第六章 疫病の影
王都の夜は、星々の輝きと貴族たちの華やかな笑い声に彩られていたが、私の心はすでに新たな試練へと向かっていた。
フィオレンティア王国北部で広がる疫病の報せは、まるで暗雲のように私の胸に重くのしかかっていた。
王宮のテラスでヴィットリオと交わした言葉の後、私は自室に戻り、静かな闇の中で己の使命を改めて見つめ直した。
白いローブを脱ぎ、簡素な夜着に着替えた私の姿は、聖女の輝きを一時的に脱ぎ捨てた、ただの十九歳の娘のものだった。
だが、胸の奥で脈打つ聖女の力は、決して消えることなく、私を次の戦いへと駆り立てていた。
窓辺に立ち、月光に照らされた王都を見下ろす。
石畳の通りには、未だ民衆の歓声が遠く響き、ヴェルトゥス荒野の浄化を讃える歌が聞こえてくる。
あの荒野で、私は神々の力を証明し、ルチアーノの裏切りを乗り越えた。
だが、この疫病は、荒野の魔物とは異なる試練だ。
人々の命が、刻一刻と奪われている。
私の力が、本当にその苦しみを癒せるのか。
不安が心の隅で囁くが、私はそれを振り払い、拳を握った。
「私は聖女、クラウディア・ヴィタリア。
神々に選ばれた者として、フィオレンティアの民を救うわ。」
その決意を胸に、私は翌朝早く、王宮の会議室に召集された。
重厚なオークの扉をくぐると、円卓を囲む貴族たちと神官たちの視線が一斉に私に集まった。
王、ジョヴァンニ・アルディーニが上座に座し、その隣には神官長ジュゼッペ・マッシモが厳かな表情で控えていた。
そして、意外なことに、公爵アレッサンドロ・モンテフェルトロの姿もあった。
彼の紫の瞳が私を捉え、穏やかな微笑みが一瞬浮かんだ。
その微笑みに、私の心は僅かに安堵を覚えた。
「聖女クラウディア、よく来てくれた。」
王の声は、威厳に満ちながらも、どこか切迫していた。
私は一礼し、静かに答えた。
「陛下、フィオレンティアの民を救うため、どのような試練も受ける覚悟です。」
王は頷き、円卓に広げられた地図を指した。
それは王国北部の地図で、赤い印がいくつもの村に付けられていた。
「北部の村々で、原因不明の疫病が猛威を振るっている。
発熱、咳、そして黒い斑点が体に現れ、数日で命を奪う。
すでに数百人が死に、村は壊滅状態だ。」
王の言葉に、貴族たちがざわめいた。
ある年配の貴族が声を上げた。
「陛下、これは神の怒りでは?
聖女とやらが現れたことで、神々の均衡が崩れたのです!」
その言葉に、私は眉をひそめた。
だが、ジュゼッペが鋭くその貴族を睨みつけた。
「黙りなさい、マルコ・ロンバルディ。
聖女の力は神々の加護そのもの。
そのような不敬な言葉は、神殿への冒涜だ。」
マルコは顔を赤らめ、黙り込んだ。
私は胸を張り、静かに口を開いた。
「陛下、神官長様。
この疫病が神の怒りであろうと、魔の仕業であろうと、私には関係ありません。
聖女として、民の苦しみを癒すのが私の使命です。
どうか、私を北部へ派遣してください。」
私の声は、会議室に響き、貴族たちのざわめきを静めた。
アレッサンドロが静かに口を開いた。
「聖女の志に敬意を表する。
だが、北部は危険だ。
疫病だけでなく、混乱に乗じた盗賊や魔物の襲撃も報告されている。
私、モンテフェルトロ家として、聖女に騎士団を同行させることを提案する。」
彼の言葉に、私は一瞬驚き、彼を見つめた。
その紫の瞳には、誠実さと強い意志が宿っていた。
王が頷き、アレッサンドロに視線を向けた。
「公爵の提案、もっともだ。
アレッサンドロ、汝自ら聖女の護衛を務めるか?」
アレッサンドロは一礼し、力強く答えた。
「はい、陛下。
聖女の安全と任務の成功を、私が保証します。」
その言葉に、私の胸は温かな鼓動で満たされた。
ルチアーノの裏切り以来、誰かにこうして信頼されることはなかった。
私はアレッサンドロに微笑みを向け、感謝の意を込めた。
「公爵様、あなたの支えに感謝します。
共に北部へ向かい、民を救いましょう。」
会議が終わり、私は王宮の回廊を歩きながら、胸の力を感じていた。
疫病を癒すには、聖女の力が不可欠だ。
