異聞小町草子「陰陽頭重岡道人、呪いをかけてはね返さるる事」
*この物語は『深草少将の百夜通い』の逸話を基とした、フィクションです。
実際の古典文学、人物、事件とは一切関係ないかもしれません。
文徳天皇か、あるいは清和天皇の御代のこと(西暦800〜900年の間)だったか。これはもう、今となってはまるで異世界のような、遠い昔の出来事である。
深草の少将がその屋敷に着いたのは、照る満月が丁度真上に位置するくらいの時刻であった。片道は約6キロといったところか。牛車を使うと当然もう少し楽なのだろうが、それは禁止されていた。
歩いてお越し下さいね。
深草の頭にその言葉が思い出されると共に、その時の様子が付随して、克明に思い出される。あの時の香りは深草の、特に好みとする香りであった。ふふふと、悪戯っぽく笑うその頬はほんのり赤みを帯びており、それが化粧によるものだということは頭では理解しているのに、どうしても照れて赤らめているように思われて、そう思うとくらりと目眩に似た高揚感が襲うのである。
そこまで思い返して、深草は慌てて頭を振った。色香に酔うことと、恋に落ちることは全く別のものだ。そう思いながら深草はその屋敷に足を踏み入れた。
屋敷に入ると、仄かな梅の香りがいつものように深草を出迎えた。しかし、どちらから香ってくるのかはかろうじて判るものの、その元となる梅の木は深草の居る屋敷の入り口付近からは丁度見えないようになっていた。初めて来る時からそうなっていたので、今まで大して気にはしていなかったが、隠れている梅の木の素晴らしい姿を思い返して、今日はふと、それが気になった。
ほんの少し、ずらして植えるか屋敷の形を工夫すれば、様々な所から愛でることが出来るのに──。
そうは思ったが、すぐにそんなこと考えても仕方がないと思い直して屋敷を進んだ。仕方がない、そう思ったのはそれが些細な疑問であったというのもあるが、「彼女」と会うのがその梅の木がよく見える所でもあったからだ。
奥へと進むと、例の梅が姿を現した。
「もし」
梅と向かい合った位置にある帳に声を掛けると、しばらくして「くあ」という小さい音が聞こえたかと思うと、帳がすっと低く持ち上げられ、鶯と紛うような高いながらもゆったりと落ち着いた声が聞こえた。
「あら、これは深町様。ついついもういらっしゃらないのかと思って、ふとうたた寝をしてしまうくらいのお早いお越しでございますね」
「深草だ。というか、いい加減少将と呼んでくれないか」
「あらら。これは失礼いたしました、深草様」
ころころと笑いながら、「深草」のところだけ妙に強調して呼んだ彼女こそ、深草が今日のみならず、毎夜のごとく会っている女性であった。
名は小野小町。他の世の女性と同じく、彼女の真の名は深草を含む多くの人が知らないが、この小野小町という名(通称)は今の京で知らない者は居なかった。
「そういえば、この梅の木は何故屋敷の入り口からは見えないようになっているんだ?」
話を切り替えようと、さっき思った疑問を深草はそのまま口にすると、小町は「まあ」と言って帳をぐっと高くまで持ち上げて梅を見上げていた。
「だって、つまらないでしょう? どうせなら梅の香を聞きながら、その姿を想像してから見た方が楽しめるかと思いまして」
そう言って梅を見つめる彼女は、どこか雅で、そしてなにより美しかった。
神話に登場する絶世の美女とされる女神、衣通姫や木花咲耶姫にも匹敵するが如き美しさ。そのような評判が次第に京中を包み、以前は尊卑に関わらず多くの男たちが彼女へと恋文を送り、求婚をした。しかし、彼女はその全てを断り続けていた。
またその断り方がどれも機転を利かしており、相手の言を巧く活かした趣のある返事をするために、それだけで身分の高い、情緒を解する風流人は強く出られず、教養のない者や、身分の低い者は論外であった。
凍てつき散らぬ、桜の花。なよ竹のかぐや姫の再臨。
そのように評したのは果たして誰だったか。一人また一人と諦めていく中で、深草は最後まで諦めなかった者の一人であった。
──この私の願いが成就いたしましたら、あなたと結ばれましょう。
そして、ひょんなことをきっかけに、ついに小町からそう言われたのである。
──一体、私に何を望むのか。
すると、小町はこう言ったのだった。
