旬の食材、召し上がれ(三十と一夜の短篇第4回)
熱々のパスタをフォークに巻きつけ、湯気ごと食べる。口を閉じると、熱気がはふりとこぼれ出た。
まず熱を感じた舌は、次にやわらかいソースと出会う。卵とチーズのとろけた優しさが小麦の香りを包み込み、噛み締めればパンツェッタの脂と塩気が舌を刺激する。心地よく噛み切れていく太めの麺には濃厚なソースがしっかりと絡んでいるが、飽きずにもう一口もう一口と食べ進められるのは、散らされた黒胡椒があと味をひきしめているからだろう。
仕事の休み時間にうまいランチを食べる。
これが私の生きがいだ。おいしいものを食べるために働いていると言ってもいい。
半分くらい食べたところで、一度フォークを置いて水を飲む。幸せな熱に満たされた口の中から胃袋まで、冷たい水が滑り落ちていくのがわかった。
心身ともに落ち着かせて、改めて幸せを味わおうとフォークを手に取った瞬間。無粋な振動音が響く。
無視してパスタを巻き取りたいところだが、万一職場からの緊急連絡だといけない。しぶしぶフォークを置いて携帯電話の画面を確認し、すぐにかばんに仕舞う。
すると、私の行動を見越していたかのように、一瞬だけ静かになった電話は、またすぐに着信を伝えて震えだす。
気分を害した。これでは電源を切って食事を再開したとしても、気持ちよく味わうことなどできないだろう。テラス席に案内してくれた店員に感謝しつつ、座席に座ったまま電話に出る。
「……なに」
思った以上に低い声が出て、自分でも少し驚く。
「あれ、機嫌悪い。もしかしてごはん中やった? ごめんごめん」
軽い調子で謝罪してくるのは、幼なじみの岩田だ。私の実家がある田舎に残っている数少ない知り合いで、たまに帰省したときには顔を合わせるため付き合いはずいぶんと長い。そのため、私が食事を邪魔されるのを嫌うことも知っている。
だが、互いに幼いころから知っているだけで特別に親しいわけではなく、帰省中に会えば話す程度の男だ。いつだったか何かのおりに連絡先を教えた覚えはあるが、突然に電話をかけてくるなんて、いったい何の用だろうか。
携帯電話を耳にあてたまま思案していると、遠い田舎から私の耳元までずずいと近寄り、岩田が話しだす。
「いや、特別な用事はないんやけど。こないだのゴールデンウィークは帰ってこんやったから、どうしたんやろかーと思って、ちょっと電話してみたんや」
相変わらずうまいもん食べるために一生懸命に働いてるんか、と聞いてくる岩田は、こちらの返事も待たずにべらべらとしゃべっている。
体を壊したわけじゃないよな、いやいや体は元気でも心の病ってやつもあるからな。最近はストレス社会とか言ってなんやら都会は大変らしいから、気をつけるんやで。お前は意外と真面目で頑張りすぎるところがあるから、美味しいもの食べ歩きもいいけどたまにはゆっくり家で休むのも大事やで。
帰省のおりに顔をあわせるたび、岩田が田舎の母以上に色々と口やかましく言ってくるのはいつものことだから、しばらく携帯電話をテーブルに置いて奴の言葉を聞き流す。何より、パスタが冷める前に食べてしまいたい。
心もち急ぎつつもしっかりと味わって皿の上の物を片づけると、食後の紅茶を待ちながら携帯電話を手に取る。
「ごめん、聞いてなかった。それで、何の用」
そう言うと、それまで止まることなく喋っていたであろう声がぴたりとやんだ。田舎における『別に用はない』は、用件を切り出す前の前置きのようなものだ。
そして、岩田もやはり何かいわねばならないことがあるのだろう。電話の向こうでは何やらあー、だのうん、だのもごもご話しているようなので、切り出しにくい話なのだろうかと首を傾げつつ紅茶を飲んで待つ。
そうして、携帯電話を耳に当てたまま待つことしばし。
あのな、と岩田が話し出す。
「あのな、採れたてのトウモロコシ、食べたくないか」
