第八章(改稿中)
低い汽笛が鳴り響き、一行の乗る船はゆっくりと停止した。
甲板で暗闇をじっと見つめていたビバリー。彼女の頬を懐かしの冷気を帯びた風が撫で、彼女は独り言のように呟く。
「着いたのね……」
そしてそのまま、自室の方へ小走りに戻った。
自室で荷物を取り、アルフと他の三人を引き連れて船を降りる。するとそこは、薄寒いノース島の南側の港町であった。
「寒いね。なんだか凍え死んじゃいそうだよ」
マークが白い息を吐き、大袈裟に寒がっている。大した事ないのに、と、ビバリーは思うが、彼にとってはこれは経験した事のない寒さなのだろう。
タムシンは、興奮を隠し切れずにいた。
「やった。漸く、戻って来れたんだね。ノース島に!」
「喜ぶのはわかるけど、気を緩めちゃダメ。まだ、無事にアドニスさんの家へ辿り着いた訳じゃないんだからね」
「分かってる分かってる」
悪戯っぽい笑みは冗談混じりのように見えるが、本当に分かっていてくれていることを祈ろう。
王子が辺りをキョロキョロ見回す。「ノース島の地図はないが、買って行くか?」
それなら心配は要らない。「あたし、道を覚えてるから。アルフもきっと覚えてるし」
「なら良い」安堵の笑みを浮かべるダニエル。「それでは出発しようか」
彼の声に合わせたように、四人を背に乗せたアルフが駆け出した。向かうはノース島中部、氷の山の頂上の魔術師の家だ。
それからどれ程の時間が過ぎただろう。
見上げれば、強い冷気を放つ高山。現在、ビバリー達が目の前にしているのは、懐かしき氷の山だった。
この山では極端に気温が低い。なので、最寄りの町でダウンコートを二着購入し、予めダニエルとマークに着せている。ちなみにビバリー達は以前登った時の物を着用していた。
期待と共に、警戒が高まる。
ビバリーは改めて表情を引き締め、アルフに命を下した。「アルフ。この山を駆け上って。でも気を付けてね。崖があるから」
灰色の巨狼は軽く体を揺すって「クウン」と鳴き、それから風のように走り出したのだった。
左右に凍った木々の並ぶ道を抜け、崖まで出る。そこからは慎重に螺旋状になった崖っぷちの細道を一歩一歩進んで行く。
このまま無事に頂上へ辿り着けるのだろうか。
ビバリーの胸を不安が襲う。
しかし彼女はそれを高まる興奮で押し払った。大丈夫。無事に行ける筈だ。そして、光の輝きを、目に入れてやるのだ。
ビバリーの不安に反し、かつて氷の橋が掛けられていた崖をアルフは一っ跳びし、何事もなく頂上へ辿り着く事に成功した。
そして視線を上げた瞬間、ダニエルとマークも、そして初めてではないのにビバリーとタムシンも思わず息を呑む。
アルフの首に下げているランプで薄ぼんやりと照らされた、銀色の巨大な構造物。そこら中に宝石が散りばめられていて美しい。この建物こそが、魔術師の家、いや、城だ。
ビバリーは魔術師アドニスとの約束を思い出す。
必ず光の玉を全部集めて、無事にここへ戻って来ると。
その約束は今、確実に果たされようとしているのだ。
そのままドアへ近付く彼女。そして躊躇いなく、ノックの音を響かせた。
「…………」
辺りに静寂が漂う。それも束の間、中から一人の老婆が現れた。
紺色のローブ姿の白髪の老女。彼女こそが、世界にただ一人の偉大なる魔術師、アドニスであった。
「おお」ビバリー達を見るなり、魔術師は声を上げ、目を丸くした。「そなた達。よく戻って来られたものじゃ。それに、子供が二人増えておるではないか」
「うん。頑張ったんだよ」嬉しくなったタムシンがアルフから飛び降りて、アドニスに思い切り抱き付いた。「それでアタシ達、全部の光の玉を手に入れたんだ」
「おお。それはそれは」老婆とは思えない高い声を発し、目を輝かせてアドニスは手招きした。「ほら、中へ入ってゆっくり話をしよう。そこの子供二人もな」
「あ……、はい」
呆気に取られていたダニエルと、微笑ましい光景をじっと眺めていたマークがアルフを降りようとする。その直前、ビバリーがアルフに指示していた。「アルフ、中に入って」よって、降りかけだった少年二人は身を半ば投げ出されたまま、魔術師の城の中へ飛び込むように入って行ったのであった。
「わしは魔術師アドニス。ダニエル王子、マーク、旅はご苦労じゃった」
