ねえ、先輩?
『ねえ、鈴木君』
「○○製作所、か。こてこてのプレスメーカー。僕は元々、そこの生産技術だったのか」
夜七時。
今や記憶の断片程度しか残っていなかった当時の僕の職業。安藤姉から送られてきたメールを見ながら、僕は覚えのない企業名を頭に記憶した。
インターネットで検索をかけると、件の企業が所謂BtoBの中小企業であることを知った。取引先には国内有数の自動車メーカーの名前が多数記載されている。
『構って、鈴木君』
「社長も専務の名前も覚えがない。本当、僕はこの会社に勤めていたのか?」
思わず頭を掻いた。いつからかそうだったが、この姿になってから、当時の記憶が酷く不鮮明だ。正直、急に出てきた企業に元々勤めていたと言われても、実感が持てなかった。
『寂しい。寂しくて死にそう』
「構ってちゃんだなあ、もう」
『ごめん! 寝てた!』
すっかり人が変わってしまった白石さんに、僕は嘘を書き込んだ。
『昨日もこの時間にはもう寝てたわね。早寝早起き、とっても良いと思うわ』
『ありがとう!』
『で、本当に寝てたの?』
『勿論さ!』
『嘘。今あなたの家の前よ』
「うっそだろ、おい」
僕は慌ててカーテンを開けて、下を覗いた。そこには誰もいなかった。
どうやらカマをかけられたみたいだ。安堵を覚えた僕の背後で、スマホが鳴った。
『これに懲りたら、もう少し構って。そんなに夜更かしもさせないから。お願い』
『はい。ごめんなさい』
どうやら僕は、すっかり彼女に飼い慣らされてしまったようだ。
多少の申し訳なさと、彼女への愛らしさと、身に及びかけた危険に、調べ物をする気はすっかりと失せていた。安藤姉との約束まで後四日はあるし、多少は気を抜いても大丈夫だろう。
これ、失敗するパターンの思考だー。
「とはいえ、とっかかりもないしなあ」
件の中小企業のHP。企業紹介の役員一覧には、まったく知らない名前が羅列されていた。何もわからない。覚えてないこの状況では、正直とっかかりも何もあったもんじゃない。
『ねえ、白石さん』
『何? 愛しの鈴木君』
愛しはわざわざ付ける必要ねえ。思わず頬が染まった。
『君、小泉太一って知らない?』
何も考えずに書いてから、悔やんだ。
情報社会の昨今、名前一つで僕が何を調べているかなんて、筒抜けではないか。
というか、そもそも彼女が件の企業の社長を知るはずもない。
『知ってる』
「だよなー」
僕はうな垂れた。
「……えっ!?」
『知っているの?』
『うん。パパが一時期、よくその人の名前を口にしていた。というか、愚痴ね』
白石さんのパパさんか。確か、海外出張中の。
『あんまり大きな声で言えないのだけれど。パパ、ある企業でワゴン車の先行開発をしているの』
『へえ、それの業務繋がりで海外出張しているのか』
というか、ここまで帰ってこれないとなると最早転勤だな。
『えぇ。元々ウチのパパ、ワゴン車の開発職に携わりたくて今の会社に入ったのだけれど、最初の方からずっとセダンの開発でね。ワゴン車の開発は念願がようやく叶ったってわけね。それで、その時よくその名前を愚痴っていたわ』
『ということは、小泉さんは元々その車メーカーの人だったのか』
……待てよ。
何故そんな人が今、中小企業の社長なんかしているのだ?
『ねえ、白石さん。その話もう少し詳しく教えてくれない?』
『しょうがないわねとくべつよ』
白石さんからは、ものの数秒で返信が来た。
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「さ、行きましょうか」
「はい」
安藤姉とは週刊誌の出版社の前で待ち合わせをした。ここに来るまで、というか、いつかの喫茶店以降、すっかり僕達の、というか安藤姉の鈴木熱は消え去っていて、まるで恋心が冷め切ったカップル同士の会話のように、殺伐とした業務連絡だけを行う日々が続いていた。
ただ、これで良かったのかもしれないと思う心がないわけでは、なかった。
「すいません。十一時からテライさんと予定がある安藤です」
安藤姉は、受付嬢にこなれた態度で面会の予定の説明をしていた。まあなんというか、こういうところは彼女が社会人であることがわかる。
受付嬢に案内されるまま、僕達は面会用のブースに通された。
「お待たせしました」
しばらくして、ボサボサ髪の人の良さそうな兄ちゃんがブースに入ってきた。随分と腰が低い。
僕達は二人して立ち上がった。椅子から少しだけ離れて、広いスペースで名刺交換を行った。
「すみません。実はまだ次の仕事が決まっていなくて」
適当に、僕は嘘を吐いて苦笑した。
「そうですかそうですか。それはお気の毒に。寺井です」
「頂戴致します」
それなりに有名な出版社の寺井さんの名刺は、少しだけ角が折れていた。
「どうぞ」
「ああ、失礼します」
二人で椅子に再び腰をかけると、座り終わる頃に寺井さんも向かいの椅子に座った。
「それで、安藤さんから電話で軽くお話は伺っていますが……」
「はい。彼の死のことを記事にしてほしいと思っています」
証明写真のようなぶっきらぼうな顔の僕の写真を、安藤姉は取り出した。
写真映り悪かったんだな、僕。少しだけ恥ずかしくなった。
「お二人の同僚さんですか」
「元、ですけどね。彼の死もあって、私達は会社を辞めました」
「なるほど。お気持ちをお察しするのですが、具体的にはどんなことが?」
安藤姉は、当時の会社の職場状況を淡々と説明した。
終電で帰ることは当たり前。上司は下っ端に仕事を押し付けることは当たり前。更にその上も、何か問題があれば下っ端社員の評価を容赦なく削っていく。
まあ言ってしまえば、どこまでいってもありきたりなブラック会社であった。
