第72話 窓の寿命
縫い目は、生き物みたいに呼吸していた。
息をしているうちは通れる。
息が止まれば、ただの石だ。
ショウマは外縁の丘に伏せ、聖都を見下ろした。
白い街。尖塔。巡礼路。整った区画。整った祈り。
――整いが、昨日より一段厚い。
線が見える。
縫い目へ落ちる線の周囲に、細い糸が増殖している。
縫い直し。縫い直し。縫い直し。
昨日の異常が、今日の規則になって、その規則が“穴の形”を変えていく。
「……やっぱり、来たな」
隣でレアが息を殺した。
倉庫群の角に、人が増えている。
増えたのは聖騎士だけじゃない。作業員の服を着た護衛が、同じ場所に同じ時間で立っている。
巡回じゃない。常駐だ。
常駐の足元には短杭点。
点は点のまま返事を揃えている。
そこにもう一つ、見慣れない動きがあった。
札箱を抱えた男が、倉庫へ出入りしている。
扉を叩き、札を差し出し、受け取った側が頷き、男が戻る。
それを、別の男が遠巻きに見ている。
届いたか。
届いたかどうかを、見ている。
ショウマの口の中が乾いた。
送達の“意味”を殺せば、これまでは現場が躓いた。
だが今は――躓いた瞬間が異常になる。躓きが確認される。
線が、そのまま言っている。
“届かない”が異常として処理される手順が、入口の周囲に張り付いていた。
「次で……死ぬ」
ショウマが呟くと、レアが頷いた。
「はい。縫い殺しです」
影走りの長の声は硬い。
「触れなくても閉じます。疑った時点で封鎖する形です」
疑った時点で封鎖。
教会側の“改定”が、もう現場の手足になっている。
ショウマは視線を切り、身を起こした。
ここで眺め続けても意味はない。
意味があるのは、決めることだ。
――魔王城。
会議室に集まった顔ぶれは、いつもより少ない。
少ないのに、空気が重い。
重いのは恐怖じゃない。時間が削れている重さだ。
ミラ=ザス・マギアが、机に札を置いた。
白紙に近いほど整った通達文。教会の手順が滲む匂い。
「聖都側の改定が落ちました」
凛とした声。硬い。硬いから揺れない。
「封鎖閾値の引き下げ。送達の“届いたか確認”。全域統制――広告塔に白を集約。外殻を前へ」
ドルガが腕を組んで唸る。
「やりにくくなった、で済むか?」
「済みません」
ミラは即答した。
「“乱せば閉じる”速度が上がりました。止め方を掴むための余裕が、削られています」
グルドが指を組み、乾いた声で言う。
「届いたか確認、というのが曲者だ。送達の意味を殺すだけでは異常が確定する。確定した異常は、封鎖札に直行する」
エヴェリナが穏やかに頷いた。
「手順が“戻って”きます。止めれば止めるほど、別の確認が増えます」
レアが短く言う。
「入口は次で死にます。――縫い直しが、もう始まっている」
全員の視線が、ショウマに集まった。
決めるべきは、やるかやらないかじゃない。
どうやって、軍規を守ったまま突破するかだ。
ミラが先に釘を刺す。
「軍規は維持します。騒乱を起こさない。民間と作業員を巻き込まない。意味のない殺傷はしない」
言い切ってから、ショウマを見る。
「――その上で、どうしますか」
ショウマは頷いた。
迷いはない。迷いが出るのは、まだ選べると思っている時だけだ。
「封鎖を起動させない、はもう無理だ」
ショウマは言った。
「乱せば閉じる。閉じる速度が上がった。……なら、起動しても効かない形にする」
ドルガが眉を上げる。
「効かない封鎖?」
「封鎖は“輪”だ」
ショウマは机に指で円を描いた。
「刻印と導体と返事が繋がって輪になる。輪が育てば、空間が狭まる。狭まれば、逃げ道が死ぬ」
ミラが頷く。
「輪を育てさせない」
「そう」
ショウマはレアを見る。
「輪の最初の点は、必ず返事をする。返事が揃えば輪が育つ。――だから、点の意味を殺す」
エヴェリナが穏やかに手を上げた。
「二重に殺します」
皆の視線が、蟲巣の女王へ向く。
彼女はいつも通り柔らかい声で、残酷なほど合理的なことを言う。
「一つ。点の返事を鈍らせます。返事を揃えさせません。
二つ。返事が戻る前に、次の返事先を潰します。輪が輪になりきる前に、連結を切ります」
グルドが喉の奥で笑った。
「点を殺すだけでは戻る。戻る前に次を潰す。……手順の“再起動”を許さない形だな」
「その間、俺は範囲を絞る」
ショウマは言う。
「封鎖が起動したら、広がる方向を一本に寄せる。局所化だ。局所化し続ければ、封鎖は広がりきれない」
ミラが視線を落とし、通達文の端を指で叩く。
「送達の確認は?」
グルドが答えた。
「止めない。止めれば異常だ。――宛先を狂わせる。正しい処理班に落ちないよう歪める」
老魔導師は言葉を選ぶように続けた。
「届いたかどうか、を確認するなら……確認先が違えば、確認は成立しない。現場は苛立つ。苛立てば手順を増やす」
手順が増えれば、噛ませる余地が増える。
こちらの悪は、そういう“整い”を利用する悪だ。
ドルガが顎を撫でる。
「外で事故を起こしても、慣れてきた。視線奪いは変える必要があるな」
「事故じゃなく、正規の渋滞だ」
ショウマが言った。
「正しい手順を過剰に発生させる。怪我人ゼロ、破壊ゼロで、現場の手を吸い取る」
ドルガが口の端を上げる。
「面倒見のいい武人の仕事だな」
レアが言った。
「縫い目は一つではありません。清潔な都市にも汚れはある。……第二の縫い目を探します」
視線がミラへ向く。
撤退導線の前提が変わるからだ。
ミラは、頷いた。
「探してください。今夜中に」
決断が早い。
「戻る道を守るのではなく、成果を持って抜ける道を作る」
会議室の空気が、ひとつ下に落ちた。
重さが増したわけじゃない。形が変わった。
――“帰る”が前提ではなくなった。
ショウマが最後に言う。
「次は、乱れで終わらせない。……止めるために、奪う」
ミラが、その言葉を受け取ってから、静かに言い切った。
「入口は捨てます」
全員の呼吸が、一瞬止まる。
捨てる。
捨てると言った瞬間に、戻り道は“道”ではなくなる。
道は、使い捨ての刃になる。
「捨てる代わりに取る」
ミラは続けた。
「心臓の前で、必要なものを取る。取れなければ、最初から行きません」
ショウマは頷いた。
その判断が、軍規を守るための判断だと分かる。
入口を守るために粘れば、騒乱になる。騒乱は民を巻き込む。
民を巻き込めば、悪ではなく害になる。
会議が終わり、ショウマはひとり外へ出た。
夜の風が頬を撫でる。魔王城の空は暗い。
暗いのに、聖都の白が目の奥に残っている。
ショウマは目を閉じ、線を見る。
縫い目へ落ちる線。
縫い目を縫い直す線。
“届いたか”を確認する線。
封鎖輪の種を運ぶ線。
そして――縫い目の寿命を数える線。
(短い)
数えるほど短い。
今夜を逃せば、窓は閉じる。
閉じた窓は、次の一歩を奪う。
レアが影のように隣へ現れた。
「……今夜、裂きますか」
「裂く」
ショウマは答えた。
迷いはない。迷いがあるのは、まだ選べると思っている時だけだ。
窓の寿命は短い。
だから、裂くなら今夜だ。




