第一章 薔薇の誓約、砕けて
私の名はクラウディア・ヴィタリア。
十九の春を迎えたばかりの伯爵令嬢である。
エメラルドの瞳に、夜の帳を思わせる黒髪を腰まで伸ばした私は、鏡に映る己の姿を眺めながら、今日という日がどれほど特別であるかを胸に刻んでいた。
この日、侯爵家の嫡男、ルチアーノ・グリマルディとの婚約が正式に発表されるはずだった。
彼の金色の髪と、まるで夏の空を閉じ込めたような青い瞳は、私の心を初めて見た瞬間から捕らえて離さなかった。
幼い頃から共に過ごし、互いの笑顔を分かち合ってきた。
彼の手が私の手を握るたび、未来への希望が胸に灯った。
ああ、ルチアーノ。
私の愛する人。
あなたと歩む人生は、どれほど輝かしいものになるのだろう。
だが、運命とはかくも残酷なものだ。
その日の午後、グリマルディ家の広間で行われた晩餐会は、私の人生を永遠に変える舞台となった。
燭台の炎が揺らめき、シャンデリアの光が大理石の床に虹色の影を落とす中、ルチアーノは私の隣に立ち、微笑みを浮かべていた。
彼の微笑みはいつも私の心を温めた。
だが、その微笑みが今日はどこかよそよそしく、まるで仮面のように感じられた。
「クラウディア、話がある。」
彼の声は低く、まるで嵐の前の静けさを思わせた。
私は微笑みを返し、胸の高鳴りを抑えながら答えた。
「何でしょう、ルチアーノ? こんな素敵な夜に、どんな甘い言葉をくれるのかしら?」
彼は一瞬、視線をそらし、唇を噛んだ。
その仕草に、胸の奥で小さな不安が芽生えた。
だが、私はそれを振り払い、彼の次の言葉を待った。
「俺は、君との婚約を破棄する。」
その言葉は、まるで氷の刃のように私の心を貫いた。
一瞬、時間が止まったかのように感じられた。
周囲のざわめきも、燭台の揺らめきも、すべてが遠ざかり、彼の言葉だけが耳の中で反響した。
「…どういう、意味?」
私の声は震え、まるで別人のもののように小さかった。
ルチアーノは冷たく目を細め、まるで私がそこにいないかのように言葉を続けた。
「俺はもっと若い女と婚約する。
男爵家の令嬢、ベアトリーチェ・ファルコーネだ。
彼女はまだ十歳だが、未来の侯爵夫人としてふさわしい。」
ベアトリーチェ・ファルコーネ。
その名を聞いた瞬間、私の頭は混乱に支配された。
十歳の少女。
まだ子どもの彼女が、ルチアーノの隣に立つというのか?
私の心は、怒りと悲しみと、理解できない現実の間で引き裂かれた。
「ルチアーノ、あなた…何を言っているの?
私たちは、ずっと一緒にいるって約束したじゃない!
あの薔薇の庭で、永遠の愛を誓ったじゃない!」
私の声は、叫びに変わっていた。
周囲の貴族たちがざわめき、視線が私に突き刺さった。
だが、ルチアーノは冷ややかな笑みを浮かべるだけだった。
「君はもう十九だ、クラウディア。
俺には、もっと輝く未来が必要なんだ。
ベアトリーチェは若く、純粋で、俺の理想にふさわしい。
君には、もうその資格はない。」
その言葉は、私の誇りを、愛を、すべてを踏みにじるものだった。
私は拳を握り、涙が頬を伝うのを感じながら、彼を睨みつけた。
「あなたは…なんて卑劣な人なの!
私の心を弄んで、こんな形で捨てるなんて!」
だが、彼は肩をすくめ、まるで私の言葉など風に過ぎないかのように振る舞った。
「感情的になるな、クラウディア。
これが現実だ。
君はもう、俺の人生に必要ない。」
その瞬間、広間の扉が開き、小さな少女が現れた。
ベアトリーチェ・ファルコーネ。
金色の巻き髪に、まるで人形のような青い瞳。
彼女はルチアーノの隣に立ち、彼の手を取った。
その光景は、私の心を粉々に砕いた。
「ルチアーノ様、私、幸せです。」
ベアトリーチェの声は、鈴のように澄んでいた。
ルチアーノは彼女に優しく微笑み、私には決して見せなかった柔らかな表情で彼女を見つめた。
「ベアトリーチェ、君こそ俺の未来だ。」
私はもう、立っていることすら辛かった。
周囲の視線が、私を嘲笑うかのように感じられた。
貴族たちの囁きが、まるで毒のように私の耳に流れ込んできた。
「伯爵令嬢が捨てられたなんて…」
「十歳の少女に負けるなんて、みっともない。」
「ヴィタリア家の名に泥を塗ったわね。」
私は唇を噛み、涙を堪えながら広間を後にした。
ルチアーノの冷たい視線と、ベアトリーチェの無垢な微笑みが、私の背中に突き刺さった。
家に戻った私は、両親からの叱責に耐えなければならなかった。
父、アルフォンソ・ヴィタリアは、額に青筋を浮かべながら私を睨みつけた。
「クラウディア、なんて恥をかかせてくれたんだ!
グリマルディ家との縁が切れた今、ヴィタリア家の名は地に落ちるぞ!」
母、フランチェスカは、涙を流しながら私を責めた。
「どうしてルチアーノ様の心を繋ぎ止められなかったの?
あなたの不甲斐なさが、こんな結果を招いたのよ!」
私はただ、黙って俯くしかなかった。
私の心は、すでに砕け散っていた。
愛していた人に裏切られ、家族にすら見放された。
私の存在は、まるでこの世界に不要なもののように感じられた。
その夜、私は自室の窓辺に立ち、星空を見上げた。
月は冷たく輝き、私の涙を嘲るようだった。
ルチアーノの言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
「君には、もうその資格はない。」
私は拳を握り、胸の奥で燃える小さな炎を感じた。
それは、怒りだった。
悲しみだった。
そして、決意だった。
「ルチアーノ・グリマルディ。
あなたは私を捨てたことを、必ず後悔するわ。」
私はそう呟き、夜の闇に誓った。
この絶望の淵から、私は必ず這い上がる。
そして、彼に、私の価値を思い知らせてやる。
だが、その時、私はまだ知らなかった。
私の内に眠る力が、この国の運命を変えるほどのものだということを。
聖女の力が、私を新たな道へと導くことを。




