第六章
真っ暗な草原に心地良い風が吹き付けている。辺りからは丈の短い草達が風に揺れる音がしていた。
現在、ビバリー達三人はイースト島の西側の海辺の草原に船を着け、上陸したばかりだ。
アルフに跨ってその磯の香りのする微風を鼻から一杯に吸い込むビバリーの横で、突っ立つダニエルが感嘆を漏らした。
「やはり、イースト島は良い。以前来た時も思ったが、緑があるというのは心地良いものだな」
ビバリーは彼の方へ向き直る。「以前って言うと、いつ?」
「うーん。二、三年前だな。確か、イースト島東部の小都市に用があって行った筈だ。そこも緑豊かでな。光が差さないこの世界であれ程の緑が育つのかと感心したのを、よく覚えている」
「へえ」ビバリーも、ダニエルの語る光景を思い浮かべた。
ビバリーの故郷には森があったが、大抵は光がなくとも育つ植物だ。イース島のこの草原に生えている草も、そういった類の植物に違いない。光がなければ雨もほとんどないこの世界で、植物の生命力には驚かされるばかりである。
と、背後から荒い息と足音が聞こえた。
タムシンだ。彼女は出発の用意に時間がかかり、先にビバリー達二人は上陸していたのだが、それにしても待たせ過ぎだ。
「お待たせ」
悪びれない調子で言うタムシンを振り返り、懐中電灯で照らして、「もうっ。遅過ぎだよ。十分も待ったんだからねっ」と声を荒げて彼女を叱責するビバリー。
「ごめんごめん」藍色髪の少女は頭を少しばかり垂れ、「今度から気を付けるから」と宥めるような口調で言ってビバリーの肩を叩いて来た。
それに苦笑しながらも、ビバリーは、彼女に肩を叩かれたのは初めてかも知れない、などというどうでもいい事に嬉しさを感じている自分にもさらに苦笑。
ちなみに、ダニエルは背後で「女は身だしなみというがな……」などと呟いていて、少女二人は完全無視だった。
三人集まった所で、草原をアルフの首から下げたランプと懐中電灯で照らしながら、灰色の巨狼に窮屈だが三人で跨って、ゆっくりと歩ませる。
一時間程歩くと草原がなだらかな丘になり、丘を降りた所に、小さな町が見えた。
足を踏み入れると、意外にもその町には無論センター島の城下町程ではないにせよ活気があった。
「ここで何を買うつもりだ?」
王子に尋ねられ、商店街まで歩み続けるアルフの上でビバリーは考える。
「目的地の石の谷までの地図が必要ね。それから……、食料の確保、武器の確保」
武器とは、タムシンのピストルの弾丸とダニエルの弓矢の矢である。いつなくなるか分からないそれらを、光の玉の傍にいるであろう守護獣との戦いの為に補充しなくてはならない。
以上の事が決まり、三手に分かれてそれぞれの買い物を終えた頃には、もう夜になっていた。
その夜は宿屋に泊まり、翌日、出発の朝を迎えた。朝と言っても無論、光が差さしてはいないので周囲は闇に包まれている。
宿を出て町を離れる。
向かうはイースト島中部、石の谷。
町を抜けると小川が流れており、それに沿って上流へ進む。
「川なんて珍しい。どこから流れて来てるんだろ」川を眺めながら首を傾げるタムシン。
恒星の光がない為、この世界にたっぷりある海水が蒸発しない。よって雲が作られず、雨が降るのも非常に稀で、小川が流れる程の水が山に降る事はない筈なのだ。
「不思議。どうしてだろう……?」ビバリーも首を捻ってしまう。
しかしダニエル王子はそんな少女二人に向かって、「この島は山が多くてな。それぞれの山が三百年前から溜めていた水や、僅かに降った雨水などを湧水として放出して、この小川ができているのだろう」と当たり前のように答えを教えた。
