな奴ら死んで当然だ。財務省職員は、全員死んだほうが世のため人のためになるんだよ。みんなが今まで我慢してきたこと、ちょっとした外食だったり、奮発した旅行だったりなんかはすべてあいつらが死ねば我慢しなくてよくなるんだ。今までされてきたことやり返すだけだ。『徹底的に他人の不幸をお膳立てするだけ』だ。俺たちであいつらに不幸を与えようぜ!」

何か思う所はあったのか、参加者たちはうつむくばかり。動きを見せたのは警備員たちだけだ。人の死がどうとか言ってしまうとさすがに黙ってはいられないのか。人込みをかき分けて俺のところまで来るつもりらしい。最前線にいた人の方を掴み、押しのけようとしたとき肩を掴まれた人が警備員を突き飛ばした。突き飛ばされた警備員は強く腰を打ち、痛みに唸っている。しかし痛みよりも一般人に突き飛ばされた屈辱の方が耐えられなかったのかすぐに立ち上がり怒りをあらわにした。

「おい、お前。公務執行妨害だからな。現行犯逮捕だ」

このままでは無実の人が冤罪で捕まってしまう。俺は持っていた拡声器でその警備に喧嘩を売った。

「ここにいる誰が公務をしてるんだ?ここに公務員なんて一人もいやしねえよ」

「俺は警察だ。今日は毎週やってやがるデモの日だから警備に呼ばれたんだ」

「警察なんてこの国にはいねえよ。いるのは警察と書いて『どれい』と読む能無しの集まりばっかだぜ」

「……それ以上何か言うんだったらお前も公務執行妨害でしょっ引いてやろうか?」

「やってみろよ木偶の坊。そうやってできもしないこと言って人を脅すのは『脅迫罪』って言うんだぜ。どうせお前が知る訳ねえから教えてやるから、これからは言葉遣いに精々気をつけろよ。……大体本当に警察なら無実の人間捕まえてねえで、裏金かすめてた政治家捕まえてくれねえか。そうやって権力に膝ついて尻尾振って、国民のために働いたことなんか微塵もないから馬鹿にされるし、さっきみたいに突き飛ばされたりとかするんだろ。『自己責任』って言葉知らねえのか?」

ようやく、黙りこくっていた参加者たちが口を開いた。彼らは口々にあの警察に対し敵意をぶつけ、あまつさえ殺害予告までして見せるものまでいた。やっとここまで来た。……暴力は良くないこと。これは、権力者たちの洗脳である。彼らは単純な力という物を最も恐れている。なぜならそれ以外はすべて自分の力でどうにかできるからだ。……今まで、この国で起こった政府や公的機関に対する署名活動の数々、成功例はただの一つもない。今までこの国で行われた様々な問題の解決を話し合う会議の数々、事態が進展した例は決してありはしない。ならばあとは力に訴えるしかあるまい。それを彼ら権力者は「理性的な人間の行動とは言えない」と批判してくるかもしれないが、俺から言わせてもらえれば、最もけだものに近いのはお前ら権力者側の人間だ。数多の人間からの訴えを自分に都合が悪いからという理由で握りつぶし、いざ用意された話し合いのテーブルには決して座らない、座ったとしても会議を躍らせる。そして自分たちが対処できない手段を行使されれば文句を言い、人道を盾にごね始める。……それなら、もう暴力に訴えるのが最も効果的だというのは権力者以上の知能を持つのなら誰にでもわかる。もう、話し合いで解決できるラインはとっくに超えていたのだ。超えさせたのは奴らだ。これも自己責任という物だ。

