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死んで当然  作者:
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第三章

六月十一日

 昨日発生した立川殺人事件の資料をようやく作り終えた僕は、背もたれに体を預け大きく伸びをした。使い古した関節から悲鳴のようにポキポキと音が鳴る。大きく深呼吸をした僕は作り終えた書類と、いざというときのため用意していた辞表をもって部長のデスクのもとへと向かった。

「書類ができたか。香山君、ご苦労であった。今日からしばらくは事件に振り回されることもなくなるだろう。……香山君、これは」

なんだか申し訳なくて、完成した書類の下に隠していた辞表は当然のごとく見つかった。部長は驚いた顔をしているが、特に僕を責めることはしなかった。その代わり一言、「今までありがとう」とだけ口にした。どう返したらいいかわからなくて、僕はただ頭を下げるしかなかった。逃げるように部長のデスクから離れた僕は急いでデスクのものを整理し始めた。他の連中は仮眠室で寝ているか、まだ来てないかのどっちかだ。見られるわけにはいかなかった。みんなは一生懸命犯人逮捕という目標に向かっているのに、僕だけ気持ちがついて行かなかった。殺されるのはいつも悪人と言って差し支えない人ばかり、そう思った時点で、刑事の仕事は向いてなかったのだ。滝沢さんが言っていたように適当に警備員の仕事でもするか。もう命の価値を考えたくなかった。もともとデスクの上は綺麗にしており、その上常に職を辞することも考えていたから、物はかなり少なく段ボールひと箱にすべて収まるほどだった。部屋を出る前、もう一度部長に向けて頭を下げた。部長は今までに見たことがないような顔をしていた気がするが、逆光で何も見えなかった。


 六月十一日

 ようやく目的を達することができた。両親の敵を討ち、俺を見限りやがった馬鹿どもを地獄に叩き落とし、心はこれまでになく晴れやかである。もう何もやることなどないが、これでいいのだ。人生というのはその程度のものだ。あとは両親が遺してくれた財を食いつぶしながら一生遊んで暮らすか。そう思いながら畳の上で寝転んでいるとインターホンが鳴った。出てみると見覚えのある男が一人、ない女が一人。

「四十万一さんで間違いありませんか?少しお話を聞かせていただきたいんですが」

「誰ですか?あなたたちは。顔も名前も知らない人に話すことなんてありませんよ」

「……知ってるはずだろ、俺のことは。お前のせいでかなり面倒なことになったからな、こっちは嫌でも覚えてるぜ」

「……木崎か、あんた。週刊ライアーの、犯罪者まがいの記者だったっけ。後ろの女は誰だ?」

「私は渡辺佐紀と言います。木崎先輩の部下です」

「渡辺……。ああ、確かどっかの殺人事件で遺体の写真撮ってネットにあげた女だろ?そのあと警察にしょっ引かれたって話だったが……。なるほどね、犯罪者の部下も犯罪者ってわけか。……で、その犯罪者諸君が一体俺に何の用だ?」

「『天誅』連続殺人事件、知らねえとは言わないよな。とある情報を掴んでよ、そっから調べを進めると犯人が誰かわかってきてな」

「それと俺に何の関係がある?」

「中で話させてもらえませんか?四十万さんもあまり周りに聞かれたくない話だと思いますが」

「そうそう、仮にこの話が本当じゃなかったとしても噂っていうのは馬鹿みたいに広がるからな」

「……さすがだな。今までその『噂』だけで幾人も不幸にしてきた人間の言うことには説得力がある。……わかった、中で話そう」

俺は週刊ライアーから来た二人を家に入れた。客間に通し、一応茶を出してやる。木崎は礼を言わない。躊躇せず口をつけ、のどを湿らせると単刀直入に切り出して来た。

「あの連続殺人、お前が犯人なんじゃないか?」

「いいえ」

「……お前俺を馬鹿にしてんのか。さっきも言っただろ、調べはついてるって」

「……もし仮に俺が犯人だったとして、なんで警察がつかんでない情報をお前らごときが手に入れられるんだ?」

「わが社独自の情報網ってやつだ。せっかくだから教えてやるよ、俺たちがつかんだ情報。一つ目、殺されたのは全員ある一定以上の立場の人間、具体的に言うと『人を雇うかどうか決められる立場の人間』であること。二つ目、被害者たちは殺されたとき財布などを所持していたことから物取りの犯行ではないこと、つまり怨恨の可能性が高いってことだ。三つ目、被害者たちはそれぞれトラブルを抱えてはいたものの、そのトラブルは解決済みだったり、被害者が殺害されたときにはアリバイがあって殺しをできなかった。四つ目、被害者たちが持っている特性から考えられる怨恨は残り『不採用による逆恨み』しか残されておらず、被害者が出た会社の資料を調べた結果、『すべての会社で不採用通知を受け、かつ未だ無職である』のはお前だけだ。よってこの事件の犯人はお前……。どうだ?何か反論はあるか?」

「俺にはそいつらを殺す動機はない。その条件に当てはまるのが俺だけだとしても俺には親が遺してくれた遺産がある。これだけで一生生きていけそうなほどにはな。恨んでいたとしても殺すほど切羽詰まっちゃいないんだよ」

「でも。気に食わなかったんだろ?自分をないがしろにしやがった奴らがのうのうと生きているのが」

「だから殺してくれた奴には礼を言うよ。『殺してくれてありがとう』ってな」

「……お前が犯人なんだろ?いい加減本当のこと言えよ」

「掴んだ情報はこれで終わりか?『わが社独自の情報網』って言っておいて結局ただの妄想の延長線上の話だったけどな」

「……これで終わりな訳ねえだろ、まだあるんだよ。もっと確実な証拠という物が」

そういって奴が見せてきたのは何枚もの写真だった。それはすべて俺か、俺が運転している車が映っている。

「右下にある撮影日と時間をよく見ろ。すべて殺人が起きた日と、その日殺された人間の死亡推定時刻の二時間以内だ。これが殺しのための外出でなくて何だというんだ。言い訳があるなら話してもいいぞ」

「……これはお前が撮った写真か?」

「そうだ、ここにある写真すべて俺が撮った」

「なら、連続殺人の犯人はお前でもあり得るな。だってお前は『殺人が起きた日』、『被害者の死亡推定時刻の二時間以内』に外にいたんだろ?」

「俺にあいつらを殺す理由はねえ、お前と違ってな」

「ネタ欲しさじゃないのか?何年前か忘れたが、どっかの記者がサンゴ礁の取材をしてる時、わざと自分で傷をつけるっていうやらせがあったじゃないか。それと一緒だろ、ほらお前にも殺人の動機がある」

「俺はそんなことしない!」

「そのセリフそっくりそのまま返すぜ」

木崎は苦虫をかみつぶしたような顔をしていたが、隣に座っていた渡辺が役割を変わるように口を開いた。

「六月一日から六月十日まで、どこでどう過ごしていましたか?」

「なんでお前らなんかに取り調べじみたことされなきゃいけねえんだ」

「いいから答えろや」

黙りこくっていた木崎が威勢を取り戻した。

「黙ってろ木崎。そもそもお前らみたいなゴミ共に付き合ってる暇なんかないんだよ。俺にはお前らなんか大事な『部屋の掃除』っていう用事があるんだよ」

「……もし自分が犯人ではないと主張するのなら、アリバイを提示するのが基本ですよ」

「……わかった、話せばいいんだろ」

「嘘はつくんじゃねえぞ」

黙っていろと言ったはずなのに木崎が口を開く。それにイラついた俺はあることを思いつき、実行に移した。

「六月一日は、午前中はスーパーで買い物した。午後は家で筋トレをして、四時ぐらいに家を出て二駅先の駅近くの公園に向かった」

その日、事件があった公園に向かったことを話し始めると二人の顔色が変わった。二人は俺の策にはまっている。

「その公園で槇原っていう男を殺した。そのあとは普通に家に帰った」

俺の殺したという言葉には二人も唖然としている。しかし、すぐに気を取り直すと「殺した!?」と聞き返して来た。俺は普通に「ああ、殺したよ」と返事をすると二人はいきなり立ち上がり、ドタバタと滑稽な音を立てながら家を出ていった。おそらくあの話を馬鹿正直に信じたのだろう、それを記事にするかあるいは警察にタレこむか。どちらにしろ、奴らは裏も取れていない話を信じたのだ。やはり彼らは生粋の『マスコミ』ということなのだろう。今、俺が話した情報は警察が会見で話していたことと同じで、誰にでもわかることだ。つまり、俺がこの話をしたところで連続殺人事件の犯人とはなりえないのだ。だが、俺の時間を奪った挙句騒ぐだけ騒いでどこかに消えた勝手すぎるあいつらには腹が立つ。少し灸をすえてやるとしよう。

 奴らが渡していった何の役にも立たない名刺。これらを撮影し、ネット上に投稿する。「冤罪でっち上げマスゴミの実名公開」というタイトルと共に。マスゴミという強いワードが世間の反応を買ったのか瞬く間に拡散されていく。木崎たちが事件の記事を公表する前に彼らの名前は世間に覚えられることになった。それから一時間後、急いで記事を書き上げたであろう彼らが「ネット記事を更新した」という投稿をしても誰も記事を読むことはなく、記者たちの仕事ぶりに対する批判や会社の情報倫理に対する批判、挙句の果てには記者たちへの人格否定など留まるところを知らない。彼らは相手が悪人だと分かった瞬間、誰よりも残酷に、誰よりも粘着質になる。その対象が二度と表舞台に顔を出すことがなくなるようになるまで。もしそれで批判の対象が死ぬようなことがあれば、彼らは口をそろえてこう言うだろう、「こんなことになるとは思わなかった」と。それで一度、人の死を糧に愚かな行為はやめようと教訓や美談に格上げする。三日後にはもうこんなことを忘れてまた他人の人格批判を行うのだろう。貧しくなった国の国民が唯一行える娯楽はこれだけなのだ、仕方あるまい。ネットにうんざりした俺はスマホをベッドに放り投げ、もともとやろうと思っていた掃除にとりかかった。この時、無音が気に入らなかったので、テレビの電源をつけ、ザッピングしていた。しかしどの局でも警視庁の記者会見を生放送している。仕方なくそれを垂れ流しながら掃除をしているとありえない言葉が聞こえて来た。

「『天誅』連続殺人事件で発生した事件のうち、新島輝美殺人事件、樋之口拓郎殺人事件、青木真由美殺人事件、立川弘殺人事件については、『天誅』連続殺人の模倣犯であり、犯人はすでに逮捕した。現在取り調べを行っている」


六月十一日

 段ボールを抱えて署を出た僕は、その足でそのまま家へ向かった。段ボールを抱えたまま電車に乗るのは少し抵抗があったが、主要な方面とは逆だったため、車内にはあまり人がいない。あまり重くない段ボールを抱え、家に着くと何故だかどっと疲れた。持ち帰った物の片付けもせず、シャワーを浴び、ベッドに飛び込んだ。頭の中はもやもやして寝られそうになかったが、体は睡眠を求めていたようですぐに眠りに落ちた。

