第28話 祈りの蛇口を止めろ
灰糸谷は、夜でも暗くなかった。
谷底に整然と並ぶ灯りが、闇を“管理”している。
人が暮らす明かりじゃない。監視と運用のための明かりだ。
レアが指で示す。
「入口に二。尾根に一。運搬路に一。……予定通り」
ショウマは頷き、薄い膜を張った。
《結界操作》。
殺すのは敵じゃない。意味だ。
(合図が“合図”にならないように)
声、笛、松明の振り、手旗――伝わるはずのものが、すべて空振りする結界。
見張り同士が何かを投げても、受け取る側には“ただの音と光”にしかならない。
レアが動く。
音がしない。影が滑る。
入口の見張りの背後――一瞬で距離を詰め、片手で鼻と口を覆った。
もう片方の手が顎を押さえ、首を固定する。
抵抗の息が漏れないように、呼吸を奪う。
足が跳ねる前に、力が抜けた。
レアは倒さない。置く。
地面に触れる音すら出さず、見張りを影の中へ寝かせた。
もう一人も同じ。
背後から、呼吸を奪って、意識を落とす。
影走りの戦い方――無力化。
リュシエンヌが少しだけ目を細め、囁く。
「まぁ……お美しい」
「褒めてる場合か」
ショウマは短く返し、谷の灯りへ視線を移す。
運搬路の見張りが首を傾げた。
何か違和感がある。だが“合図”が通じないせいで、違和感は共有できない。
不安は一人の胸の内で止まり、次の瞬間、レアが背後に立っていた。
鼻口を抑え、意識を落とす。
尾根の見張りはショウマが《結界操作》で視界の“方向感覚”だけを殺し、足を迷わせた。
同じ場所をぐるぐる歩かされ、戻るべき灯りに戻れない。
「……居ない?」
小声が漏れたところで、レアの影が背後を取る。
同じように、息を奪って、静かに落とした。
外周の目が消えた。
谷の灯りはまだ整然としているのに、拠点はもう“盲”になっている。
ショウマが言う。
「入る」
レアが頷く。
リュシエンヌが微笑む。
「ええ。あなたの影に」
レアの肩が一拍だけ張った。
すぐ戻る。
それで十分だ。
◇
柵を越え、赦しの作業院の中へ滑り込む。
看板があった。木板に白い文字。
――赦しの作業院
――労働は祈り
――苦しみは救済へ至る道
言葉だけは立派だった。
だが足元の土は、血と汗で固まっている。
鎖の焼け跡。削れた手枷。擦り切れた寝藁。
壁には鞭の跡。
“鎖場”だ。
レアが小さく吐く。
「……赦し、ね」
ショウマは感情を切り捨てるように言った。
「蛇口を止める」
遠くから、声が聞こえた。
途切れない唱和。
連祷。
祈りの流れが、谷のどこかに“集まって”いる。
ショウマの視界に、細い線が見えた。
灯りから灯りへではない。人の口から口へ繋がる線が、中心へ流れている。
「……回ってるな」
ショウマが呟く。
「祈りの蛇口だ」
レアが短く言う。
「近い。裏口がある」
巡回兵が一人、角を曲がってきた。
松明の光が揺れる。
ショウマは結界を少しだけ重ねた。
(“ここを通った”という意味を殺す)
巡回兵は立ち止まり、首を傾げ、別方向へ歩き出した。
自分が今どこを見たのか、脳が理解できない。
方向感覚の穴に落ちる。
その隙に、三人は連祷の中心へ近づいた。
扉が見えた。小さい。だが空気が白い。排除の白。
唱和が壁越しに腹へ響く。
途切れない声――燃料。
レアが足を止め、指を二本だけ立てた。確認の合図だ。
リュシエンヌが小さく首を傾げる。
「……鎖は、祈りで動くのですの?」
レアは頷き、短く噛み砕く。
「鎖はただの鉄じゃない。捕虜に刻まれた聖印の拘束具」
「締める。焼く。弱らせる。逃げる気力を削る」
ショウマは黙って聞いた。
レアの説明は必要なことしか言わない。だから刺さる。
レアは扉へ視線を向ける。
「でも鎖の本体は“遠隔運用”」
「監督が締めてるように見えて、実際は――祈りが届いて締まる」
リュシエンヌが微笑む。
「まぁ。便利な拷問道具ですこと」
「便利だから厄介」
レアは淡々と続けた。
「連祷堂は、その鎖に聖力を流し込む場所。燃料の供給源」
「だから、ショウマが“祈りの蛇口”って呼んだ」
リュシの視線がショウマへ流れる。挑発じゃない。確認だ。
「蛇口を止めると、どうなりますの?」
ショウマが短く答える。
「鎖が“命令”を失う」
「痛みも、締め直しも、更新も止まる。鎖場が鎖場でいられなくなる」
レアが補足する。
「捕虜が立てる。走れる。外せる可能性が増える」
「だから攻勢の一手目は、殺し合いじゃなく蛇口を折ること」
リュシエンヌは少しだけ目を細めた。
「なるほど。……では、聖骸核は?」
その問いで、ショウマの因果が嫌に揺れた。
扉の向こうの“核”の線が、潰れて固まったみたいに濃い。
レアが言う。
「媒体」
それだけで済ませる気配だったが、リュシは理解の速さで続ける。
レアも最低限を足した。
「祈りはそのままだと散る」
「聖骸核があると溜まる。濃くなる。鎖へ流す力が増える」
リュシエンヌが微笑んだ。