現在、一連の挨拶とこれまでの経緯を語り終えたばかりだ。ビバリー達は柔らかなソファに掛け、アドニスと向かい合っている。ちなみに、アルフはソファの傍に置いた餌を貪っていた。
「ありがとう。……、これで、光が戻るんだよな?」
王子の確認に、確信の表情で魔術師は頷いた。「儂もそなた達の旅の間に様々な文献を読み漁った。が、それで間違いないじゃろうな」
ソファの間に置かれた机の上には、蓋が開かれた五つの鉄製の箱が並べられている。
その中に存在するのは、漆黒の宝玉。天井の高級シャンデリアに照らされ、美しく輝いている。
それを食い入るように見つめていた視線を上げて、マークがアドニスに尋ねた。「具体的にこの玉に封じられた光を天へ解き放つ方法を教えてよ」
黒髪の少年をじっと見つめ、厳かに頷くアドニス。「教えてしんぜよう。今から、その儀式を行う。それは魔術を用いるものじゃから、わしが執り行おう。さすれば光は天へ戻るじゃろうよ」
「凄い凄ーい」タムシンがはしゃいでいる。
もうすぐ、光が戻る。
ビバリーの胸も、これ以上なく踊っていた。
漸く、一ヶ月もの長い旅が報われるのだ。
そして光は溢れんばかりにこの世界に降り注ぎ、世界は平和になるのである。
想像に目を輝かせる金髪の少女。彼女は老婆を見つめてから、深く頭を下げた。「では、儀式の準備をお願いします、アドニスさん」
準備は簡単だった。
まず、五つの紫色の布を用意する。
そしてビバリー達も手伝って箱から光の玉を取り出してその上に並べ、空の箱をリュックサックに戻した。
アドニスの手には、どこから引っ張り出して来たのやら、先端に水晶の付いている杖が握られている。
それだけでもう、準備は終わりらしい。
いよいよ、魔術の儀式の始まりだ。
皆がそれぞれの思いを胸に、それを見つめていた。
「では」魔術師が杖を真上へ突き出し、天を仰いで何事かを叫ぼうとした時だった。
突然、轟音と震動と共に、天井が破られたのだ。
「何っ」ビバリーは思わず悲鳴を上げる。
その明らかな異変の直後、ビバリー達の目の前に現れたのは、十メートルはあるであろうか、黒い物体だった。シャンデリアに照らされたそれは、あまりに大きくて何かよく分からない。
だがそれを見て、アドニスだけは失望したような声音で呟いたのだ。「魔神」
その響きに、一同は雷にでも打たれたかと思うような衝撃を受けた。
魔神。それはこの世界の創造主とされ、そして、恒星の光を奪い、例の宝玉に閉じ込めたとされる神だ。
もし仮にアドニスの言う通り、真っ黒な巨体が魔神なのであれば。ビバリーは最悪の想像をし、震え上がった。
そして、その最悪の想像は見事に的中していた。
「愚直な人間どもめ」
その声は天から降って来た。まるで、雷のような声音である。
「よくも、光を戻そうなどと姑息な真似を」
背筋に悪寒が走る。マークなどはガクガク震えてしまっていたし、心の強いダニエルでさえ唇を強く噛み締めていた。それも当然だ。十代の少年少女が、自分より遥かに強大な存在と対峙するなど不可能だろうからだ。
「この魔神の手で直々に捻り潰してくれる」
ビリビリ、ビリ。
轟音がして、魔神の角から、凄まじい雷が放たれた。
それはビバリー達を直撃しようと、シャンデリアの掛かった天井を突き破って真上へ落ちて来る。
危ない。
ビバリーが叫ぼうとした時、ソファと机の周囲に、薄い幕が張られていた。
その幕は真っ白な雷を打ち返し、揉み消した。
目を剥き、驚くばかりのビバリー。
「バリアじゃ。大抵の衝撃は、これで回避できる」と、アドニスは少し得意げに笑った。
この一発で分かった事は二つ。
まず、魔神の目的。
言い伝えによれば、光を封じ込めたのは魔神。
魔神は、光を解放されたくないらしい。それで、光の玉を取り戻そうとしているのかも知れない。
そして、光を取り戻そうと足掻くビバリー達を魔神は許すつもりがない。徹底的に戦うつもりだろう。
以上の事で、こちら側の選択としては一つしかない。
ダニエルが表情を引き締めて叫んだ。「全員、戦闘準備に入れっ」
タムシンがピストルを抜き出し、マークが袋に詰め込んだ石を右手で掴む。ダニエルは弓を構えようとするが、アドニスが彼を呼び止めた。
