一
「景矩、いるー? 一緒に囲碁をしましょうよ」
簀の子を軽快な足取りで歩く足音が聞こえてきたかと思うと、御簾を捲り上げて湖子が部屋に飛び込んできた。
部屋を仕切る几帳はなく、姿は丸見えだが、湖子はまったく気にする様子がない。
既に二年前に裳着の儀を済ませているが、幼馴染みの景矩や兄・孝允の前では扇で顔を隠す素振りも見せない。
「今、忙しい」
しっしと手を振って孝允が妹を追い払おうとするが、まったく効果はなかった
景矩が返事をする前に、湖子の後を追い掛けてきた下女が碁盤と石が入った鉢を部屋の真ん中に置いて、無言のまま去っていく。
「囲碁? いいよ」
開いていた書物を閉じると、景矩はすぐさま応じる。
いくら字面を目で追っても頭の中に入ってこない書物を眺めているよりは、湖子と囲碁に興じていた方がずっと有意義だ。
それに湖子が部屋に入ってきた途端、たった今まで目の端をずっとちらついていた影がふっと掻き消えた。
「あぁ、これでようやく解放された」
一昨日の朝からずっとしつこく付き纏っていた影が離れていったことに、景矩は胸を撫で下ろした。
「なにかいたの?」
景矩の反応から、湖子は部屋に物の怪がいることを悟ったらしい。きょろきょろと部屋の隅や天井などを探るように見回す。
「いや、もういない。湖子が入ってきたら、すぐさま出て行ったから」
「そうなの? 残念」
物の怪を見ることができなかったことを、湖子は本気でがっかりしている。
「わたしって、なんでちっとも物の怪の類が見えないのかしら。景矩も孝允も見ることができるのに」
「見えないなら見られないままでもいいんじゃないかな。見えたからってあまり楽しいものでもないし」
景矩は見鬼の才能があり、霊力も強い。物心ついた頃から物の怪の類には頭を悩ませていた彼からすれば、湖子のなにもかもが羨ましくて仕方ない。
「楽しいとかじゃなくて、景矩や孝允と同じ物を見たいだけなの」
畳の上の碁盤の前にすとんと座ると、湖子はわずかに頬を膨らませて唇を尖らせる。
「なんでわたしは見られないのかしら。そんなに目は悪くないのに」
「視力の問題ではないよ、湖子」
妹のぼやきに孝允は呆れ返った。
「お勉強中だったの?」
兄を完全に無視し、湖子は景矩の見台を覗き込んだ。
「漢詩の暗唱。でも、どうせ集中できなくてちっとも頭の中に入ってこないところだったから、全然構わないよ。囲碁をしよう」
「集中できなかった? わたしのお琴の練習のせい?」
申し訳なさそうな表情で湖子が尋ねる。
そういえばさきほどまで見事なくらいの不協和音で琴が奏でられているのがかすかに聞こえてきていたが、あれは湖子が練習していたのか、と景矩は納得する。
音楽的才能がまったく欠如していると本人もはっきりと自覚しているくらい、湖子は楽器の演奏が下手だ。琴も琵琶も笛も音程を無視した音が出るのだが、彼女の母親は努力と根性と練習量で改善できるのではないかと期待を捨ててはいない。さすがにあの下手さ加減は死んでも直りそうにないから無理だろう、と母親以外の家族は諦めている。
景矩も、琴の演奏ができないくらいで湖子の魅力が損なわれることはないと思う。
彼女の一番凄いところは、なんといってもその存在だけで物の怪を黙らせ、蹴散らし、退散させることができるところだ。これだけは天賦の才だと太鼓判を押せる。
今だって、さきほど騒々しいくらいにざわめいていた物の怪たちがぴたりと口を閉じて静まりかえっている。気配は消えていないが、湖子が部屋に現れたことで、急に借りてきた猫のごとくおとなしくなった。
「湖子の琴が聞こえないくらい物の怪たちがうるさかっただけだよ」
「私は琴の音しか聞こえなかったけどな。美作の方様は今日も熱心だったな」
孝允は景矩ほど物の怪には悩まされていない。彼らの話し声は少々耳障りではあるが、湖子の琴の演奏よりはよほど聞くに堪えうるのだと嘯く。