 警備隊は攻撃的になったデモ隊に手も足も出ない。警棒を使って力尽くで鎮圧するのは簡単だが、すでに警察に対する悪感情はこれ以上ないほど育ってしまっている。ここで警棒を振りかざすところを見せてしまうと人数にものを言わせて無理やりにでも警備員側が制圧されるだろう。そうなってしまえばデモ隊は簡単に財務省の建物内に入ることができる。その最悪の事態を回避するため、彼らは玄関前で警備の壁を増やすという選択肢しかとることができなかった。その間にも、デモ隊の公権力に対する嫌悪の感情は燃えあがっていく。ついに、聞きたかった言葉が聞こえて来た。

「財務省職員全員死ね!」

誰かひとり、それを口にした途端また誰かひとりがそれを口にした。と思った矢先、また誰かが。瞬きをする間に追いかけきれないほど広がり、あっという間にデモ隊の主張は激化した。今ならできるはず。隣にいた男に石を手渡した。何を言わずとも言いたいことは伝わっているようだ。躊躇う間もなく思い切り振りかぶって建物目掛けて投げつけた。手ごろな重さのおかげで石はよく飛ぶ。投げられた石はついに財務省の二階の窓ガラスを粉々に砕いた。デモ参加者たちは一瞬何が起こったかわからないようだったが、すぐにそれを理解すると飛びつくように石が入った袋に集まった。そしてそれぞれ思い通りの石を握りしめ、親の仇を取る勢いで石を投げつけるのである。


  七月十三日

 そろそろ始業の時間になる。俺も先輩を見習ってもっと容赦ない増税施策を考えねば、出世は難しいか。とはいっても使えそうな案は大体先駆者が持って行ってしまったせいで、今までにない案を考えるということだけでもなかなか難しいものである。それに加え、最近はぽっと出の政党が『百三万の壁』を引き上げるなんて言うもんだから、もしそれが通ってしまえば俺の出世はもっと厳しいものになってしまう。不倫ネタならすぐにでも失脚するだろうと女をけしかけてみたが、それでも支持率は落ちない。それどころか「これは財務省が仕掛けた罠」などと根拠のない妄言があふれかえるせいで俺たちの肩身は狭いものになってしまった。俺たちの操り人形だった由民党は党首である石田哲郎が爆死したせいでもう使い物にならない。そのせいで俺たちに都合のいい政権与党を新しく作り上げなければならないことが急務なのだが、どうにも身が入らない。今、財務省職員は厳しい状況に立たされている。何をしようとも批判の声が届き、外にはデモ隊の群れ。出世しようとすることがそんなに悪いことなのか。何故低所得者なんかに足を引っ張られなければならないんだ。お前らなんぞは所詮下民なのだから黙って働いて死んでおけばいいものを。お前らの豊かな暮らしなどどうでもいいのだ。

 それにしても、今日は一段とデモ隊の馬鹿どもの数が多いな。何の証拠もない流言飛語に流されてここまで来るとは、あまりにもおろかだと言える。その愚かさが、自らの力で裕福になれない原因なんじゃないのか?無実の人間のせいにしている暇があるなら、少しでも努力をするといい。ただ、その愚かさというのはめったに見られるものではない。今のうちによく見ておくとしよう。……どいつもこいつもアホそうな顔ばかりだ。努力をすることを知らず、すべてを人のせいにして生きてきた人間はすべてあのような顔立ちになるのだろうか。めったに見られない愚かさという物は俺の脳みそには非常に珍しい刺激で、こいつらから税金を搾り上げるプランがいくつも湧いてくる。メモにでもしておくか。……それにしても警備員の奴らは何をやっているんだろうか。あんな奴ら警棒でも振りかざしてさっさと追い払えばいいのに傍観を気取るとは、職務怠慢か?あとで奴らの「上」の方に説教しておかなければ。今もデモ隊の中心にいる奴が何か言ってるが、警備員は止めようともしていない。会話する暇があるならさっさと止めろ。いつまでも周りにハエが飛び回っているようで気が散るんだ。……普通の警備に戻りやがった。あいつは後で「異動」させよう。