 三時間後、空腹で目を覚まし、適当に食事を済ませた。今日から無職でやることもない、これからの時間はかなり持て余すことになるだろう。何をしようか迷ったが、真っ先に滝沢さんに会おうかと考えた。何故だか全くわからないが、思いついた以上会いに行くほかないだろう。すぐに支度を済ませ、家を出た。滝沢さんは確か都会と田舎の境界線あたりに引っ越したと言っていた。

 うたた寝のまま電車に揺られ、どれほど経っただろうか。ふと目を覚ますと目的の駅の一個前の駅に着いている。滝沢さんには会いに行くことを伝えていないため、もしかしたら家にいないかもしれないが家を出る時、そこまで考えが至らなかった。隠居して盆栽をいじるという言葉を真に受けすぎて、家から一歩も出ないのかと勝手に勘違いしてしまったのか。もしいなかったらどうしようと悩んでいるとついに目的の駅に到着した。確かに都会と田舎の境界線のような場所だ。駅構内の人影は少ないが、改札は自動になっている。しかし、その先で農家を営んでいる人の直営所があったり、コンビニがあったりとどちらでもありどちらでもない曖昧な場所だ。

 駅からバスで十分、公民館前で降り、少し歩く。ようやく滝沢さんが引っ越したという家に到着した。少し古めの平屋で庭も広い。表札にはしっかり滝沢と書いてあり、庭を覗くと盆栽が何個も飾られていた。ドアベルを鳴らすと、すぐに聞きなれた声が聞こえてくる。

「はい、どちら様で?」

今時珍しいカメラがないタイプの物のようだ。

「お久しぶりです、滝沢さん。香山です」

「香山?お前何でここに?仕事はどうした?……ちょっと待ってろ」

そういうと、通話が切れた。それと同時に家の中からどたどたと走る音が聞こえる。鍵が回る音が聞こえ、ドアが開かれると懐かしい顔が見えた。やはりとても驚いているようだ。

「……久しぶりだな、香山。……とりあえずあがってくか?」

「ありがとうございます、滝沢さん。失礼します」

家の中は質素なもので、必要最低限のものしかない。他の人と暮らしている形跡もなく、結婚はしないのかと聞いたが、「ずっと家にいる男のことを好きになる女はいねえよ。自由に不倫できなくなるからな」と毒づいた。婚活などでかなり痛い目を見たのだろう、その恨み節には恨み以上の何かがこもっている気がした。居間に通され、茶をもらう。滝沢さんは僕が茶をすするのを見届けると、僕がここに来た理由を問いただした。

「香山、お前何でここまで来た?仕事はどうした」

「……仕事はやめました。やっぱり僕には向いてないなって思って。それに、捜査中だった事件もどうしようもできなくなりましたから」

「……警察をやめても、縁はそう簡単には切れなくてな。今どういう状況かっていうのは少し知ってるんだ。……六月の初頭から二週間足らずで三十人以上が殺された。どれも被害者の身元、凶器、動機ははっきりしてる。けれど容疑者に関しては杳として知れない。でも市民は一刻も早い事件の解決を強く希望し、それは激化して警察不要論にまで発展した……。こんなところか」

「……もしそれだけなら結果を出して見返せばいいだけです。でもこれだけじゃなかった。……滝沢さんが最後に捜査した廃工場殺人事件、覚えてますか?」

「ああ、会社の重役でもあり、親友同士でもあった五人が殺されてたって事件だろ?あれは確か高岸って男が犯人として捕まったはずだ。ちょっと前に初公判もやってたな。一気に五人を、それも凄惨な方法でということでかなり世間を騒がせていたな。テレビでも裁判所前から中継をしてたはずだ」

「その初公判、どういう結論が出たか覚えてます?」

「ああ、確か血の付いたシャツかなんかが出てきて、ほぼ有罪確定みたいな感じだった気がするが……」

「あれは「天誅」連続殺人事件の捜査本部の副部長が仕組みました。廃工場殺人事件の捜査の時、うちの署と応援要請した署との合同捜査だったのは覚えてますよね。その時、僕と滝沢さんは応援に向かった署で捜査の指示を受けていたので、うちの署がどんな捜査本部になっていたか知る由もありませんでしたが、今の副部長がその時は捜査本部長を務めていたんです。廃工場殺人事件は犯人が捕まったとはいえ証拠が出ておらず、解決したとは胸を張って言えない状態でした。そのため、滝沢さんがやめた後も署内の刑事数人を「天誅」の方ではなく廃工場の捜査をさせていたんです。それでも結果は出ず、「天誅」の方も廃工場の方も進捗は全くありませんでした。そこを市民に突っつかれたんです。『捜査協力を謳う割には結果が出てないじゃないか』と。それで、ついに副部長の心が折れてしまったようで、証拠を捏造して事件の解決を確実なものにしようとしたんです」

「……それは本当か?……いや、もし本当なら検察と裁判所が黙ってないはずだぞ。冤罪判決を出してしまえば裁判所の信頼は揺らぐ。ただでさえ最近移民有利の判決ばかり出して、裁判所解体論が一層強まっているときにそんな危ない橋を渡るのか?それにあとから証拠は嘘だったと言えば、裁判所はそこまで信頼を傷つけられることはないだろ」

「……渡らざるを得ないんです。滝沢さんが言った通り、最近どこの裁判所も外国人有利の判決ばかり出して批判が集中していますよね。そこに有罪かどうか怪しい人物が転がってきたとしても決して無罪にはできなかった。……高岸は、就労ビザを取得した外国人だったんです。高岸という名前は偽名でした。これは初公判の際、初めて世間に知られたことだったので、裁判官の緊張感は尋常ではなかったと思います。『無罪にすると、自分は職を失うことになる』という強迫観念じみた思考があったはずです。本当はそんなに簡単にやめさせられたりしませんが。それでもこれまで以上の非難の声にはさすがに耐えられないと思ったのでしょう。あの裁判官は自分の人生と、高岸の人生を天秤にかけたんです」

「……お前はそれに嫌気がさしたのか」

「厳密にいえば違います。……その裁判の後、本部長が副部長を問い詰めたんです。『なんであんなことをした』って。そしたら副部長は『市民に守る価値を見出せなくなったからどうでもよくなった』と言ってました。僕はそれに、賛同しそうになったんです。いくら方々駆けずり回っても得られるのは罵声が大半です。人助けをしても、もらった評価は『空気の読めない男』でした。……連続殺人の犯人がうらやましくなったんです。犯人が手をかける理由は怨恨だと思われています。もし本当にそうなら、僕はあそこまで自分の感情をこの社会に訴えることはできない。でも彼はそれができている。殺人という方法を通じて。……それがうらやましく思えて、僕は警察に向いていないんだって思ったんです」

「……これから何かする予定はあるのか?」

「いいえ、何も。ただ今まで趣味がなかったおかげで貯金はあるので、ダラダラ生きて行けそうです」

「ならそうする前に、その連続殺人犯に会ってみると良いんじゃないか」

「え?」

「うらやましいと思ったんだろ、そいつの感情の表し方が。……なら会いに行ってヒントでも貰うといい。お前にはまだ時間がある、腐るにはまだ早いんじゃないか」

「でも、殺人犯からヒントをもらうのはちょっと……。それに、もしそれで僕が人殺しになったりしたら滝沢さんは嫌ですよね」

「それがお前の選んだことなら俺は尊重するよ。俺はもう警官じゃないし厳しいことを言うつもりもない。それに、人殺しっていうのは存外誰でもできるし、大したことじゃない」

そう言いながら滝沢さんは立ち上がった。そして「ちょっとついて来い」とだけ言って部屋を出ていこうとしている。僕も急いで立ち上がって滝沢さんの後を追いかけた。滝沢さんは家の裏口から外に出ると、雑木林の方へ向かった。鬱蒼としてはいるものの、人が踏み均して作った道がある。滝沢さんが言うには「この林はここの町会長の土地であり、町会員ならば誰でも入っていい場所で、春には山菜取り、秋にはきのこ、たけのこがとれるいいところ」らしい。その雑木林を進んでいくと、二手に分かれる道と、その道の先を示す看板が置いてあった。右の道は池に続いており、左の道は山道に続いている。滝沢さんはそこを右に曲がった。何やら池に用があるらしい。

 そこから少し進むと池が見えて来た。池の周りには木が生えておらず、池を一望できる。その池には桟橋と小屋がついており、その小屋には鍵はかかっていない。中を覗くとシャベルや植木鉢などの園芸用品に加え釣り竿が何本も置いてある。これも町会長の趣味なのか。小屋の裏には小さめのボートも置いてあり、池を揺蕩うこともできそうだ。滝沢さんはシャベルを取ると、まっすぐに桟橋に向かっていった。そして桟橋の下の地面と池の境界線あたりを何やら掘り返している。自らが泥で汚れることも構わず掘り返しているが、何やら妙なものが出て来た。ブルーシートだ。滝沢さんは何も言わず、周りの土を払いそのブルーシートを太陽のもとにさらそうとしている。そのブルーシートの包みは二つある。どれもかなりの大きさでかなり重そうだ。それにとても酷い匂いが、しかしどこかで嗅いだことがあるような匂いがした。その匂いが当たりに漂い始めた頃、太陽もその匂いにあてられたか雲に隠れてしまった。あたりが一気に暗くなる。滝沢さんはそれらを意に介せず、ブルーシートの包みを開いた。中にあったのは白骨化した遺体であった。まだその骨に肉片がこびりついており、偽物ではないということを強く感じさせる。それと同時に匂いもあふれ出てきており、とても我慢できるものではなく、顔をしかめ、鼻をふさいだ途端雨が降り出した。雨はすぐになかなかの勢いとなり、腐敗臭は一瞬にして水の匂いに書き換えられた。その雨の中、滝沢さんが独り言のようにつぶやいた。

「人を殺すのは、思ったより簡単でな。それに思ったより罪悪感も湧かないもんだ」

 雨を避け、小屋の中で滝沢さんの話を聞くことにした。小屋の中は普段あまり使われていないのだろう、少し埃っぽいが雨に降られて風邪をひくことになるよりはましだ。

「あの二人の遺体は誰のですか?」

「……俺の付き合ってた女と、その不倫相手だ。警察をやめる二か月位前から付き合い始めてな。……駅からちょっと歩いたところにアパートがある。あそこの大家は俺でな、不労所得で暮らしてるんだ」

「じゃあなんでここで生活してるんです?大家だったらアパートの管理人室とかあるんじゃないですか」

「……麻里がな、大家の仕事をやりたいって言いだしてな。任せてたんだが、それがだめだった。ちゃんと仕事ができてるか気になって様子を見に行ったら部屋に男を連れ込んでてよ、カッとなって殺しちまった、二人ともな。……そっからは早かった。急いで車に遺体を積んで、この池まで車を走らせた。そしてこの小屋の中にあったブルーシートを拝借して、遺体を包んで……。土の中に埋めたんだ」

