婚姻の白紙撤回が何度も続いた令嬢の一生
カーライン家とヒメルク家との結婚初夜。
嫁してきたヒメルク家の令嬢、アリーナは、侍女たちに世話を焼かれた上で夫婦の寝室にて淑やかに夫を待っていた。
アリーナは乙女だが、その手の教育は受けているし、覚悟も決めている。
たとえ今まで、初めての顔合わせ以来、結婚式まで一度も顔を見せもしなければ手紙も寄こさなかった相手であろうと、婚姻を結んだからには夫として向き合う必要があると考えていたのだ。
しかし、夫婦の寝室で待機を始めて二時間。
普段であればもう眠っている時間になっても夫は姿を見せない。
結婚式の時でさえ誓約の口付けは露骨な寸止め――どころか、した振りにもならない、こぶし一つ分は空いた距離感でのものだった。
これで夫婦の義務さえ怠るつもりかと怒りを感じ始めた頃、無表情な侍女頭がそっと手紙を持ってきた。
そして、今宵はもうお休みください、と告げてきた。
それで夫となった男はこの部屋に来る気がないことを知ったアリーナは、内鍵を閉めて施錠したうえでふて寝をかました。
翌朝。
アリーナは朝の支度を終えてから手紙を開封した。
その内容は、と言えば。
自分には婚約前から愛する女性がいる。
故に、家が決めた婚約や婚姻に縛られるつもりはない。
仕事のために昼間は屋敷に戻ってくるが、夜から朝までは真実愛する女性の元で過ごす。
真実の妻との間に子が出来たら連れてくるので己の子として養育せよ。
要約するとこうなる。
アリーナは即座に行動した。
貴族の婚姻は複雑な手続きを踏むために、結婚式を終えて三日から五日ほどあとに正式に認められる。
故に、彼女はその手続きに待ったをかけた。
その上で、己の両親と夫の両親双方と、貴族院の役人とに、夫からの手紙を読ませた。
役人は即座に手続きの破棄を行うと宣言し、そのまま貴族院へと戻っていった。
アリーナの両親は怒り狂った。元々不誠実にも婚約者であった娘を蔑ろにしていた事に不満しかなかったのに、お飾りの妻役をやらせようとした事は不義理以外の何物でもない。
しかも、婚姻とは家と家との結びつきだ。
ヒメルク家の血がカーライン家に入ることが前提となるのに、どこの馬の骨とも知れぬ女の産んだ子の面倒を見させられるのみなど冗談ではない。
カーライン家の夫妻はもう顔が真っ青で、アリーナの両親には謝り通しであった。
婚約者時代からの不義理に関する苦情がなかったこともあったし、婚約者に使いなさいと渡していた小遣いだって使っている様子があったから安心していたのだ。
さすがに昨日の結婚式で寸止めどころでない誓約の口付けを見た時は何かがおかしいと思ったが、こうなって思うのは、あの後に息子を呼びつけて事情聴取をすべきだった、である。
「このように、カーライン令息のお気持ちは堅いようですので、わたくしとしましては妻となることはできません。
と言いますが、血の交わりが行われない婚姻を結ぶ必要性を感じません。
また、義務だからと体を重ねる事になったとて、己の仕事をする以外で家に寄り付く気がないと宣言している方が後継者を育てられるとも思いません。
故に、わたくしの手には余ります。婚姻を白紙とさせていただきとうございます」
アリーナは淡々と、無表情に告げる。
なんとかならないかと部屋の隅に控えていた侍女頭にカーライン家の当主が目を向けるも、
「坊ちゃまは、昨夜は私に手紙を託された後に家をお出になられました。
故にアリーナ様は純潔にございます。
この家に縛り付けるだけの材料はございませんよ、旦那様」
と、ひどく醒めた声で言われてしまう始末。
使用人たちとて心があり、また、両家は侯爵家であるので、殆どは貴族の跡継ぎでない人間を雇っている。
基本的には低位貴族だが、その彼らでさえ擁護する材料を思いつかない。
そのくらいに、カーライン家の息子はやらかしている。
「荷物は後程、侍従が引き取りに参ります。
わたくしはこの話し合いを持ってヒメルク家に戻らせていただきます。
婚姻の手続きも中途破棄となりましたし、今後のお付き合いに関しましては両親に委ねます」
そうして、アリーナは純潔のまま実家へと戻ったのである。
ヒメルク家はすべてをつまびらかにした上で娘の夫となるものを即日募った。
伯爵家から公爵家まで、あらゆる未婚で婚約者のいない家に通達したものだから、爆速でカーライン家のやらかしは広がった。
そして、何もかもをナメていたカーライン家の令息はと言うと、断種処置を施された上で除籍、一切の資産を持たぬ状態での国外追放となった。
家は、六つ年下の娘が婿を取って継ぐ。
ちなみに、令息の個人資産や所有物は全て換金された上でヒメルク家に賠償金として支払われた。