「左足が丸々欠けているではないか。そんな事では、あの魔神と戦えんぞ。……、これを付けてやるぞい」
そう言って魔術師が手にしたのは、鉄の棒。
その先端をなんとダニエルの欠損した左足の断面に当て、何やら呪文を唱えた。
呆気に取られるダニエル。すると、棒がみるみる足と一体化して行ったのだ。
みんな、驚いて目を見張る。
「これで元通りとは行かんが歩く事はできる筈じゃ。無理をすれば走るのもな」
老婆の親切に感謝し、王子は頭を下げた。「ありがとう」
彼が頭を下げるのは初めて見たかも知れない、などと、ビバリーはどうでもいい事を考えたりした。
もう、余裕をこいている暇はない。魔神の攻撃が、今まさに来ようとしている。
アドニスが強く叫んだ。「……、さあ、戦え!」
そうして、魔神との戦いの火蓋は切られたのである。
外からは、低い低い唸り声が聞こえて来ている。
それと、雷の音、叫び声もしていた。
バリアの外では、激戦が繰り広げられている。
戦っているのは、タムシン、ダニエル、マークの三人だけ。ナイフだけが武器のビバリーは現在役立たずで、アドニスと一緒にバリアの中で彼らの様子を見守っている。
真っ黒の巨体に、次々とタムシンの弾丸が打ち込まれる。
が、魔神はびくともしない。「はっ。愚かな小娘。お前の攻撃など、当たるものか」
魔神の武器は四つ。
口から吐く氷の息吹、炎の鼻息、角から発される雷、指先から放たれる石化の光線。
魔神はタムシンを忌々しげに睨み付け、それから、石化の光線を指先から強く放った。
「うっ、うっ、わあ」
くるくるくるくる、タムシンは器用に逃げる。彼女のすぐ横を、石化光線が通って地面に突き刺さった。
しかし光線の追撃は続き、一発、また一発と彼女へ放たれて行った。
「わあ、ぎゃっ」
そこへ助けに入ったのは、ダニエルだ。
ブスリ。
彼の手から弓矢が飛び、魔神の目玉に突き刺さったのだ。
魔神は軽く呻き、目が転げ落ちる。だが。
「あ……」
ビバリーはそれを見て、思わず声を漏らしてしまった。
失われた筈の目が、少しずつ再生し始めているのだ。瞬きの間に、元通りになってしまっていた。
それには、戦場にいる三人も驚いたようだ。
「はっ。私は不死身なのだ。どうだ、恐れ慄き、平伏すが良いぞ」
魔神が笑い、今度は炎の鼻息を一同に浴びせた。
バリアの外で、炎が揺らめく。
「あちっ」タムシンの悲鳴。彼女は足を焼かれ、苦しそうに地面に倒れ伏す。
「タムシン!」ビバリーも叫び、タムシンの元へ駆け寄ろうと走る。しかし魔術師に制されてしまった。
「行っても無駄じゃ」
「でもっ。タムシンが……」狼狽えるビバリー。彼女が苦しんでいるのに、黙って見ているなんて、できっこない。
「むしろ、そなたが攻撃を受ける事になろうぞ」
悔しい。悔しい。自分に何もできない事が、ビバリーには悔しくて堪らない。自分は、何の力にもなれないのか。
そんな間にも、状況は変化する。
マークの石飛礫が、脳天目掛けて無数に舞った。
その多くは角から発せられる雷に打ち落とされる。だが、一部は脳天を突き破った。魔神はぐらりとよろめく。
やったか、とみんなが思ったその時。
割られて鮮血が飛び散る頭の皮が、みるみる再生して行ったのだ。
つまり、仕留められなかった。脳に確実に衝撃を与えたというのに、不死身の魔神は死ななかったのだ。
もう絶望的だった。
次の瞬間、周囲が白く煙った。
やばい。
その原因は、魔神の口から吐き出された凍て付く息吹。
それは、周囲の温度を劇的に下げて行く。
立ち上がろうとしたタムシンが、驚きに目を丸くした。「凍ってる。……、立てない」
地面が凍り付き、倒れ伏していたタムシンの肉体が離れなくなったのだ。
それはダニエルとマークの足も同様で、動けなくなっていた。つまり、明らかに戦況は悪化し、石の光線を浴びれば必ず敗してしまう訳である。
「ああ」絶望的に金髪を振り乱し、呻くビバリー。
もうこちらに勝ち目はない。
アドニスの話によれば、バリアもそう長くは持たない。
これで、夢見た伝説の光は、永久に戻らないだろう。
それでは一体、これまでの旅は何だったのか。これまでの思いは、時間は、何だったのか。
言い伝えはただの言い伝えに帰し、永遠にこの世界は闇に包まれ続けるのだ。
言い伝え……?