「……騒ぎにはならなかったんですか?」

「なるにきまってるだろ、人が二人消えてるんだ。でもまあ、男の方は元々ろくでもない男だったようでな、探してくれと懇願する人もいないから三日足らずで捜査が打ち切られたようだ。麻里はここが地元なんだが、友人が多くてな。どうしても探し出してほしいということでかなり長い間捜索が続いていたんだが、結局男と一緒に駆け落ちしてどこかへ行ったという説が有力になり、捜査は打ち切られた」

「……出頭はしなかったんですか」

「しねえよ。俺は二人を殺したこと、何も悪いことだとは思ってねえんだ。だが、この国は人を殺すのは罪だとしている。どんな人間でも殺すと裁かれる。……バカバカしいだろ、死んで当然の奴ぶち殺して裁かれるのは」

「……でも、人を殺すなんて……」

「甘いな。殺される理由を作る方が悪いんじゃないか。先に『殺してやる』と思わせた奴が悪いんだよ」

「……滝沢さん、どうしちゃったんですか?警察にいた頃はこんなこと言わなかったですよね?」

「……どうしちゃったんだろうな、俺は。少なくとも警官として頑張ってた頃はそんな考えはなかった。ただ、時間が過ぎていくうちに、何人もの人殺しを見ているうちにおかしくなったのかもな。……人を殺したくて殺してる奴なんてほんの少数だろ。ほとんどの奴らはどうしようもなくなって、考えに考え抜いた最後の手段が殺しなんだ。……それを悪と断じられるか?すべてが『自己責任』の世界で、あらゆるものから見捨てられ続けた奴らの最後のあがきが……」

「……なら、それを悪と断じられるのも『自己責任』でしょう。自分でも想像できるはずです、この国で人を殺すとどうなるのか。それが最後の手段ならなおのこと。でもその手段に手を出したということは、自分で責任を取る覚悟が出来ていたということなんじゃないですか?」

「……それ以外の手段がすべて他の人の手によって奪われていたとしてもか?……あの事件覚えてるか?お前が警察に来て初めて担当した事件」

「覚えてます。確か、二十七歳の男性が市役所といくつかの会社に火炎瓶と、自家製のプラスチック爆弾を仕掛けて……」

「そう、何人も死んだ。……あの時の取り調べでな、あいつはな大学卒業後の就活がうまくいかなかったことが分かった。奴が爆破した会社はすべてあいつが就活した会社だ。……全部だめだったらしい。在学中、ちょうど就活の時期にな、一社目の面接に向かっている途中、飲酒運転してた車に轢かれたんだと。命に別状はなかったが、重症で退院までには長い時間がかかったし、リハビリもそれ相応だった。志望していた会社たちは、彼がかわいそうだと特例でテレビ通話による面接と就職試験を行った。だが、その時にはすでにすべての会社は希望新入社員数を確保していてな、すべての会社から不採用通知を送り付けられた。他の所が雇うんじゃないかとでも思っていたんだろう、あまりにも無責任だ。……その後、彼は退院した。もともと体が頑丈だったことに加えて、リハビリも熱心に取り組んだおかげで、事故前と変わらない身体能力を取り戻したんだ。……だがそのせいで本来受けられるはずだった保護が受けられなくなった。市役所は、『普通に働けるほど身体能力が回復しているなら保護の必要はない』と判断した。だが、彼には仕事がないため、生活費などがどうしても必要になる。そこで生活保護を申請しようとしたが『事故後の賠償金を受け取っているのでその申請は通りません』と断られた。……もちろんそんな決まりなんてどこにもなかったんだがな。彼は何度も市役所に行って毎回違う担当者を呼びつけたが、答えは変わらなかった。そうして項垂れているときに、カウンターの奥の職員たちが自分を笑っているのが見えたそうだ。……ここで彼は殺しを決意した。……これも『自己責任』か?」

「それは……」

僕は何も言えなかった。滝沢さんは何も言えなくなった僕を見ても、責めるようなことはしなかった。ただ、一言「この世は理不尽なんだよ」とだけ言った。


 六月十二日

 昨日のあいつらの記事は少なくとも世間に影響を及ぼしていたようだ。その証拠として、朝からカメラを構えた奴らが家の前をうろうろしたり、隣人の家を取材しようとしている。あまりにもはた迷惑だが、まだ実害はないため、黙ってみているほかなかった。そうしてどれぐらい時間が経ったかわからないが、庭に干していた洗濯物を回収しようと庭に出ると、大騒ぎが始まった。彼らは我先にと塀をよじ登り、こちらにカメラを向ける。さすがにうっとおしくなってきたところで、事件が起きた。家の塀は家を当てた時と同じころ作ったものなのだが、家の内装、外装共にリフォームをしたものの、塀には手を付けていなかった。そのせいで経年劣化が進んでいたことに住民の俺ですら気づかず、塀が下から敷地側に倒れこみ、何人もの記者がそれに巻き込まれた。大けがこそなかったものの、機材などは当然のように壊れている。そこまでならどうでもよかったが、奴らはあろうことかその破損を俺のせいにしようとした。「あなたが塀の管理を怠ったせいで壊れたんですよ。申し訳ないと思うんだったら、取材への協力と壊れた機材の弁償をしてください」と言い出したのだ。あまりの物言いにめまいがするほどではあったが何とか気を持ち直し、家の中を戻り、スマホを手に取った。110を押し、警察を呼ぼうとしたが、彼らは応えてくれなかった。曰く「実害が認められません。それに今そんなことより移民たちの世話で手一杯なので自分でどうにかしてください」とのことだった。あまりの対応のひどさにいら立ちが抑えられず、いっそのこと全員殺すかと思ったが数が多い。どうしたものかと悩んだあげく、警視庁に電話した。家に不法侵入者が来たこと、住んでいる県の警察が対応してくれないことを相談すると、警視庁から刑事が何人か来てくれることになった。マスゴミはまだ俺の家の庭で騒いでいる。逃げる気もないのだろう、存在が度し難いほど邪悪なのに自身がそれに気づいていないし、気づくこともない。うんざりしつつも全員捕まると思えば我慢できた。

 通報してから五分足らずで警官たちは来てくれた。マスコミ連中は警察に対してもかなり強気のようだが、不法侵入と器物破損の現行犯で全員連行されるということが分かると、態度は一変した。騒がしさはそのままに強気な姿勢は真反対になる様は笑いをこらえられるわけもない。俺は大笑いしながら奴らが警察車両に乗せられるのを眺めていた。この時、記者の一人が「あいつはあの連続殺人の犯人ですよ、自分でそう言ってましたよ」と木崎たちが書いた記事を見せていた。それを見た警官たちはついにこらえきれず吹き出してしまった。何故笑うんだと今までにないほどの怒りの表情を見せる記者たちだが、その理由は警官たちが教えてあげていた。

「この程度の情報は会見でも話したので、会見を見た人ならだれでも知っていることです。この記事を書いた人は騙されたんでしょう」

この言葉が決定打となったようで、彼らは言葉を失い唖然としていた。世間を騒がせた事件の犯人の素性を暴いたかと思えば、それはでまかせであり、結果得られたものは前科とそれに伴う賠償金に塀の修理費、機材の故障だけであった。気の毒になるほどではあったが、記者という人格破綻者しか適合し得ない職業を選んだ当然の帰結だ。これも自己責任ということだろう。


 六月十五日

 記者が俺の家に群がってから数日後、釈放されたと思われる記者たちがまた俺の家の前に集まっていた。事件についての話に加えて、賠償金がらみでも何やら話があるようだ。ここに集まった記者たちは全員同じ考えをしているらしく、徒党を組んでいる。ただ全員からいちいち話を聞いているのは面倒なので、代表を一人選ばせて家の中に招き入れた。代表者はやはり、木崎だった。こいつもしつこい男だ。

「よお、四十万。お前みたいな逃げ腰野郎が話し合いの場を用意するとは思ってなかったぜ」

「……とりあえず中に入れ。話はそれからだ」

木崎を家の中に入れ、ドアの鍵を閉める。居間に通し、茶を出してやる。

「……毒でも入ってんのか?」

「ここでお前を殺してもあいつらにばれるだろ。その程度のことしか考えられないんだな、マスコミっていうのは」

「……今日はこんな下らん言い合いをするためにここまで来たんじゃない。お前には俺たちの機材の修理費、さらにお前に払うことになる賠償金と塀の修理費を全部負担してもらおうと思ってよ。もう契約書も作ってきてある。あとはお前が署名するだけだ」

俺は渡された書類を破り裂いた。木崎はもう一枚書類を取り出し俺に差し出す。俺はまた破いた。そしてそれは木崎が持っていた書類がなくなるまで続いた。

「ふざけんなよてめえ、名前書くだけだろさっさと書けや」

「……それが目上の人間にものを頼む態度か?マスコミっていうのは何もできねえんだな。早く失せてくれねえか。ほらもう帰ってくれ」

心底うんざりした俺は無理矢理にも木崎を帰らせようとしたが、奴は決して従わないどころか、俺の家の中を探索しようと居間より奥へ行こうとする。もう一度警察を呼ぼうかと悩んでいるところで、奴はキッチンにまでたどり着いていた。そして閉まってあった包丁のうち一本を取り出し、「これが三十人の命を奪った凶器かあ」と探偵気取りだ。しかもその包丁は犯行に使っていないもので、使っていたのはその右隣にある物だ。それが目に入った瞬間、木崎に対する殺意は一瞬のうちに火が付いた。人殺しのために使っていた包丁を奴の隣で取り出す。木崎は俺が何をしようとしているかはわかっていないようだ。実に馬鹿らしい。

「お前が持っているのは違うやつだ。殺しのために使ったのはこれだよ」

そう言いながら木崎の心臓目掛けて包丁を突き出した。木崎は馬鹿なので反応がぎりぎりになり、避けようとしたが肩あたりに刃が刺さった。傷つけられた痛みと、靴下とフローリングの相性が悪かったか、木崎は床に転んだ。うつぶせになり、一生懸命立ち上がろうとしているが片方の腕が使い物にならなくなっている以上それも無駄なことだ。ついでにもう片方にも刃を突き立て、両腕を使えなくする。木崎は血を流しながら無様に地べたを這いずるだけになった。この状態でも必死に助けを呼ぼうと玄関に向かっているが無駄なことだ。そんなに傷つけられた腕では鍵を開けられないし、そもそもここからなら裏口の方が近い。床が血で濡れているおかげで、足を掴んで引っ張ると簡単に引き戻せる。すると木崎は精一杯足をばたつかせて掴んできた手を振り払い、もう一度玄関まで這いずっていく。それを何回も繰り返しているうち、どんどんと木崎の体の動きも鈍くなっていく。振り払う足の動きも弱まり、少し力を籠めるだけでなけなしの抵抗も無駄にできる。ここまで無様に落ちぶれても死にたくはないのか木崎はか細い声で「殺さないでくれ」とほざきだした。だが、ここまでやってしまっては、こいつを外に出すわけにもいかないので、無駄な懇願には耳を傾けることはしなかった。玄関まであと少しという所で、もう一度キッチンまで引きずり戻すと、それが精神的なとどめになったのか、そのまま動かなくなった。脈を確認するとやはり死んでいた。木崎が死んだことは別にどうでもいいが、外にいる馬鹿どもはどうしようか。少し悩んだ後、警察を呼ぶことにした。今回も警視庁の方に電話をかけ、前に担当してくれた刑事をもう一度呼び出すことに成功した。