さてその後。
アリーナは三度婚姻し、三度白い結婚として即日婚姻を白紙にした。
初手で傷物となったと勘違いした令息たちは、己の恋人を尊重し、アリーナをお飾りにしようとしたのである。
しかしアリーナのほうが何枚も上手である。
分家の娘である侍女を部屋の中に潜入させた上で、録音の魔道具を起動して夫となるはずだった人物たちの言葉を記録し、翌日になってそれを原因として結婚の白紙撤回を突き付けたのである。
なので戸籍上も肉体的にも純潔なのだが、アリーナはすでに二十五歳。
白い結婚で破滅したい家の令息たち集まれ~、アリーナちゃんが将来を破壊してくれるよ~、的な扱いを受けているし、何より適齢期が過ぎ去ってしまった。
その関係から、アリーナは、これまで稼いだ慰謝料を用いて、領地の片隅に小さな家でも建てて使用人二人か三人程度と暮らすことにしようと決めた。
兄と兄嫁は一生家に居たっていいんだよと言ってくれたが、嫁ぎ遅れが一生居座っている家など外聞が悪い。
なので領地でつつましく暮らし、そんな令嬢はいなかったという風にするのが一番いいと判断したのだ。
アリーナ一人が暮らす家は、ヒメルク家が責任を持って建ててくれた。
最新の技術である水洗トイレや上下水道を完備し、入浴も加熱の魔道具を用いて湯が使え、一人で湯あみできるようになっている。
建設された村も、やや矛盾するが都会的な農村である。
毎週のように行商人が立ち寄るし、定期的に訪ねてくる商会もいる。
彼らの存在を前提とした商店が幾つもあり、村なのに図書館があったりもする。
新聞も届くし、郵便所もある。
しかし、人間より家畜のほうが多い。
近くの領都の食糧供給地なので。
そんな場所なので、アリーナはドレスではなくワンピースなどの軽装を揃えた。
着替えが面倒でないように、シャツに巻きスカートなどの村娘風な服も揃えた。
靴も、ハイヒールやパンプスから、ブーツやサンダルに切り替えた。
そして、貴族令嬢ならそうあるべきと伸ばし続けてきた髪をバッサリ切った。
首筋が露わになるほど短い髪は労働階級の女性などに多く見られる。
貴族女性でも、既婚者ならばそれほど短くすることもあるが、未婚の令嬢ではまずしない髪型である。
しかしアリーナは今後、ほんの二人ほどの使用人に生活を支えてもらうのだ。
使用人らにも生活がある。休みだって取らせなくてはならないし、夜は各自休みたいし朝だって朝食の準備だなんだと忙しいだろう。
出来ることは自分でやる。そのためにも、無駄に手入れが必要な長い髪は要らない。
服だって自分で着られたほうが効率的だ。その時間で使用人たちにはゆっくりしてほしい。
そういった事情を考えて、最も効率的なようにアリーナは支度を整え、二十六歳の誕生日を迎えた翌日に、田舎の家へと引っ越していった。
その後。
彼女は持て余した暇な時間を、村の保育所で乳幼児たちの面倒を見ることにした。
赤子は可愛い。少し育った幼児も可愛い。
哺乳具と呼ばれるもので、山羊の乳を与えているときの無防備さも可愛いし、抱っこをせがんでくるのも可愛い。
元々アリーナは面倒見のよい、気の良い女性である。
最初の内こそ不慣れでまごまごしていたが、ひと月もすれば現役の母親たちと同じように、いやそれ以上にキビキビと乳幼児の世話をするようになっていた。
最初こそ保育所に集った女衆も、貴族令嬢ということで尻込みしていたが、おむつでさえ躊躇なく変え、よだれでべとべとにされても怒らない、村娘と大差ない格好の彼女に慣れてしまった。
アリーナ嬢ちゃん、と呼び、昼食も交代でみんなで食べるようになり、昼寝の時間に刺繍を学んだりするようになった。
育っていく乳幼児たちは、アリーナおねえちゃんとアリーナを慕い、ゴッドシスター的な扱いをした。
みんなのお姉ちゃんである。
そして莫大な資産持ちである彼女は、村に不足している物資を大した出費でもないわという顔で発注することもあって、村人たちに女神扱いされた。
年に一度の収穫祭で焼かれる豚の丸焼きでは、特に美味しい部位は真っ先にアリーナに渡されたし、優先的にバターやチーズが家に届けられるので、アリーナの食生活は常に豊かだった。
そんなアリーナも、四十歳ほどの頃に流行った熱病で看病の甲斐なくこの世を去った。
己の遺産はすべてこの村に寄付するので、うまく役立てて欲しいという遺書を残して。
アリーナは確かに貴族令嬢としては不遇な人生を送った。
しかし、たくさんの子供たちに囲まれ、自由に生きた彼女は、決して不幸などではなかった。
むしろ、一人の人間として、最後の瞬間まで幸せに過ごしたと言ってもいい。
それは、彼女の死に顔が、微笑んでいたことからも明らかだった。