「そうなのよ。最近は治部少丞の二の姫のところにも教えに行っているそうなのだけれど、なにかにつけてあちらの姫はって引き合いに出すの。どうもわたしの対抗心を煽ろうとしているようなのだけど、お会いしたこともない方と比べられても、ねぇ」
湖子は誰かと競い合う意欲が幼い頃から皆無だ。
楽器はそもそも音感が壊滅的に狂っていると母親に嘆かれ、歌は色気が皆無だと孝允に酷評されている。字だけは美しいが、その美しさも一瞬で色褪せるくらい文才がなく、送られてくる手紙といえば簡潔かつ直接的に用件が書かれているだけだ。物語を読んでも、絵巻物や恋物語には興味を示さず、怪談を好む辺りも一風変わっていると近所では評判らしい。
どうしてほとんど家から出ない湖子についての噂がほぼ正確に流れているのかは不明だ。孝允などの身内は彼女の欠点を吹聴するはずがないので、出入りしている商人や使用人辺りが触れ回っているのかもしれない。
「治部少丞の姫は琴が上手いのか?」
一人で漢詩の暗唱を続けようとしていた孝允が興味を示した。
そろそろ結婚を考えている彼としては、未婚で適齢期の姫の情報集めに必死だ。
「琴も笛もお上手らしいわ。姫の容姿については美作の方様はなにもおっしゃってなかったけど」
「容姿について話したところで、今更お前の容姿を変えられるわけでもなく、お前を落ち込ませないようにという心遣いからだろう」
「治部少丞の姫についての孝允の前向きな意見はともかく、湖子は今でも他の姫と比べものにならないくらい充分に可愛い」
「景矩、お前の目は曇りきってるぞ」
幼馴染みが妹をべた褒めしたものだから、孝允は顔を顰めていつもの反論を繰り返した。
「お前は、こいつの悪評が世間で出回っているのはこいつの容貌が良いものだから妬んだ他家の連中の仕業だと勘違いしているようだが、それは絶対ないんだ!」
「なにを言っている。治部少丞の姫の容姿について誰も語らないということは、賞賛できる点がないということだろう。湖子の場合、あんなに美しいのに琴が下手だとか、あんなに美しいのに歌は下手だとか、明らかに悪意を感じる噂だ」
「その『美しい』の前には『字が』が付くんだぞ? そこはちゃんと聞いているか?」
「湖子は容姿も美しいし心も美しい、更に字も美しい。琴や歌が少しくらい苦手だからといって、美点が多い彼女を貶めてよいという理由にはならない」
「まぁまぁ」
憤慨している景矩を、誉められて気をよくした湖子が鷹揚に微笑んで宥める。
「孝允のために、今度美作の方様から治部少丞の姫の容姿についても訊いておいてさしあげるわ。取り敢えず、わたしよりも美しいかどうかってことでいいかしら?」
「その率直過ぎる訊き方は嫌がられるだろうから、どんな花に例えられる姫か訊いておいてくれ」
「花? それはまた随分と遠回し過ぎない? 牡丹のような姫だって評したとしても、牡丹の花にも美醜はあるのだし」
あいかわらず湖子は風雅のかけらもない。
「それよりも、直接顔を見に行った方が確実よ」
「確実ってお前、そう簡単に深窓の姫の顔を見られるわけがないだろう。お前みたいに平気で顔を晒して家の中を歩いているわけがないだろうし」
そうは言っても、孝允と湖子の父親は宮仕えをしてはいるが官位はそれほど高くはない。貴族の末席に名を連ねてはいるものの、使用人をたくさん雇えるほど裕福でもなく、湖子が自分の部屋に籠もって日がな一日優雅に琴だ貝合だと遊んでいられるわけでもないのだ。
だからといってそれを不服に感じたことはない湖子は、自分のことは自分でするを座右の銘として、自由気儘に日々暮らしている。
「もちろん、治部少丞の二の姫のお顔は見られないでしょうけれど、三の姫のお顔なら拝見できると思うの」
にこにこと満面の笑みを浮かべて湖子が言い出した。
「三の姫?」
振り返り、身を乗り出した孝允は完全に湖子の手中に落ちていた。
この話の流れは不味い、と危険を察した景矩が止める暇もなかった。
「二の姫とは一つ歳が違うだけの同母妹なんですって。とてもお顔が似ていて、年子なのにまるで双子みたいだって評判だったらしいのよ」