 パトカーの音が聞こえてくると、やにわに外が騒がしくなった。急いでその場から離れようとしてはいるが、自分たちの代表として話をつけに言っている木崎のことが気になるのかなかなかその場を離れない。だが結局到着した警官たちに連れていかれそうになっている。馬鹿どもは口をそろえて、「あの家の中に木崎がいる」というが、警官たちは全く信じていないようだ。一応確認のためかドアベルを鳴らして俺に話を聞きに来たが、「何のことだかわからない」と返事した。警官たちは前科持ちの彼らを全く信用していないようで、特に家の中を確認せず彼らを連れて行った。パトカーが見えなくなるまで見送ってから、木崎の死体を車に積み込んで家を出発した。

 木崎の死体をどこに捨てようか考えながら気の向くまま車を走らせていると、観光地として有名な地元の山にまで来ていた。この山は山頂にお社があり、その手前までは道路が整備されているので山のほとんどを車で登ることができる。今日は平日のため、観光客は全くおらず、駐車場には俺の車以外何もない。俺は崖ぎりぎりのところに車を停め、車の後ろに積んでいた木崎の死体を持ち出す。そのまま木崎を崖下に投げだした。少ししてから地面に落ちた音がしたので下を覗くと、首が折れて無様に空を眺め続ける木崎と目が合った。マスコミ程度の存在にはこの末路がお似合いだ。


六月十五日

 滝沢さんの告白から三日、僕は何をするでもなく呆けているばかりであった。帰ってきた後警察に通報しようかと考えて手に取ったスマホは、結局どこに通ずるともなく、放り出してしまった。これで僕も共犯なのか。家で引きこもりながら考え事をしていても状況は決して良くならない。そう思いとりあえず散歩に出かけた。空はすっきりと晴れており、時期のせいもあってか少し蒸し暑い。もうすぐ梅雨入りらしいが、この空を見る限りではそれはまだ遠い未来の話のように思えた。

 適当に歩いていると駅前の商店街に来ていた。ここはまだ大型ショッピングモールの魔の手にかかっていないため、大いににぎわっている。その中をぶらぶらと何かを買うそぶりをしながら歩いていく。肉屋のメンチカツでも買うかと思ったその時、女性の叫び声と自転車が倒れる音がした。音の方を見ると七十歳か八十歳ぐらいのおばあさんが、若い男が運転していた自転車に轢かれている様子だった。おばあさんは腰を強く打ったのか立ち上がることができずにいる。轢いた男はおばあさんに罵声を浴びせながら自転車を立て直し、もうその場を去る気のようだ。僕はその場を見逃すことはできなかった。

「待ってください。あなたは人を轢いたんですよ?謝罪はないんですか」

「知らねえよそんなの。このババアが急に飛び出して来たんだぜ。悪いのはそっちのババア、俺は被害者なんだよ」

「そもそもここは自転車進入禁止です。周りを見てください、皆さん自転車を押して歩いています。……悪いのはルールを破ったあなたです。早くこの人に謝って救急者を呼んでください」

「なんで俺が顔も名前を知らねえ奴に指図されなきゃいけねえんだ。正義の味方ごっこ楽しいか?」

先ほどまで穏やかな賑わいを見せていた商店街は、一瞬にして殺伐とした空気を漂わせた。この騒ぎを聞きつけて他の人がすでに救急車を呼んでくれているらしいが、この男をこのまま逃がすのは気に食わない。いつもの癖で来ていた上着のポケットに手を突っ込んだ時、何かが手に当たった。形からして恐らく警察手帳だ。まだ働いていた時の癖が抜けていなかったようだが、この場ではかなり使える。

「私こういう者でして、ごっこではないんです。……わかったら僕の言う通りにしてください」

警察手帳を見せると男の顔色は一瞬で変わった。調子に乗っていた態度には緊張感が混ざり始めている。しかし、男は少し逡巡したのち、素早く自転車にまたがって、逃げようとした。しかし、僕たちの廻には野次馬が集まっており、どこへ行こうとしても道はふさがっている。男が「どけよ!」と恫喝し、群衆が道を開けてしまい、男は商店街の外に行ってしまった。

 男が商店街を去ってから数分後、救急車が到着しおばあさんを乗せていった。この場での簡単な所見ではあるが、骨折しているかもしれないということだった。その救急車を見送り、殺伐とした空気が晴れていく頃、一人の女性が僕に話しかけてきた。

「あの、すいません刑事さん。ちょっといいですか?」

「はい、なんでしょう?」

「もしかして何ですけど、さっきの男の人ひき逃げ犯ってことになったりしますか?」

言われてみればそうだ。ひき逃げ犯というのは交通事故で人を死傷させておきながら、警察への報告や救護を行わずにその場を立ち去った場合、成立する。

「はい、そうなりますけど。……それがどうかしたんですか?」

「私、あの人がどういう人か知ってます。家も知ってるんです」

なるほど、捜査協力ということか。刑事の捜査の手間を減らそうとしてくれているのだろう。僕はもう刑事ではないのだが。しかし、それを伝えると面倒なことになりそうなので、久しぶりに刑事らしく事情聴取を行うことにした。

「では、先ほどの男の名前と職業、人柄を教えてください」

「はい。名前は進藤浩紀、三十八歳で恐らく働いていません。人柄としては、先ほどの通り粗暴で傲慢で。行く先々でトラブルを起こしているような人です」

「どうしてそこまで知ってるんですか?」

「あの人の家と私の家、近いんです。あの人は商店街近くの古ぼけたアパートの103号室に住んでいますよ」

情報提供に感謝を告げ、商店街を離れるが進藤のもとまで行こうか悩んだ。僕はもう刑事ではない。この警察手帳ももう何の役にも立たないものなのだ。ただ、職業病をこじらせた正義感が先走っただけだ。……でも、あの人は僕のことを刑事だと信じて協力をしてくれた、その信頼にはどのような形であれ応えるべきだ。元同僚たちに連絡しようかと思ったが何も言わずに別れてしまったため、今さら連絡なんてできない。意を決して一人で進藤の家に向かった。

 歩いて十分、人気が少ない古ぼけたアパートに到着した。進藤が住んでいる103号室のドアには、チラシと重要そうな封筒が何枚も突っ込まれており、進藤の生活ぶりが見て取れた。ドアベルを鳴らすが、進藤は出てこない。もしやいないのかと思い、ドアに耳を当て室内音を確かめると、テレビの音が聞こえて来た。テレビをつけっぱなしのまま家を出るのはあまり考えられない。もう一度ドアベルを鳴らすと、次は部屋の中から舌打ちが聞こえて来た。また鳴らすとそれは怒号に変わった。懲りずにまた鳴らす。ついに堪忍袋の緒が切れたか、どんどんと足音を立て玄関の方に近づいてくる。進藤は鍵を開けると力の限りドアを開け放ち、食って掛かった。

「おい!うるせえよ、誰だ俺の邪魔しやがるのは。……ってお前かよ。何の用だ?まだ俺に謝れっていうんじゃねえだろうな」

「……進藤浩紀、ひき逃げの現行犯で逮捕する」

本当は現行犯ではないが、この男はこの程度のことはわからないだろう。思った通り、進藤の顔は青ざめ、口は震えている。僕はそれに畳みかけるように言葉を続けた。

「現行犯だから令状の必要もないし、証人は大勢いる。おとなしく連行されるんだな」

言い終わるが早いか、進藤は僕の胸元を掴んで家の中へ引きずり込んだ。そのままの勢いで僕を玄関口に倒すと、ドアに鍵とチェーンをかけてしまった。それを終えた進藤は僕の方に向き直り、交渉を仕掛けて来た。

「……俺を逮捕するのをやめろ。さもなくば今ここでお前を殺す」

部屋の中は異様な匂いが満ちていた。何かが腐ったような匂いと芳香剤の強い香りが混ざった匂いでこの空間に少しいるだけで気分が悪くなる。この匂いには覚えがあった。そのせいかつい聞いてしまった。

「お前、人を殺したんだな。匂いで分かるぞ。いつ、何人殺した?」

「お前なんかに答える義理はねえんだよ!……でもこれで分かったろ?これはただの脅しじゃねえ。俺はお前を殺そうと思えば殺せるんだぜ。わかったら『逮捕は諦める』と言え」

「言ったらここから出してくれるのか?」

「もちろん。俺は約束を破ったことはないんだ」

「……嘘をつくなよ。お前の郵便受けに入ってた封筒、大体が社金返済の督促状だったじゃないか。そんな奴の言葉信用できないな」

「そいつらは闇金だからな、いくらでもコケにしていいんだよ。でもお前は警察だろ?俺は公権力にはちゃんと従うよ、安心してくれ」

「……俺がお前との約束を守ると本気で思ってるのか?ここで『逮捕しない』って言って出してもらった後、僕が仲間に通報したらどうなると思う?……わかったら無駄なことはやめるんだ」

「……確かにそうだ、お前が俺との約束を守ってくれるとは限らんな。じゃあ、やっぱり今ここでお前を殺すしかないみたいだな。お前を外に出すと俺の人生が終わっちまうからよ、俺のためにここで死んでくれや」