ビバリーの中に、何かが引っかかった。
この冒険の始まりは、光の玉だった。
光の玉の事は長年言い伝えられていた。これも言い伝え。
それを魔神が封じた。これは先程、本人の口から事実と確認したが、これも言い伝え。
そもそも、魔神の存在自体も言い伝え。まあ、実際天から降って来て、目の前にしているが。
では、魔神を打倒する方法は言い伝えられていないのだろうか?
「ねえアドニスさん」ビバリーは早口でアドニスに詰め寄った。「魔神の打倒方法の言い伝えって、ありませんか?」
アドニスは目を丸くする。「ほう。言い伝えか……」それから遠い目をして、「それは思い付かなかった。魔神に関する言い伝えの本があった筈じゃ。ちょっと待っておれ」と言い残して、バリアを出て走り去ったのだった。
外ではタムシンが必死に魔神の指先へ銃弾を撃ち込んでいる。撃っても撃っても再生するが、石の光線を放たれない為の時間稼ぎにはなっていた。だが、それも長くは持たないだろう。
焦燥感に駆られるビバリー。そこへ、アドニスが戻って来た。
「あったぞい」そして黒い表紙の大きな本を開き、目を凝らす。「ええと」
外からは銃声が鳴り止まない。ダニエルも魔神の角へ弓を引き、何度も何度も矢を放ち続けている。
魔術師が、声を上げた。「あったあった」
緊張が高まる。
「魔神は、不死身で欠損した身体をすぐに回復する事ができる。魔神に打ち勝つ方法はただ一つ。魔神の心臓を、砕く事」
魔神の心臓を砕く。
ビバリーは顔を輝かせた。
そんな事、普通はできっこない。
心臓は無論魔神の体内にある。つまり、外側からではどうやっても倒せない。
そう、外側からなら。
「それならいけるわっ」ビバリーは瞬間、走り出していた。強い焦燥感と、使命感に駆られて。「待っていてアドニスさん。アルフ。あたし、魔神を倒して来るから」
ソファの傍で蹲るアルフ。彼は不安げにビバリーを見上げている。
「大丈夫よアルフ。任せて」ビバリーは愛郎を撫でた。灰色の体毛が気持ち良い。「じゃあね」
「待て。どうやって」
だが、もうアドニスの声はビバリーに届いてはいなかった。
金髪の少女はナイフを片手に、アルフをチラと振り返ってから、バリアの外へ飛び出して行ったのだ。
バリアの外は凄まじい冷気で、雷がゴロゴロと鳴り、そこら中を稲妻が走り、石の光線があらぬ方向へ飛んでいる。
駆けるビバリー。彼女の目に、マークが映り込んだ。
立ち尽くす彼に向かって石化光線が放たれ、もうすぐマークはそれを浴びてしまう。
危ない、そう咄嗟に判断したビバリーの行動は早い。一瞬で彼の元へ駆け寄り、マークを突き飛ばすようにして地面に倒れ込んでいた。
光線が、ビバリーとマークのすぐ後を通り過ぎた。
「あ、ありがとう、ビバリー姐さん」
彼の靴を履いていない足の皮は、地面から引き剥がされた為にボロボロになってしまっている。だが、マークの命に別状はなかった。彼はビバリーに軽く礼を言い、それから視界が白く煙る極寒の中、白い息を吐きながら、「危ないよ。バリアの中にいないと」とビバリーの心配をする。
そんなマークの心遣いが嬉しいビバリーだが、そう思っている暇はない。「ちょっとマーク、手伝って。大事な事なの。あいつの倒し方、分かったから」
「えっ、本当?」目を見開くマーク。
ビバリーは彼に、五秒足らずでその方法を説明した。
「時間がない。今すぐ、お願い」
タムシンもダニエルも、必死で魔神に抵抗しているが、そろそろ銃弾も弓も尽きてしまいそうだ。
マークはその瞳に決意を浮かべる。「うん。分かったよ。……、応援してるから」
「ありがとう」
マークが、片手でビバリーを持ち上げる。
ビバリーは大柄だ。かなり重い筈であるが、重そうな石を軽々と投げるマークだ、不思議ではない。