いくら一度イースト島へ来たとは言っても、ただ単にそれだけでこれ程の事が分かる筈がない。恐らく、国王になる為書物を読んで、知識を沢山身に付けたに違いない。
「へえ……」物知りな王子を羨ましげに見つめ、田舎の少女二人は同時に感嘆を漏らした。
何日かアルフに跨って進み続け、小川の最上流まで到達すると、そこには険しい山が切り立っていた。
「地図によればこの山を越えれば、石の谷の筈だが……、かなり険しいな」
山は全て高く、どこも急勾配で、いくらアルフが爪を立てて登ったとしても滑り落ちてしまうだろう。山肌は禿げていてすべすべな部分が多い。
「どうやって登ろうか、アタシ、良い案があるんだけど」
頭を悩ませるビバリーとダニエルに代わって口を開いたのは、タムシンだった。
「良い案って?」
「アタシ、こんな事もあろうかと思って」彼女は得意げに笑みを浮かべ、「あそこの町でこんなの買って来たんだ」と、ポケットからとても太いロープを取り出した。
「ああ」ビバリーはそれを見て納得。「ロープを山頂から垂らして登るって訳ね。でも、どうやって山頂に括り付けるつもり?」
そこで、タムシンは黙り込んでしまった。
彼女の不完全な考えに溜息を吐き、ビバリーは解決法を考える。
まず、恐らく五百メートル前後の山頂までロープを投げて届かせるなど不可能だ。
何か突起物があれば良いのだが、と考え、懐中電灯で周囲を照らして、彼女はある物を発見した。そこでは、ハゲタカのような鳥が十匹程集って、大型動物の死骸を突きまくっている。
それを見て、ビバリーは閃きを得た。
「タムシン。銃弾を一発あそこに撃って。脅かすだけで良いから」
「うん、分かった」ビバリーの意図を察せぬまま、ピストルを抜き出し、一発鳥達の方へ放つタムシン。
変な声を出し、鳥達が逃げ去って行く。
ダニエルは首を傾げた。「こんな事をして、どうするつもりだい」
「良いから良いから」
そう言いながらビバリーは動物の死骸に駆け寄る。
死んでいるのは恐らく虎に似た動物だ。ハゲタカにその肉を食われ、残っているのは白骨に近い。
ビバリーは死臭をぷんぷんさせているそれの閉じた口をこじ開けた。中には鋭い牙が並んでいる。
リュックサックからナイフを取り出し、彼女は、大胆にもその血に塗れた牙を二本、切り取る事に成功した。
背後のタムシンとダニエルがそんな彼女の様子を見て、息を呑む。
二本の太い牙を両腕に一本ずつ抱えたビバリーは振り返り、彼らに言った。「これを山に突き刺して一人が登るの。それからその一人が下にロープを垂らして、それを残りの二人が伝って登るって訳よ」
「そういう事か」ダニエルが納得。
タムシンは頷いた上で、「でも、誰が最初に登るの?」と言って首を傾げた。
「ここは俺に任せてくれ」ビバリーが申し出る前に、ダニエルが手を挙げてしまった。「それを俺がしなきゃ、俺の見せ場がないじゃないか。俺にやらせてくれ」
ビバリーはあまり王子に危険を犯させたくはないが、仕方なしに溜息を吐いて頷いた。「良いよ。ダニエル、お願いね」
そうしてダニエルが虎の牙を使って切り立った山を頂上へと登り始めてから三時間程。
夜が近付き始めた頃、頂上からダニエルが懐中電灯のサインで到着を知らせて来た。
ちなみにサインは懐中電灯を二回光らすという方法で、それを思いついたのはビバリーだ。彼女は王子に事前に自分の懐中電灯を貸したのだった。
サインの直後、山頂からゆっくりとロープが垂らされて行き、やがて、麓へ到達した。
「じゃ、アルフ、お願い」
小さく鳴き、灰色の巨体が蠢き、垂らされたロープをその鋭い鉤爪でしっかりと掴む。