それだけ聞けば十分だ。私の答えは決まっている。
「いつ帰ればいい?」
というわけで、岩田から連絡を受けたその週末に有休をくっつけて三連休を作り、帰省した。金曜日の仕事終わりに電車に乗って行けるところまで行き、乗り継げなくなったところで宿をとる。土曜日の始発電車に乗れば、朝ごはんの時間には実家の最寄り駅に到着し、荷物を置いて少し休んで岩田の家へと向かえば、九時ごろにはトウモロコシに会えるという計画だ。
休めばそのぶん仕事はたまるだろうが、そんなものは知ったことではない。仕事は後でもできるが、旬の物はそのときに食べねばまた来年まで食べられないのである。
しかも、トウモロコシ。他の野菜や果物ならば宅配してもらうという手もあるが、トウモロコシは採れたてを食べられるというならば食べねばなるままい。収穫した瞬間から鮮度が落ち始め、甘みが減って実がかたくなっていくと言う。田舎に住んでいたころも身内に家庭菜園をたしなむ者がいなかったため、その採れたての美味さはまだ味わったことがない。いつかそういったバスツアーに参加せねば、と思っていたから、機会がやってきたなら飛びつかねばなるまい。
最小限の荷物を持って閑散とした駅に降り立てば、うすら明るい無人のロータリーに滑り込んでくる一台の軽トラが見えた。こんな朝早くにこの田舎の駅に来るのは、誰かを迎えに来る人ぐらい。私の他に降りた人はいないし、次の電車まではまだ時間があるのに何だろう。そう思っていると、運転席に岩田の顔を発見した。本日の駅到着予測時間を知らせると共に、岩田の家まではタクシーで行く旨をメールで告げておいたのだが、どうしたのだろう。
もしや急きょ中止になったのだろうか。トウモロコシ、食べられないのだろうか。
その可能性に思い至ると、期待していたぶん大きな悲しみの波が襲ってくる。トウモロコシのつやつやとした黄色い粒を思うと胸がぐっと詰まって、涙が出そうだ。私が絶望に包まれたとき、岩田が目の前に車をとめて、助手席側の窓から顔を出した。
「おはよう、おかえり……って、なんで泣いてんの⁉︎」
にこにこしながらあいさつをしてきた彼は、一転して驚いた顔で叫ぶ。失敬な、泣きそうではあるがまだ泣いてはいない。
むっとして涙目のまま睨み付ければ、岩田はおたおたしながら口を開く。
「もしかして、帰ってくるのそんなに嫌やった? それとも本当はトウモロコシ好きやなかった? それなら、他の野菜もあるよ。なんなら鶏をしめて食べてもいいよ!」
うん? それはつまりトウモロコシは食べられて、とうもろこし以外の野菜も食べられるということか。ならば万事解決。涙はすぐさま引っ込んだ。
「おはよう、岩田。一回、家に寄って九時ごろに行こうと思ってたんだけど、メール届いてなかった?」
首を傾げて聞けば、もう泣き止んだ! と驚きながらも岩田が首を横に振る。
「いや、メール見たけど、タクシー待つの大変やろうから迎えに来た。せっかくやから、収穫もしてみたいかと思って」
確かに、ど田舎ゆえに駅に常駐するタクシーなどいない。タクシー会社に電話をして来てもらうのがここの常識であり迎えがあるのは正直ありがたいが、今はそんなことは置いておこう。
「迎えに来てくれてありがとう。出発していいよ」
トウモロコシが待っている、と空いていた荷台に荷物を放り込んで助手席に乗り込み、椅子に座ると同時に手早くシートベルトを締めて言えば、ぽかんとした顔でこちらを見る岩田がいた。その手は彼自身のシートベルトのバックルに伸びる途中で止まっている。
「トイレならどうぞ。待ってる」
小さい駅だが、一応トイレは設置されている。ここから岩田の家までは三十分ほどかかるし、道中にあるコンビニに寄るには少し遠回りするルートになる。ならば、ここで済ませておくのが得策と声をかけるが、彼は動かない。
「遠慮はいらない。今日の予定はすべて岩田に合わせる。私はトウモロコシさえ食べられれば、それでいいから」
