世界の揺れ
己れは……己れは――――死にかけていた。
まだ死んではいない。けれど死んだも同然だ。
――――己れは傷を負っていた。
腹に、背中まで貫通するドデカい傷だ。
腰から下はそれこそ文字通り皮一枚で繋がっているだけだろう。
血は己れの身体を見限ったように、己れの身体から逃げ出すように、だくだくと流れだしてゆく。
まだ意識があるのが不思議でならない。まだ生きているのが不思議でならない。
己れは目を開けてみた。
とてもとても綺麗な曇った夜空だ。星一つはおろか、月の灯りすら見えやしない。
己れは首を横に捻ってみた。
背の低い草が飽きるほどたくさん並んでいた。
どちらも冥土の土産にするにはあまりに貧相でつまらない景色だ。
己れはもう一度目を閉じた。
こんな体についている目なんて、どの道必要ない。もう瞼を開くことは無いだろう。
かと思った矢先に、何かの気配が己れに近づいてきた。
空間を自分だけで埋め尽くさんと息巻く、強烈に巨大な存在だ。
仕方なく己れはもう一度目を開けることにした。
この存在、己れは知っていた。
知識としてだけ――――知っていた。
――――アーセラーナ・フォマルティア――――
己れも見るのは初めてだ。
長く、永く、解明され得なかった。そして今なお謎を多く残す、巨大建造物。
空に浮かぶもの、空を泳ぐもの、空を管理するもの。
諸説あるが、結局のところ、空に存在する意味不明な物体、としか認識されていない。
人それぞれにアーセラーナ・フォマルティアに対する認識があるのだ。
あるものは空に浮かぶ方舟だ、と。
またあるものは空にそびえる城だ、と。
――――己れは、空を泳ぐ、鋼の魚だ、と思った。
◇The story of the six keys
己れはエリオン・ディスデーター。
両親が共働きのこの世界では割と普通に属する学生だろう。
「誕生日、おめでとうございます、エリオンさん」
そして、今日は己れの誕生日だった。
目の前の女の子に祝われるまで、己れ自身、きれいさっぱり忘れていた。
「やあやあ、ありがとう」
己れはそんな言葉に対し、照れを隠すようにおちゃらけた返事を返す。
内心では飛び上るほどに嬉しいのだが、もう誕生日で喜ぶような歳じゃない。
今年己れは17歳になった。
だから何ができるようになる、と言うワケでもないのだが、これでまた1つ更新した。
…………彼女いない歴の。
「ケーキ、切り分けますね」
テーブルの上に置かれた彼女の手作りケーキにナイフが入る。
この場には2人しかいないのに、きれいに8等分してくれた。
「そんな細かく切り分けたって、しょうがないんじゃないか?」
己れは思わず素の意見を口から落っことしてしまう。
そんな己れに、彼女は微笑みながらこう言った。
「2人で1度、全部食べきれないでしょう?」
それはそうだ。
「それに、おじさんやおばさんの分も残しておかないと、ですよ」
人差し指をピンと立て、虚空に円を描きながら、言う。
まるで悪いことをした子どもをたしなめるような口調で。
己れより2歳も――いや、今日で3歳差か――年下なのに、とても気配りができて、家事全般に長け、前途有望な容姿の持ち主。
それが、今己れの目の前にいる己れの従妹、シルフィー・ケルセリアスである。
両親が共働きで、なおかつ遅くまで帰って来ないものだから、という理由で毎日お弁当や晩ご飯を作ってくれている。
時には掃除や、洗濯までしてもらっている始末。
我ながら情けない限りだ、と、いつも思うのだが、結局今日に至ってもまだ直る気配はない。
「そう言えばさ、栄養バランスとかは考えないのか? 今日のメニュー」
ケーキがメインディッシュなのは言うまでも無いが、その周りにはチョコレートやフルーツなど、糖分と脂質がが多分に含まれるものがひしめいている。
「今日はエリオンさんの誕生日ですから、特別です」
そう言っているが、己れは知っている。
彼女は、大の甘党なのだ。
「自分が食べたいだけだったりして」
彼女にとっては痛いところを突かれたのだろう。
一瞬表情をこわばらせるも、すぐに愛想笑いを浮かべてみせる。
「えへへー」
可愛らしく笑って見せる彼女の姿を見ていると、なんだか何をやっても許してあげたくなってしまうな、と思ってしまうのは、身内のひいき目、と言うヤツだろうか。
それからしばらく、おやつのような夕食もあらかた片付いてしまった頃だった。
「なんだか、騒がしくありません? 外」
そう、何があったかは分からないが、妙に外が騒がしい。
「見てきますね、エリオンさんは待っててください」
「んなワケにいくか」
彼女を制し、己れが窓から外を見る。
消防車や警察車が走り回っているのはさっきから音で分かっている。
問題は、何が起こっている?