それから、体を垂直に立て、ゆっくりと、ロープを伝って山を登り始めた。
彼の背に乗っていた少女二人は、アルフが姿勢を変えた事によって体制を崩してしまった。
「うわあ、わあ」タムシンは叫びながら、必死でアルフの尻部分に両手でしがみついている。ビバリーもまた、アルフの肩に手を回し、足をぶらぶらさせて悲鳴を上げていた。
そうして、不安定な姿勢のままで約三時間後、頂上に辿り着いた時、アルフからずり落ちて地面に這いつくばったビバリーとタムシン。
ほっと一息、安心したのも束の間、彼女達は口から、黄色い胃液を吐き出していた。「おえっ。おえっ」登山中、体が揺らされて胃の中身が掻き回されていたのである。
「大丈夫か?」不安げに少女達を見やり、汚物を拭ってやるダニエル。「やはりこの作戦は、少しばかり厳しかったらしいな」
やっと落ち着いたタムシンは、それでもむせ返りながら、「今、守護獣と戦った時より、死ぬかと思った」と、暗い目つきで呟いたのだった。
ビバリーはそのまま昏倒してしまっていた。
そんな三人の少年少女を、一番辛かった筈のアルフだけは静かな目で眺めていたのであった。
山を登って来たのと反対側へ降りるのは、割合容易かった。
斜面の角度は極めて緩やかで、慎重に歩けばアルフの足でも下山は可能であった。
下山途中、アルフの背の上で気絶していたビバリーが目覚めると、恥ずかしい事にダニエルに抱かれていた。
「目覚めたのか。具合はどうだい?」
最初にそう声を掛けられ、ビバリーはすぐ目の前にある王子の顔を見つめてドギマギしてしまう。「あっ。うっ、うん。大丈夫。ありがとう」知らず、頬が赤らみ、恥じらいながら、ダニエルの腕から抜け出した。
「照れちゃって」ニヤニヤしながら、タムシンがそっと呟いたのは、ビバリーには聞こえなかった。
周囲を見回すと、そこは山の麓、ゴツゴツした岩肌を降り切る寸前だった。
「山の、麓……」
頷き、吐息を漏らすタムシン。「ああ、漸くだね。疲れた疲れた」
ダニエルもやや体制を崩して、「無事に下山できて何よりだ」と、呟いている。
少年少女達がそうやて安堵していると、突然、灰色の体毛の巨狼が遠吠えし、走り出した。
「わっ。アルフ、どうしたのっ」
そう言っている間にも、アルフはどんどん坂を滑るように降って行く。まるで、矢のような速さで。
ビバリーは振り落とされまいと彼の首にしがみつく。他の二人は半ば身を投げ出されている。
すると、何の前触れもなく、アルフが急停止。三人はとうとう地面に投げ出された。
「いてててて…………」
背中を軽く打ち、一瞬意識が遠のきそうになりながらも、なんとか立ち上がるビバリー。彼女は、「もうっ。アルフったらっ」と愛狼に厳しく叱り付けた。
そんな事はお構いなしに、小さく鳴いて、アルフは鼻で前方を指し示した。
「何?」胸から懐中電灯を取り出して闇に染まっている前方を照らす。と、石造の建物が見えた。それは奥の方まで何軒も何軒も立ち並んでいる。その建物達が建っている地面には、びっしりと白や黒や灰色の石ころが敷き詰められていた。
「あ……」彼女は思わず感嘆を漏らす。
ビバリーと同じく立ち上がったタムシンとダニエルも、光の方を見ていた。
そして、ダニエルがイースト島の地図を見て、透き通るような声音でこう告げたのだった。「うん。ここで間違いない。……、こここそが、俺らの目的地、石の谷だ」
アルフに乗ったまま、三人は石の谷の小さな村へと入った。
村は何もかもが石造、入り口の立て看板のすぐ隣には、石像が立っていた。
「石像なんて、初めて見た」ビバリーは目を丸くする。
その石像はなんとも精巧で、人の手で作られたとは思えない。余程腕の上手い者が作ったのに違いない。
