第4話 ダークエルフとして目を覚ましたので、とりあえず結界を壊してみた
目を開けたら、石の匂いがした。
粗く削った石壁。
床一面に描かれた、黒と銀の魔法陣。幾重にも重なった線が、まだ微かに燐光を帯びている。
身体が重い――けど、前の俺みたいな「だるさ」じゃない。
筋肉という筋肉にぎゅっと力が詰まっていて、どこまでも動きそうな感覚だ。
視界の端に、自分の手が映った。
褐色の肌。長い指。黒く硬い爪。
(……なるほど。これが“ダークエルフ”か)
指を少し動かすだけで、魔力が血管みたいに全身を巡っていくのが分かる。
人間だった頃とは、そもそも作りが違う。
ゆっくり身体を起こそうとした瞬間――目の前に、透明な“何か”が立ちふさがった。
ばちっ、と空気が弾ける。
目にはほとんど見えないけど、確かにそこに“壁”がある。
皮膚じゃなくて、もっと奥――因果のレベルで「ここから先は通さない」と宣言している感じだ。
同時に、周囲からざわめきが上がった。
「結界起動! 反応値、高い――!」
「抑え込め! 補助陣にもっと魔力を流せ!」
「ミラ様、お下がりください! 危険です!」
声のするほうへ視線を向ける。
長い灰緑の髪と髭をした老人。
その少し後ろで、黒紫の紋様が浮かぶ鎧を着た少女が、腰を抜かしたまま座り込んでいる。
さらに後ろに、ローブ姿の魔導師らしい連中が十人ほど。
床の補助陣に魔力を流し込みながら、必死で詠唱を続けていた。
(ああ。これが“召喚対象暴走対策”か)
触れただけで、分かってしまう。
この結界が、どういう理屈で組まれているのか。
(ここが要。ここさえ折れば、全体が崩れる)
考えるより先に、身体が動いた。
右手を軽く伸ばし、結界の一点に指先を当てる。
――パキンッ。
乾いた音がして、目に見えない壁が氷みたいに砕け散った。
黒と銀の光が弾け、床の魔法陣が一瞬だけ眩しく明滅する。
「なっ――!?」
「結界が……一瞬で……!」
補助陣に魔力を注いでいた弟子の一人が、その場で尻もちをついた。
同時に、頭の奥で何かが“組み込まれる”感覚がする。
――結界構造理解。
――再構成、改変。
――《結界操作》。
(スキルか。……便利だな)
新しい身体に馴染んでいく情報を流し見していると、目の前の老人が、ぽつりと声を発した。
「……ほほう」
怯えも怒りもなく、むしろどこか楽しそうに、くしゃりと目尻を下げる。
「ダークエルフ殿でよろしいか?
久しく絶えた種族と聞いておりましたが……まさか、このような形で相まみえようとは」
こいつが、召喚した張本人か。
俺は、老人をじっと見た。
灰緑の髪。長い髭。ローブの奥を流れる魔力の質。
そのさらに奥に、微かに滲む“色”。
(……ゴブリン、だな)
よく誤魔化してはいるが、元の種族までは隠しきれていない。
「お前は、ゴブリンに“ゴブリン殿”と声をかけるのか?」
老人の目が、ぴくりと瞬く。
「名があるんだろう? 俺にもある。ショウマだ」
一拍の間のあと、老人はふふ、と喉の奥で笑った。
「……これはご無礼を。
では、ショウマ殿とお呼びいたしましょう」
ローブの裾をつまみ、恭しく一礼する。
「私は、魔王軍四天王。そのひとりにして魔導師、
グルド・ロウ=ドゥーンと申します」
グルド。
名前を胸の中で転がしていると――視線の端で、さっき腰を抜かしていた少女が目に入った。
銀黒の髪。紅の瞳。
胸元と腕には、黒紫の紋様がうっすらと浮かんでいる。
立とうとして立ちきれなかったのか、その場にぺたりと座り込んだまま、俺を見上げていた。
嫌悪でも憎悪でもなく、もっと原始的な――本能的な“恐怖”の目だ。
俺は、その少女を見下ろして問いかける。
「……お前が、“長”か?」
少女の肩が、びくりと跳ねた。
「わ、私は――」
一瞬、「違う」と言いかけて飲み込む。
唇を噛んで、震える声を無理やり整えた。
「ミラ=ザス・マギア。
魔王マギアの娘にして、今この魔王軍を預かる者だ」
立ち上がろうとして、膝が笑う。
慌てて手をついて支える姿は、正直あまり様にはなっていない。
