桜花の災難
人混みとはいえ、休日の漁火ヶ浜駅周辺よりは人の少ない中を、桜花は小柄な体を生かしてスイスイと進んでいく。
ついて来ていると思っていた化野湊の姿がない事に気づいたのは、一応確認のために振り返ったときだった。
「……あれ? 先輩?」
思わず疑問を声に出してから、遥か後方に見慣れた前髪があるのを見つける。いつも俯きがちだった顔が今はしっかり上げられていて、嫌な予感を募らせる。
桜花は自他ともに認める馬鹿だが、それでもわかる。
たぶん今、湊は苦しんでいる。
「先輩!」
人波を掻き分けて湊の方へ進みながら、できるだけ大声で呼ぶ。紛らわしいかと、もう一度名前込みで呼んだ。
「化野先輩!」
けれど、湊は反応しない。生気のない足取りで二、三歩後ずさり、何かを感じたのか踵を返して去ろうとする。膝が笑っている上にこの人混み、どうにも上手くいっていないみたいだが。
「先輩! どうしたんですか!? 大丈夫ですか!?」
やっとの事で湊の側へたどり着き、その千鳥足を脇から支える。かなりの大声で呼びかけた返答は、掠れた呟きだった。
「……いえ……はく……」
「はく?」
聞き返してから、嘔吐の事だと察する。顔から血の気が引いていく音がした。
「ちょっ、先輩我慢ですよ!」
湊と、支える桜花の尋常ならざる様子を察したのか、周囲の人垣が割れ、道ができる。周囲から刺さる視線に縮こまりながら、元来た道へと引き返した。
「せ、先輩! か、鍵! 鍵出してください!」
相変わらず周囲を認識できているのか不安になる湊を支えて、やっとの事でアパートまで帰り着く。途中何度か湊が吐きかけ、そのたびに背筋が凍る思いだった。
そして、最難関だと思われた階段を上りきった先、ゴールを目前にしてこのコースの難易度が更新される事になった。
「先輩! 鍵ですってば!」
湊の返答はない。ただ、小声でぶつぶつと何かを呟いているだけだ。そこに時折呻き声が混じる程度。桜花の声が聞こえているかどうかも怪しい。
「あー! 失礼しますよ!」
業を煮やして、湊が着ていたパーカーのポケットに手を突っ込む。確か、右だったような。曖昧な記憶を頼りに、ポケットをまさぐる。
「ない!? どこしまったんですか先輩!」
湊は鞄を持っていない。あるとすれば、パーカーかズボンのポケットだ。そう判断し、桜花は反対側のポケットに手を伸ばした。
結果、桜花が最後に回したズボンのポケットが当たりだった。四分の一どころか二分の一まで外した自分に呆れながら、鍵をドアノブに突き刺して、震える手で回転させる。
「ほら、つきましたよ先輩!」
不安定な体勢で扉を開けて、倒れこむように玄関へ踏み込む。
「トイレまで自分で行けますか?」
返答はない。だが、湊の現状は何よりも雄弁に、それが不可能である事を語っている。
ため息をつきたくなるのを堪え、靴を脱ぐ。
「靴、脱いでください。ほら、いきますから」
「――――」
「はい?」
湊に名前を呼ばれたような気がして、思わず聞き返す。だが、湊は桜花がいる事すらわかっているか怪しいような状態のままだ。
まともに取り合っていてはきりが無いと、疑問を振り払って靴を脱がせる。本格的に吐きそうになっている湊を引き摺るように、バスルームへと運んだ。
「先輩、吐くならここですよ! 動いちゃダメですからね!」
責務を果たすかどうか疑わしい指示を言い渡し、湊を座らせる。一度大きく息を吐いてから、先程鍵をまさぐったときに見つけた湊の携帯へと視線を移した。
別に何かいたずらを仕掛けようというわけではない。湊がこうなった場合の処置を、尋ねるためだ。
無用心にもロックのかかっていなかったスマホを起動し、連絡帳を開く。探すまでもなく、登録されているのは一人だけだ。
大きく息を吸って、吐く。桜花の胸中に居座る緊張とためらいを跳ね除ける。今は、そんな場合ではない。
発信の文字をタップ。コール音と、体内を叩く心臓の鼓動が重なり合って響く、数秒。
「珍しいね、君が電話をしてくるなんて。何の用かな?」
「も、もひ、もしもし!?」
繋がった。第一関門の突破に安堵する余裕もなく、電話口で疑問を抱えているであろう、町田昇に畳み掛ける。
「あ、あのっ! 昨日お会いした潮村です!」
「あ、ああ。昨日の方か。どうかしたのかい? どうにも、穏やかじゃあなさそうだけど」
芝居がかった語り口にリアクションを取る暇もない。桜花の頭は、悪寒を呼ぶ音を響かせ出した張本人が占めている。
「先輩、化野先輩が、きゅ、急に気分悪くなったみたいで! 吐いてるし! じ、持病とか! なんか、あの、どうしたらいいか……!」
今まで、湊を支えて家まで帰ってくる事に割いていた分の思考が、急激に不安と心配を膨らませる。とりあえず現状を報告しなければならない事は理解しているはずなのに、口から飛び出していくのはしどろもどろで要領を得ないものばかりだ。
それでも、
「……ああ、わかった。とりあえず吐いたんだね?」
昇は理解したようだった。
「あ、え、は、はい!」
何とか肯定の意を示すと、間髪入れず冷静な声が電話口から流れ出す。
「それじゃあ、落ち着くまで傍にいてやってくれないか。背中なんかを撫でてやると落ち着くだろう」
「そ、それだけ……ですか?」
あまりに簡単な、それこそ泣く子をあやすような解決策に、思わず目が点になる。だが、昇はあっさりと肯定するだけだ。
「ああ。それだけしかない。頼んだよ」
それだけで、ぷつりと通話が途切れてしまう。
しばらく呆然とスマホを見つめてから、我に返って踵を返した。