石像は、石造の建物の街並みに沿ってずっと幾つも点在していた。どれも精巧で、美しい。
辺りは、真っ暗だ。
大抵の町や村には街灯が点けられているものなのだが、どうやらそういった設備が整っていないらしい。
「光の玉は、この谷のどこにあるの?」
ビバリーの質問に、地図を眺めていたダニエルが答える。「石の祠という場所らしい。でも……、そこがどこか、分からないな」
それは困りものだ。
タムシンは吐息を吐いた。「仕方ない、村の人に聞いてみよう」
アルフに跨って、三人の少年少女は石の谷の村の中を歩き回り続ける。
しかし、あるのは石像ばかりで、人の姿は見当たらなかった。
「妙に静かじゃないか? 生活音がしない」顔を顰め、不審そうにダニエルが呟く。
確かに、特におかしいとは思っていなかったが、やけに静かだ。
「みんな、寝てるんじゃないの?」
しかし時刻は夜明け過ぎ。人がいないのも、静かなのも、当然と言える。
だが、ビバリーの当たり前の意見に、ダニエルは被りを振った。「それにしてもおかしい。まるで、この谷は死んでるみたいに静かなんだ」
「確かに」とタムシンも頷き、「アタシの町でも、夜明けはこんなに静かじゃなかった」と、不思議そうな声で言った。
アルフと三人は、石の祠の在り処を誰かに尋ねる事もできぬままに、ぐるりと村を一周し、石の谷の入り口へと戻って来てしまった。
もう、朝の七時を回っている。
しかし相変わらず村は無音で、人っ子一人いない。
とうとう、これはおかしい。
ビバリーは首を傾げ、辺りを見回す。
すると、立て看板の隣にある例の石像を見て、とある事を思い付き、その想像に背筋が寒くなった。
ビバリーが見つめるその石像は村の外へ駆け出すような姿勢で、首だけ振り返っている。その見開かれた目には恐怖の色が濃く、唇が噛み締められていた。
そして、奥の方を見る。
さっきは物陰に隠れて見えなかった石像は、腰を抜かしたのか手をついて上を向き、これまた絶望の表情をして口をあんぐりと開けていた。
よく見ると、自然に思えていた全ての石像が、何かに怯えるような顔をして、不自然な格好で固まっている。
目を凝らせば所々家の窓が破られており、中にも奇怪な格好をした石像達が見える。
考えられる事は一つ。
何かの脅威によって、村が石に包まれてしまったに違いない。あのビバリーの故郷の村のように、守護獣の仕業かも知れない。
「どうしたの? ビバリー」
不安げに首を傾げるタムシンに、ビバリーは声を震わせながら、自分の推論を彼女と王子に語った。
「確かに見れば、不自然な像が多いな」
「村が、石化したって言うんだね?」
二人の質問に頷くビバリー。そして顔を上げ、「アルフ、走って」と、愛狼に命じていた。
突然、主人の言葉に従い、アルフが猛スピードで走り出す。
それに振り落とされまいと、ビバリーの背後のタムシンは悲鳴を上げ、ダニエルは歯を食いしばった。
「もうっ。ビバリーもアルフもっ」藍色髪の少女が髪を振り乱し、高く、ビバリー達に抗議した。だが、その声は、耳元を撫でる煩い風の音によって、誰にも届かなかった。
何故、アルフに走れと命じたのか、ビバリーは自分でもはっきりと分からない。ただ、石の祠を早く見つけなくては、と、直感的に強い焦燥感に駆られたのだ。
彼女達は、アルフが足を向けるままに、村を駆けずり回り続けた。
走る。走る。走る。
焦燥感に追われて、見えない化け物に追われて、走り続ける。
そしてアルフは、とある村外れの建物の前で立ち止まった。
「ありがとう」
息を切らしているアルフから飛び降り、ビバリーは建物の目の前へ歩み進んだ。
