これは、僕の復讐劇
休日ということもあってか、動物園内は結構な賑わいを見せていた。
開園からそろそろ一時間半経とうしている頃の出来事だった。
「凄いねえ」
「本当、たくさん人いるのね」
人、人、人。
上野恩賜公園の方も結構人が多かったが、それよりも多いだろう、これ。
「で、どこから回ろうか」
入園時に開いたパンフレットを開くと、彼女が興味深げに覗きこんできた。
「パンダさん、結構入り口から近いのね」
「そうだね」
パンダ"さん"、近いみたいだよ。どうやら彼女、パンダ見たさに上野動物園に行くことを僕と約束させたらしい。まあ、可愛いもんね。
「こっちみたいだ。ゲ」
入ってすぐ右手に、人だかりが出来ていた。多分これ、全部パンダ待ちなのだろう。
「並ぶ?」
パンダ程度に、この列を。
その意味を込めたのだが、白石さんは僕の手を掴んで歩き出した。
「勿論よ、早く早く!」
「えぇ」
彼女のキャラが行方不明である。
並ぶことしばらくして、ようやく僕達はパンダのいる室内に入った。炎天下の外と違い、多少空調が効いていて助かった。一人盛り上がる彼女と違い、人波、熱気にやられた僕は、少しだけ気だるげだった。
「うわあ、可愛い!」
相も変わらずキャラが違う白石さんを横目に、僕もどうせだからとパンダを覗いた。大きな窓の向こうで、パンダは呑気に木の枝のようなものをかじっていた。色んな人の見世物にされているにも関わらず、あの呑気さは見習いたい。
「撮影禁止なのが残念だったね」
「大丈夫。この目にしかと焼き付けたから」
「そりゃ良かった」
苦笑せずにはいられなかった。いつもはクールに構える彼女が、こうまで子供のようにはしゃぐとは。
「もうちょっと見てましょうよ」
「駄目だよ。他の人も見ていたいのは一緒だ。ほら、あんなに待ってる」
人波に酔っていた僕は、波に抗う彼女をそう諭した。
「きゃっ」
「ちょっ」
そんな危ういことをしていたものだから、彼女はついに人波に飲み込まれてしまった。
とっさに僕は、彼女の手首を掴んだ。そのまま力強く離さないで置くと、何とか館内を後にした。
「大丈夫?」
白石さんはしばらく放心気味だったが、
「だ、大丈夫。ありがとう」
おずおずとそう言った。
「さ、次はどこに行きましょうか」
仕切りなおすように、キャラが戻ってきた。
「おかえり。どこでもいいよ?」
「おかえり?」
不思議そうに小首を傾げた彼女に、僕は再び苦笑した。彼女はパンダを目にしかと焼き付けたと言っていたが、僕も彼女の可愛げな姿がこの目に焼きついてしまったようだ。思い出すだけで、微笑んでしまう。
そのまま、僕達は園内を回った。
白石さんは、象が飼育員さんと戯れている姿を写真に撮り、猿山で遊ぶ猿を写真に撮り、ホッキョクグマが出てこないことに心底落胆していた。
本当、君は誰だ?
どこかの誰かみたいに、精神が誰かと入れ替わったか?