きっぱりと言いきれば、なぜか彼はがっくりとハンドルに倒れ伏した。眠気がきたのだろうか。運転を代わってもいいが、ミッションの車なんて学生時代に免許証をとった時以来、乗っていない。大変な不安がつきまとう。
どうしたものかと首を傾げていれば、颯爽と荷物を……ドアを開けてエスコート……などとぶつぶつ呟いていた岩田は、大きなため息をついてから顔をあげた。
「……出発、しようか」
なぜか力なく笑う彼を不思議に思いつつ、私はトウモロコシに思いをはせてにっこりと頷いた。
朝の涼しい空気の中、やけに背筋が真っ直ぐになる軽トラに乗って町中を走る。田舎の町をぐんぐん通り過ぎて、橋を何本か渡れば、私たちが通った小学校の横を通る。新しくなった校舎は何度見ても見慣れない。
小学校も過ぎてさらに川沿いの道を行けば、民家さえまばらになって見えるのは山、川それと田畑だけである。のどかさばかりの風景に懐かしさを感じながらぼんやりと見ていれば、私の家を通り過ぎさらに岩田の家も通り過ぎていく。
「どこに行くの」
てっきり岩田の家の庭に広がる家庭菜園で収穫祭をするのだと思っていたのだが、違ったらしい。
「そんなに遠くないから、もうすぐわかるよ」
いつの間にか元気を取り戻した岩田が上機嫌で答えるので、おとなしく車に揺られること数分。私たちを乗せた軽トラは、集落のはずれにあるあぜ道をがたごと通って一枚の畑の前に止まった。
車外に出る岩谷にならって、シートベルトを外して車を降りる。改めてみれば、なかなか立派な畑が広がっている。
ナス、トマト、キュウリにトウモロコシ。あぜ道から見える範囲だけでも様々な種類の野菜が少しずつ作られていて、野菜ごとにそれぞれ支柱を立てたり網をかけたり、また草取りもよくしてあるのだろう。野菜が植えられたスペースには雑草は見当たらず、まめに世話をしているのがよくわかる。見慣れない野菜や、畑の奥のほうまで含めると、数えきれないほどの種類の野菜が植えられている。
「すごいやろ」
黒光りするナスや連なって熟れているトマトに見惚れていると、岩田が照れたように言う。たしかに、すごい。これだけの野菜を趣味で作っているとなると、拍手したくなる。
「すごい。これだけの畑、作り上げるの大変だったでしょう」
あれは何だろう、これは何だろうと畑を見ながら素直に賞賛すれば、岩田が笑う。
「全部、お前のために作ったんやで」
そう言うと、車の荷台からなにやら荷物を抱えておろし、振り返りもせずに畑に入っていく。
「……」
何だろう、いま、聞き捨てならないことを聞いたような。いやしかし、そんなことよりトウモロコシだ。
ひとまず野菜を優先して、岩田を追いかけて畑へ入って行った。
あちらこちらになっている実に視線を奪われながら進めば、岩田が小さな小屋に入っていくのが見えた。背の高い野菜の網に隠れて見えなかったのだろう。
作業小屋だろうか、とついて入れば、思った通りに中も狭い。コンクリート敷きの床は畳二枚分より少し広いかどうかといったところだ。
持ってきた荷物を下ろした岩田は、小屋の壁にひとつだけある窓を開けてから荷物を取り出しはじめた。
カセットコンロ、蓋つきのフライパン、ペットボトルに入った水と飯ごう。続々と出てくるものを手慣れた様子で並べた岩田は、カセットコンロを部屋の中央に設置し、立ち上がった。
「さて、トウモロコシを取りに行くか」
その一言を待っていました。岩田に続いて外に出ると、ずいぶんと明るくはなったがまだ太陽は出てきていない。間違いなく朝獲れのとうもろこしだ。
迷いなく歩く岩田の後ろをわくわくと歩き、ついにトウモロコシとの対面を果たすときが来た。
防虫ネットのヴェールに包まれた、濃い緑をした背の高いその姿。風になびく銀色のひげが、艶めいて気品を漂わせている。
