男と女の大決戦
駅を出てすこし歩いたところに、小さなビルがある。そこの四階に、小さなバーがある。仙石エリは、仕事が終わったあと、そのバーへ向かった。
「いらっしゃい。あらエリちゃん、久しぶりじゃない」
老マスターは、久しぶりに来店してきた若い女のお客さんを、笑顔で迎えた。バーにしては早い時間なので、ほかにお客さんはいなかった。
「本当、久しぶり。ごめんね。仕事が忙しくて、なかなか来れなかった」
エリも、笑顔の迎えに笑顔で返した。
「大変だったね。今日はゆっくり飲んでいって」
「うん。…… 、あとでシュウジも来るから」
「ああ、あの男前も来るの。カウンターで二人が並んで座るのも、それこそ久しぶりだ」
「そうだね。…… 、それで、おそらく最後になる」
エリはそう言ったときに見せた笑顔は、すぐくずれそうな、ガラス細工のような笑顔だった。
「……、そうか」
マスターはそれだけ言って、天井を見つめた。もう、エリの方は見られない。ガラス細工のような笑顔はくずれているのだろう。顔を見なくても、静かに泣いているのが、音でわかる。マスターはさりげなく、BGMの
ビートルズの音量を上げた。
「マスター、ごめんね。変に気を使わせちゃったね。これから、大事な話をするから、BGMの音量は下げてほしい」
エリは袖で涙をぬぐいながら、顔を上げた。マスターはバツが悪そうに音量を下げる。
「重ねてごめんね。わたし、なにも注文していなかったね」とエリ。
「どうします? 最初の一杯は、軽い口当たりのビールにしますか?」
「いいね。マスターのオススメのもらう」
こうして、エリはチャームのフライドパスタをつまみに、マスター推薦のボトルビールを楽しんだ。
すこしたって、男がバーに入ってきた。男は「久しぶり」とだけ言って、エリのとなりに座った。マスターからおしぼりを渡されると「まず、いつもの」とだけ言って、スマホをいじくりだした。マスターは男の「いつもの」がわからない。困っていたら、エリが横でメニューの「ジントニック」を指さしてくれた。マスターのだしたジントニックを、男は一気に飲み干し、「次は、バリ強めに」とだけ言って、また、スマホをいじくっている。
「ふーん、シュウジは久しぶりのわたしをロクに見ないで、スマホに夢中なのね」
エリは、片ひじをつき、シュウジを睨んだ。
「今、スマホゲームで限定イベントやっているんだよ」シュウジは続ける。「それに、オレはエリがかわいいのは、見なくてもわかる」
こんなことを、照れもせずに言えるのが、シュウジの魅力だろう。じっさいエリはこの一言に、軽くやられている。
「マスター、テキーラをショットで」
エリは注文した。マスターは黙って差し出す。それをエリは一気に飲み干した。
「いや、このイベントをクリアしていかないと、レアアイテムもらえねえの」
シュウジは一息ついて、スマホをはなして、エリの方を見た。さらに続ける。
「だけど、マジ、久々だよな。一か月くらいだよな。会いたかったよ。ずっと仕事忙しかった?」
「そうね」エリは素っ気なく答える。
「エリも、会社では後輩ができたんじゃねえの? その後輩に仕事押し付けたりできなかった?」
「逆ね。後輩の用事のために、わたしが後輩の仕事をやってあげていたの」
「え、なにそれ? それって、最終的に後輩のためにならねえよ」
「その後輩が、彼氏ができたみたいで、その彼氏に会いたくてしょうがないんだって」
「へえ、ずいぶんお花畑な頭の後輩だねえ」
「そうよね。ちなみにそのお花畑な頭の後輩ね、大川チサトっていうの」
ここで、シュウジは飲んでいたジントニックでむせた。エリはさらに続ける。
「かわいいというより、きれいな娘だよね。肩までの髪を軽くウェーブしているのが、似合っている。それで話すとき、東北訛りがでるところが、ギャップ萌えなんだよね。……、シュウジ、知っているでしょ?」
エリの質問に、シュウジはうなずくしかできない。そして、エリは止まらない。その語り口は、静かで無機質だ。
