I₃D₂
薬局の自動ドアが開くと中から光と共に冷気が漏れ出し、暗闇にあった足を冷やした。
ドアをくぐり、いつもの通りエナジードリンクのコーナーに足を運ぶ。バイトと山積みの課題レポートに追われた体へ鞭打つためには気休めのカフェインにもすがらなければならない。
いつもの縦長缶を二本カゴに並べると進行方向をレジへと変えた。
「いらっしゃい。おや、またエナドリかい?」
「これが無いと頑張れないんですよね」
「ウチとしてはありがたいけどそりゃ大変だね」
「忙しいのと疲労で自分がもう一人欲しいくらいですよ」
「そんなにかい・・・じゃあアレとかいいかもしれないね」
「アレ?」
聞き返すとレジの店員は私の後ろに積まれた新商品のドリンクコーナーを指さした。
「最近出た商品なんでけど『あなたの日常の疲れを肩代わりします』ってあるからどうかなと思ってね」
『肩代わり』というのが怪しいが妙に魅力的に思えた。
「これをやめてこっちの新しいドリンクを二本にします」
「お、ありがとうね」
袋に入れたドリンクをさげ、期待とスリルを胸に帰路へとついた。
自宅のマンションに帰りベッドに体を預けると改めて机の上に置かれたドリンクの缶を見た。
銀の缶に赤い字体で『I₃D₂』と書かれていた。店員の言っていたことを頭で反芻し、今頃になって訝しく思った。
本当にこの疲労を肩代わりしてくれるのだろうか。
ベッドから体を起こし、机とドリンクに近づくとPCの前に座った。後々になってから訪れた不安をドリンクで流し込み、作成途中のレポートをPCの画面に映す。
しかし、キーボードに腕を伸ばした途端に意識がフッと暗闇に消えた。
遠くの方で聞き覚えのある声が部屋に響いていた。
スピーカー越しの声は頭にも響き、その波は徐々に鼓膜へと集約してきた。
「であるからして、この『右』という字の起源は・・・」
声の正体は講義中の准教授だった。
まだぼんやりとしている頭で状況を整理し始める。
確か昨日は薬局に寄ったあと、自室で期限の近いレポートを・・・あ、あのドリンクか!
脳裏には昨日買った『I₃D₂』が浮かんだ。
昨晩、『I₃D₂』を飲んでから急な眠気に襲われたんだ。その後気が付いたら講義を受けている。この間の記憶が全く無かった。
視線を黒板の上にある時計に移す。時計の針は12時を少し過ぎたあたりを指していた。
昨日自宅に着いたのが12時手前だったはずだから約12時間の記憶がないことになる。しかし不思議なのはこの記憶が無い間に大学の教室まで移動していたことだ。
日常を記憶に無いまま送ることは多少気楽ではあるが知らない自分の行動は心配でもあった。
空白の時間の行動について何かヒントは無いかと広げられたノートに目をやった。ノートには見慣れた文字で書いた覚えのない内容がしっかりと書き込まれていた。ページをめくり、確認していくと昨日書いた内容にまで戻ったが書いた覚えの無い内容はどれも自分の字だった。
記憶の無い自分はノートから察するに自分と行動自体はそこまで変わらないのかもしれない。そう考えると意外とあのドリンクは使い勝手が良いんじゃないのか。
徐々に不安が薄れ、頭の中ではすでに『I₃D₂』を肯定しつつあった。
午後の講義を終えると日は沈みかけていた。
西日を浴びながら自宅に向かった。伸びた影は住宅地の塀に俺の横顔を映していた。
マンションに入ると手近なところに鞄を置き、バイト先の制服を詰めた。
バイトの支度を終えると『I₃D₂』を冷蔵庫から取り出してシンクに置いた。缶の表面に付いた水滴をじっと眺める。
昼間の効果を見るに今飲めばバイトの苦労も無い記憶として処理されるんだろう。
それを期待してプルタブを開けて一気に喉へ流し込んだ。熱い西日に照らされ、火照った体に冷えた炭酸が染み込んだ。
玄関に向かう途中で俺の意識はいつの間にか無くなっていた。
次に目を覚ましたのは自宅の机の前だった。
点きっぱなしのPCは見覚えの無い書きかけのレポートを表示していた。その端に出ている時間は10時を少し回っていた。
そうか今日は授業のない日だったのか。
椅子から体を起こし、自分の書いたレポートを見る。文章は自分のモノらしかった。しかし、そこから何かを書く気が起きない俺は伸びをし、薬局へと行くことにした。




