16-1 緊急事態発生
「奥様、昼食をお持ちしました」
イヴリンが食器や食事を載せたワゴンを押しながら、部屋に入ってくる。
このところ、エリサは大窓付近に椅子を置き、日光浴をしていた。外のことを思うと気が滅入るが、せめて部屋だけは明るくしていたかった。
この屋敷から町の様子はあまりわからない。人の行き来がうっすらわかる程度、ぼんやりしている。
「奥様、今朝もあまりお召し上がりになってませんね」
イヴリンは、テーブルに置かれたままの朝食を片付けながら言った。
こころなしか、イヴリンも口数が少なく、元気がない。それでも侍女らしくエリサに話しかけてくる。
「ダメですよ。ちゃんと食べないと、奥様までご病気になってしまいます」
「……わかってるわ」
健康のために三食きちんとバランスのいい食事を心がけ、食後はお茶もたくさん飲む。
軽くストレッチし、趣味に興じるのが通常の日課だったが、全部サボっていた。それほど、何も手につかない。
これは前世でも同じで、日頃は規則正しい生活を心がけているが、メンタルが沈むとぼうっとして過ごすのが常だった。ひどいときには酒に走っていた。今は、酒を飲む習慣がないので手を出してないが、酒の力を借りたくなる気分ではある。ただ、この世界の酒は口に合わないので、やはり飲む気はない。
だからといって何かを考えているわけではなく、ぼんやりと心と頭を無の状態にしているだけである。
エリサはちらりとイヴリンを見た。片付けを済ませた彼女は、紙を手にし、読んでいる。
「どうしたの?」
訊くと、イヴリンはハッとし、紙を背中に隠した。
「なんでもございません」
「お手紙? ご家族から?」
「えっと……そんな感じです」
イヴリンは苦笑したが、すぐに真顔になり、頭を下げた。
「申し訳ございません。仕事中にこのようなことを」
「ううん、いいのよ。私、もうすぐこの屋敷を出るから……あなたには悪いけど、お暇を与えることになるかもしれないし」
「えっ!?」
イヴリンは素っ頓狂な声を上げた。
慌てて駆け寄り、エリサの脇に膝立ちになる。
「それは、どういう意味でございますか? もしかして、もう独立を?」
「いいえ、違うのよ……なんて言ったらいいかしら。私は……」
とくに何も考えておらず、急に飛び出した言葉だった。
鈍く錆びついた思考を回し、言葉を考える。
「えっと、悪い噂が広まってるでしょう? 私が不貞を働いたとか。アベル様のご迷惑になるから、このまま消えたほうがいいかなって思ってて。どこにも行く宛はないんだけど」
「それは旦那様とお話し合いをされてのご決断なのでしょうか?」
「……いえ。まだ。アベル様、昨夜からいらっしゃらないから」
「そう、でしたね……」
イヴリンはゆっくりと口ごもった。座り込み、俯く。
エリサもため息をつき、椅子の背にもたれた。
「ごめんなさいね。あんな自信たっぷりに、独立したらあなたも一緒だなんて言って。期待させてしまったわね」
「いいえ! そんな……私なんかに、そのようなお気遣いは無用です。私なんかに……」
「何を言うのよ。イヴリンはとてもよく尽くしてくれてるわ。私の立場がよければ、ううん、そうじゃなくても対等に話せる友人として、私のそばにいてほしいわ」
俯くイヴリンの頬に手を当て、エリサは力なく笑う。すると、イヴリンは目に涙を浮かべた。
「奥様……でも、私は、そもそも身分が」
「何言ってるのよ。今のあなたは公爵家の侍女で、男爵家のご令嬢でしょう? あなたが優秀だからこそ、その立場にいるのよ。それに庶民の出とは言っても、同じ人間なんだから何も変わらないわよ」
自分も伯爵家の出というのは名ばかりで、虐げられてきた存在だ。
貴族らしさなんてなく、普通の女性として生きているようなもの。
エリサのその考え方に、イヴリンは涙を流した。そして、すっとエリサの手を取り、遠ざかる。
立ち上がるイヴリンは涙を拭って、微笑んだ。
「ありがとうございます、奥様。このご恩は生涯忘れません」
「大げさよ」
冷やかしてみると、イヴリンは「えへへ」と照れくさそうに笑って踵を返した。
「さて、お仕事に戻りますね。昼食、食べてください」
そう言って朝食を下げて部屋を出ていく。
エリサは彼女を見送った。なんとなく違和感を覚える。
踵を返したとき、イヴリンの暗くよどんだ表情が見えた気がしたが、それが意味するものは思いつかなかった。
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