第66話 工房の匂い
紙は軽い。
軽いくせに、胸の奥を重くする。
ミラが机に広げたのは、第七棚群の工程表の断片だった。番号札、欠番、補充予定、回収待ち――その冷たさは、祈りの言葉より雄弁だった。
グルドは紙に指を這わせ、まるで古い呪文を読むみたいに符丁を拾っていく。
「……ここ、“棚”じゃないな」
老魔導師が呟く。
「棚という名の、工程の節だ。保管は終点ではない。……通過点だ」
俺は因果の線を思い出す。
棚から奥へ伸びていた細い流れ。保管が終点なら線は散る。だがあの線は、束になって奥へ向かっていた。
「“素材”って単語が出た時点で、だいたい答えだ」
俺が言うと、ミラの目が一段硬くなる。
「聖教会は“奇跡”と呼ぶのでしょうね」
ミラの声は静かだった。
「棚に並ぶものを、祈りで清めて……英雄に捧げる、と」
グルドが笑わない笑いを漏らす。
「清める? 違うな。これは品質管理だ。工程表に『封緘工程:再確認』とある。封蝋は“儀礼”ではなく“封止”だ。混ざったら困るものが、混ざらないようにするための」
混ざったら困るもの。
俺は唇の裏を噛んだ。人を資材にする場所で、混ざると困るものなんて一つしかない。
「次は何を掴むべきだ」
ミラが言った。
統治者の問いだ。怒りを置いて、必要を優先する問い。
グルドが紙束を揃えた。
「運ぶ道だ。棚は材料庫。材料庫の奥には搬送がある。搬送の奥に加工がある。加工の奥に……中枢がある」
「搬送路を見に行く」
俺が言った。
「長居はしない。地図を埋める」
ミラが頷く。
「深追い禁止。騒乱は起こさない。――軍規は地下でも同じ」
当たり前だ。
聖都の地下で軍規が折れたら、俺たちは“悪”じゃなく“害”になる。
その夜、俺とレアはもう一度縫い目へ向かった。
人数は増やさない。増やせば目立つ。目立てば記録される。記録されれば入口が死ぬ。
点検口の周辺は、昨日より静かだった。
静かすぎる静かさ――手順が「落ち着いた」静かさだ。
「……封鎖ではありません」
レアが囁く。
「でも、見張りの点が増えてる」
俺は線を見る。
入口の周りに、細い糸が増殖している。前線の“狩り”じゃない。聖都の“監視”だ。
異常を拾った場所ほど、次は丁寧に縫われる。
「だから、今日で埋める」
俺が言うと、レアは無言で頷いた。
エヴェリナの糸を点に落とす。
点の返事だけを殺す。揺れは小さく。小さくなければ事件になる。
蓋を開け、梯子を降りる。
地下の空気は昨日と同じ匂いをしていた。
同じ匂いなのに、昨日より“整って”感じるのが腹立たしい。
棚の区画へ辿り着く。
番号札は変わらずぶら下がり、欠番の紙片もそのまま。
――欠番は補充されていない。補充予定は前倒し。現実は遅れる。遅れた現実は“罪”になる。
俺は棚の奥へ線を伸ばした。
薄い白い糸が、こちらへ逆流するように戻ってくる。
戻ってきて、棚に触れ、また奥へ向かう。
往復だ。
往復する流れは、加工がある証拠だ。
俺とレアは棚の端を抜け、奥の通路へ入った。
ここからは匂いが変わる。
紙の匂いが薄れ、油と布と――人の汗が濃くなる。
搬送路。
床には、細い溝が走っていた。
導体の溝だ。聖油が染みた跡が残っている。そこに刻印が重なり、祈りが“流路”として固定されている。
「……運ぶための祈り」
レアが吐息で言う。
祈りの声は聞こえない。だが、祈りの手順だけが床に刻まれている。
曲がり角の先で、足音がした。
人影が二つ。作業員の服。けれど、動きが一定すぎる。
祈祷班だ。
祈りを捧げるためではない。
工程を維持するために、一定の声で、一定のタイミングで、一定の量を流す。
横には護衛がいる。
護衛は祈祷班を守っているようで、実際は工程を守っている。
――宗教儀礼が、製造工程に置き換わっている。
俺は胸の内側が冷えるのを感じた。
聖教会は狂っているのに、手順は正しい。
正しい手順ほど、人を簡単に壊す。
その時、レアが指で壁を叩いた。
小さな刻印。扉の痕跡。搬入口の印。
「前室……」
レアの声は硬い。
前室。冷却、封印、一時保管――そういう工程の間にある部屋。
俺は線を見る。
扉の向こうに、流れが集まっている。
そこから先は、さらに太い脈へ繋がっている。
――心臓の前だ。
「今日はここまで」
俺が言うと、レアは一瞬だけ逡巡した。
降りたい。覗きたい。掴みたい。
その気持ちは、俺も同じだ。
だが欲張った瞬間、入口が死ぬ。
死んだ入口は、次の心臓へ届かない。
「……承知」
レアが答えた。
言い切った声が、少しだけ強い。
戻り際、作業員護衛が一瞬こちらを向いた。
目が合いそうになる。
だが彼は眉をひそめて、床の溝に目を落とすだけだった。
異常を見ていない。
異常は“反応”で見る。反応が無ければ、見ても確定できない。
俺は小さく結界を滑らせた。
反応が広がる方向を、一本に絞る。
一本に絞れば、一本の担当が来る。来た担当だけを止めればいい。
――その手前で、帰る。
地上に戻った時、夜気の香が妙に濃く感じた。
聖都は白い。
でも白は、地下の方が冷たい。
臨時拠点で、グルドが俺たちの報告を聞いて頷いた。
「搬送路があるなら、工房がある。工房があるなら……中枢は近い」
ミラが目を伏せ、短く言う。
「次は、工程を止めるのではなく……工程の“口”を取る必要がありますね」
口。
搬送路の口。前室の口。
口が分かれば、止め方が作れる。
俺は因果線を追った。
棚から奥へ、搬送路へ、前室へ。
その先で、脈が打っている。
まだ触れていないのに、触れた気がした。
拍動の気配は、薄いのに確かだ。
「心臓は……もうすぐだ」
俺が言うと、ミラの目が上がった。
硬いまま、決意の硬さに変わる。
「待てば育つ」
ミラが小さく繰り返す。
「だから、待たない」
工房の匂いが、まだ鼻に残っている。
祈りの匂いじゃない。
手順の匂いだ。
――次は、その手順を噛ませる番だ。




