猫が借りてきた
「おはよー、桜花」
中学のときから聞き慣れた友人の声で、潮村桜花は顔を上げた。予想通り、その視線の先に立っていたのは、見慣れた友人の顔。吊り目気味な目とはっきりした眉が、意思の強そうな印象を与えている。見下ろされている今は、少し威圧されてしまうほどに。
だがそれも慣れたもの。桜花は少し笑ってから、手元で弄っていたネクタイを置く。
「おはよ、凪」
そのネクタイに一度怪訝そうな顔を見せた友人――――十文字凪だったが、特に何を言うでもなく、桜花の前の席から椅子を引き出し、真っ直ぐな黒髪を揺らして腰掛ける。肩の辺りで揺れるそれを少々の羨望と込めて見やってから、改めて凪を見つめた。
「いいなあ、その髪」
「事ある毎に言ってるね、それ」
「だってー」
自らの前髪を摘み上げる。癖の強いそれは、真っ直ぐ伸ばせば目を越すほどだと言うのに、今は眉毛の辺りで渦巻いている。コンプレックスと言うやつだ。
「ま、それはともかくさ。猫、見つかったんでしょ?」
ぶすっとしている桜花の態度には頓着せず、凪が話を始める。桜花とて髪の話題に固執するつもりもなく、凪の始めた話題へ乗った。
「うん! でもね、不思議なんだよ」
「何が?」
身を乗り出した凪の好奇心に満ちた顔を押し留め、笑う。
「男の人の声で電話がかかってきて、漁火ヶ浜商店街東口にいるって言われたから慌てて行ってみたら、電話した人はいなくて、代わりにこれでセラがゲートに繋がれてたの」
手元で弄っていたネクタイを持ち上げてみせる。緑一色のネクタイ。桜花の通う、漁火ヶ浜高校のものだ。
「あ、それうちのだね。って事は、うちの男子?」
「だと思うんだよね。と、いう事で、我が校のデータバンクを自任する十文字生徒会副会長に依頼です。報酬はジュースで」
「ほうほう?」
人脈の広さによって集まる情報は教師を凌駕すると言う目の前の友人に存分に助けてもらってでも、このネクタイの持ち主を探し出したい。それが、桜花の心情だ。
「セラを見つけてくれたお礼がしたいので、このネクタイの持ち主を探してください」
「……ん、いいよー」
全校生徒の中から、名前も書いていないネクタイの持ち主を探せなどと言う無茶な依頼でも快諾するのがこの友人だ。そして、その反応の通り、彼女にとってこの程度は朝飯前でさえある。
「じゃ、早速言ってくるわー」
そして、この呆れた行動力も、彼女の長所だった。
「あ、いってらっしゃい」
こればかりは真似できないと歩み去る背中を見送りながら、手元のネクタイに目を落とした。
ふと、昨日の事を思い出す。
知らない番号からの電話には慣れる事はないものの、張り紙を貼って以来全てに応対する事にしている。そして、昨日の電話もそうだった。
『もしもし』。その問いへの答えは、呆れるほどに簡潔だった。
曰く、『猫を見つけた。漁火ヶ浜商店街東口のゲートだ』と。それ以降、戸惑い聞き返す桜花の声に返答したのは、無情なまでの不通音。半信半疑で駆けつければ、ネクタイでゲートに繋がれた迷い猫。半泣きで拾い上げ、両親に連絡して獣医に直行。多少叱られながら診察を終え、後生大事に抱きかかえて帰宅。
そして今に至る。
ふと教室前方にかかっている時計へ目をやる。
「あ」
チャイムが鳴るまで、後三十秒。
勇んで飛び出していった友人の姿は、まだない。
「見つけたよー」
弁当を広げていた桜花の前の席から椅子を引き出して、凪が腰を下ろす。その第一声に、箸を置いた。
「……速いね!」
「簡単だったよー。今朝ネクタイをしてなかった男子生徒の中に、『なくした』と供述した生徒はいなかったかって聞いて回っただけだからさ」
それで見つけるには、一年から三年までの全クラスの担任に話を聞かなければならないのではないだろうか。それが出来てしまうあたり、正面の友人はやはり凄い。
だが、凪は、依頼を完遂したにしては浮かない顔だ。どこか、何かをためらっているような。
「……桜花。そのネクタイ、さ」
「うんうん」
一度視線を泳がせた凪が、意を決したように桜花を真っ直ぐに見つめる。いや、その目を凝視していると言うべきか。何か重要な事を言うときの癖だ。
「……やっぱり、素直に先生に渡した方が良いよ」
むっ、と。遅刻扱いにされてかけてまで調査してくれた凪には悪いが、その意見には少し苛立ってしまう。
「なんで? 返しに行ったらダメなの?」
ハキハキしていると評判の友人は、今珍しく言葉を詰まらせている。その様子は確かに珍しいが、苛立っている今は、イライラを増長させるだけだ。
「持ち主が、化野先輩みたいなんだ」
どこかで聞いた事があるような名前に、首を傾げる。さも驚愕の事実と言った風な態度でそれを告げた凪は、桜花の返答に苦笑した。
「あ、知らないかー」
「うん。聞き覚えがあるくらい。その人誰?」
純粋に聞き返した桜花にどう答えるべきか、凪は渋い顔で思案する。言葉を選んでいるようだ。
「……やんわり表現して、『不良』かな。遅刻とかサボりとか、生活態度も悪いし、対人関係は最悪。それに、『人の心が読める』とかいう噂もあるし」
「……だから、直接会うのはダメって?」
「あー……うん。止めた方がいいと思う」
気まずそうにいい終えた凪に、思わず零した。
「本当に知ってもないのに、あれこれ言うのはダメだよ!」
ちらりと過ぎるのは、誰もいない公園の景色。遠巻きに囁く同級生の声。じわじわと責め苛む痛みは、心のもので、けれど実際に痛くて。
いつになく大声を出した桜花に、周囲の視線が突き刺さる。昼休み、和やかに談笑していた中のそれは、随分注目を呼んだらしい。
「……あ、はは……」
苦笑いでその視線をかわしながら、ばつの悪い半笑いを浮かべている凪に向き直る。
「ごめん、でも、やっぱりあたしはちゃんと会ってみたい」
しっかりと凪の目を見て言い返したその言葉に、凪は嘆息した。
「……わかった。ごめん、無神経だった」
中学からの友人は、深く頭を下げた後、即座に上げて言い放った。
「会うのはいいけど、今日の放課後。わたしも一緒に行くから」
何をどう判断してそんな結論に落ち着いたのかはさておき、桜花は頷いた。
「うん!」
「それで、どこで会うの? まさか三年生の教室まで行くわけじゃないよね?」
「え……あ、あはは……」
凪の口から、大きなため息が吐き出された。