「じゃあ、行くよ」
マークが囁く。
と、同時に、ビバリーの体は宙に投げ出された。
天地がひっくり返るような感覚に目が回り、ビバリーは目を閉じる。
途中で落ちたりしないだろうか。なんせ目的地まで十メートル弱。普通なら、ビバリーぐらいの体、そこまで飛ぶ筈がない。
しかしその不可能を、マークは実現させて見せた。
ビバリーはどんどんどんどん上昇して行く。
腕が氷の息吹に凍る。足が炎の鼻息で焼かれる。雷が傍を通り抜け、石化光線がビバリーの指の間をすり抜ける。
恐怖に体が震えた。怖い。怖い。でも、ナイフだけは決して離さない。これが、この作戦の、そして仲間達とビバリー自身の命綱となるのだから。
「何だ、こいつは」
低い、声がする。魔神だろう。
そのままビバリーは、魔神の牙と牙の間を通り抜け、口の中へ突入。息だろうか、凄い風が吹き付けるがへっちゃらだ。
飲み込まれる寸前、ずっとずっと遠く、遥か下の方から悲鳴のような声がした。「ビバリー」タムシンだ。でも、こんな場所で聞こえる筈がない。空耳だろう。それでも、ビバリーは何故だか嬉しかった。
ゴクン。
次の瞬間彼女は、魔神に丸飲みにされたのであった。
気が付くとそこは、ドロドロした液体の入った小さな部屋だった。
否、部屋ではない。窓もドアもないのだから。
液体は灼熱の炎のように横たわるビバリーの身を焼き焦がす。慌てて彼女は立ち上がり、周囲を見回した。
朦朧としていた意識が、徐々に現実に回帰する。
そうだ。あたしは魔神の口に飛び込んだんだった。
それならこの不思議な空間と奇妙な液体の正体は歴然としている。
ここは魔神の胃袋で、灼熱の海は胃液である。見ると、ビバリーの愛用の黒いブーツが胃液に溶かされ始めていた。
「ふう……」
暑い暑い暑い暑い暑い。
灼熱に、ビバリーの思考までも焼けそうだ。
しかし今は、そんな事をしている暇はないのだ。
目的地へ急がなければ、外のみんなが危ないのだから。
ビバリーはナイフを右手に握っている事を確認。それから、濃い桃色の胃の壁とでも呼ぶ部分にナイフを突き刺した。
軽い地震のような衝撃があり、魔神が呻いた事が分かる。
だが、突き刺しただけでは胃からは出られない。
何度も何度も胃の壁を突き刺し、切り開く。
ビバリーは氷の熊との対戦を回想していた。
あの時は、半狂乱になって相手へナイフを突き刺したものだ。だが今の彼女は冷静に、まるで料理で肉を切るような心持ちで突き刺し、引き裂いている。
血が溢れ出し、辺りは灼熱の海から血の池へと変化した。
それと同時に、胃の壁にはポッカリと穴が開いた。ビバリーがこじ開けた出口だ。
地震はどんどん強くなる。つまり、魔神が身を捩っているに違いない。
遠くでぼんやりと声がする。「やめろ。ぐぐぐぐぐぐぐぐぐ」
「そんな事、聞くもんですか」ビバリーは独り言のように魔神に言った。「光を奪って、沢山の人を困らせた。沢山の動物を死なせた。その報いだと思いなさい」
胃を飛び出したビバリーは、赤い管と小さな袋が一杯犇めき合う場所へやって来た。肺だ。赤い管は無論血管であり、袋というのが肺胞である。
外からはまた魔神の低い声が聞こえた。「人間の分際で、人間の分際で。人間はこの世界を荒らした。戦争ばかりして、好き放題にやってばかりいて。だから私は、この星をやり直そうと、人間に罰を与えようとしたのだ。なのに、愚直な人間の分際でぇぇぇぇ」
確かに、魔神の言う事も分かる。
人間はすぐ、争いをする。
人間はすぐ、好き放題土地を荒らす。
だが、だからといって、全ての生物を苦しめていい理由にはならないのだ。
絡み合った血管と肺胞をナイフで切り分けながら、ビバリーは中心へ中心へと駆けて行く。
その度に地震のような震動があり、呻き声が遠く聞こえた。