「……蓄電池みたいなものですのね」
ショウマは一瞬だけ目を細め――小さく息を吐く。
「分かりやすい例えだな。……俺の血、余計なとこまで渡ってる」
レアが眉を顰めた。
「ちく……でんち?」
リュシエンヌは上品に口元へ指を添える。
「ええ。ためて、必要なときに流す……そういう器」
ショウマは扉の向こうを見たまま、低く言う。
「……ただし、中身がまともじゃない」
レアが短く言った。
「だから、止める」
ショウマは頷き、最後にだけ念を押す。
「迷ったら蛇口」
リュシエンヌが微笑む。
「ええ。あなたの影に従いますわ」
レアの肩が、一拍だけ張った。すぐ戻る。
ショウマは《結界操作》で、扉の“閉じる”を殺した。
◇
連祷堂の中では祈りが続いていた。
司祭補佐らしい男が二人、祈祷役が数名。
武装は薄い。だが床と壁の聖印が、武器の代わりだ。
中央に据えられているものがある。
白い器。
その中で淡く脈打つ核。
聖骸核。
ショウマの因果が、嫌な揺れ方をした。
線が違う。
人の線が、潰れて固められている。
悲鳴のない悲鳴が、媒体の中で回っている。
リュシエンヌの紅い瞳が細まる。
「……品がありませんわね」
レアは目を逸らさず、短く言った。
「早く止める」
ショウマは頷き、結界の膜を聖骸核の周囲へ“縫い付けた”。
破壊じゃない。切断だ。
(祈りが鎖へ届く――その“接続”の意味を殺す)
祈りは続く。
声も続く。
だが流れが止まる。
蛇口が空回りした。
聖印が一瞬だけ怒ったように光り、すぐに沈む。
聖骸核は脈打っているのに、外へ流せない。
祈りの線が器の中で渦を巻き、出口を失う。
司祭補佐が顔色を変えた。
「な、何だ!? 連祷が……届いていない!」
もう一人が震える声で叫ぶ。
「鎖の更新が……止まった!?」
ショウマは動かない。椅子すら要らない。
結界の膜ひとつで、機能を殺す。
祈祷役の一人が扉へ向けて声を張ろうとした。
だが声は、声のまま落ちた。
合図にならない。伝令にならない。
《結界操作》の“合図殺し”が、連祷堂の内側にも届いている。
レアが背後に回り、祈祷役の鼻口を抑えた。
短い抵抗。すぐに意識が落ちる。
倒れない。置かれる。
もう一人も同じように無力化される。
殺さず、音を出さず、祈りの人員を削っていく。
リュシエンヌは動かない。
ただ立っているだけで、連祷堂の空気が“夜”に寄った。
司祭補佐たちが、足元の冷えに怯える。
「……何者だ」
司祭補佐が呻く。
ショウマは淡々と答えた。
「お前らが言うところの極悪人だ」
「お前らの赦しと救済に、徹底的に敵対する」
言葉が落ちた瞬間、連祷堂の外で小さな騒ぎが起きた。
◇
鎖場の方で、誰かが呟いた。
「……痛くない」
次に、別の声。
「……鎖が、締まらない」
連祷堂から流れていた“更新”が止まった。
鎖の焼ける痛みが、ごそっと落ちた。
監督の怒号が飛ぶ。
「何をしている! 立て! 祈りは――!」
だが祈りは続いているのに、鎖が動かない。
現場の常識が崩れ、監督の顔が引きつる。
ショウマは視界の端で、その“線”の揺れを見た。
恐怖と焦りの線。
人を扱う側の線だ。
(確保できれば情報になる。だが――)
優先順位は一。
蛇口は止めた。
あとは撤退線を生かす。欲張るな。
その時、連祷堂の奥の小卓が目に入った。
祈祷とは別の道具。針。粉。聖印板。
血で刻むための準備。
司祭補佐が、焦って口走った。
「標を……巡礼の聖標を! 刻め! 逃がすな!」
標。
首輪。
ショウマの背中が一段冷える。
地図に浮いていた“汚れ”の正体が、ここにある。
司祭補佐が針を取った瞬間、結界で腕を止めた。
だが聖印板が一度だけ、ぎらりと光った。
空気に、粘る線が走る。
追う線だ。
ショウマは即座に《結界操作》で弾いた。
意味ごと叩き落とす。付着を殺す。
それでも、完全には消えなかった。
衣の端――マントの裾に、白い焼け跡みたいな小さな斑が残る。
触れれば微かに熱い。
(……食いついたか)
リュシエンヌが目を細めた。
「嫌らしいこと」
レアが短く言う。
「出る」
ショウマは頷いた。
「蛇口は止めた。……次は追ってくる」
その直後、連祷堂の床が震えた。
音ではない。聖印そのものが鳴る、警告の鳴動。
封印破断の鐘。
異常を知らせる合図が、結界を抜けて“術式として”広がっていく。
外から足音が増えた。
監督の怒鳴り声。雑兵の靴音。金具の擦れる音。
そして、別の重い歩調――訓練された、聖騎士の足。
ショウマは弓へ手を伸ばしながら、結界の膜をもう一枚重ねた。
逃げる結界じゃない。追う者を迷わせる結界。
「レア、先導」
「了解」
「リュシ、抑えは最小限」
「ええ。夜は長いですもの」
三人は影のまま、連祷堂を抜けた。
赦しの作業院の灯りが、背後で騒がしく揺れる。
祈りの蛇口は止まった。
その代わり、追跡の歯車が回り始めた。