説得は失敗した、それも最悪な方向へ。奴は僕を殺すため、キッチンに向かい包丁を手に取った。一応刑事時代の訓練で多少なりとも対処法は心得てはいるものの、このように狭い状況というのは想定されていなかった。だが、言い訳をしていても仕方あるまい。進藤の保身という最低な動機で殺されるのは絶対に嫌だ。奴が包丁を構え、こちらに向き直った。進藤の目は虚ろで、しきりに「やるしかない」とつぶやいているのが聞こえる。進藤は包丁の切っ先をこちらにまっすぐ向け、突進してきた。この狭い廊下ではかわせない。刃物を構えていた手をはじいて何とか刺されるのを防ぐ。はじかれた進藤の手は包丁を握ったままであり、そのまま壁へと突き刺さった。はじいた威力と進藤の突進の勢いが合わさった故か壁に深く刺さり、生半可な力では抜けそうにない。進藤も包丁を抜こうと踏ん張ったが、すぐに諦め、別の包丁を取りにキッチンに戻った。逃げるなら今がチャンスだ。急いでドアの鍵を開ける。次にチェーンの解除に手をかけた時、進藤が戻ってきてしまった。僕がここから逃げ出そうとしているのを見つけたためか、先ほどよりさらに激昂し、「逃がすか」と大声で怒鳴っている。……そういえば、先ほどから大きな音をたてたりしているのだが、隣人はこの騒ぎを何とも思っていないのだろうか。こんな古ぼけたアパートが防音設備を整えているとは到底思えないし、人が暴れているような音を聞いて誰か様子を見に来ないとも考えづらい。もしや隣の部屋は空き家なのではないかと妙な考えを巡らせ始めた頃、進藤が動きを見せた。またもや刃物を構えて突進してきたのだが、さすがに学習をしたようで姿勢が変わっている。手をはじかれまいと体制を低くし、手を体の中心近くに構えて弾かれ辛くしている。僕の残されたスペースはなく、できることは何とか急所をそらそうと体をひねることだけであった。結果、進藤が突き出した刃は腕に刺さった。進藤は勢いのまま、刃を僕の身体に残して床に倒れこんだ。起き上がった進藤は僕を見るなり何か言い始めた。「悪く思わないでくれよ、篠原。お前がしつこいのが悪いんだよ。いちいち金の貸し借り程度でごちゃごちゃ言いやがって……」

どうやら、昔手にかけた人間の幻覚を見ているようだ。こちらを見てはいるものの、違う何かを見ている。

「市役所なんか何年も前に行ったよ!でも、生活保護は出してくれなかった。書類の不備があるって何回も突き返してきやがってな。何回帰されたかわかるか?182回だ。俺は突き返された書類全部保管してな、不備があったらそれらと見比べてどこがおかしいか探したんだ。そしたらよ、五回目で不備が見つからなくなっちまってな、わからないからもう一度書類を書き直して出したらまた駄目だったんだ。……やっとわかったよ。俺は公務員に馬鹿にされてたんだってな!俺が書類を渡すときの薄ら笑いも覚えてる!不備があるって突き返されたときのにやけ顔もな!そう、だから殺した。市役所の職員って、家に呼び出すと簡単に来るんだな。ほらここに……まだいるんだぜ」

そういって進藤は駆け出し、しまっていた和室への扉を開いた。この部屋に漂っていた不快なにおいが一層強くなる。進藤は俺の腕を引き、部屋の前まで連れてくると、また何かをしゃべりだした。

「ほらこいつを見ろよ。今まで何度も俺に駄目だししてきやがった奴だぜ。だから俺もこいつに駄目だしをしたのさ、そんな命乞いじゃ助けてやらねえぞってな。そしたらよ、そいつはいきなりお前で遊んでたことは謝るって言いだしたんだ。だから許してくれってな。……誰が許すかよ。なら俺もお前で遊んでも文句ねえよな?そしたらそいつはな、殺すのはおかしいだろって言ってきたんだよ。でも俺もお前のせいでほぼ死んでるような生活してたし同じようなもんだろ?って言ったらな、また喚き始めたからぶん殴ったんだ。そしたらあのざまだ。……そうおびえないでくれ、俺はお前を殺す気はない。今まで通りに俺に毎月金を送ってくれたらいいんだ。わかったか?」

部屋の中には、すでに白骨化した死体と、大量の虫が湧いていた。窓はカーテンで閉め切られているため薄暗い。そしてその死体の廻には大量の書類が散らばっており、近くに落ちていた一枚をよく見ると、生活保護の申請に使う書類であった。

「おい、わかったかって聞いてんだよ篠原。殺されたくないだろ?ここでこいつと同じように寝たくないだろ?ならお前がやることは一つだろ。これまで以上に働いて、俺の分まで稼いでくれ。……俺の助けになってくれるんだろ?お前もこいつと同じで嘘つきなのか?」

進藤の問いに何も答えないでいると、進藤がいきなり叫び声をあげ、掴みかかってきた。しきりに「お前も俺に嘘をつくのか!」と叫んでいる。進藤の手は僕の首に食い込んでおり、常人とは思えぬ力でとても振りほどけそうにない。何とか押しのけようとするが、この抵抗は進藤の逆鱗に触れるのには十分だったようで、左手で僕の首を掴んで床に押さえつけると、右手を大きく振りかぶって殴りつけて来た。とっさに手でつかもうとするが、まだ包丁が刺さったままの腕ではまともに動かせない。腕で進藤の拳を防ぐのが精いっぱいだ。だが、包丁が刺さった腕で防いだおかげで、殴られた衝撃で包丁が抜け、床に落ちた。カランという音をたてたが、今の進藤の耳には届いていないようで、またもや大きく振りかぶっている。首もずっと絞められており、意識が薄らいで様な気もする。このままでは死んでしまう。僕は床に落ちた包丁を手探りで拾い上げ、力を振り絞って進藤の脇腹に刺した。刺された進藤は痛みにより力が緩んでしまい、そのおかげで僕は床から起き上がれた。進藤は脇腹を押さえ、苦しんでいるようだが、僕が起き上がったのを目にするとまたもやとびかかってきた。僕らはもつれ合ったまま、和室まで転がり込んだ。互いが互いに首を絞め合い、先にどちらの意識がなくなるかの勝負となったが、上に載っている進藤の方が有利だ。だから僕はもう一度、包丁で脇腹を刺した。そして上に乗っていた進藤をのけ、床に倒すと腹に馬乗りになって思いきり包丁を振り下ろした。隣には白骨化した死体が二つ並んでいた。

 

 六月十八日

 また俺に家の前で騒ぎが起きている。昨日木崎の死体が山で発見されたことで、これまでの騒ぎに絡んでいた記者たちは「木崎は四十万一によって殺害された」と考えたようだ。鬱陶しいことこの上ないが、あからさまな拒絶をしてしまえば怪しまれるのも当然だ。だからこそ俺は、記者たちに対して「譲歩」することにした。つまり、もし取材をしたいのなら先んじて連絡しておき、予約をしておくのが社会人として当然なのではないかと話した。記者たちは見下している人物に説教されるのが気に食わないようではあったが、ここで反抗すればこれ以上のチャンスもないということをわかっており、素直に従ってくれた。そして七グループもいた記者の集団は、それぞれきっちり予約を取り今日の所は引き上げていった。だが、俺は奴らの取材なんぞには応えるつもりなど微塵もない。そろそろうるさいだけの奴らを黙らせる時間が近づいている。


 六月十九日

 昨日、俺が予約を取るべきだと話したら、真っ先に予約を入れてきた血の気が多い記者たちがいた。今日はそいつらが来る予定になっている。奴らが指定したのは午前十時だったが、あと五分で十時になる。外の様子を窺うが、まだ到着していない。奴らの取材に答える前に、時間すら守れない杜撰さを指摘しなければならない。そんなことを考えているうちに十時を過ぎた。二分、三分と過ぎていくが、奴らはまだ来ない。机の下にスタンガンと包丁の用意はすでにしてある。あとは奴らが来るだけなのだが、肝心の奴らが遅刻をしている。まだかまだかと待ちわびて、十時十分。ようやく予約をした記者たちが家に到着した。

 彼らは俺の家に着くなり取材を開始しようとした。さすが厚顔無恥の集団だと感心したが、そのまま放っておけるほど俺は寛容ではない。

「予約をしておきながら、自分たちで指定した時刻に遅れるとは、社会人以前に人として終わってるぞ。そんなに他人をなめた態度の人間の取材なんか受ける訳ねえだろ」

「約束が違うぞ四十万。この時間なら取材を受けるといったのはお前だろうが」

「先に約束を破ったのはどっちだよ。お前たちがこの時間がいいって決めたんだろ?俺はわざわざお前らみたいな何のやkにも立たないクズのために時間作ってやったのに、ありがたいと思わんのか」

「馬鹿言うんじゃねえクソニート。お前は掃いて捨てるほど時間があるだろうが。十分程度遅れたぐらいでごちゃごちゃ抜かすんじゃねえ」

「お前らみたいなクズより、ニートの俺の時間の方が貴重なのは当たり前だろ。まだ自分の社会的地位を見誤ってるのか?お前らはな、社会の底辺なんだ。あらゆるものよりも存在価値が劣り、何か犠牲にしなければならなくなった場合にのみ何よりも優先される程度しか存在価値を持ち合わせていない」

「……いいんだぜ、俺たちがお前が犯人だって記事書いてやっても。読者は馬鹿だ。正しい情報よりも衝撃がある情報を好んで目に入れ、それを妄信する。あとから嘘だってわかっても、お前ができるのはせいぜい会社に訴訟を起こすことぐらいだが、そんなん痛くもかゆくもない。賠償金はお前をダシにして書いた記事で稼いだ金の半分未満だろうしな。これで力関係が分かっただろ?さっさと取材始めさせてくれよな、お前も暇じゃないんだろ?」

今すぐにでもこいつらを殺したいが、玄関口でやるのは目立つ。おとなしく屈したふりをして家の中に招き入れた。家に入ったのは二人、話を聞く方とメモを取る方といった役割分担なのだろう。二人のうち片方は席に着くなり手帳を開きペンを構えた。

『天誅』殺人事件、および木崎の殺害。すべてあなたがやったことで間違いはないですか?」

一応取材の体を装うためか先ほどまでの馬鹿丸出しの口調とは違い、付け焼刃のような丁寧語で話し始めた。それならばこちらもできるだけ取材の体を取り繕うことにしよう。

「いいえ、違います。私はやっていません」

「嘘はつかないでください。あなたが殺したんですよね?」

「いいえ」

「……嘘はつかないでください。犯人はあなたですか?」

「いいえ」

「おいてめえ嘘つくなって言ったよな?おいどう考えてもお前が犯人だろうが俺たちを馬鹿にしてんのか」

五分足らずで化けの皮がはがれた。思ったよりも脳が足りないらしい。それでも何の確証もなしに食って掛かる彼が面白いので、もう少しからかうことにした。

「すいません、そもそもあなたの名前を聞いていないんですが」

「てめえに名前教えてどうなるんだよ」

「名前も知らない他人に本当のことを話す馬鹿がどこにいるんです?そのダチョウよりも小さい脳みそで考えてみてください。……いや、ダチョウよりも小さいなら『考える』という行為もできませんか、これは申し訳ない。……名前も知らないような相手は信用には足らないということです」

「石黒五郎、これで十分だろ。……ほらさっさと本当のこと言えよ」

「わかりました、では……。私はやってません」

「おいてめえまだ嘘ついてやがるなこのクソニート野郎が。さっき名前教えたら本当のこと言うって言ったよな、おい」

「だから本当のことを言ってるんじゃないですか。……そもそも本当に俺が犯人だったとしても、こんなところで馬鹿正直に『やりました』っていうわけないでしょう。まあ、あんたの脳みそはダチョウ以下だからそんなこともわからないだろうし、しょうがないですね。……それに、そんなに俺のことを犯人だっていうのなら証拠は当然あるんですよね?もし俺がやったっていう決定的な証拠があるのなら認めてあげますよ」