まあ、そんなことしょっちゅうあっても困るが。
僕達はそのまま小さな林の間を抜けて、不忍池の方へ抜けていった。
ペンギンを見て、次はフラミンゴを見に行こうと話していたところで、ふと思い出した。
「そういえば昔、ああ昔と言ってもここ五年位前の話だよ?」
不意に思い出したものだから忘れていたが、これは僕がサラリーマン時代の話である。いつだか彼女に僕が高校生かということを不審がられたことがあったことを思い出し、取り繕うように言った。
「何?」
ただ、僕の心配も露知らず。白石さんはかわいらしく小首をかしげていた。
「いや、東北の方に色々あって行くことがあってさ、その時色々あって見つけた店なんだけどさ」
「色々って?」
「そりゃ、色々だよ。色々は」
「へえ、色々あるのね」
「そう。色々あったんだ。で、東北の方で見つけたレストランでさ、フラミンゴのレストランがあったんだ」
「フラミンゴ専門店? フラミンゴ料理なんて、知らないわね」
「そう思うだろ? なんとその店、フラミンゴを店内で飼っていてさ。そのフラミンゴを愛でながら料理を食すという不思議なレストランだったんだ」
「何よ、それ」
アハハ、と白石さんが笑った。
「本当、不思議な空間だったよ。でも、意外と面白い体験をしたよ。是非、また行きたいね」
思い出している内に、なんだか僕も可笑しくなってきて、微笑んでいた。
そんな僕の顔を見た白石さんは、優しく微笑んでいた。
「何か?」
いつまでも彼女が見ているものだから、僕は聞いた。
「どう? 気晴らしになった?」
ああ、そういう。
多分昨日、彼女が僕とここに来ようと思ったのは、不審な僕の態度を見たから。随分と僕は、彼女に心配をかけてしまったらしい。
「うん。ありがとう」
素直にお礼を言うと、白石さんは俯いていた。
「何があったかは聞かない。聞いても答えてくれないでしょうしね。でも、そう。気晴らしになったのなら、良かった」
少しだけ困ったように、白石さんは微笑んでいた。まるで、彼女自身も不安な種が取れたような、でも、釈然としないような、そんな複雑な笑顔に見えた。
彼女に多大な迷惑をかけたことに、僕は彼女のその笑顔を見て、ようやく気が付かされた。
昨晩から、彼女に僕はどれだけの迷惑をかけたのだろう。
自暴自棄になった僕を叱りつけ、家に匿ってくれた彼女に。
親との仲介役を買って出てくれ、寝巻きだって用意してくれた彼女に。
こうして休日の貴重な時間を、僕なんかに捧げてくれた彼女に。
そして、今こうして僕に、何も聞かずにいてくれる彼女に。
一体僕は、どれだけの迷惑をかければ気が済むのだろう。
「ほら、子供の時とかになかったかい。大切にしていた文房具とかおもちゃをさ、誰かの自分勝手な行いで壊されること」
そんな彼女に何も話さずに、自分だけ気晴らししようだなんて、虫が良すぎやしないだろうか。
「あったかしら。でも、もしかしたらあったかも」
不忍池に陽の光が反射する。手摺に身を預けながらその光を見ていると、荒立ちそうになる心が少しだけ落ち着いた。
「それなんだ。僕がされたことは。僕にとって命のように大切だった物を、僕は全て無茶苦茶にされた」
白石さんが僕の隣で、手摺に寄りかかった。こちらを見る瞳が、少しだけ揺れていた。
「それも、それは壊した奴の身勝手な判断で。無遠慮に、修復不可能な状態にされてしまった」
もう戻る事が出来ない肉体を想うと、再び感情が邪な方向に染まっていく。
「それで?」
「え?」
白石さんの問いに、僕は戸惑っていた。
「それであなたは、どう思ったの?」
どう思ったの、か。
「復讐したい」
偽りない気持ちだった。
「殺してやりたいくらいに、復讐したい。許すことなんて、出来ない。出来っこないんだ」
鈴木高広に、築き上げた全てを壊された。僕の血と汗と涙と努力の全てを、彼に一瞬で、身勝手に破壊された。許せるはず、ないじゃないか。
「それは、どうして?」
白石さんの問いに、僕は自罰的に笑っていた。
「築いた物全てを粉々にされて、怒りに駆られない人なんていっこないよ」
「……そうかもね」
「そうなんだよ」
「でも、だからって自棄になって死のうとするかしら」
「え?」
「だってあなたは、生きているじゃない」
水面に映る陽の光が眩しかった。
少しだけ目を細めて彼女を見た。
彼女は、微笑んでいた。まるで慈母神のような優しい微笑みに、僕には見えていた。悪しき心が、不思議と洗われていっているように思えた。
「あなたはまだ生きている。動く体があれば、何だって出来るじゃない。命があるのなら、まだ何だって叶えられるじゃない」
思わず涙をこぼしそうになっていた。確かに、僕はまだ生きている。鈴木君と違い、生きている。ならば、出来るのではないか。
……いや。
「そんな簡単にうまくいくもんかっ」
声を荒げて、僕は否定した。
「きっと失敗する。この体はガラクタだ。雨が降れば肩が痛くてまともに寝れやしない。さび付いたこの肩は、自由に回すことだって困難だ。リハビリだって辛いんだ。絶対にうまくいくもんか。絶対に失敗するさ」
「もし失敗したら、どうして失敗したかを考えればいい。そして、次に活かすの」
彼女の言葉に、僕は言葉を失った。
「鈴木君、あなたに金言を授けます」
白石さんは微笑んでいた。
「失敗したって、あなたは死なない」
彼女は、ずるい。
「大丈夫、心配ないよ」
彼女は、何も言えなくなった僕の手を優しく握り締めた。ほんのりと暖かい感触が、手ににじんでいく。これが彼女の温もりなのだろうか。
「例えあなたが失敗しようと。例えあなたが苦しもうと。あたしはいつでもあなたの味方だから。だから、心配する必要はないわ。何があろうと絶対に、あなたを支えてみせる」
「……アハハ」
アハハハハッ!