でも――その紅い瞳だけは、ちゃんと“前”を向いていた。
「ミラ様、まずはお立ちくだされ」
グルドがそっと肩を支える。声は、完全に好々爺だ。
「“王”は座しておられても構いませぬが、
倒れたまま名乗るものではございませぬぞ」
「っ……わ、分かってる!」
ミラは真っ赤になりながら、どうにか足に力を入れる。
ふらつきながらも立ち上がる姿を見て、俺は短く言った。
「……そうか。なら、話は早い」
ミラが何か言いかけて、喉の奥で呑み込む。
代わりに、グルドが一歩前に出た。
「ショウマ殿。
まずは、我らが主――魔王マギア様にお会いいただきたい」
「魔王、ね」
「はい。この魔王城と魔王軍の“主”にございます。
今は……少々、お身体を悪くされておりますがな」
光の使徒と称する人間達とやらにやられて、瀕死――ってところだろう。
「……その前に、ひとつ頼んでいいか」
「おや」
「服をくれ」
ミラと弟子たちが、同時に固まった。
「この世界の礼儀は知らないが、
少なくとも“全裸のまま王に会う”のは失礼だろう」
召喚陣の光がだいぶ薄れてきて、ようやく自分の格好に意識が向く。
よく見れば、筋肉は無駄に締まってるし、いろいろと丸出しだ。
……そりゃ、見てる側も目のやり場に困る。
「っ――――!?」
ミラの顔が、ばちんと音がしそうな勢いで赤くなった。
「め、目を伏せろ!!」
弟子たちが慌てて視線をそらす。
うっかりチラ見してしまった一人は、たぶん後でグルドに説教だ。
「だ、誰か! 予備のローブを!
グルド様のでも、魔術兵団のでもいい! いちばんマシなやつを持ってこい!!」
ミラはきっちり背を向けたまま、耳まで真っ赤にして怒鳴っていた。
その姿を横目に、グルドがくつくつと笑う。
「いやはや。召喚の精度ばかり気を取られ、
衣服の再構成をすっかり失念しておりましたな。面目ない」
「助かる」
俺は淡々と答え、弟子が持ってきたローブをその場で羽織る。
重い布の感触。
袖口から覗く褐色の腕。
炎のような色をした瞳が、フードの影から世界を見据える。
「では、仕切り直しと参りましょうか、ミラ様」
グルドが促すと、ミラはこくりと小さく頷いた。
まだ俺のほうはまともに見られないらしく、視線はずっと前を向いたままだ。
「……ショウマ殿」
震えを押し殺しながら、ミラが口を開く。
「魔王マギアは、この城の上層――玉座の間とは別の、特別な部屋にいる。
……案内する。ついてきてくれ」
「分かった」
短く答え、俺はグルドの後ろについた。
◇
石造りの廊下を、三人と数人の護衛が進む。
先頭はグルド。その半歩後ろを俺。
さらに少し離れて、ミラが無言でついてくる。
背中に、じっとした視線を感じる。
さっきまで“恐怖”だけだったそれに、今は微かに“期待”みたいなものが混じっていた。
「ショウマ殿」
歩きながら、グルドが穏やかに口を開く。
「先ほども申し上げた通り、我ら魔王軍は、
今や光の使徒と称する人間達に押されっぱなしでしてな」
「光の使徒、か」
「ええ。異世界より召喚された三十余名を中心とした連中ですじゃ。
己らを“光”と信じ込み、我らを“絶対悪”と決めつけておる」
正義。光。勇者。
耳にタコができる単語だ。
「敵がどんな顔してるかは、実物を見てからでいい」
俺は前を見据えたまま、淡々と言う。
「こっちが“悪”で、あっちが“正義”だって言うなら――」
炎色の瞳を細める。
「ちょうどいい。分かりやすい」
グルドが、くつくつと喉の奥で笑った。
「いやはや……やはり、面白い御方を呼びましたな」
ミラは、その会話に一言も挟めないまま、黙って俺たちの背中を追う。
やがて、他の扉よりもひときわ重厚な扉が、廊下の突き当たりに現れた。
分厚い木と黒鉄。
表面には複雑な魔法陣と紋章。
扉全体を包むように、静かな結界の気配が漂っている。
その向こうに――“魔王”がいる。
俺は、静かに息を吸った。
この世界で、“悪”として生きる。
その最初の一歩を踏み出すために。




