六
堀川の橋のたもとで見つけた彩子の霊のふりをしていた紙人形は、湖子によって千々に裂かれ、火に焼べられて処分された。
「三の姫の霊は、巷の法師陰陽師数名が祓おうとやってきたがまったく効果がなく、僧侶が夜更けから明け方まで経を唱え続けたがこちらも徒労に終わったというのに」
火鉢の中でちりちりと燃えている紙切れの残骸を眺め、孝允は溜め息を吐いた。
「これほど簡単に解決してしまうとは、くそ爺も予想だにしなかっただろうな」
さきほど孝允が破ろうとした際には剃刀や鋏を使っても皺ひとつ入らなかった紙人形だが、湖子が指で軽く引っ張っただけで、ぴりぴりと音を立てて引き裂かれた。景矩は触れることすらしなかったが、多分体調不良を起こしていたことだろう。
「なまじ見鬼の力がある奴の方が、霊力の影響を受けやすくて対処できないってことだろうな。あのくそ爺がこの紙人形の存在に気づいていたとしても、簡単には手出しできなかったはずだ」
「だから湖子に三の姫の話を知らせたんじゃないか? 結果として、天狗を捕らえ、三の姫が生きていることを暴き、物の怪を始末したんだし」
「ある意味、陰陽師よりも強いよな、湖子は」
孝允の呟きに、景矩は大きく頷いた。
当の湖子は、鴉がいなくなり静かになった室内で、火鉢の前に座ったままこっくりこっくりと舟を漕いでいる。部屋の中には暖かな陽射しが入ってきていることもあり、睡魔に負けたようだ。
庭に目を遣れば、雀が鳴きながら木の枝の上で飛び跳ねているだけだ。
庭石の辺りでいつも見かける小鬼の姿はない。物の怪たちの騒々しい世間話も聞こえてこない。
これが湖子の目に映る景色なのだ。
昼間、彼女のそばにいる間だけ、景矩は湖子と同じ世界を見ることができる。
反対に湖子は景矩と一緒に過ごし、どれだけ目を凝らしても、耳を澄ませても、物の怪の姿も声も見えないし聞こえない。
「どうせまたくそ爺は湖子に都内を騒がしている物の怪の話を持ち込むに決まってる。その際に手伝いとして駆り出されるのはお前と俺だぞ。俺は血縁者だから仕方ないとして、お前は湖子との付き合いさえなければ巻き込まれることはないはずだ」
「どこにいても物の怪は見えるし聞こえるんだ。そりゃ、博士が湖子に知らせる怪異は害があるものだろうから、現場に行けば苦しい思いをすることになることも多いとは思うけれど、だからといって湖子と距離を置くのはいやだ」
物の怪たちに悩まされることが多い日々ではあるけれど、湖子がいるから気鬱にならずにいられるのだ。どれほど怪異が都中で溢れていようとも、彼女と一緒であれば魑魅魍魎も目には入らない。
「まんまと爺の策略に嵌まる羽目になるんだぞ」
「いいよ、別に。湖子との結婚を許してくれるんなら」
さらりと景矩が答えると、孝允がそういえば、と尋ねた。
「もう結婚を申し込んだのか?」
「いや、まだ、かな。遠回しに歌を送ってみたが、まったく伝わっていないみたいだし」
「――昨夜、というか今朝、湖子は泊まっていくように勧めていただろ。あれはそういう意味だとばかり私は解釈していたんだが」
「……え? 俺はてっきり、俺が怠そうで歩いて帰るのが大変だろうから泊まっていけばという意味だとばかり」
「この家で、明け方前に客室の寝床の準備なんてできているはずがないだろうが。泊められるとすれば、こいつか私の室くらいだ。そして私の室は、男二人が横になれるだけの隙間がない」
「それは知ってる」
書物で空間の大半が埋もれている孝允の部屋は、ほぼ書庫としての機能しかない。衣類の櫃はあるので着替えは自室してしているようだが、景矩が訪れた際にはいつも隣にある湖子の部屋に通される。子供の頃からそうだったので、未婚の女性の室に勝手に入るという感覚はほぼないのだが、よくよく考えると変だ。
「面白いくらいに噛み合ってないな、お前らは」
欠伸を噛み殺しつつ、孝允が苦笑いを浮かべた。
「うちの両親など、お前が帰る度にやきもきしているぞ。あまりにも湖子が変わっているからさすがのお前も愛想尽かしたんじゃないか、とか、他に恋人ができたのか、とか」
「こんなに湖子の物の怪見物巡行に付き合っているのに?」
「だよな」
うんうん、と孝允は納得する。
「爺の陰陽寮への勧誘からますます逃れられないことにはなるが、その覚悟があるなら私はお前が義弟になることを歓迎する。というか、湖子を引き受けてくれと平身低頭すべきなんだろうな」
「博士が義理の祖父になったり、孝允が義兄というのは嬉しくないが……。俺は治部少丞の三の姫の気持ちがわかるな」
「一度きりの恋ってやつか」
「そう。三の姫にとって相手が天狗だったというだけで、それが生涯を捧げても良い恋だってあの歳で自覚しているのは錯覚でもなんでもないと思う」
「自分がそうだから、か?」
孝允の問いに、景矩は黙ってはにかんだ。
「だから、あんなにあっさりと三の姫と天狗を逃がしたのか」
「湖子は不満そうだったけど」
「こいつは、お前に害を成した天狗が気に入らなかっただけだ。幼い頃は、自分に物の怪が見えたら景矩のためにも退治しまくるのにってよく言ってたくらいだからな」
陰陽博士の孫だというのに、吉凶など気にせず、忌事や凶事などの常識にとらわれず、湖子は物の怪など話にしか聞こえてこない世界で生きている。景矩には羨ましすぎる境遇だ。幼い頃からいつも、湖子の世界を共有できることを願ってきた。
もし自分が物の怪を見ることができず、湖子には見えるのであれば、自分も物の怪が視たいと強く願っただろう。
(……湖子がやたら物の怪を見たがるのは、そういうことなんだろうか)
「見えなくても退治できるってことがわかって、少しはこいつも満足できたんじゃないか」
「頼もしいな」
穏やかな寝息をたてる湖子の顔は、頬にかかった髪に隠れて見ることができない。
だから、まさか彼女が空寝をしているなどとは、景矩も気づかなかった。
参考文献
「呪いの都平安京 呪詛・呪術・陰陽師」繁田信一/著 吉川弘文館
「暮らしの歴史散歩 生き生き平安京」藤川桂介/著 TOTO出版