「チサトちゃんとランチしたときに、その彼氏の話をしてくれるのよ。この前、遊園地デートしたんだって。そのときの写真を見せてくれたとき、わたし、思わず飲んでたお茶、吹き出しちゃった。だって、チサトちゃんの彼氏、わたしの知っている男、というか、今、わたしのとなりにいる男だったから」
ここまで話して、エリはドリンクのおかわりを注文した。マスターは黙ってボトルビールを差し出す。それをエリは一口つけた。その間、シュウジが動いているのは目だけで、ただ、ただ、泳いでいた。さらに、エリは語りだす。
「チサトちゃんは、何も知らないし、わたしもこんな状況、想像もしていなかったし、そして、シュウジも想像していなかったでしょ。世界は広いのに、どうも世間はせまいのね。マジでウンザリするわ。チサトちゃん、たしかに頭がお花畑かもしれない。でも、こんなことになっていても気づいていなかった、わたしも十分お花畑だよね」
エリはここでビールを一口つけた。そして、エリもシュウジも無言になった。その無言が空気を重くしている。マスターは自分の店だけど、逃げ出したい。
そんな空気を打ち破るように、カウンターに置いてあったシュウジのスマホが鳴った。
「電話だよ、シュウジ」とエリ。
「いや、宅配便だから」とシュウジは言って、「宅 配 便」と表示されているディスプレイを見せた。何かを察したエリは、シュウジのスマホを奪い、勝手に電話に出た。
「もしもし、シュウジ。今、暇? 暇だったら、朝まで付き合ってよ」
エリはここまで聞いて、電話を切った。エリの知らない女の声だった。
「普通、宅配便の番号登録なんてしないよね。浮気相手の電話番号を『宅配便』で登録していたんだ。なるほどね。急に浮気相手から電話きても、ディスプレイに知らない女の名前が出てこないもんね。腹立つくらい、お気軽なカムフラージュだ」
エリは冷たい笑みをシュウジに見せた。シュウジは泣きそうだ。さらに、エリは容赦ない希望を出した。
「ちょっと、このスマホの電話帳が見たいね」
シュウジはもうすべて、観念していた。エリに言われるがまま、スマホのロックを解除して、電話帳を開き、エリに渡した。
「すごーい。『宅配便』がたくさんある。こんなに宅配便があって、どれが誰だか区別がつくの?」
「それは、……、スペースを利用して……、区別をしている」
もう、シュウジには抵抗する気力はない。
「なるほどね、『宅配 便』やら『宅 配便』とか、同じに見えて、違うのか。わたしは『宅配便 』なのかな。『 宅配 便』なのかな」
ここで、シュウジは椅子から降りて、地面を手に付き頭を深く下げた。土下座である。
「エリ、オレが悪かった。遊び相手の女とはきっぱり別れる。何でもする。だから、許してくれ」
「遊び相手の女って、わたしも含まれているんでしょ」
エリはもう、シュウジに慈悲の心はもっていない。
「信じてくれ。エリはオレが出会ってきた女で一番だ。『宅配便』の女は、エリに会えなくて寂しいときに遊んだだけなんだ。オレは、エリがいれば、何もいらない」
「似たようなこと、ほかの『宅配便』にも言っているんでしょ。もう、騙されないからね」
「そもそも、エリは『宅配便』じゃねえ!」
この告白に、エリの慈悲の心に火がついた。エリは自分のスマホを取り出し、シュウジのスマホに電話をかけた。これでシュウジのスマホに、「宅配便」と表示しなかったら、シュウジとやり直してもいいと思った。ドキドキしながら、シュウジのスマホのディスプレイを見つめた。
「コアof マイハートof俺feat.ハイパー激マブスーパーレディ」
エリは、ディスプレイのこの表示を見たとき、十秒くらい、思考が止まった。
「ねえ、シュウジはわたしの電話番号を登録するとき、テキーラをショットで、十杯くらい、飲んでた?」
止まった思考が復活したときに、最初にできた質問だ。
「いや、まったくのシラフで登録したけど」とシュウジ。
「えーと、そうか、酒は入っていないけど、ヤバい薬に手をだして、登録した?」
「酒も薬もやっていない」
「酒も薬もやっていなくてこれなんだ。……、ちょっと、このネーミングセンスの人、生理的に無理!」
こうして、仙石エリと安田シュウジは別れた。