第64話 縫い目の固定
聖都の外縁は、昨夜より白かった。
白が増えたのではない。白が「整った」。
倉庫群の巡回は増えている。詰所の兵が増えたのではなく、作業員に見える護衛が増えた。短杭の見張り点が、返事をするみたいに微かに脈を打つ。
――ここは戦場じゃない。間違いが“記録”になる場所だ。
「今日のゴールを確認します」
ミラの声は短い。乾いている。
「地下へ潜らない。入口を“確保できる状態”にして戻る。民間、作業員を巻き込まない。騒乱を起こさない」
「守れないなら侵入は成立しない」
俺が言うと、レアが頷いた。
エヴェリナは穏やかに手を重ねる。
「糸は点へ。面に撒きません。点の意味だけを殺します」
グルドが細い指を鳴らす。
「追跡祈祷の更新を噛ませない。札が通る道を遅らせる。――短い時間しか作れんが、短ければ足りる」
ドルガは鼻を鳴らした。
「外で視線を引き受ける。派手にゃやらねぇ。壊さねぇ。だが手は奪う」
決めたら動く。
聖都は待ってくれない。配線は太くなるだけだ。
夜。
レア隊は最小人数で外縁へにじむ。影に沈まない。影の端を歩く。
前回の縫い目――倉庫群の壁沿いへ向かう道筋は、すでに白で縁取られている。避けた場所ほど、こちらの癖を覚えられる。
「……巡回が二重です」
部下が囁く。
「分かっている」
レアは返す。
「だから、こっちも“二重”にする」
合図が遠くで一度だけ光った。
ドルガ側の陽動が始まった。
倉庫群から少し離れた巡礼路の脇――荷車が「偶然」横転する。
木箱が転がり、樽が転がり、道が詰まる。
怪我人は出ない。壊れたのは箱の角だけ。だが詰まりは詰まりだ。詰まれば人が集まる。集まれば視線がそちらへ向く。
「何をしている! 急げ!」
司祭の怒鳴り声が夜気に混じる。
「油が遅れるぞ! 言い訳をするな!」
物流が怒鳴り返す声も聞こえる。
現場の摩擦は、こっちの味方だ。
“正しさ”で押さえつけた亀裂ほど、外から押せば開く。
巡回の一部がそちらへ流れた。
今だ。
レア隊が倉庫裏へ滑り込む。
壁の白さがくすむ場所。匂いが違う場所。清潔な聖都の裏側。
縫い目は、今日もそこにあった。
石蓋。金具。短杭の見張り点。
点は点のまま、こちらを見ている。
「触れません」
レアが小さく言う。
「噛み合わせません」
エヴェリナの糸が、夜の空気に溶ける。
絶縁繭は広げない。点に落とす。短杭の“返事”だけを殺す。
点が点として連携できなくなると、監視は監視のまま残る。だが報告が遅れる。
白が、ほんの僅かに揺れた。
揺れは小さい。小さいほどいい。
大きく揺れれば“事件”になる。小さく揺れれば“局所トラブル”になる。
俺は少し離れた位置で因果線を見ていた。
見張り点の線が、一本だけ強く立ち上がりかける。
その一本が広がれば、倉庫群全体が締まる。
(一点に固定する)
結界操作。
刺さる方向を限定するのと同じだ。
報告が走る方向を限定する。
線が一本に集まる。一本に集まった異常は、一本の担当へ落ちる。
担当が来る。来た担当だけを止めればいい。
レアは金具へ刃を滑らせた。
音を殺すために持ち上げない。楔で浮かせ、絶縁膜で石と石の擦れを殺す。
蓋が開く。
地下の匂いが吹き上がった。
湿り、土、石、そして薄い聖油の残り香。
穴は、今日も生きている。
――降りたい。
降りれば次へ進める。
だが今日は違う。今日は“確保”だ。
レアが覗き込み、目だけで中を読む。
梯子。導体溝。壁面の刻印。
下へ伸びる白い糸の気配。
「繋がっています」
レアが小さく言った。
「……下は、導線です」
その瞬間、靴音。
角から現れたのは、作業員の服を着た男。
だが歩き方が堅い。視線が真っ直ぐ短杭点へ向く。
護衛だ。しかも“確認”に来た護衛。
(早い。報告が一本に集まった分、対応が早い)
レアが動こうとする前に、エヴェリナの糸が落ちた。
男の足首が固まる。膝が止まる。
息は残る。意識も残る。だが叫ぶために身体を捻れない。
……それでも男は手を動かした。
胸元から、小さな札を取り出す。
報告札。送達するだけで、次から入口が死ぬ類のやつ。
「……っ」
レアの部下が息を呑む。
俺は線を見る。
札の送達線が、細く伸び始めている。
伸びた瞬間に、記録になる。
(届かせない)
結界を、札そのものへ滑らせた。
破壊ではない。奪い取るでもない。
“通る意味”を殺す。
札の線が、途中で途切れた。
札は札のまま男の指にある。だが送達が起きない。
届かない報告は、ただの独り言だ。
男の目が驚愕に見開かれる。
だが声は出ない。身体は固い。
叫べないまま、ただこちらを見ている。
レアは男を引きずらなかった。
痕が残る。騒ぎになる。
代わりに、男の視界の端へ水の小袋を押し込み、そのまま寝かせる。
丁重に。――敵と同じように丁重に。だが意味は逆だ。
「閉める」
レアが言う。
蓋を閉める。音を殺す。金具を戻す。
糸は回収しない。溶けるまでが勝負だ。
そして――“何もなかった”ことにする。
影走りは倉庫裏から出ない。
影の端を歩いて、荷車の影へ乗り換え、壁の影へ溶ける。
人の目ではなく“手順の目”から消える動きだ。
遠くで、白が一瞬だけ濃くなった。
監視が異常を拾っている。だが確定できない。
確定できない異常は、現場の苛立ちを増やすだけだ。
――それでいい。
苛立ちが増えれば、現場は“手順通り”に動こうとする。
手順通りは、噛ませれば止まる。
臨時拠点へ戻った時、ミラがまず見たのは成果ではなく顔色だった。
「損は」
「無い」
レアが即答する。
「拘束は最小。騒乱なし。目印も残していません」
「入口は?」
「繋がっています」
レアが続けた。
「点検口か搬入口。短杭の見張り点はありますが、点の意味は殺せます。下は導線――導体溝と刻印がありました」
グルドが指を組んだ。
「報告札が出たか」
「出た」
俺が言った。
「届かせなかった。だが次は別の手で来る。……入口は“生き物”だ。今日生きてても、明日死ぬ」
ミラが頷いた。
「だから固定する。次は潜るための窓を作る」
統治者の声だ。迷いがない。
俺は目を閉じ、因果線を追う。
外縁の縫い目から、地下へ落ちる線。
その先で線が一瞬だけ太くなり、脈を打った。
――下は、動いている。
湿った石の匂いの向こうに、冷たい整然さがある。
棚。番号。札。工程。
そういう“人を資材にする場所”の匂いだ。
「……保管区画の匂いがする」
俺が言うと、レアの目がわずかに細くなる。
ミラの表情は硬いまま、強くなる。
「では次は、降りる」
ミラが言った。
「縫い目を裂いて、中身を見る」
聖都の白い布は、まだ整っている。
だが縫い目は、こちらの手の中に残った。
裂く準備は、できた。