その建物は堂々とした佇まいで、まるでこちらを見下ろしているようだ。壁には水晶や銀が埋め込まれていて、神聖感が漂っている。この建物こそがまさしく、石の祠であろう。
祠を見上げ、全員が無言になり、思わず感嘆の声を漏らす。
「ここが石の祠か。この中に……」
一番早く感慨から抜け出し、そう呟いたダニエルを、タムシンは唇に指を当てて制止した。「何か聞こえる。静かに」
この村で初めての物音が、どこからかした。
それを聞いて、ビバリーは思う。やはり、まだ生き残りはいるのだと。
村の中を駆け回っていて、ビバリーは気付いていた。
民家の花壇の花々が、まだほとんど枯れていない事に。よって、まだ一日程しか経っていないだろうとは予測していた。だから、もしかするとまだ誰かいるかも知れないと思っていたのだ。
物音は、背後の村外れにポツンと建つ一軒家からしている。
ビバリーはそちらを振り返り、チラとアルフを見やってから、言った。「アルフ。そこの草陰で待ってて。みんな、あの中を見てみましょ」
アルフは彼女の指示通り、所々石化してしまっている草むらの陰に隠れ、残りの二人はそっと頷いて、ビバリーの両隣に並んで、その家へ向かった。
その家も窓が少しばかり破られている。
「ドアには鍵がかかってるだろうし、仕方ない、ここから入ろうか」
「なら、あたしに任せて」
リュックサックからナイフを取り出して穴を広げ、窓のガラスを全て取り除いた。
地面には、ガラスの破片が多大に散らばっている。
「これで良し。でも気を付けて、向こう側の方が随分とガラスが散らばってると思うから。まず、あたしから」
「……、分かった」何故か嫌々タムシンが了承し、ビバリーが先導して窓の向こうへ飛び込んだ。
中は暗い。真っ暗だ。
ビバリーが手に持つ懐中電灯が、眩い光で闇を切り裂く。
すると、何か輝くものが光を跳ね返した。
「何……?」
背後でそれをじっと見つめていたタムシンが、小首を傾げた。
その時だ。
何者かの息の音が、した。
慌てて光でそれを照らすビバリー。
すると、目に飛び込んで来たのは、大蛇の頭部だった。さっき光を跳ね返したのは、蛇の体だったらしい。
そして、その蛇の目線の先には、今し方大蛇の尾で推し開けられたらしい衣装ケースがあり、中に一人の少年がいて、目の前の脅威の存在に震えていた。
大蛇が少年へ襲い掛かろうとする。
危ない、咄嗟にそう思ったビバリーは、大蛇の方へ飛び出していた。
「ビバリー」背後でダニエルが叫ぶ。だが、彼女は無視して走った。
大蛇に急接近し、右手でしっかりと持った愛用のナイフをその後頭部へぶっ刺す。そしてビバリーはそのまま頭を軽く裂き、右目を潰したのであった。
悲鳴を上げる大蛇。
体中に宝石の鱗をびっしり貼り付けた、石の蛇とでも呼ぶべき大蛇がビバリーに向き直り、その怒りに震える赤い目で彼女を睨み付けようとした。
少年が叫ぶ。「気を付けて。睨まれると石像になる」
その意味を早急に理解したビバリーは、軽く飛んで石の蛇の視線から外れ、死角を突いた。「えいっ」ぶしゅっ、と小気味良い音がし、蛇の左目が見事に転げ落ちていた。
薄く笑みを浮かべるビバリー。
石の蛇はこの世のものとは思えぬ絶叫を上げて、するすると器用に、立ち尽くすダニエルとタムシンの横を通り抜け、破られた窓の外から逃げて行ってしまったのだった。
「ありがとう」
衣装ケースから這い出した浅黒い肌の黒髪の少年が、服代わりに体に巻き付けている純白の布の埃を払いながら震えた声で言った。
少年の頬は硬っていて、依然として酷く怯えた様子である。
