第29話 追う線、飼う夜
封印破断の鐘が、空間そのものを叩いた。
赦しの作業院の灯りが一斉に騒がしく揺れ、足音が増える。怒号。鉄の擦れる音。
ショウマは走りながら、結界の膜を薄く重ねた。
壁は作らない。分断する。
合流の意味を殺す。伝令の意味を殺す。
追手の列が、同じ場所で二つに割れた。
片方は戻り、片方は別の通路へ迷い込む。
互いに気づけない。合図が合図にならないからだ。
レアが先導する。
角を曲がる直前、見張りが一人――気配だけで振り向きかけた。
次の瞬間、レアが背後に立っていた。
鼻と口を塞ぐ。顎を押さえ、首を固定する。
息が詰まる前に意識が落ちる。
倒さない。置く。
音が出ない。
影走りの道だけが残る。
リュシエンヌは、抑えの約束を守っていた。
派手に斬らない。血も撒かない。
ただ、そこに立つだけで追手の足が鈍る。夜の冷えが、骨の奥へ染みる。
「……来るわね」
上品な声のまま、紅い瞳だけが深くなる。
「来るのは想定内だ」
ショウマは弓を握り直した。
「問題は――鎖場だ」
◇
鎖場の空気が、変わっていた。
連祷堂の蛇口が止まったせいで、鎖の“命令”が抜け落ちている。
「……痛く、ない」
誰かが呟く。
「締まらない……?」
鎖に繋がれた捕虜たちが、恐る恐る立ち上がる。
痛みが薄れた瞬間、人は息を吸える。息を吸えれば、逃げることを考えられる。
それを許さない声が飛んだ。
「動くな! 赦しの作業院だぞ! 祈りは――!」
監督の怒号。鞭。
だが今日に限って、その脅しが“軽い”。
鎖が締まらない。焼けない。更新されない。
そして、監督より一段上の声が響く。
「喚くな。列を作れ。封鎖だ」
院監だ。
現場の“鎖場”を束ねる者。
怒鳴らない。命令だけを落とす。周囲が動く。
ショウマの視界で、その線が太く揺れた。
逃げ道を塞ごうとしている。
追手を呼ぶ手順を知っている線だ。
(取れる)
レアが一瞬だけショウマを見る。
ショウマは頷いた。短く。
《結界操作》。
院監の足元に、薄い膜を一枚だけ差し込む。
“逃げる”という意味を殺す。
院監は一歩踏み出し――足が止まった。
自分の身体が自分の命令に従わないような、嫌な感覚。
その背後に、レアが現れる。
鼻口を抑え、呼吸を奪い、意識を落とす。
院監の身体が崩れかける前に、抱えて影へ引きずり込む。
捕虜たちのざわめきが、ほんの少しだけ高くなった。
だが誰も叫ばない。
叫べば鎖が戻る、と身体が覚えている。
リュシエンヌが小さく言う。
「……学習しているのね。痛い目を見すぎて」
ショウマは短く吐いた。
「今は出す」
確認できた捕虜を、動ける順にまとめる。
レアが前へ出る。低い声で指示を落とす。
「列を作って。走らない。転ぶな」
ショウマは要所の鎖へ手を伸ばし、結界で“締め付け”の意味を削る。
外せる者が増える。腕が上がる。足が動く。
鎖場が、鎖場でいられなくなっていく。
◇
院監は物陰で座らされていた。
口は塞がれている。拘束は最低限。
ショウマは時間を測る目で言う。
「短く行く。吐いたら解放だ」
レアが頷く。
リュシエンヌが優雅にしゃがみ、院監の顎先を指で持ち上げた。
「お話、できます?」
院監の目が怒りで燃える。
だが声は出ない。鼻口を塞がれているからではない。
“合図”が死んでいる場所にいるからだ。叫んでも意味にならない。
リュシエンヌは上品に微笑む。
そして、ショウマの手元――手袋をした指先へ、ちらりと視線を落とした。
「魅了は……今のわたくしではちょっと難しいわ。元気な血があればいいんですけどね。」
言い方は丁寧。
仕草は貞淑。
でも“欲しい”が見え見えだ。
レアの目が冷える。
ショウマはため息を吐いた。
「……一口だけだ。勝手に深追いするな」
手袋を外す。
ダークエルフの血が、夜気に微かに香る。
リュシエンヌが嬉しそうに――ではなく、当然のように。
「ええ。合図してから、でしたわね」