 無能の排除を決意してから間もなく、またもやデモ隊の動きが活発化した。しかも今回は先ほどまでとは違い、ほぼ全員が拡声器を使っているせいでなおの事うるさい。しかも「財務省職員全員死ね!」だと?腹立たしくてしょうがない。この部屋にいた他の奴らもこれにはさすがに穏やかではいられないようだったが、これも所詮は負け犬の遠吠え。上級国民である俺たちはこれぐらい軽く流してやらなければ。……来年度までに増税してやる。上級国民として当然の処置を心に決めた時、俺の安寧は砕けた。俺の右隣りでデモの様子を見ていた男がいきなり倒れたのだ。しかも窓ガラスが割られ、倒れた男の顔には割れたガラスが刺さっている。床にもガラスの破片が飛び散っているが、それ以外に石が見つかった。ちょうど握りこめそうなサイズだが、もしや投げ込まれたか?もう一度窓の方に目を向けるとまたもやガラスが割れた。やはり石だ。石を投げられている。いくら頭が悪い集まりとはいえ、ここまでとは思わなかった。警備員共は何をしていやがる。こちとら怪我人が出ているというのにどんどん石が飛んでくる。窓ガラスが尽く割られたおかげで、デモ隊の喚き声もよく聞こえるようになった。あまりにも聞くに堪えない。すぐにでも警察に電話して全員逮捕してもらうとしようか。

 警察に連絡するため、デスクに置いていた電話機に手を伸ばした時、またもや何かが投げ込まれてきた。どうせ石だろうと思ったが、先ほどまでとは違い皆が騒いでいる。それになぜか熱い。……熱い?熱さを感じる方に目を向けてみれば、そこには火が広がっている。火炎瓶か。あいつら石だけでは飽き足らず火炎瓶まで投げ込んできやがった。奴らは俺たちを本当に殺す気なのか。怖気づいている間にも火炎瓶は尽きることなく投げ続けられ、火はどんどん広がっていく。そしてようやくスプリンクラーが熱に反応し起動したが、もう遅い。今さら少し強いシャワー程度の水をかけたところで火は消えない。火種はとっくのとうに大きな火に変わっている。もうこの部屋にはいられない。今すぐ外に逃げ出さなければ。だが、俺の足元では先ほど石を顔面に当てられて気絶している同僚が倒れている。この部屋から運び出さなければこのまま火に包まれて死んでしまうだろうが、俺は助けなかった。素人の俺に非常時の人命救助なんてできっこない。それに出世競争の相手はできるだけ少ない方がいい。しかも、今回の火事はあいつら底辺国民のせい。俺が助けていなくとも、俺が攻められることなどない。全部火をつけたあいつらが悪いのだ。同じ部屋にいた他の同僚を突き飛ばし、我先にと一階エントランスに向かう。すぐ後ろに煙が迫っている。今ここで死ぬわけにはいかないんだ。まだ満足いくほど出世できていない。階段は遠い、エレベーターを使おう。エレベーターに駆け込み、急いで一階のボタンを押した。誰かが走ってくる音が聞こえる。早くドアを閉めなければ。ドアを閉めるボタンを連打し、もうすぐで完全に閉まるという瞬間に、何者かがドアの隙間に手を入れた。その手は忌々しくも外側のドアと内側のドアの間にある安全装置に触れてしまったことにより閉扉が中断されてしまった。安全装置の効果により、ドアがゆっくりと開いていく。俺はその間もずっとドアを閉めるボタンを連打していた。

 ドアの向こう側にいたのは俺の直属の上司だった。他の者はとっくに階段方向へ行ったらしくエレベーター前には俺と上司しかいない。廊下にロールカーペットを敷いているせいで、火の回りが予想以上に早く目の前まで迫ってきている。……これは好機だ。今ここでこいつを消してしまおう。今までさんざん下らん仕事押し付けて俺の邪魔しやがって。

