月間噛後奥歯
「もしかして田中先生? 田中先生じゃないですか?」
街中で声をかけられ、私は吃驚しながら立ち止まった。見ると、肩から一眼レフをぶら下げた私と同い年くらいの中年男性が、少年のようにキラキラした目で私を見つめていた。
「やっぱりだ! 田中一文字先生! オフィシャルサイトで見た通りだなあ……!」
「失礼ですが、貴方は……?」
私はチラと腕時計を覗き込んだ。目の前の横断舗道の信号が、青から赤に変わった。中年男性が声を張り上げた。
「これはすいません、私、田中先生のファンなんです!」
「嗚呼……」
私は納得ともため息とも取れる音を口から吐き出した。これからバスに乗って、都内でメーカーの取材の仕事が待っている。あまり長居は出来なかった。
「先生の作る、”ガムを噛んだ後の奥歯”! 私はあれが好きでねえ……毎月買ってるんですよ、”月間噛後奥歯”」
「それはどうも」
私が会釈を返すと中年男性は照れたように白髪混じりの髪を掻きながら、脂で汚れた黄色い歯を浮かべた。
「実は私も少しばかり嗜んでましてね……”ガム道”を」
「なるほど」
「いやあ、でもやっぱり素人の猿真似っていうか……先生のようには中々上手く行きませんね。あ、動画も見ました! やっぱファンとしちゃ堪んないですよ。先生の十八番、前歯から奥歯へガムが滑らかに移動するあの瞬間! 無敵の流れですね!」
「よく言われます」
私は頷いた。そんな技があっただろうか。初めて言われたが、この男性がそう言っているので、今日からそういうことにした。男性は興奮冷めやらぬようで、信号は再び赤から青へと変わっていたが、しばらく私を離してくれそうになかった。
「今度の第五十六回”ガムを噛んだ後の奥歯”全国大会も、田中先生らしい優れた作品を期待してますよ。是非あの、去年の覇者松本先生を倒して下さい」
「嗚呼……」
「ここだけの話、私はあの松本先生が、どうにも好きになれなくてですね……」
「そうなんですか」
男性が辺りをコソコソ伺いながら、私の耳に顔を寄せてきた。”ガム道”は武道とか茶道に比べると、まだまだ競技人口も少なく認知度は低い。聞かれて不味い話でもなかろうし、何より一体誰がこの会話に興味を持つのかさえ私には疑問だった。
「”ネットガム界”のホープとは言え、松本二階堂先生の噛後奥歯、あれはどうも私の趣味じゃない。ガムに味を求めすぎって言うか、見返りを求めすぎだと思いませんか?」
「嗚呼……」
「ガムって本来、太陽の下で表立って楽しむものじゃないですか! 田中先生の作品にはそれがよぉく表れてる。ガムが情緒豊かで、物語性があって。だけど松本先生のは、決め事が多すぎて逆に堅苦しいって言うか、ガムがテクニカルに過ぎるって言うか……」
「テクニカルに過ぎる、ガム……」
「ま、好みの問題なんでしょうけどね!」
男性は大きな声でひと笑いすると、私の肩をやけに強く叩いた。私はもう一度、今度は彼にも分かるようにゆっくりと腕時計を確認した。
「いやあ、今日はツイてるなあ、憧れの田中先生と話せるなんて! そうだ、良かったら先生、私の奥歯にガムでサインいただけますか!?」
「はあ……まあ」
男性は最後に、街中で私に向かって大きく口を開けて見せた。私はしばらく”田中一文字”と”松本二階堂”、どちらのガムネームでサインをすべきか迷いながら、ポケットからチューインガムを取り出した。