「証拠ならあるぜ。まず一つ目、あの日木崎の行方が分からなくなったのはお前の家に入ってからだ。つまり、お前はこの家の中で木崎を殺したっていう証拠になる。そして二つ目、あの日、木崎が使っていた社用車が違反駐車の切符を貼られたあげく、警察に撤去されてったよ。つまり、木崎はお前の家に入って以降、自分の車を使っていないんだ。なのになぜあんな山に捨てられてたんだろうな。……理由は簡単、お前がここで殺して自分の車で運んだからだ。ほら証拠は完璧だろ?」

「……本当にお前は記者という仕事が天職だな、石黒。口を開けばでまかせに憶測。ここまで人として欠落しないと一流の記者にはなれないんだな、本当に尊敬するよ。それと同時に世の中の理不尽も痛感するね。こんなに頭の悪い人間が社会的に一定の地位を持ってしまうとは、なんとも嘆かわしいことだ」

ここまで言うと、頭の悪い石黒も流石に気づいたか「俺をおちょくるんじゃねえ」と激昂した。そのまま、間にあったローテーブルを押しのけ、俺の胸倉を掴み上げた。メモを取っていたもう一人もこれには驚いているようではあったが、特に石黒を止める様子はない。石黒が嫌いなのか、はたまた俺のことが嫌いなのか。石黒は俺のことを掴み上げながら、「やったって言え!」と脅迫してくる。潮時だ。俺はソファの隙間に隠していた包丁を取り出すと、石黒の腹に突き刺した。掴みあげられていたせいであまり力が入らなかったが、拘束を解くには十分だ。二人とも何が起きたかわかっていないようで、石黒は自分の傷口を呑気に眺めているだけであり、もう一人はただ呆けて立ち尽くすだけであった。ついに石黒が自分の傷口に手を当て、血が流れているのを確かめた。そして俺の手にある包丁を見つめ、ようやく自分がこれに刺されたと理解したときには、すでに石黒の首元に刃が突き立てられている状態であった。結局石黒は自分の頭の悪さが災いし、自分に何が起きたかわからぬまま息絶えたのであった。残されたもう一人も石黒同様に頭が悪いようで、さっさと逃げればいいものをただ立ち尽くしているだけである。俺がそいつに目線を向けるとようやく逃げ出した。しかし、石黒が流した血は床に流れており、それは奴の足を奪った。血で滑り盛大に転んだ奴は石黒が押しのけていたローテーブルの角にしたたかに頭を打ち付けた。角はそこまで尖ってはいないものの、走り出しの勢いも合わさりかなりの威力になっていたようで、簡単に死んでしまった。

 二人の死体を車に積んだ俺は、これをどこに捨てようかと悩んでいた。いくつか絶好の場所はあるのだが、それらの場所は大体今まで作った死体を捨てるために使っているため、足がつくのは避けたい。ああでもないこうでもないと唸りながらアプリでマップを眺めていた矢先、格好の捨て場を見つけた。俺が住んでいる県と隣の県は県境に山がある。そのためその県間での往来がかなり面倒であった。しかし、去年ついに山を貫くトンネルが完成したのだ。今日は平日だし、人通りは少ないはず。さらに山中のため薄暗く見通しも悪いはずである。俺は早速車を走らせた。

 車を走らせて一時間、ようやく県境のトンネル近くに到着した。車を降り、積んでいた死体を一つ引きずりだしてトンネルの入り口近くに捨てた。ここはちょうど死角になっており、トンネルを出る際、トンネルに入る際どちらもこの死体が目に入ることはない。これ幸いともう一体も同じ場所に捨てておいた。今日は無駄に疲れたし、さっさと帰って風呂でも入るか。

 

六月十九日

 人を殺してしまってから四日経った。丸一日悩んだ末、結局自首はしなかった。事情さえ説明すればそれなりの原型はあるかもしれないが、それよりも「あの程度の男を殺したぐらいで刑務所に入ることになる」という事実を受け止めきれなかったのだ。進藤は仕事もせず、周りの人間に迷惑をかけるばかりか、二人も殺しているというどう考えても生きている必要のない男だった。そんな奴を殺して何が悪い。ただの害獣駆除とやってることは変わらない。駆除対象が動物か、人間かという違いだけである。そう自分に言い聞かせて、ことあるごとにぶり返す罪悪感を押し込めていた。

 そんなある日、気まぐれにテレビを見ていた時、ある人物が目に留まった。その男は未解決の事件である「天誅」連続殺人について私見を述べているようだ。僕はこの男に見覚えがある。何日か前、僕が路上の喧嘩を止めた動画を見て「素人の蛮勇」と言い捨てた男だ。連続殺人の捜査を警視庁が引き継いだため、その事件の特集にゲストとして呼ばれたのだろう。警視総監自らカメラの前で事件の概要や、捜査態勢、犯人の目星について詳しく話していた。だが、僕にはそんな話はどうでもよかった。僕の行為を「素人の蛮勇」と一蹴した男が、こうしてひとかどの人物らしくしているのが気に食わなかった。どうせ自分はデスクでふんぞり返って捜査の進捗を聞いているだけなのに、何が「捜査員の努力」だ。それに、その事件の犯人なんて見つかるわけもない。僕たちが寝る間も惜しんで捜査したのに、犯人に繋がりそうな証拠は何一つとして見つからなかったんだ。無駄な努力を続けようとする彼らをあざ笑おうとしたとき、信じられない言葉が聞こえて来た。

「『天誅』連続殺人事件で発生した事件のうち、新島輝美殺人事件、樋之口拓郎殺人事件、青木真由美殺人事件、立川弘殺人事件については、『天誅』連続殺人の模倣犯であり、犯人はすでに逮捕し、取り調べも終えすでに書類送検した」

逮捕した?誰を?だが、僕には何となくわかる。これらの事件はすべて僕も現場にいたからだ。ただ、その時の取り調べでは容疑者はいるものの、アリバイがしっかりしていたため、逮捕には至らなかったはずだが、そのアリバイが崩れたのか。同僚に連絡を取って確認できるかもしれないが、僕はもう一般人だ。教えてくれるわけもない。今の僕にできることと言えば、この事件の解決を祈りつつ、人を殺したという罪悪感からどうにかして逃れることだけだ。


 六月二十六日

 予約させておいた記者たちの始末も大半が片付き、残りは今日の一組という所までこぎつけた。これまでに作り上げた死体はすべて同じ場所に捨てているが、まだ事件にはなっていないようだ。さすがに記者たちが勤めている会社が動くのではないかと思っていたが、特に彼らを探すことはしていなかった。会社の方針としては記者の行方よりも、一般人に詰め寄って取材協力を強要したのが表に出るのを恐れたのだろう。今はゴシップ誌の立場も危うい、少しでも人道から外れたことをすれば徹底的に叩かれる。それも彼らの不真面目な仕事ぶりが招いた結果なのだが。

 そんな取るに足らないことを考えていると、彼らが予約していた時間まであと五分となった。ちょうどその時外から車を停める音が聞こえて来た。これまでの記者たちとは違い、彼らは時間を守ることぐらいはできるらしい。すぐにインターホンが鳴る。彼らはぎこちない敬語を使い、何とか下手に出て俺の機嫌を損ねないようにしているのが透けて見えた。事件として表には出ていなくとも、同業他社で従業員が行方不明になっているという話はしているのだろう、そしてそれは「四十万一を怒らせると消される」という都市伝説的な話にまで膨れ上がったに違いない。ショッピングモールで買ったようなそこそこ値が張る焼き菓子詰め合わせを俺に差し出したのが何よりの証拠だ。さすがにここまでされては、こちらも適当な対応は出来ない。今までは出していなかったが、茶ぐらいは出してやることにした。

 今回、俺の家に来たのは三人。これまで家に来た記者は大体二人一組であり、一人しか来ない場合もあった。それらの失敗を生かしてか、少し人数を多めにしたようだ。しかし、三人来たと言っても役割はこれまでと変わらぬようで、一人が会話、もう一人がメモを取るという役割分担のようだ。残りに一人はただドア付近に立っているだけで、話そうともメモを取ろうともしない。おそらく用心棒の役割を担っている。いざ行動に移すときはかなり邪魔になりそうだが、気にしている暇はない。早速、記者の一人が話し始めた。

「今回はお時間をいただきありがとうございます。私は遠藤、私の右にいるのが林で、立っているのが藤本です。どうぞよろしくお願いします。……今回の取材の内容といたしましては、四十万さんが「天誅」連続殺人事件に何かしら関与しているのではないかという、先日亡くなった木崎という記者の発言の真偽を確かめること。そして、ここ一週間で発生している記者の連続失踪について何か知っていることがあればぜひお聞きしたいなということなんですが……いかがですか?」

会社でみっちり「教育」された成果が存分に発揮されており、あまりの丁寧さはかえって気持ち悪い。だが、俺は人の努力を無下にするほどくだらない人間ではないため、その必死さに免じてとりあえずは普通に取材を受けることにした。

「構いません」

かなりぶっきらぼうな承諾だったが、彼らはそれでも一つ大きな壁を乗り越えたような達成感を感じていたようで、本題に入るまでに何回も深呼吸をしていた。そして深呼吸をした回数がそろそろ二桁に到達しそうなころ、ようやく話が始まった。

「……それでは、『天誅』連続殺人事件の話の方から聞きたいんですが、木崎の話って本当なんですか?」

「その木崎って人の話では、僕はその連続殺人に何かしらの形でかかわっているという話でしたね。その話に関しては、彼がついた真っ赤な嘘ということになります」

「へえ、そうなんですか。……しかしなぜ彼はそのような嘘を?」

「……二か月前、私の父が車に轢かれた事故の話で警察がうちに来ましてね、それを木崎に見られていたらしいんです。……その一か月後、先月ですね。覚えていると思うんですが、廃工場五人殺人事件あったじゃないですか。あれの被害者のうちの一人が父を轢いた人だということで、またもや警察のお世話になりまして。それをまたもや彼に見られていたようで、彼曰く『この家には何かある』ということで付きまとわれることになったんです。その後、今月の上旬に何度か私用で外出していたんですが、張り込みをしていた木崎が『家を出る時間が、事件が起きる時間と一緒だ』ということで難癖をつけて来たんです。その時私が呼んでいた警察に荷物検査をされたんですが、当然私は犯人ではないので凶器は出ませんでした。しかし彼はそれに納得できなかったので、あんな噓を突き続けたんじゃないかなと思います」

「なるほど、かなり込み入った経緯があったんですね。ですが、その木崎さんはあなたと話をつけるため、ここに立ち入って以降行方が分からなくなっているんです。何かご存知ないですか?」

「いいえ、何も」

「あの時、木崎とどういう話をしたか覚えていませんか?よかったら教えていただきたいのですが……」

「どうといっても大した話はしていませんよ。『天誅』連続殺人事件へ関わっているかいないかという水掛け論を繰り広げていただけですし。彼は決着がつかないと悟るとさっさと裏口から出ていきましたよ」