合図。
それが余計に腹立つ。
リュシエンヌは一拍置き、ショウマの掌に唇を寄せた。
カプッ。
小さな音。
それだけで、レアの肩が跳ねた。怒りの跳ね方だ。
リュシエンヌの瞳の赤が濃くなり、次にすっと澄む。
息を吐き、院監を見た。
「……さぁ。お話しましょうね」
院監の口塞ぎを、レアが少しだけずらす。
叫べないように。噛みつけないように。
その手つきが荒い。
リュシエンヌの声は、甘くない。
優しいだけで、逆らう気が消える。
「巡礼の聖標――“標”は、何に絡むの?」
院監が唾を飲み、口を滑らせた。
「……欠片だ。刻印の粉……付いたものに、追う線が繋がる」
ショウマは無意識に、マントの裾へ視線を落とす。
白い焼け跡の斑。あれが“欠片”。
「蛇口を止めたのに、標は生きる?」
リュシエンヌが続ける。
「……弱るが、死なない。連祷堂の系統だ。残る……」
レアが短く吐く。
「厄介」
リュシエンヌが微笑む。
「作業院は、ここだけ?」
院監の目が一瞬だけ泳ぎ――魅了が逃げ道を塞いだ。
「……複数ある。第二だの第三だの……赦しは……終わらない」
ショウマの目が細まる。
(やっぱり、鎖場は増える)
その時、外の足音が一段重くなった。
金具の擦れる音が揃っている。
訓練された歩幅――聖騎士だ。
時間切れ。
ショウマが言う。
「撤退する。院監は――」
「殺しませんわ」
リュシエンヌが、滑らかに被せた。
そして、少しだけ口角を上げる。
「……飼いますの」
レアの目がさらに冷える。
「やめろ」
ショウマも低く言った。
「リュシ。余計なことすんな」
「余計ではありませんわ」
リュシエンヌは、院監の首筋へ顔を寄せる。
上品な動きのまま、牙が覗いた。
カプッ。
今度は、さっきの“一口”とは違う。
噛み跡が熱を持ち、院監の線が――別の色に染まる。
自分の意思の輪郭が、薄くなる。
院監の瞳が虚ろになり、次に、静かに焦点が合った。
しかしその焦点は“自分”ではない。
リュシエンヌを中心に結ばれている。
リュシエンヌが囁く。
「少しだけ、頑張ってね」
院監が頷いた。
恐ろしいほど素直に。
ショウマは歯噛みする。
殺さないという線引きは、自分のものだ。
リュシエンヌは違う。
“使う”という悪を、ためらいなく選ぶ。
レアが短く言った。
「……帰ったら、話」
ショウマは頷くしかない。
「今は出る」
◇
捕虜の列が動き出す。
確認できた分は全員。数は数えない。数えている暇がない。
ショウマは最後尾で結界を張り、追手の合流を殺し続けた。
だが、マント裾の白い斑が――熱を持つ。
脈打つ。
結界の膜に、粘る線が絡む。
(……追う線が、動いた)
ショウマは舌打ちを飲み込み、裾を一気に裂いた。
焼け跡の部分だけを切り落とし、結界で隔離する。
それでも、完全には消えない。
線が、まだどこかに繋がっている。
リュシエンヌが囁く。
「切っても、残るのね」
レアが短く言う。
「急ぐ」
背後で怒号が上がった。
「院監! どこだ!」
「侵入者は――!」
眷属化された院監が、ゆっくり前へ出た。
声を張る。落ち着いた、現場を知る声で。
「連祷堂だ」
「侵入者は、連祷堂の奥へ入った。標を回せ」
追手の足音が、そちらへ吸われた。
院監の言葉には重みがある。現場が信じる声だ。
だからこそ、足止めになる。
ショウマは一瞬だけ振り返り、舌打ちを噛み殺した。
(……悪趣味だな、夜麗姫)
リュシエンヌは微笑む。
上品に。優雅に。
自分が何をしたかを、恥じる気配もなく。
レアの視線は、刺すように冷たい。
だが列は止まらない。今止まったら全員死ぬ。
影は走る。
救った命を連れて、夜を抜ける。
背後で、封印破断の鐘とは別の、静かな“応答”がした気がした。
標が、まだどこかで生きている。
ショウマは低く呟いた。
「……切ったはずなのに、まだ繋がってる」
追う線。
飼う夜。
この戦は、次からもっと面倒になる。