「どういたしまして」ビバリーが手に持つ懐中電灯で彼に怪我がないかと照らし回していると、異様な部分が見受けられた。「あなた」
「うん。ちょっと、ね」平気な顔の少年。だが、彼の左腕は完全に石化してしまっていた。「大丈夫だよ。助けてくれてホントにありがとう。僕はマークっていうんだ」
「アタシ、タムシン。こっちがビバリーで、この人がダニエル」背後のタムシンが少年に歩み寄って仲間を紹介し、「ねえ、なんであんな蛇に襲われてたの?」と、単刀直入に彼へ質問を投げかけた。
すると、硬っていたマークの表情がさらに歪み、彼は俯く。そして突然に泣き出した。
どうやら安堵の涙ではないらしい事は、誰にでも分かる。タムシンは困惑し、代わりにダニエルが口を開く。「どうして急に泣くんだ」
マークの嗚咽は止まらない。頬を涙で濡らしたまま、少年は掠れた声でこう呟いた。「外、見たよね?」
「うん」
「みんな石になってた、よね。あれ、全部、全部、僕のせいなんだ。僕が」
「どういう事だい?」王子が首を傾げる。
「僕が、いけなかった。僕がいけなかったんだ。ダメだって言われてたのに。石の祠に行って、それで」
そしてマークはぽつぽつと、事情を語り始めた。
マークは石の谷で暮らす、十歳の極普通の少年だった。彼は決して裕福ではなかったが、父親と二人でそこそこ幸せに暮らしていた。
マークには二人の友達がいた。ルーカスとエマだ。彼らは毎日毎日何もない村の中で面白い事を探しては、楽しく遊んでいた。
その平穏な日々が消え去ったのは、ビバリー達が石の谷へやって来る前日の事。
その日の朝、ルーカスがとある提案をしたのがきっかけだった。「なあ。いっぺん、石の祠へ行ってみようぜ」
石の祠は禁忌の場所だ。近付いたりしてはいけないし、無論、その扉を開く事は許されていない。
だが、一方ではこんな噂が存在していた。
中には凄い宝物があるらしいと。
だからこそ、マーク達は誤った選択をしてしまった。
「面白そうだね。ちょっと中を覗いてみようよ」
「宝物があるって噂でしょ? それを見てみたいわ。願わくば持って帰りたいし。行きましょ行きましょ」
そしてその日の昼過ぎ、三人は言い付けを破り、石の祠の前に立っていた。
扉は大きく、非常に重そうだ。力を込めて三人がかりで押しても引いても開かない。
と、エマが中央に嵌め込まれている水晶に目を止め、三度撫でてみると、簡単に扉が開いた。
「やったぜ、エマ。お手柄だ」
「ふふっ。賢いでしょ」
ランプを片手に真っ暗な祠の中へ入る。するとそこに、鉄製の箱が置いてあった。
「何かな、これ」
マークが蓋を開けてみると、中には漆黒の美しい宝玉が入っていたのだった。
と、その時、背後で悲鳴がした。
振り向くと、赤く光る双眼が見え、その主が妙な音を立てながら、ルーカスを睨み付けていた。
ルーカスは静かに、一瞬で石化していった。
「ひっ」悲鳴を上げ、エマが飛び退り、祠から逃げ出す。
その光景に愕然としていたマークに、石の蛇の眼光が突き刺さった。危機一髪で逃れたが、左腕が石化してしまった。
そして箱を取り落とし、エマの後を追って石の祠から脱出。
しかし赤い双眼の主である大蛇も祠を抜け出して、二人を目を怒らせて追いかけて来る。
蛇が睨み付けた人々は次々と石化する。エマもまた、途中で転んだ際に睨まれ、石像になってしまった。
マークは必死で逃げた。そして、大蛇の目を盗み、石の祠の程近くにあった家へ飛び込み、衣装ケースの中に隠れたのだった。
それからも、外からは悲鳴が聞こえ続けた。
そして外がしんと静まり返ってから数時間経った翌朝の事、大蛇がマークを見つけ、彼を石像に変えんとした。