走る。走る。走る。
ただ夢中に。血管を引き裂き、肺胞を破り、進んで行く。
ただただ、肺の中心にある心臓を目指して。
今までロープのように細かった血管が、檻のように太くなった。
目的地が近い、そう思って太い血管にナイフを突き刺すが、なかなか切れない。
ギコギコギコ。
まるで、太い木の幹を切るようにして、汗を掻きながら力一杯ナイフを滑らせ、漸く断ち切る事ができた。
地面がこれまでになく揺れる。
息が荒い。苦しい。
それでもビバリーは、僅かに開いた血管の隙間に躊躇なく飛び込んで行った。
懐中電灯で、真っ暗な辺りを照らす。
そこは、太い血管の柱で囲まれた、小さな部屋だった。
中央には、真っ赤で巨大な宝石がある。
「…………」
宝石、即ち心臓は、ゆっくりと鼓動し、美しく怪しげに輝いている。
その優美さに見惚れ、ビバリーは思わず一瞬我を忘れた。
いけない。そう思い、前へ進み出る。
そして、宝石にナイフを向けようとした時だった。
ビバリーの胸を、強い不安がよぎったのだ。
本当に自分は、ここから生きて出られるのだろうか?
その疑問は実は、計画実行前から薄々思っていた事ではあった。しかし今、その懸念を強く抱き、急激に不安になり始めてしまったのである。
仮に生きている状態であれば、さっきまでのようにナイフで道を切り分けて出る事も可能だろう。
だが魔神の体が死んで硬直してしまえば、魔神の体内に閉じ込められ、ビバリーも出る事ができぬまま、命を落としてもおかしくないのだ。
それに魔神の体内は暑い。胃液がなくとも、まるでウエスト島の熱風を浴びているようなのだ。この環境で、どれ程耐えられるだろうか。
怖い。死にたくない。ビバリーを、強い恐怖が襲った。嫌だ、死にたくない。怖い、恐ろしい、嫌、嫌。
ビバリーはこの旅の最初、死んでしまってもいいと思っていた。
少しでもこの世界の為になれるならと、一度は捨てかけた命だからと。
でも、今は違う。
光が見たい。天から溢れ出す、眩い光を目にしてみたい。
みんなといたい。戦うなんかじゃなくて、普通に話したりもしたい。
だから、死にたくないのだ。
恐怖と死への嫌悪に苛まれるビバリーの脳裏に、ある声が、姿が蘇った。
「ビバリー」魔神の体内に入る直前の、タムシンの声だった。
「応援してるよ」マークが投げる前に掛けてくれた、声援だった。
片足を負傷してでも魔神と戦う、ダニエルの姿だった。
心配そうなアルフの眼差しだった。
そういえば、ビバリーはずっと仲間に助けられてばかりいた。
タムシンは、楽天的で何も考えていないようでいて、出会ってからずっと、いつも弱いビバリーを支えてくれていた。
強くて賢くて、それから強情なダニエル。王子と村娘という階級の差はあれど、ビバリーは彼の事が好きだ。大好きだ。
少しの過ちで、自分の故郷を滅ぼしてしまったマーク。ビバリーは彼の償いを手伝ってあげたい。
ずっと協力し続けてくれたアルフ。献身ばかりしてくれて、辛い時は慰めてくれた。
そして、光の復活を待ち望んでいる無数の人々。彼らはビバリー達を強く応援してくれた。
沢山の人に支えられて、ビバリーはここまで辿り着けた。
そして、今でも外でみんながビバリーを応援してくれているのだろう。
だから、自分だって前を向いて、その期待に応えよう。
そう思い、ビバリーの心の霧は晴れた。
彼女は迷いなく、魔神の心臓へ、ナイフを深々と突き立てた。
魔神の苦鳴が体内に地響きとなって木霊する。
すると、パリパリ、パリパリと真っ赤な心臓に亀裂が入り始めた。
「……」黙ってそれを見守るビバリー。
直後、幾つもの亀裂の入った赤い宝石は、粉々に砕け散った。
金髪の少女が思わず息を呑む。と、同時だった。
もろもろ、もろもろ。
