第83話 白が崩れる
祈りは増えているのに、白は整わない。
聖都の朝は、鐘より先に導体が鳴った。
鳴るはずの一定音が、わずかに揺れている。揺れは小さい。だが小さい揺れほど、手順は敏感に拾う。
短杭の面が育たない場所がある。
逆に、過剰に反応して白い膜が厚くなる場所がある。
巡礼路の導体溝で白が溜まり、溜まった白が押し返し、別の溝へ流れ込む。
白が渋滞する。
渋滞は、祈りの量の問題ではない。
配る順番の問題だ。
順番が噛み合わない。
――地下監督室。
机の上の札束は、山になっていた。
山が増えるほど安心するはずなのに、安心は増えない。
増えるのは欄。増えるのは確認。増えるのは確認の確認。
そして、減るのは現場の息だ。
補佐は帳面を抱え、頁をめくりながら声を震わせた。
「届いています。……届いたことになっています。ですが、起動ログが一致しません」
言い訳みたいに聞こえるのが嫌で、補佐は言葉を硬くする。
「封鎖が起動しているのに狭まりきらない箇所があります。逆に、狭まったのに起動記録が薄い箇所も……」
監督司祭は眉一つ動かさずに聞き、机の端を指で叩いた。
その音が、部屋の空気を冷やす。
「祈りは増えている」
監督司祭が静かに言う。
「増えているのに整わない。……整わないのは、順番だ」
聖騎士隊長が唇を引き結ぶ。
「順番が狂っているなら、敵の――」
「証拠がない」
監督司祭が遮った。
「封蝋は割れていない。改竄は断定できない。侵入も断定できない。……だが噛み合わない」
噛み合わない。
それは昨夜から続く言葉だ。
言葉が続くほど、現場は薄くなる。
補佐が小さく言った。
「確認を……増やしますか」
監督司祭は、迷いなく頷いた。
「増やす」
聖騎士隊長が思わず声を落とす。
「増やせば、さらに手が吸われる。現場は――」
「薄くなる」
監督司祭は平然と言う。
「薄くなっても、揃える。揃えなければ守れない」
守れない。
その言葉は、武器より冷たい。
守れないと言われた瞬間、組織は“正しさ”を増やす以外の道を捨てる。
監督司祭はペンを取り、帳面に新しい欄を作った。
『確認:届いたか』
『確認:結果が戻ったか』
『確認:確認が完了したか』
『確認:完了の完了が記録されたか』
欄は増える。
増えた欄は、現場の時間を食う。
食われた現場は、さらに噛み合わなくなる。
噛み合わなさは、さらに欄を呼ぶ。
正しさが、正しさを食っていた。
――聖堂広場。
坂上マサトは、また壇上に立たされていた。
護衛は増え、神官の笑顔は柔らかく、紙片はいつもと同じ文言を並べている。
「ご安心を」
神官が囁く。
「揺れは一時のものです。坂上殿は器。器は揺れません」
揺れない。
揺れないように固定する。
優しい言葉は、優しい拘束だ。
民の祈りは増えている。
目は輝き、両手は組まれ、声は震える。
震える祈りが白を太くする。
けれど、マサトの胸の中心は満たされなかった。
あの冷たい快楽が、遅れる。薄い。
薄いほど怖い。
(……来ない)
来ない瞬間、マサトは自分が「守られている」のではなく「役割に縛られている」とはっきり理解した。
守られているなら、安心できるはずだ。
安心できない。
安心できないのに、笑顔だけは求められる。
壇上の端で、補助役が小声で言う。
「確認を――」
確認。
確認の確認。
その言葉が増えるほど、護衛の目が鋭くなる。
鋭くなるほど、マサトは逃げられない。
神官は微笑んだまま、マサトの腕に触れる。
触れられた瞬間、鎧の導体がひやりと返事をした。
返事は弱い。弱い返事は、さらに固定を呼ぶ。
――枢機局。
セルベルトは“揺れ”を揺れとして受け取らない。
揺れは、統制の口実だ。
「揺れているからこそ」
穏やかな声で言う。
「外殻更新を急げ」
側近が頷き、札箱を開ける。
新しい通達が、すでに形になっている。
「器を前へ。さらに前へ」
セルベルトは続けた。
「白は一点に集める。集めねば散る。散れば不安が増える。不安は異端を呼ぶ」
異端。
その言葉は便利だ。
便利な言葉は、素材を増やす。
「欠番補充の優先を上げろ」
側近が小さく復唱した。
その一言に温度はない。
温度がないから、胸が冷える。
――魔王軍拠点。
ショウマは線を見ていた。
聖都の白が渋滞している。
器へ逃げた白が安定しない。
安定しない白は、心臓へ戻りきれず、拍動が乱れる。
乱れは、こちらの窓だ。
だが乱れは、民の不安にも繋がる。
だから急ぐ。
止めるなら、今しかない。
ミラが短く言う。
「次で、止めたままにします」
レアが頷く。
「器が光らない時間を、伸ばします。前に出せない形にします」
グルドが指を組む。
「宛先狂わせは続けられる。帳面が厚くなるほど、向こうは自分で詰まる」
エヴェリナが穏やかに言った。
「白の節を潰せば、白は整えません。整えない白は、崩れます」
ショウマは息を吐いた。
崩れる。
崩すために、止める。
線の向こうで、心臓を止め切れる未来が伸びている。
伸びているのに――もう一つ、別の線が濃くなっていた。
支払い。
均衡の帳尻。
止めれば止めるほど、こちらに返ってくる。
ショウマの胸の奥が、冷たく刺された。
身体のどこかが、薄く削れていく予感。
強いものが、少しずつ剥がれる予感。
(止めた分だけ……俺に返る)
それでも、目は逸らさない。
逸らせば白が進む。
進めば欠番が埋まる。
埋まった欠番は戻らない。
聖都の上で、白は崩れ始めていた。
正しさが正しさを食い、帳面が現場を食い、白が渋滞して整いを失う。
白が崩れた。
――そして、その帳尻は、確かに彼へ向かっていた。