「いきなり手をはさんできたのは黒川さんだったんですか。運よくセーフティーシューに手が当たってよかったですね」

「峯井か。ぎりぎり間に合ってよかった。ほら、さっさと道を開けて俺を中に入れてくれ」

「……死ね!」

俺は黒川に殴りかかった。ここまで走ってきたことに加え、そもそもの年齢。それに火災で発生した有害な煙などが確実に黒川の体力を奪っていた。しかもこの緊急時にいきなり殴りかかられるのだ。想定できるわけもなく、年老いた黒川には反射神経で防御することも難しい。黒川は俺の拳を左頬に受け、倒れた。その隙に閉扉ボタンを連打する。殴られた黒川は痛みに加え、状況の整理のためにしばらく起き上がることもできずにいた。とりあえず起き上がっておけばこの場で死ぬこともなかっただろうに。ドアが閉まり始めた頃、ようやく黒川は起き上がった。だが、倒れた衝撃で頭を打ったのか頭を押さえて唸っている。閉扉が残り半分の所で事態の把握が完了し、こちらにまた手を伸ばした。今回は先ほどとは違い、まだ扉が閉まりきっておらず黒川の顔が見える。もともと年の割にしわが多かった顔だが、怒りに歪みしわが増え人の顔のようには見えない。すぐ真後ろまで迫った炎もあわさってまるで妖怪の類だ。またもやエレベーターを止められそうだったが、そう何度もうまくいくものでもなかったようだ。黒川は火に包まれた。エレベーターに伸ばした手は自らに着いた炎を振り払うために使い始めたが効果はない。ようやくドアが閉まりきる頃、床に倒れこんだ黒川の顔はこちらを睨んでいるようだった。こちらに手を伸ばした時の怒りの表情は変わらぬまま、目の奥が燃えている。

 エレベーターは動き出した。ここは二階、一階はすぐだ。一階に着けばエントランスは正面、火がついていようがそのまま駆け抜ければ問題ない。だが、そううまくはいかなかった。エレベーターがいきなり止まったのだ。下降を始めてから五秒も経っていない。何故動かないんだ。何度も一階のボタンを押すが反応はない。まさか緊急時のせいで止まったか。それならば緊急通報を使うべきか。だが、この救助通信はいくらなんでも時間がかかりすぎる。今からここで何分待つ羽目になるやら。それに外にいるデモ隊の存在が気がかりだ。火炎瓶すら投げ込む奴らなのだから、救助隊の活動を妨害するかもしれないだろう。ならば自分でここから出る方が手っ取り早い。ドアの隙間に手をねじ込み、力任せにこじ開ける。何とか少しだけ隙間を広げることに成功した。しかし、俺はまだ外には出られなさそうだ。エレベーターが途中で止まってしまった影響でエレベーター側のドアと一階側のドアがずれてしまっている。このドアも無理やりこじ開けられそうだが、ひざ下程度までしか見えておらずここから出ようとするのはかなり厳しい。だが、今の俺には今さらやめるという選択肢はなかった。俺の頭の中にあったのはデモ隊の奴らに対する怒りしかなく、このままここで閉じこもるというのはデモ隊の奴らにしてやられたという気がしてならない。絶対に自分の力だけでここから無事に生還し、奴らを希代の悪党として国民全員に連帯責任の増税をしてやらねば気が済まない。俺はその場にしゃがんで、一階側のドアに手をかけ、力の限り開こうとした。最近まともに運動できていない中年の腕力でも何とか開けられそうだ。少しだけ隙間が開いた。その瞬間、凄まじいほどの熱風がエレベーター内に吹き込んできた。熱風にあおられた前髪がチリチリしている。鼻先も少しやけどしたかもしれない。だが、そんなことを気にしている暇は瞬く間になくなっていく。少し開けてしまった隙間から煙も入ってきているのだ。幸い煙は高いところにたまるが、間もなくエレベーター内に充満するだろう。一刻も早くここから出なければいけなくなったが、先ほど開けた少しの隙間はまだ俺に牙をむく。すでに一階に火が回っているせいで、エレベーターのドアが非常に熱い。少し開けた隙間のおかげで手をかけられる範囲が広がり、格段に開けやすくなったのだが、火に温められてしまい素手では決して触れない温度になってしまっている。手のひらを焼くか、このままガスで息絶えるか。問われるまでもない。俺はもう一度ドアに手をかけた。ドアはとてつもない熱さだが、ガスに包まれて死ぬよりましだ。言葉の通り火事場の馬鹿力というやつが俺にも表れた。目の奥がちかちかする。瞼は閉じていないはずなのに何も見えない。それでもドアが動く音と、何かが燃え続けている音だけが聞こえる。もう何も考えてはいない。ただ力のあまりドアをこじ開けるだけだった。次に思考を取り戻した時、すでにドアは開け放たれていた。あとはここから這い出るだけ。外の様子はガスのせいでよく見えない、炎の勢いがそこまで強くないことを祈って出るしかない。とりあえず、エレベーターと一階の高さがずれている分は考えておかなくては。どうにか受け身が取れるような体勢で出られないものか。