──私、書は多く読みましたがあまり外へ出ないので、世を知らず、そして退屈していたのです。ですので、面白くて……そう、奇怪で不思議で、面白い。それでいて書にもないような話を私に聞かせていただきたいのです。一夜に一話、そして私が面白いと思うお話を百話持って来られましたら、私はあなたと結ばれましょう。
「それで、今夜は一体どのようなお話をお持ちになられたのかしら」
小町は「楽しみだわ」とでも言うように笑みを浮かべて、それでも縁側まで出ることはなく、縁側に座った深草が話しだすのを今か今かと見つめている。
その顔をちらりと見て、深草は一つ息を吐いた後に口を開いた。
「人を呪わば穴二つ──という言葉を知っているかい?」
深草がそう訪ねると、小町は少しきょとんとした顔をして、首を横に振った。
「最近、内裏や陰陽寮で囁かれている言葉だ。もしかしたら、すぐに全体に広がるかもな。そんな事件が、つい先日起こったようだ」
深草はそのいきさつを語り始めた。
「陰陽寮という所は、天文や暦の編纂をするとともに、知っていると思うが占いや呪術も行っている。そこの陰陽頭(陰陽寮の長官)であった、重岡道人様の話だ。彼のことは知っているか?」
そう聞くと、小町は小さく頷いた
「ええ。優れた陰陽師で、特に呪術に秀でていると前にどこかで」
「ああ。重岡様は人格も素晴らしいものであったのだが、実は整理整頓が出来ないお人であった。書などは女房たちに片付けさせていたのだが、筆記具など自分がよくお使いになられる物や、特に身の回りにあった物はご自身で管理されていたらしい。
しかし、ある時。ふと自分の筆記具の一部がなくなっていることにお気づきになられたのだ。最初はまたご自身で散らかして、どこかへなくした物とお思いになっていたようだが、どうも普段と比べて無くなるものが多くなっている。そう思った重岡様は女房に書などを確かめさせると、やはりそちらも一部が無くなっている。
ここでご自身のお屋敷に泥棒が入ったのかもしれないとお思いになり、怒った重岡様は入った泥棒を呪おうとお思いになられた。
「悪意あってこの重岡が物を我が物とした者よ、不幸にあって死に、地獄へ落ちよ」
急いで術式を組み立てになった重岡様はそうおっしゃって盗んだ相手を呪ったそうだ」
「なるほど、それで、どうなったのですか?」
「──それが、亡くなったのは重岡様の方になった。先日の夜、路上で牛車に乗ろうとした所を刺されたらしい」
「まあ」
「それが呪って数日としない内の出来事であったから、重岡様が呪いを失敗なされて、そのせいで自身に跳ね返ってきたのではないかと噂になった訳だ。 そういう訳で、「人を呪わば穴二つ」と囁かれるようになったのだ。つまり、呪いは失敗すると自身が呪われるので、陰陽師は相手の墓穴の他に、自身の墓穴も掘っておくべし──ということだな」
「なるほど、そんなことが」
「しかし呪いが失敗すると跳ね返るとは初めて聞くし、それ以上にやはり分からんのは、なぜ重岡様は術を失敗なさったかだ。そもそも重岡様は優秀な術師だ。悪人を呪うなんてことを失敗なされたとはにわかには信じられんし──それに、呪いの場に居合わせていた陰陽師も、術式に何も問題のある所はなかったと申している。一体どういう訳なのか……。なんとも不可解な話よ」
「まあ、簡単なことでしょう」
ぽつりと言い放った小町の言葉に、悩んでいた様子の深草は目の覚めたように梅の木から顔を小町の方へと向けた。
「何故だか、分かるのか!?」
深草がそう言うと、小町は小首をころんと少し傾げ、にっこりとして言った。
「その前に、刺した方の動機は何でしたか?」
「ああ、聞くもなにも下手人は重岡様の従者にその場で殺されてしまったよ。まあ、可哀想かもしれんが、仕方がないことではあるな」
「まあ、そんなところだと思っておりましたわ」
「一体何故なんだ? 陰陽寮では呪った術者の他に、誰かがその呪いをかけている光景を見てはいけないのではないかと噂されているが、今までそれが原因で失敗した話なんて聞いたことがない」
「簡単です。呪いなんかなかったんですよ」
小町の言葉に、深草は一瞬思考が停止してきょとんとしたが、すぐさま再開させて小町の言葉を否定した。
「いやいや、何度も言うように重岡様は優秀な陰陽師で呪術師だ。これまでに幾度も呪術に成功していると聞く。それは呪術が失敗したこと以上にありえないよ」
