甘えの代償
「それじゃああたしは帰りますから、戸締りして、早めに寝てくださいね!」
「……ああ、悪かったな、図書館行けなくて」
憔悴して座布団に座るオレを見下ろして、潮村が力強く宣言する。
顔を上げるのすら億劫で、俯いたまま謝った。
「いいですよ! 行った後、どうするか考えてなかったですし」
やっぱりそうだったのか。まあ、そうだろう。
「……でも、一応謝っておく」
「そうですか……じゃあ、また今度どこか行きましょうね!」
次の約束を言い渡して、潮村は帰った。扉の開閉が音としてオレに伝わったのが最後、家の中に完全な沈黙が降りる。微かに届くのは、隣室のテレビだろうか。
すっかり暗くなった外界を遮断するように窓には丁寧にカーテンが引かれ、電球が煌々と自己主張をしている。時計の短針はそろそろ六から七に移り変わろうというところ。
オレの感覚では、まだ昼なのだが。どうやら今日はまた、随分と長い時間壊れていたらしい。潮村の話によれば、商店街の前で呆然と動かなくなった挙句、一言『吐く』と言ったらしい。それ以降は、ぶつぶつと呟いているだけで意識がはっきりしているかも怪しく思えたと言われた。事実、オレは誰かが声を掛けてくれた事は覚えているが、それ以上の事はわからない。
そういえば、潮村に話しそびれてしまった。聞きたかっただろうに、我慢したのか。それともオレの症状を目の当たりにして頭から抜け落ちたか。アイツの事だ、きっと後者だろうな。
ため息一つ。ここ最近ため息ばかりな気がするな。潮村のせいか。一体どれだけ幸せが逃げたのやら。
ああ、幸せなんて、蛍火港を出たときに置いてきたのか。
もしかしたら、母さんの幸せを奪い去った時点で、オレは幸せが運ばれて来るための住所を失ったのかもしれないな。
そんな思考から芋づる式に、あの日の記憶が蘇る。
「……最悪だ」
結局潮村との約束を反故にしてしまった。わざわざ迎えに来るくらいには、楽しみにしていたらしいのに。しかもあんな醜態まで見せて。
やっぱりオレは、他人の幸せを奪う事しかできない。わかっていたはずなんだが。
比較的若い人間の間では日常的に飛び交う一言だけで、パニックを起こして嘔吐し、平衡感覚も失い、自分を苛む記憶だけが頭を占拠する。そうなればもう、落ち着くまではただ廃人のようにぶつぶつと謝罪を呟きながら定期的に胃の中のものを逆流させるだけだ。
そんなだから、心配して寄ってくるヤツがいないわけでもない。大抵、不気味になって去っていくが。それでも、最初に絶対的な拒絶を突きつけられないのは、オレの弱さだ。
それに耐えられなくなって、またオレはここにはいない誰かに縋ろうとする。
そんな資格は、とうに失ったのに。
「――――」
堪えられなくなって、口の動きだけで、呟いてみた。
上下左右に大きく揺れるバスの車内で、桜花は手持ち無沙汰に窓に映った自分の顔を見つめた。コンプレックスの癖毛が、バスの動きに合わせて揺れている。
その表情は、晴れない。
いつまで経っても、憔悴した湊の表情が頭から離れない。むしろ、振り払おうとするほどにこびりついてくる。何度も何度も、思考の空白に入り込んでくる。搾り出すような謝罪が、耳の奥で響く。
湊が何を抱えているのか、桜花にはわからない。湊は話せる状態ではなく、桜花もまたそれを聞けるほどの余裕も、勇気もなかった。推測できるほどの材料も頭脳も持ち合わせてはいない。辛うじて、『心が読める』という能力のせいだろうという推測だけ。
ただ、一つだけはっきりと理解している事がある。
自分の、ミス。
桜花が無理やり湊を連れ出さなければ、こんな事にはならなかったという、責任。乗り気ではなかった湊を、危険な人ごみに引きずり出した自分の罪。
『自分のせい』という言葉が、初めて重く圧し掛かってきていた。
わかっていたはずなのに。湊があれだけ他人を拒絶するのは、他人に拒絶されてきたからだと。あれだけ人を嫌うのは、人に嫌われてきたからだと。他人の本音を聞き続けて、他人という存在に嫌気が差していたからだと。誰よりも、理解していたはずなのに。
結局桜花は、自分の利益を優先した。湊の優しさに甘えて。
その結果が、さっきのあれだ。
それでは、毛嫌いしていた彼女らと変わらない。彼らと何も違わない。
最低で最悪に醜悪な、人と。
ため息の温もりが、窓に映る桜花を白く塗り潰した。