「その姫とはどこに行けば会えるんだ?」
治部少丞の三の姫の顔を見るという目的のため、孝允は肝心なことを失念している。
忠告してやろうかと景矩が口を開くより先に、湖子は景矩が怖れていたことを告げた。
「夜、堀川の三条の橋のたもとに行けば会えるはずだわ」
「――――――――え?」
すうっと孝允の顔が凍り付く。
景矩は自分の予感が外れなかったことを残念に思った。
「半年くらい前に、失恋して気鬱になった挙げ句に発作的に堀川へ身を投げて亡くなったんですって。以来、夜になると橋のたもとには三の姫の霊が現れては愛しい男のことを想ってしくしくと泣いているんだとか。どうせなら、男の夢枕に立って泣けばいいのにね。なんで橋のたもとなんかに居続けるのかしら」
妙な話だわ、と湖子は三の姫を憐れむことなくばっさりと斬り捨てる。
「夜な夜な橋のたもとに現れるものだから、夜になると誰も橋を利用できなくて困っているんですって」
「そ、それは誰から聞いた話なんだ? 美作の方様の話ではないよな。あの方がそんな怪談をお前に聞かせるはずがないものな」
孝允が妹に嵌められたことに気づいたときには既に遅かった。
景矩も一緒にこの話を聞いてしまった時点で、自分も逃れられないことを覚悟した。湖子はどうすれば景矩を巻き込むことができるのか熟知している。
「お祖父様よ。今日、お手紙で教えて下さったの。あの辺りのお屋敷の方々がとっても困っているって。誰か、治部少丞の三の姫をお慰めしてくれると良いのにって」
「そういう魂胆か、あのくそ爺」
低い声で孝允が悪態を吐く。
「湖子を煽って私たちを現場に遣らずに、自分で祓いに行けっつーの」
「博士もお年を召されて夜間出掛けるのが億劫になられたんだろう」
諦めの境地に達した景矩は、大きな溜め息を吐いた。
孝允と湖子の母方の祖父は、現在陰陽博士の地位にある。
同じ家には暮らしていないので滅多に顔を合わせる機会はないが、湖子の怪談好きを知ってか頻繁に手紙で都の内外における怪異の話題を知らせてくる。そうすることで、孝允と景矩の耳に入れることが目的だ。陰陽博士は、孫と幼馴染みの二人が物の怪を視る力に秀でていることを知っていた。
おかげで、どういうわけか孝允と景矩は陰陽寮に所属していないにもかかわらず、いわば非公式に陰陽博士から依頼を受ける形で、これらの怪異の調査に出向く羽目になる。
「三の姫の霊は大勢の方に目撃されてるから、わたしでも見られるんじゃないかってお祖父様は書いてくださったの。だから、わたしも行く! 今度こそ霊が見られるかもしれないし!」
嬉々として湖子は同行を申し出た。
「――あぁそう。お好きにどうぞ」
投げ遣りな態度で孝允は頷いた。
湖子が一緒でなければ孝允よりも物の怪が視え過ぎる景矩が行くわけがないし、孝允だってさすがに一人で悲嘆に暮れている女の霊の顔など視に行きたくない。
三の姫の顔を見たら最後、どんな美しい姫だったとしても、その霊と同じ顔をしている二の姫に妻問いする気が失せることは目に見えていた。三の姫が失恋で川に身を投げる悲観的な性格であれば、二の姫だって似たような厭世観の持ち主の可能性がある。
普段、口ではあれこれと家族を酷評している孝允だが、楽観的な母親や明朗闊達な妹の性格に馴染んでいる彼は、自然と似たような性格の女性を求めていた。
治部少丞の姫がその真逆の性格だとすれば、恋が芽生える間もないはずだ。
「一晩中泣いているような鬱陶しい霊だったら、そりゃ誰だって迷惑だろうな」
失恋の痛手から立ち直れなかった可哀想な姫、とは三人の誰もが評さない。
「湖子に知らせてくるくらいだから、湖子が一緒でも危険ではない霊ってことだろうな」
「多分。あの爺だって人を襲うような霊の存在を湖子に知らせはしないだろう」
悪霊であれば自分たちではなく陰陽寮の陰陽師が派遣されるはずだ、ということで二人の意見は一致した。