「まあ、そうですね……」
小町はそういって唇に指を当てた。ふにっとした弾力が深草の方にまで伝わってくるようであった。「んー」と小町は虚空を見つめて少し唸った後、再びちらと深草を見つめた。
「少々、端的すぎたかもしれません。しかし、呪いという要素を省くと、全てが至極起こって当然のように思われますよ」
「と、言うと?」
「物が盗まれていて、そして女性との逢瀬の帰りに刺されたのでしょう?」
「いやいや、なぜ女性とあっていたと……」
「守られずに刺されたということは、元々連れてきた従者も少なかったのでしょう。殿方が従者を少なくして深夜に外出なさるなんて、大体が女性との密会でしょう」
深草はいやいやと反論しようとしたが、「貴方のようにね」と小町が続けると、ぐっと黙ってしまった。
「つまり、下手人の方は重岡様のことが好きだったのでしょう。告白なさる勇気がなかったのか、告白されて振られたか……それでついつい重岡様の私物を盗んだり、重岡様のことをこそりと尾行して居たのですが、さる女性との逢瀬を見て、遂に我慢できずに刺してしまった──ほら、こう考えれば何もおかしい所なんてございません」
「いやいやいや!」
深草は苦笑しながら手を差し出して、小町の話を静止した。
「窃盗も、あの下手人がやったことだと? 好きだったからだとしても、そんな馬鹿な真似はいくらなんでもする訳が……」
「そうさせるのが『恋』に落ちることなのです」
これまでの、なによりも強い言葉に今度は深草の方が静止させられた様に感じて、言葉を詰まらせる。その時の小町の表情はどこか憂いを帯びて、まるで身体をおいて心だけどこかへやってしまったかのように感じたが、すぐにまたくすりと笑ってその微笑を手でそっと隠して言った。
「……まあ、恋に落ちたことのないでしょう深草様には、お分かりにならないことかもしれませんが」
ぽつりとそう言った小町の言葉を、深草は否定することが出来なかった。まさしくその通りとさえ、心のどこかで思っていた。小町に求婚していたのは、美しい女性を娶ることで羨望の目を向けられるだろうと思ったからだし、多くの人が諦めた中でも求婚を続けたのは、その中で結ばれたら自身のステータスが上がるだろうと思っていたからであった。
美しいものには確かに惹かれる。色香にも酔うことはあるが、それは二日酔いにもならずに翌日の朝には消えていき、恋に落ちるということを深草はよく分からなかったのである。
「でもまあ、私はそんな貴方だから、こうしているのですよ?」
本当に小町は解らない。そんなことを深草は思いながら「……百夜の話、本当に達成したら結ばれるのだろうな?」と聞くと、「もちろんです」と小町はゆっくりと、お辞儀するかのように頷いた。
「しかし、まだ答えにはなっていないぞ」
「と、言いますと?」
「それではなぜ、重岡様の呪いはかからなかったのだ? それとも、呪いがかかってだから重岡氏を刺した後に殺されたのか? 確かにある意味不幸で、そして地獄行きも間違いないだろうが、重岡様も死んでしまうのは……」
「やはり、呪いはかかっていなかったのではないでしょうか」
「では、なぜ?」
深草がそう聞くと、小町は口元を袖で隠してころころと笑いながら答えた。
「かからなくて当然でしょう。だって、抱いていたのは『悪意』ではなく『好意』なのですから」
時代考証のため、以下の文献より参考にさせていただきました。
〈主な参考文献〉
・Wikipedia-小野小町
https://ja.wikipedia.org/wiki/小野小町
・Wikipedia-日本の官制
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の官制
・Wikipedia-滋岳 川人
https://ja.wikipedia.org/wiki/滋岳川人
・小野小町〜神秘のとばりに包まれた伝説の美女の謎〜
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/fusigi_4/works/works_3_a.html
・小野小町 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/komati.html
・朝日新聞出版
週刊マンガ日本史12 小野小町 監修:河合敦 他