そんな企業が蔓延していることに辟易としているものの、やはり事態が僕達の望む方向に進むには、少しばかりこれだけだと材料不足は否めなかった。
「うーん。なるほどねえ」
それは寺井さんも思っていたようで、少しだけ難色を示す顔になっていた。
「どうでしょう、引き受けてもらえませんか?」
安藤姉が言った。
「えぇと、そうですねえ。……安藤さん、鈴木さん。正直に申します。今のままだと、協力するのはかなり難しい」
「何故?」
「ごめんなさい。やはり我々も仕事なんです。正直今のままだと、記事にするような優位性は見つけられなかった。お二人の憤慨するお気持ちもわかるんですが……。でも、ごめんなさい。これでは駄目です。記事にしても、お二人が願うような成果は多分、得られない」
「それじゃあ、先輩の命は無駄になるってことですか?」
安藤が憤慨そうに言った。
ようやく僕は、彼女がどうして今回の僕の話に乗ってくれたのかわかった。清算とは、どんな意味か理解した。
僕には、僕の体の死の。鈴木高広の死の真相を暴きたいという目的があるように。
彼女には彼女なりに、今回目的があってこの場に望んだのだ。多分それは、当時の僕を救えなかったせめてもの償い。件の中小企業への報復だったのだろう。
「言いたいことは、重々理解します。でも、こちらが仕事であることも、どうか理解頂きたい」
寺井さんのいうことは、至って真っ当だ。
彼の仕事は、人々の心を揺さぶるような記事を書くことにある。たかが一般人の。たかがサラリーマンの死。昨今では珍しくないその死で、果たしてどれだけの人の心が揺さぶられようか。
「寺井さん。実はもう少しだけ、補足で話したいことがある」
僕は言った。命の付加価値。僕のそれはあまりにもちっぽけである。この場で証明された事実。
だったら僕は、僕の命に付加価値を求めない。
「小泉太一。この会社の社長です」
僕は地位のある人間の名前に、活路を見出そう。
「彼、実は一昨年までこの企業の役員でした」
僕は机に、有名企業の頭文字をなぞった。
「へえ」
「あなたもご存知だと思いますが、かの企業は大企業だ。中小企業のように、役員の数も知れているわけではない。たくさんの役員がいて、その中で小泉氏はあるセダンの開発・営業責任を担っていた」
そのセダンの名前を口にすると、寺井さんは聞いたことがある名前だったようで、唸っていた。
「僕も前世代のそれに乗っていますよ。いやあ、十年来のお供になっています」
「ですがそのシリーズ、実は去年廃止されたことをご存知ですか?」
「そうなんですか」
「えぇ、あなたが乗っているその次の世代が大コケしてね。その時の開発・営業責任を担っていたのが、件の小泉氏です」
「なるほどね」
言いたい事を理解したのは、僕の続きを待たずして、寺井さんは吟味を始めた。
ただ僕は、構わず続けた。
「勿論、シリーズ廃止の責任を彼は取らされ、失墜。その時丁度、彼をヘッドハンティングしたのが、この中小企業だったわけです。当初は役員として入った彼ですが、実に見事に、その手腕を使ってのし上がっていき、今年には社長に就任。ただ、ある犠牲を払ってね」
「それが、彼の死、ということですね」
「はい」
ただこれは着色したストーリーに過ぎない。安藤姉の待遇を聞いていても、恐らく小泉氏が社長に就任する前から、現場レベルの人間のオーバーワークは後を絶っていなかったのだろう。
しかし、小泉氏への同情はない。彼の仕事は、会社の発展もそうだが、従業員の職場待遇改善も重要な責務だったのだから。それを果たせなかった彼は、断罪されても文句はいえない。
「わかりました。引き受けましょう」
僕は安堵を悟られないように、少しだけ微笑んで頭を下げた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。よろしくお願いしますよ」
そうして今後の打ち合わせを少しだけ寺井さん含め三人でして、その場はお開きとなった。
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「鈴木君。よく調べてきていたね」
すっかりと日が暮れるのが早くなった。帰り道、繁華街を喧しい歩いていると、安藤姉が言った。
「まあ、これは僕の弔いであったわけなので」
「それに比べて、私は熱くなっちゃった。ごめんね」
「いえ」
その気持ちだけで、嬉しかったよ……。
「寺井さん、そこまで悪い人でもなさそうだし、トントン拍子に話が進みそうだね」
「はい。良い人に当たってよかった」
同情意見は一切持たず。客観的にその話が金になるかだけを、寺井さんは見ていた。そんな寺井さんの御眼鏡に叶ったのだ。きっとうまくいく。
「巻き込んでしまって、ごめんなさい」
僕は安藤に頭を下げて謝った。
でも、こうするしかなかった。週刊誌に当時の職場風景。人間関係を語れるのは、あの場にいた記憶が鮮明な彼女だけだった。
「いいよ、そんなの。私がしたことは微力だもの」
「そんなこと」
そんなこと、ない。
彼女にはいつも助けてもらってばかりだった。彼女がいたから僕は僕の体の死を。鈴木高広の死の真相を探れるのだ。
「きっと、彼も報われますよ」
他でもない、僕が今報われている。
彼女に。彼女のしてくれたことに。
僕は報われたんだ。
そんな彼女に、僕が報いないでどうするのだ。
「そうかな」
「そうだよ」
「そっか。そうだよね……。
ねえ、先輩?」
「うん。勿論だ」
……僕は今、何かを間違えた気がする。
僕は振り返って、安藤を見た。
彼女は。
安藤は……。
「やっぱり……」
泣いていた。
「先輩だったんだね」
そして、微笑んだ。




