第5話 死んだ人間と、聖なる炎
重厚な扉の前に立つと、肌がひりついた。
鉄と石と……焼け焦げた匂い。
扉の向こうから、微かな熱と、ぞわりとした違和感が漏れてくる。
「ここが――」
「はい、ショウマ殿」
グルドが穏やかに頷く。
「我らが主、魔王マギア様のおられる部屋にございます」
ミラは隣で拳を握りしめていた。
顔色は悪いが、その瞳は真っ直ぐ扉を見据えている。
「入るぞ」
ミラの許しを得て、護衛が扉を押し開けた。
◇
部屋の中は、思ったより静かだった。
豪奢な玉座――ではない。
奥には魔導具らしき器具が組み合わされた寝台、その上にひとりの男が横たわっている。
長い角。
黒を基調とした衣。
そして、その半身を――
白い炎が喰っていた。
それは、炎のくせに熱を持たない。
代わりに、見るだけで精神を削ってくるような、嫌な光だ。
炎の周囲には、何重もの結界。
黒と紅と、淡い青。
魔力の糸が幾重にも組まれ、炎をぎりぎりのところで押しとどめている。
「……これが、“聖なる炎”か」
理の神が言っていた“光に偏った理”の匂いが、あからさまにそこから漂っていた。
「魔王マギア様」
グルドが跪き、恭しく頭を垂れる。
「お連れいたしました。理の神より遣わされた――ダークエルフのショウマ殿にございます」
寝台の上の男が、ゆっくりと目を開けた。
血の気の引いた顔。
それでも、その瞳は濁っていない。
どこか、笑っているような光すら宿していた。
「……なるほど」
低い、掠れた声。
「面白い気配だな。死の底から戻ってきた匂いがする」
「戻ったというより」
俺は、炎と結界を一瞥してから、口を開いた。
「一回、ちゃんと死んだよ。向こうの世界でな。
そこから神様に拾われて、今ここにいる」
ミラが小さく息を呑んだのが分かった。
「フ……死を超えてなお歩くか」
魔王マギアは、わずかに口角を上げる。
「それでこそ、魔に連なる者として申し分ない」
“悪”とは言わない。
この男は、自分を“悪”だと名乗る気はないらしい。
それが、なんとなく気に入った。
「改めて――」
俺は寝台から数歩離れた位置で、軽く顎を引いた。
「影山ショウマ。向こうの世界では人間だったが、
今はダークエルフの器を借りてる。理の神から話は通ってると思うけど」
「ああ」
魔王の視線が、俺をじっくりと値踏みする。
「光に傾きすぎた天秤の片側に、お前を乗せるつもりだと聞いている。
魔王軍の側に立つ、“調整用の重し”として、とな」
「それで合ってる」
俺は一歩、魔王へ近づいた。
「ただ、その前に――俺にも確認したいことがある」
そう言って、俺は視線を、魔王の燃え盛る半身へと向けた。
◇
聖なる炎。
嫌な光だ。
見るだけで、肉でも魂でもない何かを削り取られていくような、そんな質感。
けれど――
(構造自体は、さっきの結界とそう変わらない)
俺は、そっと手を伸ばした。
「ショウマ殿?」
グルドの声。
ミラの「待て」という息。
それらを無視して、炎と結界の境目へ、指先を近づける。
触れた瞬間、視界が反転した。
◇
――焼ける大地。
――黒い翼をもがれた魔族たち。
```
――空から降り注ぐ白い光。
```
『光の使徒たちよ! 悪を討て!』
耳障りな声。
どこかで聞いたようなイントネーション。
白い鎧を纏った人間たちが、笑っている。
眩しい魔法陣。
広域殲滅型の光の奔流。
その先に――
(ああ、いた)
俺の目当ての顔が、そこにあった。
俺の知っている制服ではなく、派手な装飾付きの鎧を着て。
聖剣だかなんだか知らない光る刃を振り回して。
燃え上がる戦場を、楽しそうに駆けている。
こっち側の悲鳴を、愉快なBGMみたいに聞き流しながら。
理の神が言っていた“光の使徒たち”。
この世界で勇者と呼ばれている連中。
(いや――)
少なくとも、俺の知ってる世界では。
あいつは、確かに“勇者様”だった。
◇
情報が、線になって流れ込んでくる。
魔王の身体に刻まれた呪い。
聖なる炎の発生源。
そこから伸びる因果の糸。
炎を打ち込んだ“勇者様”の顔。
その勇者を支える教会の連中。
彼らを持ち上げている“光の使徒”信仰。
そして――
(魔王軍の側も見える、か)
焼かれた前線。
踏み潰された砦。
蹂躙される魔族たち。
炎の情報を辿るだけで、ここまで一望できるとは。
(……便利すぎて笑えてくるな)
頭の奥で、何かがカチリと噛み合う。
閲覧だけじゃない。
俺には、“改稿”も許されている。
「ショウマ殿、無理は――」
グルドの声が遠くなる。
俺は、炎の中で蠢く因果の糸を、一本ずつ見定めた。
魔王の命に繋がる線。
この世界の理に繋がる線。
そして、勇者の顔に繋がる線。
(――これだ)
余計なところをいじれば、世界ごと壊れかねない。
でも、全部を断ち切る必要はない。
俺は、勇者の顔に繋がる糸をつまんだ。
(“マサト”……じゃない)
ここでは、名前なんかどうでもいい。
ただの“勇者様”だ。
その“勇者様”の顔へと伸びる線だけを、ほんの少し――指先で押し潰すように、細くする。
完全に断ち切らない。
ただ、流れを弱める。
(いきなり全部消すのは、もったいない)
どうせ、俺は誰も信用していない。
この世界で出会う魔族も。
向こう側で持ち上げられた勇者様も。
全部、一度は疑う。
だからこそ――
(もしもの時に、“勇者様”の顔に繋がる線を辿れるようにはしておく)
いつか、実物と対面するとき。
そのときまで、因果の“持ち手”を残しておいた方がいい。
“勇者様”が、どれだけ楽しそうに俺の味方を焼いてるのか。
その記録は、俺自身の目で、最後まで見届けたい。
同時に。
(ここの流れを絞るだけなら、魔王の負担も減る)
聖なる炎の勢いが、わずかに落ちた。
目に見えて、炎の色が薄くなる。
結界にかかっていた負荷が、少しだけ軽くなる。
その変化を確認したところで、俺は指先を離した。
――これが、この世界で俺が最初にやった“魔王軍としての仕事”だった。