周囲に犇めき合っていた肺胞が破れ落ちたのだ。
それだけではない。どこもかしこも亀裂が走り、崩れ落ち始めている。
魔神の肉体の崩壊が始まったらしい。
ガタン。
足場が崩れる。
途端に、ビバリーの体は宙に投げ出され、そのまま、真下へ落下し始めていた。
目が回り、意識が朦朧とする。
「ああ。これで漸く」
そう小さく呟いたビバリーは、落下しながら完全に気を失ったのであった。
気が付くとビバリーは、ソファに横たわっていた。
彼女の顔を、タムシン、ダニエル、マーク、アルフが心配げに見下ろしていたが、ビバリーが目を覚ました途端、一同の表情が安堵に緩んだ。
「良かった」目に涙を潤ませ、タムシンが呟いた。「ビバリーったら、死んじゃったかと思ったじゃん」
朦朧としていた意識が徐々に晴れて行き、ビバリーは状況を理解した。
「あたし、生きてたんだ」
ダニエルが頷き、微苦笑。「君が生きてなかったら、俺らの今までの苦労の意味がない。本当に良かった」
「ビバリー姐さんなら、やれると思ってたよ」マークが自信げに笑む。
アルフは嬉しそうに、ビバリーの頬を舐めた。
「ありがとう」ビバリーは微笑み、それからとあるどうでも良い質問をする。「ねえ、みんなはどうやって動けたの? 氷でへばり付いてたのに」
「それはさ」涙を拭いながら、タムシンが上機嫌に笑う。「アドニスさんがランプの火で溶かしてくれたんだ。ちょっとだけ肌が剥がれて、痛かったけどね」
「そうなんだ。良かったわ」
万事、順調に事が済んだらしく、ビバリーは心から安堵した。
周囲を見回すと、アドニスの城は全壊しており、ほんの一部しか残っていない。瓦礫の中に魔神の残骸があり、それはビバリーの行動が夢でなかった事をはっきり示していた。
「魔神をやっつけたのね。……、なんか、夢みたい」
本当に、氷の熊に襲われて以降、全てが夢のようだった。
光の玉という伝説の存在を集め、守護獣と激戦を繰り広げ、その度に勝利する。
ただの村娘だったビバリーは、もう、まるで英雄である。
それもこれも、みんなのおかげだから。
「ありがとう。みんな」
準備が整った。
城の残骸の中で、辛うじて儀式の場所だけは残っていた。無論、アドニスのバリアのおかげである。
ビバリー、タムシン、ダニエル、マークは一方のソファに掛け、ソファの傍ではアルフがビバリーに頭を撫でられている。
もう一方のソファにアドニスが座り、例の儀式用の杖を手にしていた。
「儀式を再開しよう」
老婆の言葉に、無論、異論を唱える者はいず、一同は頷いた。
「では始めるとしようか。……」
呪文が廃墟の中に響き渡る。その呪文に、疲れ切った体が癒されて行くような気が、ビバリーはした。
呪文を唱え終わる。紺色の衣装の老女は、杖を真上にかざし、天を仰いだ。
緊張が、周囲を覆い包む。
ビバリーは、今までの事を回想していた。
寒村の村娘だったビバリーは、森の洞窟で漆黒の宝玉を見つけてしまった。
それ故に氷の熊との戦いが起き、彼女の村は破滅し、ビバリーはアルフに乗って何もなくなった村から出て行った。
隣町で宝玉が光の玉だと判明し、それをアドニスに届ける事になった。
船でノース島へ向かう途中、タムシンと出会った。彼女と仲良くなり、沈みかける船から一緒にアルフに乗って脱出した。
ノース島に着いて、氷の山に登ってアドニスと出会って、それから、他の光の玉を探す旅に出て。
色々な人に出会った。守護獣と戦った。苦しい事があった。
それでも楽しかった、と、ビバリーは思う。本当に楽しい旅だった、と。
そして今こうして、ここにみんな無事でいて、もうすぐ光が、平和が、戻って来るのだ。
一瞬の静寂が破られ、アドニスが、高く叫んだ。
「玉の光よ、天へ解き放たれよ。そして恒星ドブべに戻れ!」