 七月十三日

 財務省は激しく燃えている。外に出てきた人は一人もいない。警備員は消火器でも探しに行ったのか姿が見えない。目的を達した以上、いつまでもここにいる理由もない。さっさと帰りたいが、そう簡単にはいかなかった。他の人たちも使ったであろう電車は、駅の出入り口に警備員がいるため、使うことはできない。それに加えて、タクシーやバスなども簡単には出入りできず、乗客の素性をいちいち確認されるため、使用できない。唯一の手段はここから歩いて帰ることだが、はっきり言って不可能な距離と言わざるを得ない。それにあとから追いかけてこられた場合、逃げ切れる自信はない。……ここから無事に逃げ出すのは不可能ということか。さすが要所というべきか。忌々しいが、仕方あるまい。

 警備員が戻ってきた。消火器を探しに行ったのかと思っていたがそうではないようだ。神妙な面持ちでこちらに近づくと、「放火の現行犯で全員逮捕する」とだけ告げた。警備員以外は誰も喋らない。まだ誰も事態の深刻さをはっきりとは認識できていないのだろう。逮捕するとは言われたものの、所詮警備員の数はこちらの二割にも満たない。逮捕などハッタリのようなものかとうっすら馬鹿にするような雰囲気が流れ出した。それも当然だ。俺たちが財務省に石や火炎瓶を投げている間、まったくと言っていいほど止めようともしなかったからだ。デモ隊の皆は警備員、その後ろにいる警察組織すべてを舐めているのだ。この場にいる全員が奴の言葉を信じていない。ついに誰かが動いた。「馬鹿には付き合いきれない」と警備員に向かって吐き捨て、駅に向かって歩き出したのだ。警備員は止めない。それを見た他の人も先駆者に続き、ぞろぞろと歩き出した。全員、警備員たちへの捨て台詞は忘れていない。俺は動かなかった。どうせ動く意味もない。

 予想通り、少し遠くから騒ぎ声が聞こえて来た。甲高い女の声は良く聞こえる。「さっさとどけ」と耳が痛くなるほど喚いている。しかし、それをかき消すような音が聞こえて来た。サイレンだ。続々とパトカーが財務省前と、駅の出入り口前に停まっていく。車から続々と出てきた警官は、一瞬で俺たちを包囲した。他の奴らは無駄な抵抗をしようとしているが、碌に鍛えていない体では勝ち目などはない。抵抗するものは地面に押さえつけられ、手錠をかけられる。抵抗していない者も手錠をかけられるのは変わらない。そうして財務省前にいたデモ隊は全員手錠をかけられ、大型輸送車三台に分乗させられ連行された。俺もそろそろ年貢の納め時ということなのだろうか。

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