第30話 巡礼が始まる
灰糸谷を抜ける夜は、やけに長かった。
追手の足音は遠のいたはずなのに、空気の粘りだけが消えない。
列は伸びる。
捕虜たちは走れない。走らせない。
走れば転ぶ。転べば踏まれる。踏まれれば終わる。
レアが先頭で手を上げ、短く落とす。
「間隔、詰める。足元、見る」
ショウマは最後尾で結界を薄く重ね続けていた。
壁は作らない。壁を作れば、列が詰まる。
殺すのは道じゃない。意味だ。
(合流する、という意味)
(伝令が通る、という意味)
(追手が“最短”を取る、という意味)
追いかける側の合理性だけを削っていく。
それでも、追う線は残る。
マントを裂いて、白い焼け跡の欠片を切り落とした。
結界で隔離して捨てた。
それなのに――
胸の奥に、細い針が残っている。
刺さったまま、引っ張られる感覚。
(欠片だけじゃない)
ショウマは歯噛みする。
標は“付着した欠片”を媒介に追うと言っていた。
だが媒介は一つではない。
(連祷堂の空気に触れた)
(聖骸核の線を見た)
(標の光を弾いた)
どれか。あるいは全部。
こっちは“意味を殺す”のに慣れている。
あっちは“線を繋ぐ”のに慣れている。
リュシエンヌが並ぶ。
歩幅は優雅。呼吸は整っている。
だが夜の赤は、さっきより少しだけ薄い。反動が始まっている。
「切っても残るのね」
「……残る」
ショウマは短く返した。
レアが振り返らずに言う。
「残ってもいい。今は離れる」
正論だった。
列を守ることが最優先だ。
だが、追手の気配が一段変わる。
規律がある。呼吸が揃う。
怒鳴り声ではない号令が、遠くで落ちる。
聖騎士小隊。
影の森越しに、白い灯が見えた。
松明の光ではない。聖印の光だ。
ショウマの結界が一瞬だけ軋む。
汚れた膜に、追う線が絡みつく。
いつもの“意味殺し”が、ほんの少しだけ鈍る瞬間。
(……効きが悪い)
結界万能の時間が終わり始めている。
背中が冷える。
レアが短く言った。
「止まらない」
ショウマは頷く。
「止まらない」
リュシエンヌが微笑む。
「ええ。巡礼に付き合う趣味はありませんもの」
その言い方が上品すぎて、腹立たしいほど余裕がある。
◇ 翌日・昼
日が上がる前に、山腹の裂け目へ潜り込んだ。
昨日と同じだ。光が痛い。熱が重い。
捕虜たちの顔色が一段落ちる。夜の間は勢いで動けても、昼は身体が現実を思い出す。
ショウマは結界で熱と音を薄く遮り、最低限の“休める空気”を作った。
水袋を回す。乾いた喉が鳴る。
震えが止まらない者もいる。
列の後ろで、誰かが吐いた。
吐瀉物の匂いが、狭い隠れ場所に広がる。
それでも誰も叫ばない。叫べば追われると身体が覚えている。
レアが、捕虜の肩を支えながら言う。
「息。吸って。吐いて」
それだけで、いくらか落ち着く。
レアは戦場の人間だ。怒鳴らない。必要な言葉だけを落とす。
ショウマは裂け目の入口へ目を向け、外の気配を薄く覗いた。
追う線が、まだ粘る。
遠距離では弱いはずなのに、切れない。
(……俺に繋がりが残ってる)
背後で、短い声が落ちた。
「今、確認する」
レアだ。
いつもの「帰ったら話」じゃない。今だ。
声が冷たい。怒りが冷えている。
ショウマは振り返る。
レアの目が、ショウマの手元――手袋のない指先へ、そしてリュシへ移る。
「噛ませたのは同意だ」
レアの言葉は、刃物みたいにまっすぐだった。
「でも眷属化は違う」
リュシエンヌが上品に笑う。
「まぁ。線引きが細やかですこと」
「線引きがあるから、部隊が生きる」
レアは一歩も引かない。
「あなたのやり方は、味方にも向く」
ショウマは息を吐いた。反論できない。
昨夜、眷属化で足止めをしたのは事実だ。結果も出た。
だが――
(味方を道具にする悪は、やらない)
ショウマは低く言った。
「俺の線引きだ」
「教会に徹底的に敵対する。そのための悪はやる。だが……味方を勝手に道具にする悪はやらない」
リュシエンヌが首を傾げる。
貞淑な仕草のまま、言葉だけは冷える。
「わたくしは“守るために使う”の」
「殺すより、飼うほうが合理的でしょう?」
レアの肩が張る。怒りが上がる直前の張り方。
ショウマはそれを止めるように、言葉を先に置いた。
「次から、眷属化は俺の許可なしではやるな」
リュシエンヌは微笑む。
従う笑みだ。だが、完全に従う笑みではない。
「ええ。影の魔将殿」
「……“許可”をいただけるよう、努めますわ」
言い回しが、少しだけ意地悪だ。
ショウマは目を細めるが、今は深追いしない。
列を守るのが先だ。
レアが短く言った。
「出発まで二刻」
ショウマは頷き、裂け目の奥へ視線を戻した。
追う線をどうする。消せないなら――
(誘導する)
そこへ、小さな黒点が落ちてきた。
羽音がしない。
蟲だ。
エヴェリナの連絡蟲。
ショウマの指先に乗り、すぐ落ちる。
落ちた瞬間、地図の写しの端に細い追加線が浮かぶ。
追手の位置。進行方向。速度。
「……助かる」
ショウマが呟く。
レアが覗く。
「近い?」
「近い。だが――迷わせられる」
ショウマは地図の“汚れ”を指でなぞった。
「線を消すんじゃない。線を別に繋ぐ」
リュシエンヌが微笑む。
「偽りの巡礼ですのね」
「そうだ」
ショウマは低く言った。
「追わせるなら、追わせる場所を選ぶ」
影の狩場の、作り直しだ。
◇
同じ頃。
赦しの作業院――灰糸谷の奥。
連祷堂は機能を失っていた。
祈りは続いているのに、鎖が締まらない。更新されない。
現場は混乱し、監督は怒鳴り、院監は戻らない。
報告を受けた司祭は、表情を変えなかった。
「作業院が止まったのね」
聖騎士小隊長が一歩前へ出る。
その鎧は汚れていない。
白いままだ。
「院監が消えました」
「捕虜も……消えています」
「消えたのではありません」
司祭は静かに訂正した。
「奪われたのです」
司祭が指先で、聖印板に触れる。
巡礼の聖標。標。
光が、淡く脈打つ。
応答がある。
追う線が、生きている。
「追える」
司祭は祈るように言った。
「巡礼は始まった」
小隊長――レオンが、短く命じる。
「進軍」
白い列が動き出す。
規律ある足音が、夜に向かって伸びていく。
◇
夕暮れ。
ショウマたちは再び動き出した。
捕虜の列は遅い。
だからこそ守る。
だからこそ、狩場を作る。
ショウマは裂いたマントの裾を見下ろし、低く呟いた。
「俺を追う線じゃない」
「……俺の周りごと狩る線だ」
レアが短く言った。
「守る。だから余計なことはするな」
リュシエンヌは微笑む。
「ええ。守りますわ」
「……わたくしのやり方で」
影は夜へ溶ける。
白い巡礼が追う。
次の戦いは、追跡そのものを“狩る”戦いになる。




