第58話 言い訳を許すな
聖教会・巡礼路第七線。
白が、一度揺れた。
揺れたのは昨夜だ。
今朝の現場には、その“後始末”だけが残っていた。
「交換! 次の杭を! 点が繋がらんぞ!」
作業員が叫び、汗まみれの手で短杭を抱える。
杭は折れていない。だが、繋がらない。面にならない。昨日の配置が、どこかで噛み合っていない。
「祈祷役! 声を落とすな!」
幕屋の司祭が喉を擦りながら怒鳴る。
声はすでに枯れかけている。祈りは継続が命なのに、継続するほど人間が持たない。
「聖油! まだ来ないのか!」
導体担当が、空の樽を叩いた。
叩いても、油は増えない。
現場の空気は尖っていた。
敵の影に怯えて尖るのではない。味方同士で削れて尖る。
「……祈りが届かなかったのです」
若い司祭が、言い訳みたいに呟いた。
物流担当がすぐ噛みつく。
「届かせるのが俺らの仕事だ。だが油が無い。樽が無い。道が詰まってる。祈りで車輪は回らん」
「献身が足りぬからだ!」
別の司祭が叫ぶ。
「巡礼者が怯え、歩みを止める。だから供給が滞る。つまり信仰の弱さが――」
「逆だ!」
物流の男が顔を真っ赤にして怒鳴り返す。
「供給が滞るから歩みが止まる! 道が塞がれてるんだよ! 誰が祈っても、荷車は岩をすり抜けねぇ!」
横で聞いていた聖騎士が、剣の柄を叩いた。
「敵がいるのに内輪揉めするな。白が揺れた理由を、口でこねる暇があるなら守れ」
守る。
守るためには回す。
回すためには運ぶ。
運ぶためには……。
言葉が絡まって、誰も次の一手を言えない。
その沈黙を破ったのは、一枚の札だった。
監督役の司祭が、聖都から届いた命令札を高く掲げる。
封蝋は新しい。墨は冷たい。
『停止を許すな』
『物流の遅延を言い訳にするな』
現場の空気が、一瞬で凍った。
「……言い訳?」
物流の男が、笑った。
笑いになっていない。歯が見えるだけだ。
「言い訳じゃない、現実だ。油が無けりゃ白は立たねぇ。現実を“罪”って呼ぶのが正義か?」
司祭が反論しようと口を開き――言葉を探して詰まった。
詰まったその隙を、別の者が埋めた。
「正義だ」
外殻護衛隊の聖騎士が、当然のように言った。
彼らは他部隊と装備が違う。
鎧の縁に聖紋が走り、肩口に白い房飾りが揺れる。器の護衛。外殻運用の看板。
「器が立てば白は折れぬ」
護衛騎士は、丘の方を顎で示した。
「整えられぬのは現場の怠慢だ。物流も、祈りの一部だろう」
その言葉に、司祭たちは救われたように頷いた。
彼らにとって必要なのは理屈ではない。正しさの旗だ。
丘の上では、白が立っている。
昨夜揺れたはずの白が、今は何事もなかったように立っている。
だから「問題は解決している」という顔ができる。
物流の男が唇を噛んだ。
「……あれが立ってりゃ、全部こっちのせいか」
小声だった。だが近くの聖騎士には聞こえた。
「不満なら敵に向けろ」
聖騎士が言う。
「敵がいる。魔族がいる。影が――」
「影のせいにしときゃ楽だよな」
物流の男が吐き捨てる。
「でもよ、昨夜揺れたろ。揺れたってことは、どこかで“こちらが詰まった”んだ。詰まったのは……」
誰も続きを言えない。
言った瞬間、罪になるからだ。
そこへ、火に油を注ぐ一言が落ちた。
「……高城殿がいれば」
誰かが、ぽつりと言った。
現場の祈祷役だったか、護衛の若造だったか。誰でもよかった。噂は誰の口からでも育つ。
「所在不明の者を当てにするな」
外殻護衛が即座に切った。
「器は一人で足りる」
その冷たさに、現場の聖騎士が眉をひそめる。
物流の男は、さらに小さく刺した。
「……消されたんじゃないのか。高城殿も、素材に――」
言い終える前に、司祭が青ざめて叫んだ。
「口を慎め! そのような不敬を――!」
だが、もう遅い。
言葉は落ちた。落ちた言葉は拾えない。
現場は割れ目だらけだった。
そこへ、上から楔が打ち込まれる。
昼過ぎ。
聖都の紋をつけた馬車が到着した。白い幕、金の飾り、護衛の列。
監察役――枢機の代理、と名乗る司祭が降りてくる。
現場の者たちは背筋を伸ばし、頭を下げた。
不満があっても、頭は下がる。下げなければ罪になる。
「各位、ご苦労」
監察役は笑顔だった。
笑顔のまま、現場の泥も汗も見ていない目をしている。
「外殻運用は成功した」
開口一番、それだった。
「影の脅威は抑制されている。白は折れていない」
丘の上を指すまでもない。
白は立っている。
立っている以上、失敗は存在しないことになる。
物流担当が口を開きかけた。
油が足りない。道が詰まっている。交代点が噛み合わない。現実を――。
監察役は、その前に言った。
「滞りは罪だ。罪は処理する。物流も信仰の一部である以上、“現実”を言い訳にしてはならぬ」
言い訳。
その言葉が、現場の喉を締めた。
監察役は穏やかな声のまま続ける。
「現場の苦労は理解している。だからこそ、秩序が要る。秩序は祈りであり、祈りは秩序だ」
理解していない。
理解する気もない。
理解しなくても、上は回る。回るように作っている。
外殻護衛が一歩前に出て、胸を張った。
「次は取り逃しません。逃走経路も学習します」
監察役が満足げに頷く。
「よい。逃げ道を学べ。影は逃げる。逃げる者は、狩られる」
現場の聖騎士が拳を握った。
物流の男は歯を食いしばった。
司祭は胸に手を当てて「はい」と言った。
表向きは収まった。
会議は終わり、皆が頭を下げた。
それで終わったことにされた。
だが、終わっていない。
物流は司祭を恨む。
現場の聖騎士は中枢を恨む。
司祭は現場を叱り、現場は物流に怒鳴り、物流は祈りを呪う。
丘の上では、白が立っていた。
白が立っている限り、誰も逆らえなかった。
監察役の馬車が去る。
その背中が見えなくなった頃、現場の空気はようやく吐息を取り戻す。
吐息は、祈りではない。
ため息だった。
「……高城殿は、結局どこへ」
誰かがまた小さく言う。
誰も答えない。
答えれば罪になるからだ。
答えないまま、白は立ち続ける。
広告塔として。
統制として。
そして“狩り”の旗として。
白は立っていた。
――立っている限り、現場は黙るしかなかった。