その答えは案外すぐに届いた。
《緊急事態が発生しました。住民の皆さんは、命令の通りに退避機を作動させてください》
どうも、広範囲に及ぶ『何か』が発生したことは間違いなさそうだ。
その、『何か』が何なのかまでは、まだわからないが……。
とにかく、逃げるに越したことは無いらしい。
「避難命令だ……荷物をまとめよう」
この国では、危険度に応じて、3種類の警告が出される。
ひとつ、避難勧告。避難した方がいいかも、という、割と軽度なもの。
ひとつ、避難警報。避難しなきゃ死ぬかも、という、割と重度なもの。
ひとつ、避難命令。いいから逃げろ、逃げなきゃ殺すぞ、という、問答無用なもの。
今のは『避難命令』だから、問答無用の緊急事態だ。
しばらく遅れて、情報素子――様々な情報を交換するための機器のこと。この国では腕時計状にまとめられたコンパクトなものが主流――が、ディスプレイ――ホログラムのように宙に投影された画面のこと、現実世界のディスプレイと役割は同じ――を展開。警報のメッセージをデカデカと表示する。
――!!すぐに最寄りの退避機を使用してください!!――
そんなことはわかっている。
己れは荷物をまとめるシルフィーを後目に、押し入れから退避機――テレポート装置のこと、受信機のある場所まで対象となる物体を飛ばす――を引っ張り出す。
コート状のそれは、とても厚く、重いほこりをかぶっていた。
しかもこれは座標設定に時間のかかる旧式、いや、むしろ骨董品ともいえるほどだ。博物館に置いていても不思議じゃない。
だが、こんなものでも今ある退避機はこの退避機だけだ。他は無い。
のたのたしていたら、ここも危険にさらされるかもしれない。
己れたちは、ほこりを入念に払ってからそれを着込む。
そして電源コードを接続し、さっそく起動する。
…………遅い。
起動はした。だが、座標設定に時間がかかりすぎている。
かと言って、何が起こっているかも分からない状態だ。うかつに外に出るワケにもいかない。
つまり、他の退避機を探しには行けない。
ただ、間に合え、間に合えよ、と心の中で何度も、何度も祈り、念じるのみだ。
――――家の玄関の方で爆音が響いた。
神様はどうも己れの願いを鼻息ひとつで吹っ飛ばしてくれたらしい。
爆発のあった玄関の方から人が侵入してくる音が聞こえる。
あいにくと、今の己れたちには誰が、何者が侵入してきたかを確かめている暇も手段も無い。
できれば、関わり合いになる前に、テレポートし終えてしまいたい。
足音が近づいてくる。
今、己れたちがいるのは、2階。
来るなら来るで、後回しにしてもらいたいが、どうやら、向こうにはお見通しらしい。
こちらに向け一直線だ。
轟音、ドアが吹き飛ばされる。
いよいよ侵入者さんとご対面、となった。
「きひ、きひひひひひひひぃ!」
気色悪い笑い声と共に入室してきたのは、ピエロを連想させる仮面を被った、狂人。
手には大型の銃器…………アレは確か、携行型電磁波砲だ。
「ひゃあああはっはっはっはぁああああ!」
電磁波砲の砲口が己れたちに、正確に言うにはシルフィーに、向けられる。
そこからはもう、とっさの判断だった。
己れは彼女をかばうように前に進み出た。
それと同時、障壁機――バリアを発生させる装置のこと。数秒間、身体の表面に与えられる運動エネルギーを軽減することができる――を作動させる。
砲弾相手に気休めでしかないことは、わかっているが、無いよりマシだ。
そして、次の瞬間に己れの腹は砲弾を飲み込んだ。
「あ………………」
バリアで衰えたとはいえ、砲弾のエネルギーは己れの腹を抜くには十分だったらしい。
背中まで貫通したのが、感覚でわかる。
抜けたとはいえ、さすがに後ろのシルフィーを傷つけられないくらいに威力は減衰したはず。
つまり、彼女は守り切れたことだろう。
何だか奇妙な達成感がこみあげてくる。
何かをしゃべろうとしても、腹に力が入らず、声にならない。
というか、腰から下がまだつながっているかどうかすらわからない。
そんな思考を続けられるのもつかの間だった。
あまりの痛みに脳が思考を放棄してしまったのだ。
感覚を放棄するまでもう少しかかる。それまで思考はお休みだ。
…………………………。
脳が痛みを捨て去るころを見計らったかのように、緊急転移装置が起動する。
これで、安全地帯までひとっとびだ。治療も受けられる。
己れの身体が光に包まれ、しばらくたら、周りの風景が変わり始めた。
――――緑色の大地に、鈍色の空。
想像していた安全地帯とは似ても似つかない光景だ。
草がぼうぼうに生い茂り、地平線まで人の気配すらない。
さっきの砲弾のせいとしか考えられないが、何らかの理由で転移装置が壊れたのだろう。
もう1度使っても、戻れる保証はおろか、まず人が生きていける場所に出るかどうか自体が、危うい。
ああ、くそ…………。
ついて――――ないなあ……。
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――――人は空を飛べない。
知っているだろう? 人に羽はないのだから。
空は、雲は、その向こうの星の世界は、まだ誰も立ち入ることのできない世界だ。