『声』が『聴こえ』ない
漁火ヶ浜商店街東口に隣接する路地から出たところで、
「あ、やっぱりいた!」
「ちょっ、桜花! 声大きいって!」
公序良俗に真っ向から喧嘩を売るような、世間一般が抱く女子高校生の悪いイメージを体現するような、かしましい会話が響き渡った。時間的に夕飯の買い物に来た主婦が多いのだろう、騒がしい商店街の中であればそれほど目立たなかったであろうが、生憎東口付近にはシャッターを店頭に並べた店舗が多い。商店街に隣接する遊歩道に植えられているのはイチョウの木。初夏と呼ぶのがふさわしい現在では、ただの広葉樹だ。
そんな風に閑静な場所だから、オレが登下校に利用できるわけだが。
「あ、あの!」
まったく、この東口を抜ければ、後は人のいない路地を三分歩くだけで家だと言うのに。こんな事なら、もう少しバス停に近いアパートにするんだったか。
思考を女子高校生の声から取り留めのない物思いにシフトさせ、早足に路地へ飛び込もうと歩幅を広げる。
「あのってば! 化野先輩!」
……人に名前を呼ばれたのは、教師の叱責を抜きにすれば久し振りだ。叔父の昇さんが最後に訪ねてきたのは先月の半ばあたりだから、それ以来か。
現実逃避気味にそんな事を考えたところで、東口方面から掛けられた呼び声がどうにかなるわけでもない。これ以上面倒なアクションを取られる前に、拒絶するのが得策か。
「……うるせぇ黙れ。消えろ」
「そ、そんな事言わないでください!」
なんで引き下がらないかなこの女子高校生は。普通初対面の第一声でこんな事言われたら二度と関わりたくならないはずなんだが。
どうにも調子が狂う。
「ね、ネクタイを返しに来たんです!」
はぁ、ネクタイね。昨日、猫に貸したヤツか。
「……あの猫の飼い主か」
「あ、はい! そうです!」
なんでコイツは一々語尾にエクスクラメーションマークを付けるんだ。もう少し静かに喋ってくれないものか。普段他者と会話しない人間にとって、少々毒だ。頭に響く。
突き出すように右手を差し出せば、おずおずと乗せられる細長い布の感覚。ひったくるように握り締め、ポケットに突っ込む。
「これで用は済んだろ。じゃあな」
「あ、待ってください!」
まだ何かあるって言うのか、この女子高生は。
「なんでこっち向かないんですか?」
立ち去りかけていたオレの背中にそんな問いをぶつけたのは、猫の飼い主よりも少しトーンの低い女声。もう一人いるのか。
「あ? そっち向かなきゃいけねぇ理由でもあんのかよ」
「普通、会話するときは多少なりとも相手の方を向くのが常識じゃないんですか?」
面倒な奴だ。なんでこう、オレに絡んでこようとするかな。あの学校でオレに積極的消極的に関わらず話しかけてくるヤツなんて、教師以外にはいないと思っていたんだが。
「あ、もしかして心が読めるっていう噂に関係してるんですか?」
無邪気な声音でぶち込んできたのは、飼い主の方。肺の酸素を惜しげもなく押し出して、けれど頑なに振り返る事はせず言葉のボールを叩きつける。
「だったら?」
「え、ホントなんですか!?」
ああ、もう。調子が狂う。
「って事は今も読めてるって事ですよね!」
「え、嘘!?」
ああー、もう。こいつら。
「振り返らねぇのは、お前らの心を読みたくねぇからだ。それくらいわかれ」
「え、じゃあ、振り返ってみてくださいよ!」
「ちょっ、桜花!」
呆れて、言葉が出なかった。
コイツ、オレの話を聞いてなかったのか? それとも、興味本位で読ませた挙句気味が悪いと言い出すヤツか。どちらにせよ、いい気分はしないな。止めに入っているもう一人の方が、よっぽど好感が持てる。
「ふざけんな。なんでそんな事しなきゃなんねぇんだよ」
「え、だって、面白そうじゃないですか!」
どこまでも、うざったいヤツだ。
けど、ここで振り返って『声』を『聴いて』、さっさと逃げてもらうのが一番手っ取り早いんだ。
それをしないのは、オレがまだ、『人間』であろうとしている証拠か、甘えか。
どうせもう何百人に嫌われてるんだ。今更二人増えようが関係ない。
そう自分に言い聞かせて、くるりと踵を返した。
猫背を正し、長い前髪の向こう側、黒い線が多分に遮る視界の中に立つ二人の女子高校生を見る。どちらも、オレと同じ高校の制服。まあこの付近には漁火ヶ浜高校しかないから当たり前か。
一人は、肩の辺りまで伸びた黒髪ストレート。吊り目気味できりっとした眉。全体的に気が強そうな印象。
《わっ、こっち見た! え、え、読まれてるの!? 何も考えないように……?》
「残念ながら、『聴こえ』てんぞ。『何も考えないように』って思考がな」
顔色を変えた女子高生から視線をずらし、癖毛の方を向く。隣との身長差は五センチくらいか。ぱっちりとした大きな目を、視界に捉える。
だが。
「……な……?」
『聴こえ』ない。コイツ、この癖毛の『声』が『聴こえ』ない。何でだ。何が起きてる。隣の吊り目の方は『聴こえる』のに。なんでコイツだけ。
「どしたんですか? 先輩?」
面白いほど狼狽するオレに歩み寄ってくる癖毛から一歩下がり、辛うじて一言だけ、舌に乗せる。
「……『聴こえ』ねぇ」
「え? 聞こえない? 何がですか?」
邪気のない動作で首を傾げた癖毛に、八つ当たり気味な苛立ちをぶつけながら、少しだけ混乱から立ち直る。
「……だから……お前の『声』だけ『聴こえ』ねぇんだよ……!」