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『3』

 

希薄な幽霊的存在から奇異な危険人物へ。

 僕のクラスでの立ち位置は一日を重ねるごとに変わっていった。

 ドラゴンからの要求はすでに八つクリアーしていた。

 残り二つ。

 あともう少しで、もう一度また存在感ゼロの幽霊的存在へと帰ることが出来る。

 トラブルなどなに一つ降ってこない、平坦で静かな毎日へとまた戻ることが出来る。

 僕は僕に戻ることが出来る。

 そう考えると、安堵の溜息がふと口から漏れる。


 『朝のホームルームの途中、椅子から転げ落ちること』

 

 『休み時間、椅子の上で正座して過ごすこと。上履きも脱いで』


 『図書館の受付で漫画はないのかと尋ねる。ない、と言われたら、明日まで用意することが出来るかどうか尋ねる』


 『数学の授業中ならいつでも構わない。ピっと裏声を出すこと』


 『購買で出世払いでクリームパン五つ買いたいと交渉すること』


 『次の生物の授業中、消しゴムを一番前の席の方まで転がし取りに行くこと』


 『今送ったメロディーを終わるまで鳴らし続けていること』


 僕はよく頑張った。

 そして、よく頑張っている。

 これまでの人生の中でもっとも辛い出来事の連続だった。

 この努力は、大きな拍手と賞賛だけでは讃えきれない。

 一時間目、遅い場合二時間目が終わる度に、僕は恐れを抱きながらメッセージを確認した。

 お陰で一時間目の授業はほとんど頭に入らなかった。

 不安混じりの緊張からガチガチに硬くなった頭の中には授業の内容が入り込む隙はなかった。

 二時間目の終わりまで届かない日はその緊張も倍となり、要求メッセージが届くとほっとしてしまったほどだった。

 そして、クリアー済みの八つの要求の中で、一番苦しく、恥ずかしく、精神力を枯渇させてしまったのが、『休み時間、椅子の上で正座して過ごすこと。上履きも脱いで』だった。

 

 突然の僕の奇行に、隣の席の柿崎さんなんかは逃げるように席を立たったし、その他のクラスメート達も僕から距離を取り、遠巻きに蔑んだ目つきで僕を見ていた。

 僕がちらりと視線を送ると、僕と視線を合わせたらまるで死んでしまうかのように皆一斉にさっと目を逸らした。

 自分自身が行っているこの行いを忘れ、現実から逃避すべく、僕は目を閉じ、ただただ十分間をやり過ごした。

 その途中、目を閉じていることにより研ぎ澄まされた聴覚に届いた「あいつ、やばい奴なんじゃない?」、「先生呼んだ方がいいんじゃない?」、「いや、先生じゃなくて、警察でしょ」といった言葉に胸はだいぶズタズタになってしまったものの、それでもなんとか僕はその短くも引き延ばされた十分間を耐え抜くことが出来た。

 


 残り二つの要求のうちの一つが届いたのは、いつもより随分と遅く、昼休みになってからだった。

 午前中の授業に体育が含まれていたのは、ある意味幸いだったのかもしれない。

 それ以外の授業の内容は、すでにほとんど記憶にない。

 

 『放課後、西玄関の裏に来ること。【注】私が出てから五分後に教室を出ること』


 これは、一体どういうことなのだろう。

 要求といえば要求で、頼み事といえば頼み事なのだろうけれど、これまでの内容とはまったくもって別物だった。

 そして、その別物であるという特殊性は、僕の頭の中によからぬ推測を浮かべ続けた。

 

 ドラゴンを含む数人が待っていて、そこでボコボコにされてしまうのでは。

 裸でグラウンドを一周とか無茶な要求をされるのでは。

 サッカー部の練習に飛び入りし、サッカーボール二個盗んで来い、なんてことを要求されるのでは。

 今すぐ野球部に入部しろなんて言われるのでは。

 僕はそんな推測と推測から生まれた想像により、午後の二時間を暗く重い気持ちで過ごすことになった。


 帰りのホームルームが終わると、ドラゴンは誰よりも早く教室を出て行った。

 長い髪の毛を翻し、颯爽と立ち去る彼女の姿は、なかなかに格好が良かった。

 堂々として、いや、堂々としすぎていて、溢れた勇敢さが辺りにまで零れ、広がっていた。

 メッセージの要求内容に従い、僕はちょうどぴったり五分後に教室を出た。


 以前は西玄関も利用されていたとのことだったけれど、今では生徒による使用はなく、靴箱には運動部の汚れたスニーカーやスパイクが収まっている。

 体育館に直結しているため、バスケ部やバレー部、それに柔道部が玄関前の水飲み場への利用通路として使われているだけだ。

 柔道着を着た見るからに逞しく恐ろしい先輩達が大声で笑っている横を足早に通り過ぎ、僕は目的地の西玄関裏へと到着した。

 そこはちょうど、プールのフェンスと校舎の壁に挟まれた秘密の場所というに相応しい場所だった。

 使われなくなった椅子や机が壁際に並び、剥がれたアスファルトの隙間から雑草が顔を覗かせていた。


 「ちょうど五分って言ったでしょ」


 プールのフェンスに体を預けたドラゴンは、なんとも不満げな、苛立たしげな目つきで僕を見た。


 「五分、ぴったりに、出たけど……」


 「じゃっ、遅すぎ。なんでこんなに時間かかるのよ。普通に歩いたらこんな遅くなんてなんないでしょ」


 「……ごめん」


 ドラゴンは短い溜息を吐き、預けていた体をフェンスから離した。

 