美しい。思わず見惚れてにまにまと笑っていると、トウモロコシの横に立ってこちらを見ていた岩田もなにやら嬉しげに笑っている。なんだろうか、と首をかしげれば、いっそう笑みを深めて私を手招いた。
「さあさあ、収穫してみなよ。いま食べる分だけでいいから、早く茹でよう」
促されて、彼の示す食べごろの実に手を伸ばす。恐る恐る力を込めて根元から折取ると、ざらりとした皮のついたずっしりとした実が、ごろりと手の中に転がった。実の頭に生えるひげはどこかしっとりと優しく指に絡まる。収穫の喜びに浸っている間もなく、手の中のとうもろこしは岩田にさらわれてしまう。
「そんな悲しそうな顔せんでも大丈夫。ちゃんと食わしてやるから、ほらもう一本とって」
手を離れていくトウモロコシを目で追えば、なぜか岩田がくくっと笑う。でも、嫌な笑みではない。
促されるままにもう一本をもぎ取り、さらに他の野菜の元へ歩いてキュウリ、トマトとツルムラサキというらしい葉っぱを収穫して小屋へ戻る。
フライパンに水をはり、蓋をして火にかけた岩田は、残りの水でとってきた野菜たちを洗っている。
さっと手を出しペットボトルを傾けて持つ係になる。洗いながら、農薬は使ってないから軽くほこりやらを流す程度でいいんや、という岩田の話を聞く。そのため、虫に食べられたり鳥に食べられたりして、これだけちゃんとした野菜を作れるようになったのは、最近のことだと言う。
そんな話を聞いて、全部お前のために作った、と言われたことを思い出す。大変だっただろう。畑を耕し土を作り、まだ見ぬ収穫物のために汗水たらして働いて、せっかく実がなってきたと思ったら虫や鳥に食べられて。失敗もあっただろう。今年の失敗を活かすには、翌年も同じ苦労をしなければならない。彼にも仕事があるのに、その合間を縫って畑に手をかけてきたのだろうか。
その苦労はなんのために? そう考えかけたところで、湯が沸いたと知らせる岩田の声。
すぐさま思考を投げやって、湯の中にトウモロコシをそっと入れる。考えるのは後だ。
待つことしばし。茹で上がったトウモロコシが紙皿に乗って渡される。ずっしりと重たい、一本まるごとのトウモロコシ。ほかほかと湯気を上げるその実は、粒の一つ一つがぷりぷりと黄色く光って実に美味そうだ。いますぐかぶりつきたい気持ちを抑えて、野菜の栽培主さまが食べるのをじっと待つ。
カセットコンロの上からフライパンを下ろし飯ごうをセットした岩田は、私の視線に気が付いて笑う。
「先に食べてて良いのに」
そう言いながら、じゃあ食べようか、と岩田がかぶりついたのを確認して、いただきます、と手を合わせる。
甘い。
かじった箇所からじゅわりとあふれる甘い汁。ぷりぷり熱々の粒が次々にはじけて、口の中に幸せな空間を作り上げる。甘いのに、後に残らないあっさりした甘さだから、どんどん食べられる。
夢中で食べていると、あんなに大きなトウモロコシだったのにすっかり食べきってしまっていた。
幸せな満足感にひたってぼうっとしていると、くくくっと笑う声。見れば、すでに食べ終えた岩田がこちらを向いて楽しげに笑っている。
なんだろうか、と首を傾げれば、ウエットティッシュを寄越しながら岩田が口を開く。
「いや、可愛いなあ、と思って」
くすくす笑いながら言われた言葉が脳に届いて、ぴしりと固まる。何を言っている、この男は。
「一生懸命に食べてる姿が可愛いなあ、と思ってたんや。気づいてないやろうけど、中学のころからずっと、好きやったんやで」
告げられる言葉に、頭がついていかない。固まる私に構わず、彼は続ける。
「大人になったらうまいものを探しに都会へ行く、って言ってたから、焦ったわ。俺はこの土地から離れる気は無かったし、こんな田舎じゃお前を引き止められるほどのうまい店なんか期待できんし」
新しい紙皿につやつや輝くトマトと、切り口からあふれる水分できらめいたキュウリを乗せながら言う。皿と一緒に塩の小瓶を渡してくるあたりが、彼らしい。