「裏口から外へ?それはなぜでしょう?」

「さあ、詳しいことは何も。どうせ何の成果もなくのこのこ帰る姿を見られたくなかったんじゃないですか」

「……その時木崎はどこかに行くとか言っていましたか?」

「いいえ、特には。『やってらんねえ』と言って出ていきましたから」

「まっすぐ出ていったんですか?」

「ええ、そうですけど」

「初めて来たはずの他所様の家の構造を知っているのはおかしくありませんか?」

「別に裏口の場所なんて予想がつく範囲にありますよ。大抵台所付近でしょう。それに、ここからでも台所と、裏口のドアは見えていますからね。そこまでおかしいわけでもないと思います」

「そうですか。でも木崎は結果として車を置いて、山で死んでいたんです。あそこまで歩いていくのは現実的ではありませんし、バスとタクシーの会社両方に確認を取ったところ、そんな客は見ていないということでした。一体どこに行くつもりだったんでしょう」

「そんなことを僕に聞かれても困ります。木崎のことはどうでもいいんです」

「でも、彼の車はずっとあなたの家の前に置かれたままだったんですよ。いくら彼がどうでもいいとはいえ、二日も車が放置されていたら迷惑だったはずです」

「……何が言いたいんです?」

「気分を悪くしたなら謝りますが、私はあなたが木崎の死に何かしら関わっているのではないかと……」

言い方を濁しているが、心の中では完全に俺を疑っているに違いない。さっきまであんなにおびえた様子だったのに取材をしているうちにいつもの調子を取り戻したのか、やけに饒舌で鬱陶しい。いくら「知らない」と答えても食い下がるので、そろそろしつこさが鼻につくころだ。あまりの鬱陶しさに殺意が芽生えたが、ここには殺害対象が三人いる。二人までなら片方をスタンガンなりで黙らせておけばいいが、今回はそうはいかない。機会を窺うためにも一度、「新しく茶を入れてくる」と言って席を立った。

 彼らはあまり体勢を崩さず、俺が帰ってくるのを待っているようだ。ドアの近くに立つ用心棒の背中を恨めしく眺めていると、とある考えが浮かんだ。あの用心棒に奇襲を仕掛けて殺し、残りの二人をいつも通りに殺すという方法だ。あまりにも博打な方法だが、俺の家には毒薬などはなく、できる方法といえばこれぐらいだ。できるだけ殺意を悟られないように、「茶が入りました」と呼びかけ、まだ俺が友好的であることをアピールする。用心棒の藤本は茶を運ぶ俺をちらと一瞥したのみで、俺の思惑には気づいていないようだ。こぼさないようゆっくり運ぶふりをして慎重に近づく。そして手が届く範囲に入った瞬間、茶を乗せていた盆を投げつけた。藤本が熱い茶にひるんだ瞬間、心臓目掛けて忍ばせていた包丁を突き刺した。遠藤と林には、俺がバランスを崩して藤本に倒れかかったようにしか見えていない。のんきに「大丈夫ですか」と聞いてくる。藤本から包丁を抜き突き飛ばすと、ようやく残りの二人もこの状況の異常さに気が付いたが、残り二人になればこっちのものだ。逃げようとする二人のうち片方に電流を浴びせダウンさせると、もう一人の腕をつかんで切りつけた。床は茶で濡れており、勢い余った林は転んでしまっている。スタンガンにより動けなくなっている遠藤は何とか逃げ出そうとしているが、その体では碌に動けまい。俺は転んだままの状態の林の髪を掴んで持ち上げ、喉に思いきり刃を刺した。刃を抜くと血が噴水のように噴き出る。ひとしきり血を噴き出した後、林はもう一度床に倒れこみ動かなくなった。残りは遠藤だけだ。遠藤はどうにか助かろうと必死に床を這いずっているが、倒れた場所から全く動いておらず、ただその場でじたばたもがいていただけだった。一度適当に背中を刺すと、心臓に届いたわけでもないのに大げさな叫び声をあげた。これで外にいる誰かが気づいてしまうのではないかと思った俺はさっさと遠藤を始末することにした。次は適当ではなく、心臓を目掛けて包丁を刺した。確実に届くようにと、対う鵜をかけてゆっくり刺したため遠藤の苦痛は膨れ上がり悶える声も大きくなっていたが、俺にとってはどうでもいい。苦痛から出た声も次第に弱まり、事切れると同時に聞こえなくなった。


六月二十六日

 あれから僕は何をするともなく、気になっていた「天誅」連続殺人事件の捜査の進捗を逐一確認していた。といっても、テレビを見たりネットニュースを漁っているだけで、元刑事というアドバンテージは何にも生かしていない。模倣犯の逮捕という報道から何日経ったか忘れてしまったが、あれ以降特筆するような進展は起きていないらしい。あんなに「我々にかかれば一瞬で解決できる」と意気込んでいた割には結果が出ていない。あのエリート連中は市民からの罵倒に耐えられるほど精神が成熟していないため、少しでも仕事不足とつつかれれば、まっすぐに証拠の偽造に手を出すだろう。そして、適当な人間を捕まえ、「我々は市民の安全のために努力している」と嘯くのだ。その証拠として、速報が報じられた。

 社内で殺害されていた足立蓮介を殺した容疑で、同じ会社の警備員、上田俊樹が逮捕されたのだ。警察の捜査の結果、上田が隠していたと思われる血が付いた警備服などがゴミ袋から発見されたらしい。しかし、僕はこの速報を頭から信じられなかった。身近に証拠偽造の事件があったからか、どうしても疑ってしまう。それに、この事件で捕まった人は全員証拠は残していなかった。もし模倣するのなら証拠になりうる物の処分はもっと慎重にやるものではないだろうか。現在取り調べ中らしく詳しいことはわからないが、そんな気がした。

 次のニュースは前の廃工場五人殺人事件で捕まっていた高岸についての話だ。まだ地裁のため、控訴などはあり得るが一旦の判決として死刑が言い渡されていた。高岸の弁護士はまだ戦うつもりらしいがどうにも勝ち目はなさそうだ。検察と裁判官は己の平穏のため、高岸という男を生贄にしようとしているのだから。高岸がどうなろうと知ったことではないが、自らの保身のために力を持たない一般人を犠牲にしようという検察と裁判官のやり方には納得いかない。しかし、納得できないと言ったところで自分にできることなどネット上で裁判官たちの批判をすることだけだが、彼らが偽造された証拠をもとに裁判を進めていることを知っているのは限られた人物のみ。そんな状態で話を始めても頭がおかしい奴と言われるのが精いっぱいだ。たとえ本当のことを言ったとしてそれを信じてもらえる保証などない、あまり面白くもない陰謀論として隅に追いやられるのが関の山だ。結局僕にできることなど限られている。この社会に通用しうる力を持ち合わせていなければ、世の中の不条理をただ耐えるしかない。だが、もうそれには飽きた。これ以上世の中の不条理を、理不尽を見過ごしてはいられない。真面目に生きている人間が馬鹿を見る社会はここで終わらせるべきだ。幸いと僕には時間と、前職のつながりがある。もう善良な市民として生活するのはもうやめだ。


六月二十七日

 今日は検察庁に来ていた。高岸の裁判で証拠として提出された血の付いたシャツはここに保管されている。警備員に止められたが警察手帳を見せるだけで簡単に通してもらえた。普段から証拠のやり取りなどで中に入っているため、今回も同じ用事だと判断されたのだろう。中に入り、証拠保管室までまっすぐに向かう。今まで何度も歩いた道に迷いはない。それに、この検察庁の証拠保管室には鍵がかかっていない。そもそも検察庁に立ち入る人間が限られた人物であるため、鍵をつける必要はないとここのお偉いさんが豪語していたが、とんだ大ポカだったようだ。保管室の中は暗く、人の気配はなかった。明かりをつけ、一つ一つ棚にしまわれた物を確認して、目的のものを探していく。開始してから三十分経ってようやく高岸の裁判で使われていた証拠類を発見した。箱の中には血の付いたシャツが袋に入れられ、裁判で使用するであろう複数枚の書類がファイルに綴じられていた。一枚目の書類は、提出されたものを正式に証拠として認めることを記していたが、その署名には高岸の弁護士の名前も書かれていた。もしや弁護士もすべてを知ったうえで仕事をしているのか。二枚目の書類を一目見た瞬間、かなりの額の数字が目に入った。おそらく何かの金銭的な書類だろうが、実際の内容は想像を絶するものであった。裁判官と検察官が、弁護士に対し「この証拠品は偽造されたものであるが、それを承知の上でこの度行われる裁判にこちらの指示通り働いてくれるならば、可能な限り報酬を支払う」という取引を申し込んでいた。書き込まれた金額は報酬か。これだけあれば人生を三度やり直しても金に困ることはない。しかし、なぜこの危険ともいえる取引の証拠を残しておいたのだろうか。その答えは二枚目と三枚目の書類の間に挟まれていた紙切れに記されていた。そこにはボールペンで、「弁護士との取引の書類は処分してはならない。この取引は表に出てしまった場合の損害が計りしれないため、それぞれが元本をコピーしたものを持つのはあまりに危険である。そのため、取引の書類は証拠用の書類と共に保管しておくこととし、この書類を外部に持ち出すことを禁じる」と書かれていた。

 目的の物は見つけた。あとはこれを世間に向けて公表すれば、世間の目は裁判に疑問の目を向ける。そこに元刑事として現場の状況を話せば確実に皆は僕の話を信じてくれるはずだ。この書類を持ち出しているのが気づかれる前にここを離れなければならない。書類を畳んで胸ポケットにしまい、保管室の出口に向かった。証拠を保管する棚で作られた迷路を抜け、もうすぐで出口という所で誰かが入ってきた。入ってきたのは一人だけで、大きな独り言の内容からすれば保管室の点検に来たようだが、今は非常にまずい。いくら入り組んで暗いとはいえ、保管室の棚はただのスチールラックで、向かいの様子も簡単に確認できる。気づかれないようにここから出るのは不可能だ。それに、ここから出ていこうとすれば何かしら持って出ていくのではないかと考えるのは当然のことで、持ち物を検査されるのも当然と言える。ここの持ち物検査はマニュアルとなっており、今まで何度も受けて来たがかなり厳しい検査のため何かを無断で持ち出すことは不可能だ。しかも、この書類は検察庁長官の命令で「外に出すな」となっているため、ばれた際の騒ぎも普通の者とはまるで違うだろう。ウダウダ悩んでいる間にも点検に来た職員に見つかってしまった。彼は矢沢と言い、今まで何回か顔を合わせたことがある。そのため、矢沢も僕の顔を見ると、驚いたように話しかけてきた。