パキパキ、パキパキ。
卓上の紫色の布の上に並べられた、五つの漆黒の宝玉に亀裂が入った。そして直後、全ての光の玉から、真っ白な光の筋が伸び始めたのだ。
それは、闇を切り裂き、天を青く輝かせながら、真っ直ぐ上へ上へ伸びて行く。
この場の全員が、それを息を殺して見守った。
天へ伸びた五つの光の柱。それが、ある一点で一つに集まった。
キラキラと光が煌めき、眩し過ぎて思わず目を閉じる。
するとそのすぐ後に爆発音がし、ビバリーは目を開けた。
集約した光が、円状になっていた。
否、円ではない。光はこの星の恒星、ドブべを包み込み、溢れんばかりの光を放っていたのである。
見ると、空が青く澄み渡っていた。
さっきまでこの世界を包み込んでいた闇は消え去り、辺りには光が降り注いでいた。
「光だ」ビバリーは嬉しさに、叫ばずにはいられなかった。「光が、戻って来たのね!」
この世界に光が戻ってから、もう五年が経つ。
至る所に光が降り注ぎ、緑が茂り、時には雨も降る。気候は温暖になり、人々は以前よりずっと生き易くなった。
魔術師アドニスは、壊れた自分の城を魔術で数日で建て直し、今でも密かに暮らしている。
マークは魔術師アドニスの城に残る事に決めた。「僕、もっと色々な人達の役に立ちたいんだ。だから、アドニスさんに魔術を習うよ。そして、きっとどこかで役立てるんだ」そして現在、魔術の修行中である。
タムシンは自分の家に帰る事にした。「そろそろ、家に帰らなきゃ。父ちゃんと仲直りするんだ」そして寂しがるビバリーに、「大丈夫だよ、ビバリー。会う事は少なくなるだろうけど、アタシ、ビバリーの事、ずっと友達だと思ってるから。手紙も書こうと思うしね」と笑ったのだった。彼女は立派な猟師として過ごしている。
ダニエルは城に戻り、三年後、父親の死去に伴い、若くして国王となって国を平和に治めている。
そしてビバリーはアルフと、ダニエルと一緒に城で暮らす事になり、現在、城の広間で結婚式に臨んでいた。
ウェディングドレスを引きずりながら、ビバリーは赤い絨毯の敷かれた道を歩く。
十八歳になった彼女は容姿が整っている。ウェディングドレスと綺麗に手入れされた短い金髪のおかげで、美しく見えた。
彼女の胸の中は、とても穏やかだった。
客席からは、懐かしい声が聞こえる。
「ビバリー、凄い」藍色髪の少女が、手を叩いていた。
黒髪の少年が感嘆している。「ビバリー姐さん、綺麗だなあ」
二人とも、ビバリー達の結婚式の為に、はるばる遠い地から来てくれている。二人には感謝で頭が上がらない気持ちだ。
タムシンの腕にはアルフが抱かれている。今だけ彼女に預けているのだ。彼は目を輝かせ、ビバリーを眺めている。
そして向こう側から、茶髪の青年が歩いて来ていた。ダニエルだ。
国王となった二十歳の彼は非常に成長し、ローブを身に纏うその姿は威厳がある。左足は相変わらず欠損し、鉄の棒がくっ付けられているが、とても美しかった。
金髪の少女と茶髪の青年が絨毯の中程で出会い、手を取る。
二人はこの五年でさらに親しくなり、愛し合うようになった。そしてこの度、この結婚式が開かれたという訳である。ビバリーは王妃となるが、そんな事、彼女にとってはどうでも良かった。ただ、ダニエルと結ばれる事が単に彼女には嬉しかったのだ。
司会者の声。「新郎新婦、あなた達は、永遠の愛を、誓いますか?」
「無論誓うとも」ダニエルがビバリーを見つめて笑む。
その言葉が嬉しくて、ビバリーは美しく微笑み、天窓から差し込む光を見上げてこう言い放ったのであった。「誓います。この光が絶えぬ限りの永遠を」
完
(八章 挿絵)
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