第49話 心停止前夜――柱に触れる
白が痩せた。
昨日まで森の奥を押していた圧が、ほんのわずかに抜けている。
それは勝ちの匂いでもあるし、同時に――敵が本気になる合図でもある。
「……息が、少しだけ楽」
レアが低く言った。
「血管が切れた分、心臓が空回りしてる」
ショウマは淡々と答え、《結界操作》の膜を薄く張る。
消す膜じゃない。輪郭を削って馴染ませる膜。
今日は“止める夜”の前日だ。壊す夜ではない。
囮終点の方角で、灯が揺れている。
敵の目が引かれている。
昨日仕込んだ“終点の匂い”が、ちゃんと効いている。
「今のうちだ」
ショウマは短く言った。
「穴から入る。近づく」
リュシエンヌが上品に微笑む。
「まぁ。心臓に触れる夜ですのね」
「触れるだけだ」
ショウマは釘を刺す。
「止めるのは、次」
「従順ですわ」
リュシは半歩下がる。抑え最小限の顔。
◇
侵入口は、昨日抜いた“裏動線”。
補給扉ではない。補給扉へ繋がる、人が点検に使う細い通路。
白の圧が濃い場所ほど、逆に盲点がある。
強い光は、強い影を作る。
影走りが先に滑り込み、巡回の癖を一拍だけずらす。
レアが続き、見張りを二人、音もなく無力化した。
鼻口を抑えるのではなく顎を固定して呼吸を落とす。倒す前に受ける。
殺さない。置く。
ショウマは《結界操作》で、通路の“足音が届く意味”を薄くした。
完全には消せない。聖域帯が濃すぎる。
だから遅らせる。一拍ずつ。
通路の先、白い柱が見えた。
近い。近いほど圧が重い。肺の底が押される。
胸の針が、柱へ引かれる。
標が、そこにある。
「……心臓」
レアが呟いた。
ショウマは頷くだけで答えた。
◇
柱の周囲は、“回路”だった。
床に溝。溝に薄い聖油の跡。
壁に刻まれた聖印。短杭の点が、ここへ向かって線を作る。
祈りの声が、遠くから一定のリズムで響いている。
唱和。手順。止まらない工場の音。
(集めて、配る)
(祈りと油と杭で、心臓にしてる)
ショウマの因果視界では、白い線が柱へ吸い込まれて、また散っていくのが見える。
そして、その白の中に――潰して固めたような線が混じっている。
人の線。残滓。
喉が冷たく固まる。
怒りは熱じゃない。冷たい。だから折れない。
「……ある」
ショウマは低く言った。
「やっぱり、ここだ」
レアが一度だけ拳を握った。
言葉は飲み込む。役割が先だ。
リュシエンヌが上品に囁く。
「綺麗なほどに、悪趣味」
「余計な感想は後」
ショウマは短く切り、腰の袋を開いた。
絶縁繭。
エヴェリナが用意した、聖圧を鈍らせる膜。
それを、影印杭に被せる。
影印杭を二本。
深くは刺さない。柱を壊すわけじゃない。
柱の外縁、回路の“脈”が通る位置に置く。
「ミニ網だ」
ショウマは小さく言う。
「ここで“吸い”を成立させる準備」
レアが頷く。
「次で止める」
リュシが微笑む。
「止めるなら、もっと確実に――」
言葉の途中で止めた。
視線が、ショウマの手袋へ落ちる。上品に、ちらり。
ショウマは言う。
「今は要らない」
即断だ。曖昧にしない。
「今日は触るだけ。止めるのは次。血の許可は出さない」
「まぁ」
リュシは従順に引いた。
だが目の奥は夜だ。
レアが腕を強く組み直す。
ムッとする感情を押し込み、前を見た。
揉める余裕はない。ここは心臓の近く。
◇
仕込みは済んだ。
次は確認。
止められるかどうか、触って確かめる。
ショウマは手袋の上から、柱へ掌を当てた。
瞬間、白の圧が跳ねた。
反発ではない。吸い込まれる感覚。
世界の“流れ”が、掌の下に集まってくる。
(――重い)
(これが、心臓)
ショウマは《結界操作》で、ほんのわずかに“向き”を捻った。
止めない。止めかける。
脈が一拍だけ、乱れる程度。
柱の白が、ほんの僅かに唸った。
見える者には見える。
見えない者でも、感じる。
祈りのリズムが、瞬間だけ乱れた。
「……っ」
レアが息を詰める。
「今、揺れた」
「止められる」
ショウマは淡々と言った。
「理屈は通る。次で、止める」
その直後だった。
外周の方角で、灯が一斉に動いた。
囮終点に寄っていた光が、突然“戻る”。
戻り方が速すぎる。
(気づいた)
(いや――気づかれた)
白い膜が、周囲で増える気配。
短杭が“面”を張る速度が上がる。
聖印粉が撒かれる、乾いた音。
そして、鎧の擦れる音。狩りの歩き方。
「包囲が来る」
影走りが指で合図した。
言葉はない。動きだけで分かる。
リュシエンヌが上品に微笑む。
「まぁ。間が悪いこと」
「間が悪くていい」
ショウマは柱から手を離さない。
今、掴んだ。
脈の癖。流れの向き。止め方の感触。
そして――
“鐘”が鳴った。
音ではない。
空間が震えるような鳴動。
聖印そのものが「異常」を周囲へ告げる警報。
外から怒号が上がる。
「主幹が揺れた!」
「侵入だ! 面を張れ! 短杭を繋げ!」
「祈祷役、詰所へ! 白を落とすな!」
レアが即座に前へ出る。撤退線を作る動き。
殿の癖が出そうになるが、押し込めている。役割だ。
「撤退ルート、こっち」
短く、強い。
「走る。転ぶな」
リュシが微笑みながら、瞳の赤を一段濃くした。
だが圧は出さない。まだ出せない。約束がある。
「ショウマ」
レアが呼ぶ。
「離れて」
ショウマは最後に、柱へ掌を押し当てたまま言う。
「心臓は、止まる」
声は低い。冷たい。
そして手袋の上から、柱の脈を一拍だけ“殺しかける”。
止めない。止めかける。
次の夜のための、釘打ちだ。
柱が、短く唸った。
白が一瞬だけ痩せる。
祈りのリズムがまた乱れる。
「……これでいい」
ショウマは掌を離し、振り返った。
外周から足音が迫る。
複数。監督役の靴音じゃない。掃討隊。
狩りに慣れた隊列の足音。
白い面が、こちらへ伸びる。
短杭の点が繋がり、逃げ道が削られる。
ショウマは弓へ手を伸ばしながら、冷たく言った。
「心臓は止まる。問題は――」
レアが先に走り、影走りが続く。
リュシが一歩だけ前へ出る。微笑みのまま。
「俺たちが、生きて帰れるかだ」
警報の鳴動が、まだ続いていた。
心停止の夜は、もう目前だ。