だが、ヴェルトゥス荒野での経験から、私の力はまだ完全ではないことを知っている。
この試練は、私の覚醒をさらに深めるものになるだろう。
その夜、私は神殿を訪れ、ジュゼッペに助言を求めた。
神殿の聖なる間は、月光に照らされ、静寂に満ちていた。
ジュゼッペは星の水晶の前に立ち、私を振り返った。
「クラウディア、疫病は単なる病気ではない可能性がある。
古の書によれば、闇の魔力が病を広めることがある。
汝の力は、その源を浄化できる。
だが、心の闇に気をつけなさい。」
彼の言葉に、私は眉をひそめた。
「心の闇…ですか?」
ジュゼッペは頷き、厳かに続けた。
「聖女の力は、純粋な心に宿る。
ルチアーノへの憎しみ、裏切られた怒りが、汝の光を曇らせるかもしれない。
試練を乗り越えるには、心を清めなさい。」
私は目を閉じ、ルチアーノの冷たい笑顔を思い出した。
彼の裏切りは、私の心に深い傷を残した。
だが、聖女として、私はその傷を乗り越えなければならない。
私は頷き、ジュゼッペを見つめた。
「わかりました、神官長様。
私の心を清め、フィオレンティアを救います。」
翌朝、私はアレッサンドロ率いる騎士団と共に北部へ出発した。
ヴィットリオも同行し、彼の聖典を握る手には決意が込められていた。
馬車の窓から見える風景は、王都の華やかさから次第に荒涼としたものへと変わっていった。
北部の村々は、まるで死の影に覆われているようだった。
空は灰色に曇り、風は冷たく、疫病の匂いを運んでくる。
最初の村に到着した時、私はその惨状に息を呑んだ。
木造の家々は朽ちかけ、通りには死体が放置されていた。
生き残った村人たちは、黒い斑点に覆われた顔で私を見つめた。
彼らの目は、絶望と僅かな希望が入り混じっていた。
「聖女様…助けてください…。」
弱々しい声で呟く老婆の手を、私は握った。
その瞬間、胸の力が強く脈打ち、彼女の体に金色の光が流れ込んだ。
黒い斑点が消え、彼女の顔に血色が戻った。
村人たちが驚嘆の声を上げ、ヴィットリオが祈りの言葉を呟いた。
「神々の奇跡…!」
だが、私はすぐに次の患者へと向かった。
村人一人一人に触れ、聖女の力で癒していく。
しかし、癒すたびに、私の体に重い疲労が積み重なった。
疫病の源は、単なる病気ではない。
ジュゼッペの言葉通り、闇の魔力がこの病を広めているのだ。
夜、アレッサンドロが私の傍に立ち、静かに言った。
「クラウディア、無理はしないでくれ。
君の力はフィオレンティアの希望だが、君自身が倒れてしまえば元も子もない。」
彼の声は、まるで私の心を包む毛布のように温かかった。
私は微笑み、彼を見つめた。
「アレッサンドロ、ありがとう。
でも、私は止まれないわ。
この村を、この人たちを救うまで。」
彼は頷き、その紫の瞳に深い信頼を宿した。
「なら、俺は君の盾となる。
どんな危険も、俺が守る。」
その言葉に、私の心は強く鼓動した。
ルチアーノの偽りの愛とは異なり、アレッサンドロの言葉には真実が宿っていた。
私は彼の手を握り、決意を新たにした。
数日後、村の癒しを進めながら、私は疫病の源を探った。
聖女の力で土地を感じると、村の奥に古い井戸から闇の魔力が漏れているのがわかった。
私はアレッサンドロとヴィットリオを連れ、井戸へと向かった。
そこには、黒い水晶が沈んでいた。
ヴェルトゥス荒野で見たものと同じ、魔王の欠片だ。
「これが…疫病の源ね。」
私は呟き、水晶に手を伸ばした。
その瞬間、闇の声が再び私の心 odyssey を繰り返す。
「愚かな聖女よ、汝の光など、この闇には無力だ!」
だが、私はその声を振り払い、聖女の力を爆発させた。
金色の光が井戸を包み、水晶は砕け散った。
同時に、村の空気が清められ、疫病の影が消え去った。
村人たちが歓声を上げ、アレッサンドロが私の肩を抱いた。
「クラウディア、君はやり遂げた。」
私は微笑み、彼を見つめた。
「これで、フィオレンティアに希望が戻ったわ。」
村は甦り、村民たちの笑顔が私の心を満たした。
だが、遠く王都では、ルチアーノの嫉妬が新たな陰謀を育てていることを、私はまだ知らなかった。




