妄想彼氏
『おはよう、今日も一日頑張ろうな』
「おはよー。今日も寒いね、気をつけて行ってらっしゃい」
たった一言。それでも、私が一番欲しい言葉。短いながらもいつも決まった時間に来るメッセージに私の顔はだらし無く緩んでいた。それを見兼ねた同僚が冷めた視線を投げかける。
「また顔がキモいよ、なぁに? 彼氏?」
「そうそう、〈妄想彼氏〉のウィル様です」
「……頭痛い。30過ぎて何ソレ」
「いいじゃん、別に。好きでいるのは自由! 広◯す◯ちゃんだって妄想彼氏いるんだから!」
「対象が違うって……あっちは芸能人なんだからリアルとか難しいからでしょ」
そう言われたって──。本当は私もリアル彼氏が欲しくない訳じゃない。そりゃあ欲しいよ、でももうお腹一杯。
20代で夢見た都会に出稼ぎに出てきて仕事は順調。そこで出会った人に一目惚れ。結婚の方向で動いていたらなんと結婚詐欺で多額の負債を背負わされる。そんなの、まるでどこかのドラマじゃない。
あーもうもう男なんて懲り懲りと思っていたら今度は飲み仲間に騙されて借金まで抱えさせられた。
今はそれも綺麗にしたとは言え、田舎の親に土下座してお金を借りて工面した情けない姿を思い起こすだけでもうリアル男なんて要らないと言っても仕方ないでしょう。
「ウィル様今日もお美しい。このはにかんだ笑顔を見つめているだけで幸せよ」
「……携帯にちゅーしそうで気持ち悪い。まあ、癒しは大事だからね。ほら仕事いくよ智ちゃん」
妄想彼氏のウィリアム様は私が勝手に描いた存在で、昔から同じ趣味で仲良くしている小説仲間だ。
彼の素性はこの〈ウィリアム〉というペンネーム以外何も知らない。お互いに詮索はしない、干渉しない、求めないを条件にスタートしたこの関係。簡単に言うと〈妄想彼氏〉と〈妄想彼女〉だ。
側からみたら変な関係と笑うだろう。けれども私達からみるとこの関係は非常に理に適っている。そしてこの関係はもう一年以上続いている。
さて今日も仕事だと制服に着替えてホールに出ると、ヘルパーの影山君がこちらの顔をじっと見つめていた。
「おはよー。今日も頑張ろうね」
「おはよう……ございます」
少し緊張した面持ちで私に挨拶をする彼は3ヶ月前にここに派遣されてきたスタッフで、仕事も早く頼れる仲間だ。歳が6歳も離れているせいか、私からみたら彼は弟のような存在だ。
「今日何人?」
「35人です。入浴28人なので、最初いつもの機械からバイタルお願いします」
奥二重から覗く長い睫毛に思わず見惚れてしまう。男の子なのに、彼はなんでこんなに綺麗な顔してんだろう。そう言えば、ウィリアム様の写真が──。
「──あの、叶さん?」
「ふぇっ! は、はい」
「大丈夫ですか? おつかれですか?」
「大丈夫、大丈夫。多分二日酔いとかないから」
「へえ、何飲んだんですか?」
「飲んだっていうか、ただの言葉遊びかなあ……実際はコーヒーだよ。喋るの楽しくて夜更かししたせいかな」
昨日は珍しくウィル様がチャットに来てくれていたから、つい夜中まで話に花が咲いていた。ウィル様は26歳だってことは昨日初めて知った。あとは私が今やってる仕事のこととか、寂しくて時々ふと涙が溢れることとか──。
年下とか、そんなものは関係ないくらい、ウィル様は私の心にすっと染み込む言葉をくれた。彼の言葉はストレートで嘘偽りがない。だから好き。botでもいいよって笑いながら言ったのに、彼は必ずいつも違う言葉をくれる。彼の仕事は分からない。詮索しないことが条件だから。
でも、多分忙しいのに──苦しいくらい優しい。朝の一番忙しい時間にくれるたった一言、おはよう。のメッセージ。でもそれが私の今日一日をからりと変えてくれる魔法の言葉。
「ふぅん……叶さん、彼氏いるんだ」
「うん、彼氏ってゆーか心の癒しがね。まぁ、実際は居ないけど趣味を楽しくやりたいし、もういいんだこれで」
へらっと笑った私の後ろで、影山君は唇を一瞬だけへの字にした──ような気がした。
「──もういいとか言うなよ。本気で笑える日まで俺が側で支えてやるから……だから笑って」
「え……?」
入浴介助準備の為にお湯張りをしているので、私の耳に影山君の言葉は届かなかった。
「なんだって?」
「いえ、何でもないです。あと5分で蔵持さん来ますよ、移送行ってきます」
「ちょ、ちょっと。影山君!?」
早足で浴室を去る彼の背中に手を伸ばすもののそれを掴むことは出来なかった。
「──昨日の、言葉」
私が笑いながら泣いているのを知っているのはウィル様だけ。
じゃあ、今の言葉は──?
「影山君! 後で裏に呼び出しね」
「嫌です。叶さん、真面目に仕事してください。今日は平日だからすごく忙しいんですから」
「私はいつだって真面目よ。あのね、だからさっき何て言ったかもう一度──」
「迎えに行ってきます」
「おいこら逃げるなあああっ!」
もしかしたら──。
私の妄想彼氏はとても身近な場所にいたのかも知れない。
きっと、貴方の側にも。
微笑んでくれる貴方だけの〈妄想彼氏〉〈妄想彼女〉が。