 「あんたってさ」


 と、そうドラゴンが一歩と共に言葉を口にしたときだった。

 足音が聞こえ振り返ると、そこにはゲームシャツを着たサッカー部員が立っていた。

 背が高く、爽やかそうな顔。

 面識はないけれど、彼のことは知っている。

 教室の前の廊下で何度か見かけたことがあった。

 それにクラスの女子達が彼について話をしてるのも聞いたことがあった。

 三年のサッカー部のエース。

 校内ベストスリーに入る人気者なのだとか。

 名前は忘れたけれど、その存在は知っている。

 どうして三年生が二年生の教室の前をうろうろしているのだろうと思いながらも、僕は特に気に留めなかった。

 この先無縁の関係であることは間違いないのだから。

 

 エースの先輩は、僕を見てはっきりとわかる驚きの表情を浮かべた。

 ぱっと目が大きく開き、あっ、という声まで聞こえてきそうな口の開け方だった。

 僕はどうしていいのかわからず、とりあえず小さく頭を下げた。


 「本当、だったんだ」


 エースの先輩が口にした言葉はドラゴンに向けられていた。


 「嘘だと思ってた」


 「ごめんなさい」


 ドラゴンはエースの先輩に言った。

 

 「彼氏がいないって、そう後輩から聞いてたからさ。だから、断るための口実だと思ってたんだ」


 「ごめんなさい」

 

 ドラゴンは髪の毛を手で押さえ、頭を下げた。

 

 かれし?

 彼氏!?

 誰が?


 「いや、僕の方こそごめん」


 違う。

 ごめんなさいとか、ごめんとかではなくて。


 「ちょっ。あの、っと」


 僕は口から出かけた続きの言葉を強引に押し戻した。

 そうさせたのは、ドラゴンの目から放たれた殺意からだった

 

 「ごめん。彼氏にも迷惑かけちゃって。それじゃ、僕は行くよ」


 エースの先輩は、ドラゴンに、そして僕にも頭を下げ、小気味良いスパイク音を鳴らし走り去って行った。

 

 エースの先輩が立ち去ると、ドラゴンはまたフェンスに体を預けた。

 僕はただ黙って、その場に立ち尽くしていた。

 どうしてこんなことになってしまっているのか。

 

 「これでやっと面倒がなくなったわ」


 ドラゴンは呟くように言った。

 

 「ほんとっ、しつこい男って大嫌い。男なら潔く退くことくらい身につけておきなさいよね。何度も何度もわけわかんないこと言って」


 ドラゴンにばれないように、僕は小さくこっそりと溜息を吐いた。

 ややこしくなりそうな、そんな濃い予感の重圧が肩に重くのしかかっていた。

 

 「間違っても、ってか、間違わないでよ」


 ドラゴンは気怠そうにしながらも、語気鋭く言った。


 「さっきの先輩、彼氏とかなんとか言ってたけど、それはあのしつこいナルシスト先輩からの面倒をどうにかしたかっただけだから。知ってるとは思うけど、あんたみたいな男を彼氏になんて、あり得ない話だから。まあ、自分でもわかってるとは思うけど」


 僕は頷いた。

 十分すぎるほど自覚している。

 僕みたいな男に彼女が出来るなんて思ってもいない。

 けれど、そういう目の前の女子だって、同じとは言わないけれど、男なら誰だって彼女になんてしたくはないだろう。

 あのエースの先輩は、見る目がなさすぎる。

 確かに、ドラゴンはルックスだけ見ると悪くはない。それどころか、美人とだって言える。

 だけれど、心はルックスと正反対だ。

 エースの先輩には悪いけれど、誰がこんな女子を彼女にしたいなんて思うのか。

 

 「でも、あれよね。先輩、このこと誰かに言ったりしないかしら。あんたと付き合ってるなんて言いふらされたら最悪なんだけど。先輩、私に彼氏がいないって、後輩から聞いたって言ったわよね? 今頃、その後輩になんだかんだって言ってるんじゃない? そっちの方が最悪なんだけど。どうすんのよ! 私のこれからのハイスクールライフ!」


 「そんなこと、言われたって」


 「はあ? なに? なんか文句でもあるわけ!?」


 なんで僕が。

 僕だってこんなことごめんだ。

 僕は巻き込まれただけなのに。


 「あんたみたいな男を彼氏だなんて。どうしよう。ほんっとうに。さいってい! ああ、もうっ! 失敗だったわ。もっとよく考えて行動するべきだったわ」


 ドラゴンは拳でフェンスを叩きつけた。

 

 どうして僕がそこまで言われなきゃ。

 要求は放課後ここに来ること、それだけだった。

 それ以上のことは、要求でもなんでもない。


 「明日から本当に憂鬱だわ。あんた、私の側に絶対近寄らないでね」


 そこまで言われる筋合いはない。

 もう、我慢できない。


 「僕だって、ごめんだ」


 「はあっ?」


 ドラゴンは訝しげに僕を見た。


 「要求は、放課後西玄関裏に来いって、それだけだろ。こんな風にしたのは、そっちだろ。僕だって、同じ。誰かに勘違いされたりしたら迷惑だから。もういい。nanoはちゃんと弁償するから。押し倒しただとか、なんだとか言いふらしたいなら、勝手に言いふらせばいい。それで構わない。もう、こっちが本当に勘弁だ。なんで僕がそこまで言われなきゃならないんだよ」


 言い終わった後、どっと疲労が押し寄せた。

 肩は激しく上下に揺れ、大量の血液を全身に送り出すために心臓は大きな音を立てていた。

 ドラゴンはなにも言わずに、口をへの字に曲げ僕を見つめていた。


 「それじゃ」


 僕はさっき来た道をさっきと同じくまた一人で歩いて戻った。

 もちろん、一度も振り返ったりはしなかった。

 

 後ろからローファーの靴音も聞こえてはこなかった。

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