「アレ?香山さん?ここで何してるんですか……とはいっても、ここでやることなんて決まってますよね。何か持ち出すなら検査が必要ですよ」

「ええ、もちろん。でも、ちょっと待ってくれませんか?」

「別にいいですけど……どうしたんですか?」

「いや、ここには誰もいないと思っていたんですけど、急に矢沢さんが入ってきてちょっとびっくりしちゃいまして。深呼吸したいなと」

我ながら苦しい言い訳だが、何とか持ち物検査を先延ばしにできた。とはいってもここの持ち物検査は体のほぼすべてをチェックする。畳んだ紙を忍ばせられるところは靴の中ぐらいしかないが、ここでおもむろに靴を脱ぎだすのはさすがに怪しい。苦肉の策として、畳んだ紙を胸ポケットから出すと、もう二度ほど畳んで小さくし、服の袖の中に放り込んだ。その後、袖をまくって固定しこぼれないようにして、検査に臨んだ。

 検査の姿勢は気を付けの姿勢のため、いつしまい込んだ書類が出てきてしまうか気が気でなかったが、何とか乗り切った。矢沢は僕がいきなり袖をまくりだしたことに対し少し不審に思っていたようだが、「ちょっと暑いから」というと納得したようだ。これで心置きなく保管室を出ることができる。「それじゃ、失礼します」と矢沢に一声かけ、保管室を出ようとしたところで矢沢がいきなり大声をあげた。

「ない‼長官が保管して置けって言ってた書類がない‼どこに行った⁉香山さん、ここに置いてあったはずの書類知りませんか⁉」

「いえ、知らないですけど……その書類ってどんなのですか?」

「いや、それはちょっと部外者には……。でもほんとに知らないんですね⁉」

「どの書類か見当がつかないので何とも……」

僕の変身を聞く前に矢沢は別の所へ連絡しているようだった。昨日の点検係と話しているようだったが、このままでは僕が盗ったとばれてしまう。矢沢が通信機に夢中になっているうちに出口へと向かったが、通信を終えた矢沢に阻まれた。

「昨日の点検係の話では、昨日のうちにはあったそうなんです。でも今日無くなっている。そして、今日ここに入ったのは香山さんが最初のはずです。香山さん、本当に何も知らないんですか?」

まずいことになった。想定していた中でも最悪な状況だ。知っていると答えれば面倒なことになるし、知らないと答えたところで状況は変わらない。黙って逃げても、僕の足よりも速く警備員へ連絡が届くだろう。どうするべきか。何も言えず黙っていると、矢沢が近づき、僕の肩を掴んだ。

「今なら、まだ問題はなかったことにできます。あの書類が無くなったのを知っているのは僕と、昨日の点検係だけですから。だから正直に話してください、香山さん。……本当に知らないんですか?」

ここで折れてしまえば、ここまで来た意味がなくなってしまう。それに、無罪の人間が冤罪で裁かれるのを阻止したいがために行動したのに、ここで折れるということは、僕も彼が冤罪で裁かれることを容認したということになる。決して折れる訳にはいかなかった。

「僕はそんな書類知りません」

「では、今着ている服をすべて脱いでください。本当に無実だというのならできますよね」

「他人の前で裸になれと?いくら無実の証明とはいえそれには応じられない」

「では、この部屋から出すことはできません」

「『疑わしきは罰せず』なのではないですか?我が国の司法の指標というのは。その理念から著しく逸脱していますよ」

「そんな指標は五十年も前に捨てましたよ。今の指標は『疑わしきは罰せよ』です。……さあ、どうしますか。一生ここにいるか、それとも服を脱ぐか。……ちなみにこの部屋では携帯電話は使えないようになっています。セキュリティを考えたら当然ですね」

外に助けを呼ぶこともできないのならば、ここから逃れる手段は一つしかない。観念したふりをして服に手をかける。矢沢も僕が観念したように見えたのか、感情の高ぶりはおさまったようだ。僕はスーツのジャケットを脱ぐと、それを矢沢に投げつけた。いきなり物を投げつけられた矢沢はひるんでいる。その隙をつき、思いきり突き飛ばした。矢沢は思いきり棚に叩きつけられ、短くうめいた。矢沢がぶつかった棚は大きく揺れ、上の方に置いてあった段ボール箱が矢沢の頭を直撃した。落下の衝撃で段ボール箱の中身がこぼれ出て、僕の足元にまで飛んできた。包丁だ。段ボール箱には「天誅」の文字が見えた。僕はその包丁の持ち手をジャケットで包んで掴み、未だに頭を押さえたままの矢沢に近づいた。矢沢はハッとして顔をあげるが、もう遅かった。矢沢の首には包丁が突き刺さっていた。血がぽたぽたと床に垂れていく。早く逃げなければ。急いでジャケットを畳んで鞄に押し込むと、袖にしまっていた書類をズボンのポケットにしまいなおし、保管室から出た。保管室から玄関まではそこまで遠くなかったはずだが、やけに遠く感じる。玄関に到着した時、五分も歩いていないのに僕は息も絶え絶えになっていた。それでも休憩の選択肢はなかった。はじかれるように検察庁を飛び出し、駅に駆け込んだ。そして電車に乗ったとき、ようやく逃げ切れたことと、自分がしでかしたことを認識した。

 

六月二十八日

 昨日、家に帰った後、僕は疲れから寝てしまっていた。朝、起きた時に昨日命がけで取ってきた書類をネットで公開しようかと思ったが、昨日の夜の時点で、矢沢が殺害されたというニュースが流れていた。検察庁も矢沢が殺害された原因は、保管していた証拠品を盗まれたことであるということは公開していた。その内容までは詳しく話していなかったが、このタイミングで匿名での書類公開は、「私が矢沢を殺しました」と流布するに等しい。しかし、僕は公開した。公開しなければ矢沢を殺した意味もなくなる。もう自分がしたいことなど何もないのだから捕まっても構わない。投げやりな覚悟のもと、高岸の裁判の不正を暴き立てたが、これは思わぬ方向へ進むことになった。

 あれから三時間後、あの情報は瞬く間に拡散され、今日のうちにこの国で生きている者すべてが知ることになるほど広がりを見せていた。ここまで広がれば僕が捕まるのも時間の問題だろう、いくら匿名性があるとはいえ、いくらでも開示請求が行える。それに傍から見れば、こいつが矢沢を殺したと考えられても不自然ではない。覚悟を決めていたとはいえ、いつ家に同僚が来るかとおびえていたのだが、一向に来ない。ネットニュースを見れば、その理由もすぐに分かった。「新時代のダークヒーローか!?」という題名を打ったニュース記事には、僕が公開した情報は瞬く間に拡散され、これを公開したアカウントが矢沢殺害の主だという話はすぐに出ていたと記されている。しかし、それよりも裁判官と検察、弁護士の癒着の方に目が向けられていたのだ。彼らに言わせれば「人一人の命より、不正の方が悪質」ということらしい。いつしかアカウントの主の素性よりも、不正がばれた彼らの責任論に話が変わっていた。あげくには、「矢沢という男の死は許容されるべき」という話まで出てきてしまった。巨悪の不正を暴いたのだから犠牲が出るのも致し方ないということなのか。

 なんだかバカバカしくなってきた。さっきまでいつ捕まるかとおびえていた自分にも、ネットの理論を真に受けて僕を捕まえに来ない元職場の人たちも、人が死んでいるのにそれを軽く見過ごすこいつらもそうだし、そもそも不正なんて働くやつは最も馬鹿らしい。これならいくら人を殺しても問題がないじゃないか。殺されるのが悪人である限り、罪にはならないのか。もうそれを決めるのは司法ではない。常に虐げられ続け、ないがしろにされ続けた弱者たちなのだ。彼らが人の価値を決める。彼らが殺しても良いと判断すれば、誰を殺そうが何人殺そうがどうでもいいのだ。彼らにとって「悪」とは気に入らない人間のことであり、それを殺してくれる者はもはや英雄扱いだ。そう思うとなんだか晴れやかだ。今までいろいろ悩んでいたのがなんだか馬鹿らしい。世の中の人間は誰も僕より悩んでいないんだ。すべて自分に都合がいいか悪いかだけで考えていいんだ。それならそうと早く教えてほしかった。だが、まだ間に合う。これからの人生は全部自分の思う通りに生きよう。


 六月二十八日

 俺の周りを嗅ぎまわっていた記者を全員始末してから、俺は久しぶりの平穏を取り戻した。下らん人間に浪費してしまった時間は帰ってこないが、必要経費だと思って我慢するしかない。木崎の事件はニュースとなり、「天誅」連続殺人事件と合わせて連日報道されていたが、それに加え記者の連続失踪事件も報道されるようになった。報道されるニュースが俺が起こした事件ばかりになり、テレビを見る必要性が無くなりかけてきたところ、新しいニュースが飛び込んできた。「検察庁職員殺人事件」と「証拠品窃盗事件」の発生である。そしてその二つの事件はつながっており、ネットでは盗んだと思われる重要品が公開されていた。それは、司法の崩壊を如実に表すものであり、決して外に出てはいけないものであった。これが外に出てしまったが最後、裁判は信頼を失うし、警察でさえ証拠の偽造を行うということでこれまた信頼を失うことになる。弁護士職も、業界全体で築き上げてきた信頼にひびが入ることとなろう。もうこれらの組織に効力はない。裁判は文字通り茶番と化し、弁護士や警察が被差別職となるのもそう遠くはない。今まで自分たちだけがいい思いをできるように生きて来たことへの報いだろう。俺は、自分よりも社会的に立場のある人間が失脚するのがたまらなく気持ちいい。既得権益だけで生きて来た能無しが無一文で野に放たれるのだ。そいつらが持ち合わせるのは、既得権益下で養った通用しない常識と、それを土台にした高すぎる自己意識である。そんな人間が一般人の世界で生きていける訳もない。奴らが今まで馬鹿にしてきた低級市民共に見下されながら生きていくと想像すると、笑いがこらえきれなくなる。

 ニュースを見ながらひとり悦に浸っていると、それに水を差すかのようなニュースが流れて来た。どこぞの政党がカルト宗教団体と裏でつながっていたというニュースだ。この政党が政権を取ってからの約五十年余り、すべての選挙においてこの宗教団体への献金を行うまたは、優遇措置的な法案を作ることで組織票を得ていたらしい。確か三か月前に、その宗教信者の息子がつながっていたと思われる政治家を殺したことで話題になっていた。当時はそのような陰謀論じみたことなどあり得るのかと思っていた。そして調査が始まり、終わるころには彼は英雄扱いだった。「この事件は民主主義への挑戦である」などと謳っていた政治家たちは全員手のひらを返した。それも当然、最初から民主主義などなかったのだから。

 このニュースのおかげで次の目標ができた。この宗教団体とつながりがあった政治家を全員殺す。別に俺はその宗教団体に何も関係していないし、その政治家たちに直接何かされたわけでもない。ただ、これほどのろくでなしがのうのうと生きていて良い理由が俺の頭の中で思いつかなかっただけだ。

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