丁度そこへビバリーが現れて、少年を救ったのであった。
マークの語った事が、ビバリーには痛く、胸に突き刺さった。
彼はビバリーと同じ罪を犯してしまったのだ。
「僕が悪かったんだ。ルーカスも、エマも、父ちゃんも、誰ももういない。僕、どうしたら」
哀れに泣き叫ぶ少年の姿に、みんな黙り込んでしまう。
しかしビバリーだけは、彼の頭を撫で、そっと囁きかけていた。
「大丈夫。泣かないで。……、確かにこの谷にはもう誰もいない。あなたの話がホントなら、確かにあなた達はいけない事をしたわ。気持ちは分かる。だってあたしも、同じ事をしちゃったんだもん。ダメだって言われて事をして、それで、村を壊しちゃって。辛いよね。でも、自分を責めても何も始まらない。だから」そこで彼女は黒髪の少年に笑いかけて、「あたし達を手伝ってくれない?」と尋ねたのだった。
マークの表情が緩む。「手伝う……?」
「そう。あたし達、あなたが見た宝玉を集めてるの。光の玉っていって、それが揃うと世界に光が溢れるんだって。だから、それを手に入れる為に、さっきの蛇をやっつけなくちゃダメなの。ねえ、一緒に戦ってよ」
ビバリーの言葉に、少年がどれだけ救われたかは分からない。
だがマークに顔を上げ、立ち上がるだけの力を与える事はできたようだった。
「……。分かった。なんとしても、あの蛇野郎に仕返しをしてやらなくちゃ。足手まといになるかも知れないけど、僕も一緒に戦うよ」
勇気を振り絞ったマークに微笑みかけ、頷くビバリー。「じゃあ、お願いね」
一行は再び石の祠の目の前へ戻って来ていた。
タムシン、ダニエルの二人は意気込んで、祠を見つめている。
だが一方のマークは屈み込み、呑気に石拾いをしていた。
「ねえ。あんた、何してんのさ」苛々とマークに言い放つタムシン。
石を、隠れていた家から持って来た袋に詰めながらマークは、彼女を見上げ、「ああ。ちょっと待ってて」と言ってさらに石を拾い、それから立ち上がった。
時刻は午前九時。石の谷には山から吹き下ろされる涼しい風が漂っている。
草陰に隠れていたアルフの様子を観に行っていたビバリーも戻って来た。「アルフは大丈夫。もう少し、待たせておくね」
「もおう。遅いよう」タムシンは顔を真っ赤にして御立腹だ。
「そうか」一同を見回すダニエル。「さあ。準備が整ったようだ。中へ入ろうか」
全員が、心を決めて王子に頷いた。
「よし。では、行くぞ」
祠の扉は半開きになっていて、その隙間に身を滑り込ませて、全員が中へ入った。
一寸先も見えない闇を懐中電灯が切り裂く。
「あっ」
光に照らされた箱を見つけ、ビバリーが思わず声を漏らす。
と、その声と光に反応したのだろうか。キラキラと輝く宝石の鱗を持つ守護獣が頭を擡げ、威嚇音を発した。
全員が箱から目を離し、石の蛇に集中し、武器を構える。
最初に行動したのはタムシンだった。
彼女は胸から抜き出したピストルを大蛇に向けて撃つ。狙いは蛇の腹部だ。
しかし蛇はするりと上手い身のこなしでそれを最も容易く避けてしまった。
ビバリーが蛇に接近し、ナイフを振りかざす。
しかしマークを助けた時と違い不意打ちではないので、逆に石の蛇の尾で弾かれ、祠の石造の壁に背中をぶつけ、立ち上がれなくなってしまった。
「むっ」目を怒らせ、ダニエルが蛇へ弓を放った。
しかしそれも虚しく固い鱗を破る事はできずに弾き落とされる。そして両目の潰されたままの大蛇はダニエルに近付いた。
直後、石の蛇がその大口から剥き出しになった鋭利な牙を王子へ向け、彼の足を抉っていた。
祠中に絶叫が響き渡る。
ダニエルの左足から溢れ出す鮮血。彼は体制を崩して床にへたり込む。