頬に涙が伝っていた。でも悲しいわけではなかった。多分、そう。僕は救われた。彼女の、白石さんのおかげで救われた。
僕はずっと縛られていた。あの肉体で得たものしか、僕の成果はないのだと思っていたから。僕の全ては、あの体あってこそだったのだと。あの体がないのなら、僕の存在理由などないのだと。そう思っていた。
でも、そうじゃなかった。
初めからわかっていたじゃないか。
地域活動の時、自分の成果を謙遜しなかったことも。
テスト勉強をして、自分の価値を高めようとしたことも。
アルバイトを始めて、時間の代わりに金という対価を得たことも。
この体で。
鈴木高広として、僕がしてきたことは、まぎれもない僕の成果じゃないか。
ここに僕がいるという証じゃないか。
「受け売りなのに、そんなに笑わないでもらえる?」
白石さんは頬を染めて、罰が悪そうにそっぽを向いた。
「ごめんごめん」
涙を拭いながら、僕は彼女に謝った。
「すっきりした顔ね」
「うん。ありがとう」
「それで、あなたはこれからどうするの?」
「決まってる」
そう、決まっている。決まっているじゃないか。
「復讐さ」
清清しい笑顔で、僕は言ってのけた。
彼女は一瞬驚いた顔をしたが、この毒気もない清清しい笑顔を見たからか、拍子抜けしたように苦笑した。
復讐。
そうだ。何も変わりはしない。僕が鈴木君に対してすることは、何も変わらない。僕の二十五年の成果を全て台無しにした彼に、僕は復讐という報復を行う。
でもそれは、きっと邪な感情なんかじゃない。
『P.S. もしこの体を手に入れた人がいたのなら』
僕はただ、証明するのだ。
『この壊れ果てた体。
好きに使ってくれて構わない。
あるのはただ絶望だけだから。
雨が降れば肩が痛くて碌に眠れない。老婆のように、肩を思い切り上げられない。リハビリはただただ辛い。
そんな壊れてしまったガラクタ、こっちから願い下げだ』
彼が。
鈴木高広君が間違っていたことを、証明するのだ。
『そして、俺の後を追ってほしい』
鈴木高広君として生きて、証明してみせるのだ。
『俺が自殺したことが正しかったと、周囲に、何よりあなたに証明させたい』
彼の生き様が間違っていたことを。彼の未来に待っていたことは、彼が死んだことを後悔するような輝かしい未来だったのだと、証明してみせるのだ。
『それでは、素晴らしいほどに哀れで惨めな人生を』
僕は君の全てを否定する。
鈴木高広君の人生を、青春を、謳歌してみせる。
これは、青春劇でも英雄劇でもない。
僕の、君に対する復讐劇だ!
"サラリーマン、高校生になる"
締めの前の話題の導入に悩んでいたら、フラミンゴの話をしていた。
フラミンゴ愛してる。