「この田舎で勝負できるものなんか、産地直送くらいなもんやから。なら、お前が帰ってきたくなるくらいうまい野菜を作ってやろうと思って」
しゅうしゅうと湯気を上げていた飯ごうは、いつの間にかちりちりと微かな音を立てていた。かちんとコンロの火を消した岩田は、真っ直ぐ私を向いて言う。
「目新しいものはなんもない。おしゃれな料理が食べられる店もない。やけど、野菜の新鮮さだけは負けん。この畑まるごと、お前にやる。やから、俺と付き合ってくれませんか」
真剣な表情で言われて、ぽかりと思考が宙に浮く。
話についていけない私に、岩田は笑って立ち上がる。
「返事は急がん。今日まで散々、待ったからな。それ食べながらでいいから、ちょっと考えてみてくれ」
そう言って私の手の中にある野菜の乗った紙皿を指差し、彼は小屋から出て行った。その背中をぼんやりと見送り、ぼんやりと野菜をつまんで口に運ぶ。
しゃくしゃくしゃく。新鮮なキュウリの砕ける音。
ぷつり、トマトを噛み切れば、あふれる果汁。
もぐもぐごくりと飲み込んで、あれ、塩ふったっけ、と首を傾げる。
ぼんやりしているうちに岩田が戻ってきて、うみたて卵があったと言う。畑の向こうに果樹を植えていて、さらにその向こうに鶏小屋があるのだと説明してくれる。へえそうなんだ、と答えたら、苦笑が返ってきた。
「考えるのはゆっくりでいいから、今は食べよう。ほらほら、炊きたてご飯にうみたて卵かけて、これも食べてみなよ。うまいから」
言いながら、岩田は飯ごうの蓋を開けてしゃもじですくいだす。つやつやに輝く白米が、しゃもじの上で湯気を上げながらほろほろとこぼれていく。
お椀型の紙皿にごはんをよそい、洗いたてなのだろうしっとりとした卵を手渡してくる。さらに、食べろと言われて出された紙皿をのぞけば、いつの間に茹でたのか、ツルムラサキがくったりと乗せられていた。
すでに卵を割っている彼の手には、醤油のボトル。割り箸で熱々の卵かけごはんをかきこむ彼に促され、私も卵を割って醤油をたらす。
何か彼に言わねば、などと思いながらも箸ですくって一口。
「ど? うまいっしょ」
そう言ってにかっと笑うと、岩田はこちらの反応も見ずにまた茶碗を抱えて飯をかきこむ。
私はなんだか悔しいような気持ちになって、うむっ、と妙な返事をしてしまったのだけれど、それさえ彼の耳には入っていないようだった。
食べている場合ではない、彼と話合わねばならないのでは、と思ったが、ふと視界に入った茹でツルムラサキはもう半分も残っていなくてそれどころではなくなる。これはいけない、口を動かすならばしゃべることではなく食べるために動かさねば、と私は慌てて茶碗を片手に箸をのばす。
粘り気のある青菜に無造作にかけられたしょう油が絶妙で、そこへさらに卵かけごはんを加えればもう怖いものなど何もない。口のなかが幸せで満たされる。
「今日はこっちに泊まってくんやろ? あとでエダマメも収穫するから、夜はそれで一杯やろうか」
口いっぱいに頬張っているときに岩田が言うので、黙ったまますぐさま首を縦にふる。今こそ幸せの絶頂と思っていたが、採れたてを茹でたエダマメを食べながらキンキンに冷えたビールをあおる、その幸せを思うと、緩む頬が止められない。
食用のオクラの花もあるから、夜持って行く。サツマイモと秋ナス、それから少しだけコメも作ってるから秋には新米を食べに来いよ、と言う岩田の言葉にぶんぶんと頭を振って応えていると、なんだか大事なことを忘れているような気になるが、まあいいか、とまたごはんを頬張って幸せな気持ちになるのであった。
作中の男が話している言葉は、作者の出身地の言葉を柔らかく柔らかくして標準語圏の方にもわかるように書いているつもりです。
もしも意味がとれない箇所がありましたら、お手数ですが教えていただけると大変助かります。