それにとどめを刺さんと牙を王子の胸へ突き立てようと襲い掛かる守護獣。だが、次の瞬間、不意打ちが大蛇の頭部を襲った。
驚き、悲鳴を上げる石の蛇の頭が割れ、大量の血が吹き出して視界を赤く染める。それをやってのけたのは、マークが放った石飛礫だった。
マークが握る石ころは、さっき彼が拾っていたものだ。無論あの時、彼はただ単に遊んでいた訳ではなかったのである。
「マーク、凄いっ」
「やっつけちゃって」
ビバリーとタムシンは思わず声を上げた。
得意げな笑みを浮かべたマーク。直後、石飛礫が祠の中を乱舞した。
袋から取り出された無数の石が、石の蛇の固い鱗を割り、あちこちから血を噴出させる。
大蛇の宝石の鱗がボロボロ剥がれ、肉が見えた。
こうなれば勝負は勝ったも同然だ。
石の蛇へ、ビバリーのナイフ、タムシンのピストルの銃弾、ダニエルの放った矢がほとんど同時に襲い掛かっていた。
「ぎにゃっ」
石の蛇は世にも恐ろしい奇声を上げ、次の瞬間、だらりと細長い体を地面に寝そべらせて絶命したのだった。
ビバリーは身を翻して箱へ駆け寄る。そして、地面に転がっていたそれを抱え上げた。「やった、四つ目の光の玉よ!」
現在、祠から出て、ダニエルの怪我の手当てをし、他の全員は休息を取っている。
「凄いよマーク。マークがいなかったら、絶対勝てなかったもん」
キャイキャイと誉めたくるタムシンに、ビバリーも同意見だ。マークの戦闘力は、十歳という歳に見合わぬ物だったのだ。
しかしマークは軽く首を振り、「大した事ないよ。石の谷では、強盗なんかに襲われた時に対峙できるよう、男はみんな習うんだよ。僕なんか、まだまだ下手な方さ」と、笑って言った。
「なあ。君はこれからどうするんだ?」
左足に包帯を巻いた王子の問い掛けに、マークは迷いなく答える。「僕も、兄さん達について行くよ」
「いいのか?」ダニエルは顔を顰める。「俺らについて来たら、危険なんだぞ」
「そうだよ」タムシンも王子と同意見だ。
だが、それでも、マークは首を縦に振ったのであった。「僕は一人じゃ生きていけないし、助けて貰ったし、力になりたいんだよ。危険なのは分かってる。それでも、連れて行って欲しいんだ」
無論彼の戦闘力はビバリー達の欲する物であり、それに加え、マークの気持ちが、ビバリーには痛い程よく分かった。
彼はそういう形で、罪を償おうとしているのだ。
ビバリーが世界を救うという形で、罪を晴らそうとするのと同じように。
だから、ビバリーは彼に頷いたのである。「うん。いいよ。一緒に旅しましょう」
タムシンが驚く。「えっ。でも」
「いいの。この子はこの子なりの、決意があるだろうから」
「そうだな。この旅のリーダーはビバリーだから」苦笑し、ダニエルも同意を示す。「まあ、仕方ない」
黒髪の少年は石化した左手を差し出し、「ありがとう。絶対、力になるよ」と、誓いを立てる。
ビバリーは笑顔で頷き、自分も左手を差し出してマークと握手をしたのだった。「よろしくね、マーク」
そうして仲間になったマークを引き連れて、イースト島の西側へアルフに跨って戻って来た一行は、船に乗り込んだ。
タムシンの運転で、船はゆっくりと進み出す。
向かうはこの世界の最南端の島、サウス島。最後の光の玉が存在する島だ。
きっと、また苦難があるだろう。
だが、ビバリーはそんな事など少しも気にしていなかった。
それはタムシンも、ダニエルも、そしてマークも同様であった。
ゆっくりゆっくり南へ進む船に揺られながら、ビバリーはサウス島に想いを馳せ、柔らかな笑みを浮かべたのだった。
(六章 挿絵)




